2016年「世界平和の日」メッセージ(2016.1.1)

2016年「世界平和の日」教皇メッセージ
(2016年1月1日)
「無関心に打ち勝ち、平和を獲得する」

2016年「世界平和の日」メッセージ
(2016年1月1日)

「無関心に打ち勝ち、平和を獲得する」

1. 神は無関心ではありません。神は人類を大切にしてくださいます。神はわたしたちを見捨てません。新年を迎えるにあたり、わたしは、希望のしるしのうちに、すべての人、世界のすべての家庭、民族、国家、そして各国首脳、宗教指導者の未来に豊かな祝福と平和があるよう祈りつつ、この心からの確信をお伝えしようと思います。2016年が、さまざまな分野で確固たる信念のうちに正義と平和のための活動が行われる年となるよう望んでやみません。そうです。平和は神のたまものであると同時に人間のわざでもあります。平和は神のたまものですが、そのたまものは平和を実現させるよう招かれているすべての人にゆだねられているのです。

希望の種を持ち続ける

2. 昨年は、最初から最後まで戦争とテロ、そしてその悲惨な結果である監禁、人種的・宗教的迫害、汚職に見舞われました。世界の多くの地域でそれらが痛ましい形で拡大し、「散発的な第三次世界大戦」と呼べるほどです。それでも、ここ数年と昨年のいくつかの出来事を考えるとき、わたしはこの新しい年を見据え、人間の力に対する希望を失わないよう、改めて皆を励まさずにはいられません。人間には、神の恵みのもとに悪に打ち勝ち、あきらめと無関心に陥らない力があります。それらの出来事は、人間は危機的な状況に直面しても、個人の利害を超え、無感動、無関心を克服して連帯する力があることを示しています。
 その中でも、各国首脳による国連気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)が成果をあげるために払われた努力を思い起こしたいと思います。この会議の目的は、気候変動に対処し、わたしたちの共通の家である地球を健全に保つための新たな方法を模索することでした。この会議は、それ以前に行われた二つの世界的な出来事を思い起こさせます。それは、世界の持続可能な開発に向けた資金を得るためのアジス・アベバ・サミットと、国連の「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の採択です。このアジェンダの目標は、世界中のすべての人々、とりわけ貧しい人々が、2030年までにより尊厳ある生活を確かに送れるようにすることです。
 2015年は教会にとっても、第二バチカン公会議の二つの文書の発布50周年にあたる特別な年でした。この二文書は、教会が世界と連帯することの意味を雄弁に物語っています。公会議を開会するにあたり、教皇ヨハネ23世は、教会と世界のコミュニケーションをより開かれたものにするために、教会の窓を大きく開こうとしました。その二文書、『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』と『現代世界憲章』は、教会が人々に伝えようとしている対話と連帯、同伴という新たな関係の象徴的な表れです。『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』は、キリスト教以外の宗教との対話に開かれるよう教会に呼びかけています。『現代世界憲章』に記されているように、「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安である」【1】のですから、教会は連帯と尊敬と愛のしるし【2】として、世界の諸問題について人類家族と対話することを目指します。
 こうした観点から、わたしはいつくしみの聖年に際し、祈りをささげ活動するよう教会に呼びかけたいと思います。それは、すべてのキリスト者が謙虚で思いやりにあふれる心を深め、いつくしみを告げてあかしし、「許して与え」、また「自分とはまったく異なる周縁での生活――現代世界がしばしばその劇的な状態を引き起こしています――を送るすべての人」に心を開き、さらには「侮辱を与えることになる無関心、心を麻痺させて新しいことを求めさせないようにする惰性、破壊をもたらす白けた態度」【3】に陥らないようにするためです。
 わたしたちは、人類には連帯して協力し、相互連携と相互依存のもとにもっとも弱い立場にある兄弟姉妹を思いやり、共通善を守る力があることを多くの理由により堅く信じています。こうした連帯責任の姿勢は、兄弟愛と共同生活への根本的な召命に根ざしています。尊厳をもって互いにかかわり合うことにより、わたしたちは神がご自身の似姿となるようお望みになった人間となります。不可侵の尊厳を与えられた被造物として、わたしたちはすべての兄弟姉妹とのかかわりの中で存在し、彼らに対して責任を負い、彼らと連帯して行動しています。そうした関係がなければ、わたしたちは人間以下の存在になってしまうでしょう。このように、無関心は人類家族を脅かします。新年を迎えるにあたり、わたしは、無関心に打ち勝ち、平和を獲得するために、こうした事実を認めるよう皆さんに呼びかけたいと思います。

