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カトリック情報ハンドブック2011 巻頭特集

カトリック中央協議会では、毎年「カトリック情報ハンドブック」を発行しています。教会暦とその解説や教会、修道院をはじめカトリック関連約3500の施設の最新住所録などをまとめた内容になっています。 このページでは、「カトリック情報ハンドブック2011」に掲載された巻頭特集をご覧になれます。

現在、出版部では「カトリック教会情報ハンドブック2012」のご注文をお受けいたしております。


特集2 キリシタン史跡をめぐる―四国編
カトリック中央協議会出版部・編

  全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の第5回目。今回は「四国編」として、香川、愛媛両県内の史跡を紹介する。教区から提出された教区内巡礼地一覧も参考にしつつ、各種資料を参照して訪問先を選定した。


香川・愛媛の史跡(4)

愛媛県・大洲市(7月24日)

 前日夜のうちに大洲に入った。実は昨夜の宇和島は、3日間かけて行われる和霊大祭の2日目で、アーケードでは、さまざまなグループの踊りの列が、途切れることなく続いていた。和霊大祭は四国の中でも大きな祭りの一つで、中平さんの話によると、昔は祭りの際には戸島はからっぽになり、皆一年分の稼ぎをすべて使ってしまったのだそうだ。なんとも後ろ髪引かれる想いであったが、時間は限られているのでしかたがない。
 大洲でまず訪れたのは小さな子安観音堂である。日野郁子さんという愛媛在住のかたに『伊予路のかくれキリシタン』という著作があり、そこに収録されたこの子安観音堂の写真を見て興味をもったのである。そこには堂内に観音とともに収められている絵と、民俗学者の谷川健一氏が編んだ『かくれキリシタンの聖画』に収められている絵との構図の類似が指摘されている。この本はわたしも以前に買い求め所持しているので、さっそく同様の絵を捜してみた。だが、いくらページを手繰っても似た構図の絵はない。しかしあえていえば、どれというわけではなく、全体的な印象や雰囲気が、谷川氏が調査した生月の隠れキリシタンの絵との類似をなんとなく感じさせるのだ。すべてが曖昧としてはいるが、とりあえず現物を見てみようと思った。
 本には大洲市内としか記されていないのだが、ネット検索などによって、どうやら若宮という地区にあるらしいことが分かった。玉石混淆ではあるが、最近は地域密着のブログなどが充実していて、こういうものすらインターネットで捜せてしまう。しかしこれだけの情報では、土地勘のない人間には行き着けないだろう。悩んだ末、宿泊する大洲のホテルあてに、このお堂を見たいのだが場所が分からないだろうか、分かれば当日で構わないので教えてほしいと、画像プリントを添えた手紙を書いた。
 23日夜にホテルに着くと、とても丁寧に調べてくれていて、住宅地図を出して、場所を指し示してくれた。このお堂の向かいに住むかたがどうやら管理者で鍵を持っているらしいのですがと、ネットから得た知識をさらに話してみると、この家だろうと見当をつけ、連絡まで取ってくれた。そして明日の朝、車で送ってくださるという。ホテルのかたの親切には心から感謝したい。
 さて場所なのだが、伊予大洲駅裏手の、肱川との間の道を線路に沿って五郎駅方面に1キロほど進んだところである。駅表側から行くならば、国道56号(大洲街道)が予讃線の線路に接する辺りだ。

