第48回「世界広報の日」教皇メッセージ(2014.5.25)

第48回「世界広報の日(2014年5月25日)」教皇メッセージ 「真正な『出会いの文化』に資するコミュニケーション」  兄弟姉妹の皆さん、  今日わたしたちの住む世界は、ますます「狭くなって」います。その結果、わたしたち […]

第48回「世界広報の日(2014年5月25日)」教皇メッセージ
「真正な『出会いの文化』に資するコミュニケーション」

 兄弟姉妹の皆さん、

 今日わたしたちの住む世界は、ますます「狭くなって」います。その結果、わたしたち全員が互いに隣人となることは、より簡単になっていくかのようです。移動とコミュニケーション技術の発展は、わたしたちを互いに近づけ、より強く結びつけていきます。グローバル化もまた、わたしたちの相互依存をさらに加速させます。しかし、人類家族の中には分裂が存在し続け、非常に深刻になることもしばしばです。地球規模で見ると、豪勢な金持ちと、ひどく困窮した人々の間に、あきれるほどの格差があります。多くの場合、路上生活者と、きらびやかなショーウィンドーの対比を見るには、都市で通りを数本歩くだけで十分です。わたしたちはそうした光景に慣れすぎてしまい、もはや心が動かなくなっています。この世界は、多種多様な排斥、疎外、貧困に苦しんでおり、経済的、政治的、思想的、そして悲しいことに宗教的動機さえもが入り交じって生じる紛争にも苦しんでいることはいうまでもありません。

 こうした世の中にあって、メディアはわたしたちが互いにより親しみを感じられるよう助け、人類家族の一体感を生み出すものです。その一体感があれば、連帯と、すべての人の生がもっと尊厳をもって扱われるようにするための、真剣な努力を引き出すことができるのです。よいコミュニケーションは、わたしたちをより近づけ、より親しく知り合うようにし、最終的には一体感を育てる助けとなります。わたしたちを隔てる壁は、互いに聞き合い、学び合うことにより初めて打ち壊されるものです。多様な対話によって、わたしたちは違いを乗り越える必要があります。それによって相互理解と尊敬が増すのです。「出会いの文化」は、ただ与えることだけでなく、受け取る準備もできていることを求めています。メディアはこのためにわたしたちの助けとなります。人のコミュニケーションのネットワークがかつてなく発展してきた今日、とくにそうです。ことにインターネットは、出会いと連帯の可能性を限りなく提供してくれます。これはまことに善なるもの、神からのたまものです。

 何も問題がないといっているのではありません。情報伝達の速度は、わたしたちが考察したり判断したりする能力を超えていて、よりバランスのとれた適切な自己表現をするためには役立っていません。さまざまな意見が発信されることは有益に見えますが、同時にこれにより人々が、自分の期待や思い、政治的経済的利益を裏付けてくれるだけの情報源の後ろに立てこもってしまうことにもなります。コミュニケーションの世界はわたしたちの知識を増やすことも、わたしたちの忍耐を失わせてしまうこともできるのです。デジタル機器を通じてつながっていたいという欲求により、隣人たち、ごく身近な人たちから自分を孤立させてしまう結果も生じ得ます。どんな理由であれ、ソーシャル・メディアを利用できない人々が取り残されていくという危険があることを見過ごすべきではありません。

 こうした問題点も事実であるとはいえ、ソーシャル・メディアを拒絶する理由にはなりません。むしろ、こうした問題があるからこそ、コミュニケーションは究極的に技術的成果ではなく、人間的な成果だということをわたしたちは自覚します。だとすれば、デジタル環境においていったい何が人間性と相互理解を育ててくれるでしょうか。たとえば、熟慮し平穏でいる感覚を取り戻す必要があります。このためには、沈黙し、聴き入る時間と能力が必須です。自分と異なる人々を理解しようとするなら、忍耐もまた必要です。人が十分に自分を表現できるのは、単に寛大に接してもらっているというだけでなく、完全に受け入れられていると感じられるときだけです。もしわたしたちが、本当に注意深く人の話を聞いているなら、世界を異なる視点で見ることを学び、異なる文化伝統の中で表された人間経験の豊かさを理解するようになるでしょう。さらにまた、キリスト教から生まれた重要な価値観をよりよく理解できるでしょう。たとえば、人間についての見方、結婚と家庭の本質、宗教的領域と政治的領域の適切な区別、連帯の原理と補完性の原理など、他にも多くの事柄があります。

 ではコミュニケーションはどのようにすれば、真正な出会いの文化に資することができるでしょうか。主の弟子としてわたしたちが、福音の光の中で他者と出会うということは、何を意味するでしょうか。わたしたちは、自分の限界と罪深さにもかかわらず、どうすれば互いに本当の意味で親しくなることができるでしょうか。こうした問いは、律法の専門家——コミュニケーションをとる人——がイエスに尋ねたことがらにまとめられています。「では、わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10・29)。この問いは、「隣人らしさ」の点から見たコミュニケーションを理解するうえで助けとなります。その問いを、こう言い換えてみましょう。コミュニケーションのためにメディアを使うとき、またデジタル技術によってもたらされた新たな環境の中で、わたしたちはいかに、「隣人らしく」あることができるでしょうか。わたしはこの「よいサマリア人」のたとえ話の中に答えを見いだします。このたとえ話はまた、コミュニケーションに関するものでもあるのです。実際にコミュニケーションをとる人が隣人となります。よいサマリア人は、道の端にいる死にかけた人に近づくだけでなく、その人を責任もって引き受けます。イエスはわたしたちの理解を転換します。単に他者を自分と同様なものとして見るだけでなく、自分が他者の立場にたつ能力について語っているのです。コミュニケーションとは実に、わたしたちは全員人間であり、神の子であると理解するためのものです。コミュニケーションがもつこの力を、わたしは「隣人らしさ」と理解したいのです。