無関心のさまざまな形態

3.無関心な態度は確かに、どの時代にも人々の間に広く見られる特徴です。それは、他者のことを考えないように心を閉じてしまう人や、自分の周りで起こっていることに目をつむる人、あるいは他者の問題に巻き込まれないように逃げる人の態度です。しかし今日、それは単なる個人的な問題を超えて世界的な次元に及んでおり、「無関心のグローバル化」という現象をもたらしています。
 人間社会における第一の無関心は、神に対する無関心です。そこから、隣人や環境への無関心が生じます。それは、誤った人間主義、さらには相対的、虚無的な考え方と結びついた実利的な唯物主義の深刻な影響の一つです。人は、自分が自分自身、その生活、そして社会の創造者であると考え、自分のことは自分でできると考えます。そして、神にとって代わろうとするだけでなく、神を完全に切り捨てようとします。その結果として、自分以外のだれに対しても義務を負わないと主張するようになり、自分の権利のみが関心事になります【4】。こうした誤った人間の自己理解に対し、ベネディクト十六世は、人間も発展も、その究極的な意味を独力で解き明かすことはできないという考えを示しました【5】。パウロ六世はそれより前に次のように断言しています。「人間生活に真の理想を与える自己の使命を自覚した、絶対者に開かれたヒューマニズムをおいて、他に真の意味でのヒューマニズムは存在しません」【6】
 隣人に対する無関心は、さまざまな形で表れます。ラジオを聞いたり、新聞を読んだり、テレビを見たりして豊かな情報を把握していても、熱意がなく、ほとんど惰性でそうしている人がいます。こうした人々は、人類に起きている悲劇を漠然と知っていますが、それに自分がかかわっていると感じたり、共感したりすることはありません。これこそが、知っていても、自分の視線や思い、行動を自分自身にしか向けない人の態度です。残念なことに、現代特有の情報の氾濫は、連帯感のうちに心を開くことが伴わなければ、それ自体では問題に対する関心の高まりには結びつきません【7】。さらに、過剰な情報により、人々の感覚がまひし、問題の重大性がときには軽視される可能性もあります。「貧しい人々や貧しい国々が負う損害は彼ら自身に非があるのだと、不適当な一般論を好んで主張する人もいます。彼らは、貧しい人々を安心させ、手なずけ、攻撃的にならないように変える「教育」に解決があるといいます。しかし、排除された人々が多くの国々に巣食う社会的な癌である汚職――政府であれ企業や組織であれ――の蔓延を知ったなら、統治者の政治的イデオロギーがいかなるものであれ、その反感はますます高まることでしょう」【8】
 一方、無関心は、周囲の現実に注意を払わないこととして表われます。自分にほとんど関係のないことがらについてはなおさらです。人々の中には、疑問を抱くことも情報を集めることもしようとせず、苦しんでいる人々の叫びに耳をふさぎ、安穏で快適な生活を送っている人がいます。知らず知らずのうちに、わたしたちは他の人々や彼らが抱える問題に共感できなくなり、彼らに気を配ることに関心を示さなくなってしまいます。まるですべては他人の責任で、自分には責任がないかのようです【9】。「わたしたちは通常、自分が健康で快適に過ごしているときには、他の人々のことを忘れています(父なる神とはまったく違います)。他の人々の問題や苦しみ、彼らが耐え忍んでいる不正義などに関心を示さず、わたしたちの心は冷たくなっていきます。自分が程良く健康で快適であるうちは、不幸な人々のことは考えません」【10】
 わたしたちは共通の家に住んでいるのですから、その家が健全に保たれているかどうかを問わずにはいられません。わたしはそのことを『ラウダート・シ』の中で示そうとしました。水や大気の汚染、見境のない森林伐採、そして環境破壊は、多くの場合、人間の他者に対する無関心の結果です。すべてはつながっているからです。動物に対する人間の態度が、その人の他者との関係に影響を与えること【11】や、自分の家であえてやらないことを他の場所でやる人のことを話題にしないこと【12】も同様です。
 いずれにせよ、無関心は、とりわけ閉鎖的で疎遠な態度をもたらします。そして、最後には神との平和、隣人との平和、被造界との平和が失われるのです。