大洲の子安観音堂
大洲の子安観音堂

観音堂内に掲げられている絵
観音堂内に掲げられている絵

子安観音像
子安観音像
 さっそく鍵を開けていただき拝観した。
 まずは件の絵である。上に雲のようなものに乗り左手に数珠を持った僧侶が描かれ、頭の辺りから光を放っている。下には布団の上に横座りになって赤子を抱き、なぜか鉢巻をしている女性がいる。後ろの襖には「降兵衣流血」などの文字が読み取れる。
 絵の具の落剥のぐあいなどから、ある程度の年代を経ているものとは推測できるが、キリスト教を思わせる要素はどこにもないように感じた。生月の隠れキリシタンの絵は、人物は和服を着て日本的でありながらも、聖書の場面や聖人の姿など、キリスト教的な要素をそこから酌むことができる。十字架など直接的な象徴が描き込まれているわけでもない。おそらくこれは仏教説話の一場面なのではないだろうか。
 気になるのは右隅にある「平井満雄」という署名だ。この署名だけは墨が黒々としているようにも見えるので、後代に書き加えられたものかもしれない。しかし、こういった絵になぜ署名があるのだろうか。以前の持ち主の名なのだろうか。
 一方、本尊の子安観音だが、片膝を立ててそれにひじを付き、頬に手を当て、左手には赤子を抱いている。この赤子の頭が小さ過ぎて体も細長く、そこだけを見ると多少奇異な印象も受けるのだが、実はそれが全体の丸みを帯びたなだらかな曲線の一部を担っていて、優しげな雰囲気を醸し出している。首に露わな補修の跡があるのだが、『伊予路のかくれキリシタン』には、以前お堂にトラックが突っ込み首が折れてしまったと説明されている。
 中に「昭和61年7月24日、改築落成記念」と書かれた写真額が掲げられてあった。住宅地にひっそりとある、長らく大切にされてきた文化財、そのことだけは間違いない。

――――――

 伊予大洲駅から、1時間に1本の一両編成ワンマン電車に乗り二つ目の伊予平野駅で下車。これから向かうのは「一条兼定仮寓の地」である。駅からの交通手段は何もない。とにかく歩かなければならない。天気は快晴。これからは気温が上昇していく時間だ。気を引き締めた。
 中学校と小学校が並ぶ前を通り県道234号に出る。これを川沿いに山のほう(西)へと歩いていく。川は小さな流れだが、水は澄み、魚の泳ぐ様子が上からも見える。手前に田、奥に背の低い山、曇は一つもない。歩く人はおろか車もほとんど通らない。鳥と蟬の声ばかりが響いている。途中、稲穂が頭を垂れる田もあった。これが小学生の頃社会科で習った二期作だ。もう収穫の時期だろう。
林道入口
林道入口

一条兼定仮寓の地跡
一条兼定仮寓の地跡
 くねくねとした爪先上がりの県道を、メモを取り、写真を撮りながら40分ほど歩くと、右手に土居地区の集会所があり、その横に山へと分け入る林道が続いている。これを進むのだが、さすがに暑さで参っていたので、集会所前の日陰でしばし休んでから出発した。
 先ほどの県道より傾斜ははるかにきつい。しかし、杉木立が鬱蒼とするところでは涼しいとすら感じた。小川のせせらぎも心地よい。目の前をまるで道案内をするかのように、カラスアゲハがゆったりと優雅に飛んでいく。
 20分ほど行くと、木立が途絶えぱっと明るくなり、前方には小さな集落が見えてきた。途中道が二手に分かれるところが1箇所あったが、おそらくこちらだろうと見当を付け、右手に道をとった。
 やがて道の舗装がなくなり、幅も狭くなってきた。だいぶ歩いてきたような気がする。間違えたのだろうか。引き返そうか。でもこちらの道が正しかったら……。あれこれと思い迷ったが、とりあえず前には進んでいた。しかし、行き当たらない。汗はとめどなく流れてくる。もう引き返すしかない、そう思ったそのとき、「へんろみち」と書かれた小さな矢印の指示板が目に入った。正しかったのである。ほっとした。指示に従い林道をそれると、左手にすぐ石垣のようなものが現れ、解説を記した板が見えた。「キリシタン大名一条兼定仮寓の地」とある。流れる汗を拭いつつ本文を読んだ。しかし、あまりにも単純な誤認が多すぎる文章で、とても参考にはならない。
 ここが兼定仮寓の地とされる根拠については、小沼大八氏が『伊予のかくれキリシタン』で示している。『伊豫温故録』(宮脇通赫著、明治27年)の西宇和郡の高森城の項には「天正の初土佐國司一條兼定當城に二三年奇寓あり土佐へ歸國の時の書状」が収録されており、この表現から、兼定がここ平地に一時滞在していたことが類推されるのである。
 兼定が豊後へ流されたのが天正2年2月、渡川の合戦はその翌年に起きているので、「二三年」といわれると計算が合わない。これが1年だったとしても、兼定はほとんど豊後にはいなかったことになってしまう。
 小沼氏は、戦いに備え伊予の土豪を味方につけるための滞在だったのではと推測し、そして、この地に兼定によって「キリシタン信仰の種子が播かれ」たと述べ、青銅製キリスト像が当地で発見されたことを紹介している。
 山中にぽっかりとできたこの空間には、何を記念したものかよく分からない大きな石碑が立っていて、その裏に大洲市指定天然記念物である怪しげな格好に枝を伸ばしたヤマモモの巨木があり、それと並んで妙見菩薩像を収めた小さな堂がある。
妙見菩薩像とそれを収める堂
妙見菩薩像とそれを収める堂

