第47回「世界広報の日」教皇メッセージ(2013.5.5)

第47回「世界広報の日(2013年5月5日)」教皇メッセージ 「真理と信仰の門、福音宣教の新たな場であるソーシャル・ネットワーク」 親愛なる兄弟姉妹の皆様  2013年の世界広報の日を間近に控え、現代人が互いにコミュニケ […]

第47回「世界広報の日(2013年5月5日)」教皇メッセージ
「真理と信仰の門、福音宣教の新たな場であるソーシャル・ネットワーク」

親愛なる兄弟姉妹の皆様

 2013年の世界広報の日を間近に控え、現代人が互いにコミュニケーションする方法に関する、さらに重要になりつつある現実について、わたしの考えをいくつか述べたいと思います。わたしは、すべての人に開かれた広場、いわば新しい「アゴラ(広場)」を作るのに役立っているデジタル・ソーシャル・ネットワークの発展について考えたいと思います。この広場は、人々が考えや情報や意見を分かち合い、共同体の新しい関係や形態の誕生を可能にする場です。
 このネットワーク空間に賢明かつ分別をもって参加すれば、その空間は対話や論議の形態の発展を促すのに役立ちます。敬意のうちにプライバシーと責任と真実性に配慮しながら対話や論議を行うとき、人々を一つにする結びつきが強まり、人類家族の調和が効果的に促進されます。情報交換が真のコミュニケーションとなり、つながりが友情へと深まり、結びつきが一致を促します。この素晴らしい可能性を実現することがネットワークに求められているとすれば、それに参加する人は誠実であるよう努めなければなりません。なぜなら、この空間では、考えや情報だけでなく、究極的にはわたしたちの存在そのものが伝えられるからです。
 ソーシャル・ネットワークの発展には、かかわりが必要です。人々はかかわりを通して、人間関係を築いて友達を作り、疑問に対する答えを探し、楽しいときを過ごし、知的な刺激を受け、知識や技術を分かち合います。ネットワークは、これらの根本的な欲求のもとに人々を結びつけているので、社会の枠組みそのものの一部になりつつあります。このように、ソーシャル・ネットワークは人間の心からの願いによって育まれているのです。
 ソーシャル・ネットワークがもたらす文化と、コミュニケーションの手段や様式の変化が、真理や価値について語りたい人々に大きな課題を投げかけています。ソーシャル・コミュニケーションの他のツールにもいえるように、多くの場合、さまざまな表現方法の意義と有効性は、その本質的な重要性や価値よりも、いかに人気があるかによって判断されているように見えます。人気そのものは、議論の論理よりも、知名度や説得力と結びつけられがちです。時には、物静かな理性の声が、過剰な情報の音によって打ち消されて注目されず、その代わりに、より巧妙に自己主張する方が注目されることもあります。したがって、対話、筋道だった討議、論理的な議論の価値を認識するすべての人がソーシャル・メディアにかかわる必要があります。また、コミュニケーションに参加する人のもっとも崇高な願望に訴えるような対話や表現の形式を発展させるために尽力する人も、ソーシャル・メディアにかかわるべきです。自分と異なる考えを持つ人々と話し、彼らを真剣に受け止めるとき、対話と議論も、活発になり、発展していきます。「文化の多様化という現実を考えれば、人々は他者の文化の存在を受け入れるだけでなく、それによって豊かにされ、自分が持っているよいもの、真なるもの、美しいものを何でもそれに与えるよう望む必要があります」(「文化界会議でのあいさつ」ベレン、リスボン、2010年5月12日)。
 ソーシャル・ネットワークが直面している課題は、どうすれば本当の意味で包括的になれるかという問題です。なぜなら、ネットワークは、イエスのメッセージと、イエスの教えが推進する人間の尊厳の価値を伝えたいと望むキリスト者がすべて参加することにより、さらに発展するからです。デジタル空間においても福音を伝えなければ、その空間そのものを重要視する多くの人々の体験が、福音を欠いたものとなってしまうことを、キリスト者はますます実感しています。デジタル・コミュニケーションの世界は、パラレルワールドでも、完全な仮想世界でもなく、若者をはじめとする多くの人々の日常体験の一部です。ソーシャル・ネットワークは人間のかかわり合いの結果として生じるものですが、ネットワーク自体も、かかわりをもたらすコミュニケーションの力を新たにします。したがって、この世界をしっかりと理解することが、そこで意味のある存在となるために欠かせません。
 新しい言語を駆使する力が必要とされています。それは、時勢に遅れないためだけでなく、福音の無限の豊かさが、すべての人の意識と心に伝わる表現方法を見いだすためです。デジタル・コミュニケーションの世界では、多くの場合、活字に画像や音が伴います。イエスのたとえ話にも見られるように、コミュニケーションを効果的なものにするには、神の愛の神秘と出会うよう招こうとする相手の想像力と感受性を伴う必要があります。さらに、キリスト教伝承がつねにしるしと象徴であふれていることは周知の通りです。その例として、わたしは十字架、イコン、マリア像、クリスマスの馬小屋、ステンドグラスの窓、そして教会の中の絵画を思い浮かべます。人類の芸術的な遺産のかなりの部分が、信仰の真理を表現しようとした芸術家や音楽家によって生み出されてきたのです。