無関心のグローバル化によって脅かされる平和

4. 神に対する無関心は、個人の内的、精神的な領域を超えて、公的、社会的な領域に影響を与えます。ベネディクト十六世が「神の栄光と人類の地上の平和は密接に結びついています」【13】と述べている通りです。実際、「超越するかたを受け入れなければ、人間は簡単に相対主義のえじきとなり、正しく行動し、平和のために働くことに困難を覚えるようになります」【14】。神を忘れ、否定することにより、人は自分の上にある基準を認めず、自分自身だけを基準にするようになります。それにより、とんでもない残虐行為や暴力が生まれるのです【15】
 個人と共同体のレベルにおいて、神への無関心から生じる隣人への無関心は、人々から疎遠になることと無気力として表れ、不正と深刻な社会的格差を長引かせます。そうした状況は、しばしば紛争の引き金となり、遅かれ早かれ暴力と危機に転じる恐れのある、不満に満ちた雰囲気を生じさせます。
 この意味で、わたしたちは皆、自分の能力と社会における役割に応じて共通善、とりわけ人類のもっとも貴重な財産の一つである平和のために働かなければなりません。しかし、人々から疎遠になることと無関心は、その務めの大きな障害となります【16】
 他者と、他者がもつ尊厳や基本的人権、自由への無関心が、組織的なレベルで行われ、利益と快楽を求める文化と結びついている場合、その無関心は、平和を脅かす行為と政策を助長し、しばしば正当化します。個人や国家の福利を確保するという名目のもとに、不正や分裂、暴力をもたらす嘆かわしい経済政策が、こうした無関心な態度によって正当化されることもあります。実際、人間による経済や政治のプロジェクトが、他の人々の基本的な権利や要求を犠牲にしてでも権力と富を獲得し、維持することを目標とするのは珍しいことではありません。食料、水、医療、雇用といった自らの基本的な権利を奪われた人々は、力ずくでそれらを獲得したいという思いに駆られるのです【17】
 さらに、自然環境に対する無関心は、森林伐採、汚染、自然災害を助長し、社会全体を生態系から引き離し、安全を著しく脅かします。そして、新しい形態の貧困と不正義をもたらし、しばしば社会の安全と平和に有害な結果をもたらします。資源不足や、天然資源の飽くなき追求のために、いかに多くの戦争がこれまで行われ、今後も行われることでしょう【18】