妙見菩薩像
妙見菩薩像
 堂自体はさして古くはない。開けると中に堂再建の際の寄付者の名前を記した板が立て掛けてあり昭和30年と記されていた。小沼氏によれば「旧態どおりに施工した」ものだそうだ。破風の部分に二つ並んで十字の透かし彫りがある。
 妙見菩薩像は素朴な感じのする半跏の姿の石像だ。掲げた右手には剣はなく、折れてしまったようにも見える。石の台座の上に置かれていて、この台座になぜかそこだけ赤く塗られた矢筈十字が浮き彫られている。
 小沼氏はこの妙見菩薩像に矢筈十字を見た際の驚きを記している。そして「この地で土着したキリシタン信仰が時代を経るにつれて、妙見信仰と習合した姿なのだろう」と述べているが、これはどうかと思う。日蓮宗の霊場、能勢妙見山の寺紋は、能勢家と同じで矢筈十字である。だから妙見菩薩に矢筈十字という組み合わせは珍しくはないのではないだろうか(もっとも矢筈十字自体にキリシタンの影響を指摘する説もあるが)。キリシタンの信仰が何かと混じった形といった推測は、よっぽどの根拠がないかぎり、軽々とはいわないでほしいと思う。
 並びにある墓地の中の特に古そうな墓石を幾つか見たりした後、遍路みちをもう少し先へ歩いてみようと思った。するとすぐに蜘蛛の巣に邪魔をされた。この特集取材では毎回のようなことだ。どこへ行ってもこれに困らせられる。適当な枝を拾い、振り回しながら先に進んだが、何せ夏真っ盛り、下草の伸び方が尋常ではない。あまりにも鬱蒼としていて、やむなく断念した。
 帰りは下りなのでいささかは楽だ。羽を輝かしてヤンマが飛んでいく。鶯の声が山間に響く。杉の根方で咲いている背の高い百合のような花が印象的だったが、名は分からない(戻ってから調べたのだが、おそらくウバユリという名の花だと思う)。栗の木には青い実が生っている。
 ようやく集会所のところまで来ると、一気に疲労を覚えた。これだけの暑さの中を歩くとさすがに疲れる。これから先、県道には日を遮るものはない。宇和島で田中神父に、愛媛では日に焼けることを「焦げる」というと教えてもらったのだが、今日一日だけでもずいぶんと「焦げた」だろう。
 駅に向かってとぼとぼ歩いていると、向こうから中学生らしき制服を着た少女が自転車で上ってくる。こんな坂道を毎日自転車で通学しているのかと驚きの目で見ていたのだが、その距離が狭まったとき、突然「こんにちは」とあいさつされた。うっかりして帽子を取るのを忘れたが、あわててこちらもあいさつを返した。肩の辺りに力を込め右に左に体を揺すって懸命にペダルをこぐ彼女は、それでも颯爽といいたくなる印象を残し去っていった。
 お遍路さんの文化になじむこの土地では、見知らぬよそ者にあいさつをすることが、当たり前のこととして定着しているのだろう。それにしても、なんとも清々しい気持ちになった。計らずも与えられた、旅の最高の締めくくりであった。日に焼けた少女の頬に浮んだ笑みが、いつまでも脳裏を離れなかった。

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 四国編と題した今回の特集だが、時間的な制約もあり、十分なものとはならなかったことは承知している。また、「史跡をめぐる」という本特集の性格もあって、讃岐で殉教したアントニオ石原孫右衛門や、土佐出身で日本205福者に数えられるパウロ田中・マリア田中夫妻などを取り上げることができなかったことは心残りに感じている。地元のかたには何卒ご寛恕願いたい。
(奴田原智明)

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