 コミュニケーションが一義的に消費を刺激したり、他者を操作したりするために用いられるときはいつも、このたとえ話に出てくる人を襲ったような一種の暴力的な攻撃に、わたしたちは対処しているのと同じです。その人は、追いはぎに殴りつけられ、道端に放置されたのです。レビ人と祭司はその人を隣人と思わず、見知らぬそぶりで距離をとって通り過ぎました。当時、その人たちを縛っていたのは、礼拝において清くあるべきという規則でした。今日では、困窮している人にわたしたちが対応できないように制約するメディアがあるため、本当の隣人を見いだせなくなるという危険性をはらんでいます。

 高速デジタル通信網において、単に「つながっている」というだけの、通りすがりの人になるだけでは足りません。「つながり」は「出会い」へと育つ必要があります。わたしたちは、バラバラで自分の殻に閉じこもっては生きられません。愛し、愛されることが必要です。優しさが必要です。メディア戦略を立てたとしても、それがコミュニケーションの中で真善美を保証するわけではありません。メディアの世界はまた人間性に関心をもつべきであり、優しさを示すことも求められています。デジタルの世界は人間性あふれる環境となり得ます。つまり、配線のネットワークではなく、人間のネットワークとなり得るのです。メディアの中立性は単にうわべだけのものです。自分の殻から出てコミュニケーションに携わる人だけが、他者にとっての正しい模範となり得ます。自分が責任をもってかかわるということが、コミュニケーションをとる人の信頼性の基礎となります。インターネットのおかげで、キリスト者のあかしは人類社会の隅々にまで行き渡るようになるのです。

 繰り返し考えていることですが、街の通りに出て、傷を負った教会と自己陶酔の病にかかっている教会の、どちらかを選ばなければならないとすると、わたしは必ず前者を選びます。こうした「通り」は人々が住む世界です。そこでわたしたちはそうした人々に、効果的に、かつ愛情をもって接することができるのです。高速デジタル通信網もそうした「通り」の一つです。多くの傷を負った人々、救いや希望を求める男女であふれている街路です。インターネットによって、キリスト者のメッセージを「地の果てに至るまで」(使徒言行録1・8)届けることが可能です。教会の扉を開いておくということはまた、デジタル環境においても扉を開いていることを意味します。それにより人々は、人生の中でどんな状況にいても、教会に入ることができ、それによって、福音がすべての人に届けられるのです。教会はすべての人の家であるということを示すことが、わたしたちに求められています。このような教会像を、わたしたちは人に伝えることができるでしょうか。コミュニケーションは、教会全体が担う宣教の使命を表現する手段です。今日、社会のネットワークは、信仰のすばらしさ、キリストと出会うことのすばらしさを発見するようにとの、この招きを体験する一つの手段です。コミュニケーションの領域においてもまた、温かさを伝え、心揺さぶることのできる教会が必要なのです。

 キリストを効果的にあかしすることは、宗教的なメッセージで人々を攻め立てることではありません。「他者が真理や人間存在の意味を探し求めているときに、彼らの質問や疑念に忍耐と敬意をもって応じ、彼らに自分自身を喜んでささげること」(教皇ベネディクト十六世「第47回世界広報の日メッセージ」、2013年)によって、喜んで他者に仕えることです。エマオへ向かう弟子たちの物語を思い起こせば十分です。わたしたちは現代の男女と対話し、その人々の期待と疑念、希望を理解し、わたしたちを罪と死から解放するために死んで復活した、人となられた神、イエス・キリストご自身である福音を、その人々にもたらさなければなりません。わたしたちは深く思考する人間となり、身の回りで起きることに注意を払い、霊の動きに敏感でなければなりません。対話するとは、「他者」は何か価値あることを話すと信じ、その人の視点や理解を受け入れることです。対話に入るということは、自分の考えや伝統を放棄することではなく、それらが唯一有効、絶対であると主張することを放棄することです。

 傷ついた人の傷に油とぶどう酒を注いで介抱したよいサマリア人のイメージが、わたしたちにひらめきを与えますように。わたしたちが行うコミュニケーションが、傷みを和らげる香油、心を喜ばせる上質なぶどう酒となりますように。わたしたちが他者にもたらす光が、ごまかしや特殊な効果から生じる光ではなく、傷つき道の傍らに放置された人々にとって、わたしたちが愛といつくしみに満ちた「隣人」となることから生まれる光となりますように。大胆に、デジタル世界の市民となりましょう。教会は、コミュニケーションの世界に関心をもち、その中に存在していなければなりません。そうすることにより、現代の人々と対話し、その人々がキリストと出会うよう助けるのです。自分たち以外の人の側に立つ教会となり、すべての人の道に同伴できなければなりません。コミュニケーション媒体と情報技術における革新は、わくわくするような大きな課題を表しています。こうした課題に、新たな活力と想像力をもち、神のすばらしさを他者と分かち合うことを模索しながら、こたえていくことができますように。

バチカンにて
2014年1月24日、聖フランシスコ・サレジオの祝日
教皇フランシスコ

PAGE TOP