回心――無関心からいつくしみへ

5. わたしは昨年の世界平和の日のメッセージ「もはや奴隷としてではなく、兄弟姉妹として」の中で、人間の兄弟関係の最初の聖書的イコンである、カインとアベルの関係(創世記4・1-16参照)について述べました。この原初の兄弟愛がどのように裏切られたかということに注意を引きつけたかったのです。カインとアベルは兄弟でした。二人とも同じ胎から生まれ、同じ尊厳をもち、神の似姿に造られました。しかし、彼らの兄弟関係は失われました。「カインは、アベルのことが耐えられなかっただけでなく、嫉妬のためにアベルを殺し」【19】たからです。兄弟殺しは裏切りの典型となりました。カインがアベルとの兄弟関係を拒否したことにより、兄弟愛、連帯、相互尊重に基づく関係が初めて断たれたのです。
 そこで神は、人祖アダムとエバが創造主との交わりを断ったときにされたように、隣人に対する責任をとるよう人間に呼びかけるために仲介されます。「主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか。』カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか。主は言われた。『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる』」(創世記4・9-10)。
 カインは弟に何が起こったのか知らないと言い、自分は弟の番人ではないと主張します。彼は弟の人生にも運命にも責任を感じていません。自分とは関係ないと思っています。二人は同じ起源により結ばれていますが、カインは弟に無関心です。何と悲しいことでしょう。兄弟と家庭、人間の何と悲しい物語なのでしょう。それは、兄弟間に表れる最初の無関心です。しかし、神は無関心ではありません。神は、アベルの血を非常に価値あるものとしてご覧になり、何が起こったのか教えるようカインに頼みます。このように、人類の起源から、神は人間の運命にかかわるかたとしてご自身を啓示しています。その後、イスラエルの民がエジプトで奴隷状態にあったとき、神は再び介入されます。神はモーセに言います。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地……へ彼らを導き上る」(出エジプト3・7-8)。神が介入することを表わす動詞に注目することが重要です。神は見て、聞いて、知り、降って行き、救い出します。神は無関心ではありません。神は気づかい、行動してくださいます。
 同様に、神は御子イエスのうちに、人間のもとに降り、受肉し、罪を除くすべてにおいて、人類との連帯を示してくださいます。イエスは人と等しくなり、「多くの兄弟の中で長子となられ」(ローマ8・29)ました。イエスは群衆に教えるだけでなく、彼らのことを気づかいます。彼らが空腹なとき(マルコ6・34-44参照)や失業しているとき(マタイ20・3参照)はなおさらです。イエスのまなざしは、人間だけでなく海の魚、空の鳥、草木など、大小あらゆるものに注がれ、被造物全体を受け入れます。イエスは確かに見守っておられますが、それだけではありません。イエスは人々に触れ、語り、支え、困窮している人を助けてくださいます。そればかりか、心を動かし、涙を流してくださいます(ヨハネ11・33-44参照)。そして、苦しみや悲しみ、不幸、死を終わらせるために働いてくださるのです。
 イエスは御父のようにいつくしみ深くなるよう、わたしたちに教えます(ルカ6・36参照)。善いサマリア人のたとえ話(ルカ10・29-37参照)では、隣人の差し迫った必要にも応えず、「道の向こう側を通る人」(ルカ10・31-32参照)を非難しています。同様に、イエスはこの模範を示すことによって、聴衆、とりわけご自分の弟子たちに、どんなに忙しくても、自分の時間とあらゆる手段を用いて、この世の苦しみを和らげ、他者の傷をいやすために立ち止まるよう呼びかけておられます。実際、無関心には、口実がつきものです。祭儀の規則に従う、やるべきことが沢山ある、敵対しているために疎遠になっている、さまざまな先入観によって近づけないといった口実です。
 いつくしみは神の心です。それは、神の子どもたちから成る唯一の偉大な家族のメンバーであることを自覚しているすべての人の心でもあるはずです。その心は、人間の尊厳――被造物のうちに映し出される神のみ顔――がかかっている時に、ひときわ強く脈打ちます。隣人――外国人、病者、受刑者、路上生活者、さらには自分の敵――への愛は、神がわたしたちの行いを裁く際の基準であると、イエスはわたしたちに忠告しています。わたしたちの永遠の運命はこのことにかかっています。使徒パウロがローマのキリスト者に対し、喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣きなさい(ローマ12・15参照)と呼びかけたのも、またコリントの人々に対し、教会の苦しんでいる仲間との連帯のしるしとして募金を行うよう勧めた(一コリント16・2-3参照)のもうなずけます。また、聖ヨハネは次のように記しています。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう」(一ヨハネ3・17、ヤコブ2・15-16参照)。
 したがって、「教会にとって、またその使信の信憑性にとっても、教会自身がいつくしみを生き、それを一人称であかしすることは決定的なことです。教会のことばと行いは、いつくしみを伝えるものでなければなりません。それによって、人々の心を貫き、彼らが御父のもとに帰る道を再び見いだせるようにするためです。教会の第一の真理はキリストの愛です。ゆるしと自らの犠牲に至るこの愛によって、教会は人々のもとで奉仕者であり仲介者となります。したがって、教会のあるところでは、御父のいつくしみを表さなければなりません。小教区においても、団体や運動においても、つまりキリスト者のいるところではどこででも、だれもが、いつくしみのオアシスを見いだすことができるはずです」【20】
 わたしたちもまた、愛とあわれみ、いつくしみ、連帯を自分の真のライフスタイルとし、互いの人間関係における規範とします【21】。そのためには回心が必要です。すなわち、神の恵みが、わたしたちの石の心を、真の連帯によって他者に心を開くことのできる肉の心に変えるのです(エゼキエル36・26参照)。これは、「至るところに存在する無数の人々の不幸、災いに対するあいまいな同情の念でもなければ、浅薄な形ばかりの悲痛の思い」【22】をはるかにしのぐものです。連帯とは、「確固とした決意であり、共通善に向かって、すなわちわたしたちは、すべての人々に対して重い責任を負うがゆえに、個々の人間の善に向かい、人類全体の善に向かって自らをかけて、共通善のために働くべきであるとする堅固な決断なのです」【23】。なぜなら、あわれみは兄弟愛から生じるからです。
 したがって、連帯とは、現代の傷口に対する認識と、グローバル化した世界でとりわけ高まりつつある相互依存性にもっとも適応する道徳的、社会的姿勢であることが分かります。一定地域の個人や共同体の生活と、世界の他の地域の人々の生活は依存し合っているのです【24】