 キリスト者は、ソーシャル・ネットワークにおいて、自らの希望と喜びの心からの源を分かち合うことによって、自分が真の信仰者であることを示します。その源は、イエス・キリストのうちに明らかにされた、あわれみ深く、いつくしみに満ちた神への信仰です。こうした分かち合いには、自らの信仰を明確に表現することだけでなく、「たとえ具体的に言い表さなくても、……福音とまったく矛盾せずに選択し優先し判断すること」(2011年「世界広報の日」教皇メッセージ)を伝えるという形であかしすることも含まれます。このようなあかしを行うためのきわめて重要な方法は、他者が真理や人間存在の意味を探し求めているときに、彼らの質問や疑念に忍耐と敬意をもって応じ、彼らに自分自身を喜んでささげることです。ソーシャル・ネットワーク上で信仰と信心に関する対話が深まるほど、国民的論議や社会生活における宗教の重要性と社会性が確かなものとなるのです。
 信仰のたまものを心から受け入れた人々は、愛と真理といのちの意味についての人間の疑問へのもっとも根本的な答えを、イエス・キリストというかたのうちに見いだします。もちろん、ソーシャル・ネットワーク上にもその問いかけは見られます。信仰を持つ人が、デジタル空間で出会う人々に、敬意をもって効果的にその信仰を伝えたいと望むのは当然のことです。しかし、わたしたちの福音を伝える努力が豊かな実りをもたらしたとしても、最終的には、それはつねに、神のことばそのものの力によるものです。神のことばは、わたしたちのどんな働きよりも先に人々の心に触れます。わたしたちは、いかなる人間のわざよりも、つねに神の働きの力をより信頼しなければなりません。デジタル・コミュニケーションの世界では、熱く対立的な意見が交わされやすく、感情論に陥ることもありますが、そこでも、わたしたちは注意深く識別するよう求められています。このことに関して、エリヤが神の声を、非常に激しい風の中でも、地震や火の中でもなく、「静かにささやく声」(列王記上19・11-12)の中に聞いたことを思い起こしましょう。愛し、愛されたいと望み、意味と真理を見いだしたいと望むことは、神ご自身があらゆる人間の心に刻みこんだ根本的な願いです。このことを、わたしたちは信じる必要があります。この願いが、現代に生きる人々を、福者ニューマン枢機卿がいうところの信仰の「優しい光」にいつも開かれた人とするのです。
 福音宣教の手だてとなるソーシャル・ネットワークは、人類の発展をもたらす一つの要素にもなりえます。たとえば、キリスト者が孤立感を抱くような地理的、文化的な状況において、ソーシャル・ネットワークは、世界中のキリスト者の共同体と真に結ばれているという感覚を強めることができます。ネットワークは、霊的、典礼的な資産の分かち合いを促進し、人々が同じ信仰を持つ人々をより近くに感じながら祈るのを助けます。信仰から離れている人々の問いかけや疑念に真摯に相互にかかわることを通して、わたしたちは、神の現存に対する自分の信仰と愛の実践を、祈りと黙想によってはぐくむ必要があると感じるのです。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」(一コリント13・1)。
 デジタル・コミュニケーションの世界において、ソーシャル・ネットワークは、祈り、黙想し、みことばを分かち合う機会を現代の人々に提供しています。しかし、このネットワークは、信仰の他の側面にも扉を開くことができます。実際、多くの人が、まさにオンライン上で始まる触れあいのおかげで、じかに出会うこと、共同体に生きること、さらには巡礼を体験することの重要性を見いだしています。それらは、つねに信仰の旅の大切な要素です。デジタル・コミュニケーションの世界で福音を伝えるために尽力するにあたり、わたしたちは祈りや典礼祭儀をささげるために教会や礼拝堂などの特定の場に集まるよう人々に呼びかけることができます。自然界、デジタルを問わず、どんな現実の中で生きるよう求められているとしても、信仰を表現し、福音をあかしすることにおいて、一貫性や統一性が欠けることがあってはなりません。わたしたちは、どんな形で他者と向き合おうとも、神の愛を地上の隅々まで伝えるよう求められているのです。
 わたしは、神の霊がつねに皆様に寄り添い、皆様を照らすよう祈ります。そして皆様が福音の真の使者とあかし人となるように、心から祝福を送ります。「全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい」(マルコ16・15)。

バチカンにて
2013年1月24日
聖フランシスコ・サレジオの祝日
教皇ベネディクト十六世

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