2014年「第51回 世界召命祈願の日」メッセージ(2014.5.11)

(復活節第4主日 2013年4月21日)
「召命、それは信仰に根ざした希望のしるし」

2014年「第51回 世界召命祈願の日」メッセージ
(復活節第4主日 2013年4月21日)
「召命、それは信仰に根ざした希望のしるし」

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

1. 福音は次のように告げています。「イエスは町や村を残らず回って……群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深くあわれまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」(マタイ9・35-38)。この箇所はわたしたちを驚かせます。なぜなら、わたしたちは皆、しかるべきときに豊かな実りを収穫するには、その前に土を耕し、種をまいてから栽培する必要があると認識しているからです。しかし、イエスは「収穫は多い」と断言しています。それでは、そのために働いたのはだれなのでしょうか。答えは一つしかありません。神です。イエスがいうところの畑は、明らかにわたしたち人間です。「豊かな実り」をもたらす力あるわざは、神の恵みであり、神とのつながり(ヨハネ15・5参照)です。このように、イエスは、ご自分の国に仕える人が増えるよう教会が祈ることを望んでおられます。「神の働き手」の一人である聖パウロは、福音と教会のために絶えず自らをささげました。使徒パウロは、どれほど神の救いのみ旨がはかり知れないかを自ら体験した者として、また、あらゆる召命の源は恵みの働きであることを実感した者として、コリントの信者に「あなたがたは神の畑」(一コリント3・9)ですと伝えています。したがって、わたしたちは、まず最初に、神だけが授けることのできる豊かな収穫に驚き、それから自分たちにつねに先んじる愛に感謝し、そして最後に、神が行われたわざを賛美します。そのわざには、わたしたちが神とともに、神のために働くことに対して自由に同意することが求められます。

2. わたしたちは詩編作者のことばによってたびたび祈ります。「主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われた羊の群れ」(詩編100・3)。「主はヤコブをご自分のために選び、イスラエルをご自分の宝とされた」(詩編135・4)。わたしたちは「神のもの」ですが、それはわたしたちが隷属するという意味ではなく、わたしたちが永遠の契約のもとに、神と隣人と強く結びつくという意味です。「いつくしみはとこしえ」(詩編136)なのです。たとえば、預言者エレミヤの召し出しの話において、神はご自分のことばがわたしたちのうちに成し遂げられるように、わたしたち一人ひとりを見張り続けると告げておられます。そのイメージは、春にいのちの再生を告げ、真っ先に花を咲かせるアーモンドの枝から取られています(エレミヤ1・11-12参照)。使徒パウロが断言しているように、世界も、いのちも死も、現在も未来も、一切が神から来るものであり、神の恵みです。「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(一コリント3・23)。わたしはここで、神のものとなる方法について説明しようと思います。それは、洗礼によって新しいいのちに生まれる時に最初に与えられるイエスとの唯一の人格的な結びつきを通してなされます。だからこそ、キリストはわたしたちがご自分を信頼し、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして」(マルコ12・33)ご自身を愛するよう、みことばを通してわたしたちにつねに呼びかけているのです。したがって、召命にはさまざまな道がありますが、すべての召命は、自分の人生をキリストと福音を中心としたものにするために自分自身から脱することをつねに必要とします。結婚生活においても、修道者の奉献生活においても、また司祭の生活においても、わたしたちは神のみ旨にそぐわない考え方や行動様式を克服しなければなりません。「わたしたちは自分自身から脱することによって、主をあがめ、兄弟姉妹の中におられる主に仕える道へと導かれるのです」(修道会総長国際会議での挨拶、2013年5月8日)。したがって、わたしたちは皆、みことばの種に宿る恵みのいぶきを受けるために、心の中でキリストをあがめるよう(一ペトロ3・15参照)招かれています。その種は、わたしたちの中で育ち、隣人への具体的な奉仕となるにちがいありません。恐れることはありません。神はご自分の手で造られたいのちを、どんなときにも情熱と繊細さをもって見守っておられます。神は決してわたしたちを見捨てません。神はわたしたちのうちにご自分の計画を完成させることを望みながらも、わたしたちの同意と協力のもとにそれを成し遂げようとしておられます。

3.  イエスは、あらゆる人、とりわけもっとも弱い人に寄り添い、弱さや病気をいやすために、わたしたちの日常の現実の中に今も生きて歩んでおられます。教会に響いているキリストの声に耳を傾け、自分の召命を知る備えが十分にできている人にお願いします。イエスに耳を傾け、イエスに従い、「霊であり、いのちである」(ヨハネ6・63)みことばによって内側から変えていただいてください。イエスの母であり、わたしたちの母でもあるマリアも、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(ヨハネ2・5)と何度も語りかけています。自分の内面と周囲に最高の力を及ぼすことができる共同体の歩みに信頼をもって加わることは、皆さんにとってすばらしいこととなるでしょう。真の教会生活において、召命は、相互奉仕をもたらす相互愛によって十分に耕された畑に実る果実です。召命は、ひとりでに生じるものでも、独りで育つものでもありません。召命は神のみ心から流れ出て、信者というよい土地で兄弟愛を生きるうちに芽吹きます。イエスは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13・35)といっているではありませんか。

4. 親愛なる兄弟姉妹の皆さん。この「普通のキリスト教的生活の気高さ」(教皇ヨハネ・パウロ二世、使徒的書簡『新千年期の初めに』31)を生きることは、時には、時流に逆らったり、自分の内外で障害に直面したりすることにつながります。みことばのよい種は、しばしば悪い者に奪い取られたり、苦難に阻まれたり、世の思い煩いや誘惑のために枯れたりする(マタイ13・19-22参照)と、イエスご自身も忠告しています。これらすべての困難は、わたしたちを失望させ、より安易そうな道へと後ずさりさせるかもしれません。それでも、主に呼ばれた人は、主は忠実なかたであることを信じて行動することに真の喜びを感じます。そして、主とともに歩み、主の弟子、神の愛のあかし人となり、大きな理想や偉大なものに心を開くことができるのです。「わたしたちキリスト者は小さなことがらのために主に選ばれたのではありません。偉大なものに向けてつねに前に進んでください。皆さんのいのちを大いなる理想のためにささげてください」(堅信式ミサ説教、2013年4月28日)。司教、司祭、修道者、そしてキリスト者の共同体と家族の皆さんにお願いします。聖性に向けて歩んでいる若者に寄り添い、召命のための司牧をこの方向で進めてください。聖性への歩みは各個人に固有なものなので、「個人のリズムに合わせることのできる真実で適切な聖性への養成が必要であることは明白です。それは、すべての人に向けて差し出されている聖性の豊かさを、人の助けによって、また、グループによる伝統的な形、あるいは、教会公認の団体や運動の中で提供される新しい形で補完するものでなければなりません」(教皇ヨハネ・パウロ二世、使徒的書簡『新千年期の初めに』31)。

 みことばに耳を傾け、みことばを受け入れ、みことばを生き、実りを育むことによって、自分の心が「よい土地」となるよう備えましょう。祈り、聖書、ミサ、そして教会で行われ、体験される秘跡によって、また兄弟愛を生きることによって、わたしたちがイエスと一つになればなるほど、恵み、真理、正義、平和のみ国に仕えるために神とともに働く喜びが深まります。そうすれば、わたしたちが従順な心で受けた恵みと同じように豊かな収穫がもたらされるでしょう。こうした望みを抱きつつ、わたしのために祈ってくださるよう願いながら、皆さんに心から使徒的祝福を送ります。

バチカンにて
2014年1月15日
教皇フランシスコ

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