無関心に打ち勝つために、連帯といつくしみの文化を築く

6. 連帯は、個人の回心によりもたらされる倫理的な徳であると同時に社会的な姿勢であり、教育と養成の責任を担うすべての人の努力を必要とします。
 まず、教育において欠くことのできない第一の使命へと招かれている家庭について考えます。家庭は、愛と兄弟愛、共存と分かち合い、他者への配慮とケアを体験し、その価値を伝える最初の場です。家庭は、信仰を伝えるための特別な場でもあります。それは、母親が子どもたちに教える素朴な信心の基本動作から始まります【25】
 学校や他の青少年向けの施設で、子どもと若者の教育という重要な仕事に携わっている教育者や養成者は、人間の道徳的、霊的、社会的な側面に対する自らの責任を自覚しなければなりません。自由、相互尊重、連帯という価値観は、ごく幼少期から伝えることができます。ベネディクト十六世は、教育機関の責任者に次のように述べました。「教育の場は皆、超越者と他者に開かれた場となりえます。教育の場は、対話し、結束し、耳を傾け合う場となりえます。このような場で、若者は自分の能力と内的な豊かさを大切にされていると感じ、兄弟姉妹を尊重することを学ぶことができます。若者が、日々、他者に対する愛とあわれみのわざを行い、より人間らしく兄弟愛に満ちた社会の建設に積極的に参加する喜びを味わうことができますように」【26】
 とりわけ情報伝達ツールやコミュニケーション・ツールへのアクセスがますます広がりつつある現代社会において、文化やソーシャル・コミュニケーションの分野に従事している人々もまた、教育と養成の責任を担います。彼らの使命は、特定の利害にとらわれずに何よりもまず真理を伝えることです。実際、マスメディアは「情報を伝えるだけでなく、視聴者の精神を形成します。それゆえマスメディアは若者の教育に著しく貢献することが可能です。教育とコミュニケーションの関係はきわめて密接なことを忘れないことが重要です。教育はコミュニケーションを通して行われます。コミュニケーションは人格の養成に対して、よいしかたでも悪いしかたでも影響を及ぼすのです」【27】。文化やマスメディアの関係者は、情報を入手、公表する方法がつねに法的、道徳的に容認できるものであるよう気をつけなければなりません。

平和――連帯といつくしみ、あわれみの文化の実り

7.  これまでは、無関心のグローバル化によってもたらされる脅威について考えてきましたが、その一方で、あわれみやいつくしみ、連帯を可能な限りあかししようとする多くの前向きな取り組みがあることも忘れてはなりません。
 ここで、称賛に値する取り組みの例をいくつか挙げたいと思います。それらは、どうしたら隣人から目を背けずに無関心を克服できるかを明らかにするものであり、より人間的な社会への途上にある素晴らしい取り組みです。
 教会内外には多くのNGOや慈善団体があり、そのメンバーは、伝染病や災害、武力紛争の中で、負傷者や病人を手当てし、死者を葬るために疲労と危険に向き合っています。わたしはさらに、よりよい生活を求めて海や砂漠を渡って来た移住者を支援している個人と団体についても言及したいと思います。これらの活動は、身体的、精神的な慈善のわざです。わたしたちは人生の終わりに、それらのわざによって裁かれるのです。
 わたしは、ジャーナリストと写真家のことも考えます。彼らは良心を悩ますような困難な状況について世論に訴えています。わたしはまた、人権、とりわけ民族的、宗教的な少数派、先住民族、女性や子ども、そしてもっとも弱い立場にあるすべての人の権利を守るために活動している人々にも思いを寄せます。その中には、多くの司祭や宣教者も含まれます。彼らは、よい牧者として信者に寄り添い、危険や困難の中で、とりわけ武力紛争の中でも彼らを支えています。
 また、どんなに多くの家庭が、雇用上や社会面で困難を抱えながらも、連帯とあわれみと兄弟愛という価値観のもとに、多大な犠牲を払って「時流に屈しないこと」を子どもたちに教えるために実際に努力してきたことでしょう。どんなに多くの家庭が、難民や移住者などの困窮している人々のために自らの心と家を開放していることでしょう。難民の一家族を受け入れるよう求めるわたしの呼びかけに即座に応えてくださったすべての個人、家庭、小教区、修道院、巡礼地に、特に感謝したいと思います【28】
 最後に、共同活動を実現させるために連帯している若者について、さらには自分の町や国、世界各地で困難に直面している隣人を助けるために手を差し伸べているすべての人について述べたいと思います。わたしは、これらの見過ごされがちな活動に従事するすべての人々に感謝と励ましを送りたいと思います。彼らの正義への飢えと渇きは満たされ、彼らは自らのいつくしみによって、いつくしみを受け、平和を実現する人として、神の子と呼ばれるでしょう(マタイ5・6―9参照)。

いつくしみの特別聖年のしるしにおける平和

8.  わたしたちは皆、いつくしみの特別聖年の精神のもとに、自分の生活の中にいかに無関心が表れているかを認識し、生活環境を自分の家庭、近隣、職場から改善するために具体的な努力をするよう招かれています。  国家もまた、受刑者、移住者、失業者、病者といった社会でもっとも弱い立場にある人々のために、具体的で思い切った措置をとらなければなりません。  受刑者に関しては、多くの場合、刑務所内の生活環境を改善するために具体的な措置を至急、講じる必要があります。裁判を控えた拘留者にも特別な配慮が必要です【29】。刑罰は更生を目的としたものであることを心に留める必要があります。また、国家法の中に、刑務所での服役以外の刑罰を制定する可能性を探るべきです。この意味で、わたしは各国政府に対し、死刑がまだ執行されている国で死刑が廃止され、大赦の可能性が考慮されるように、あらためて訴えたいと思います。
 移住者については、移住に関する法律が見直され、互いの責任と義務を尊重しつつ、移住者を受け入れる意志が反映された法律、移住者が社会に溶け込みやすくなる法律が定められるよう促したいと思います。こうした観点から、非正規滞在は犯罪に結びつく可能性があることが留意され、移住者の在留資格に対して特別な配慮が払われるべきです。
 さらに今回の特別聖年にあたり、職も土地も住居もなく苦しんでいる兄弟姉妹のために具体的な措置をとるよう、各国首脳に緊急に要請したいと思います。わたしは失業という社会的な災いに対処するために、しかるべき雇用を創出することを考えています。失業は、非常に多くの家庭や若者を苦しめ、社会全体に深刻な影響を与えます。失業は、人々の自尊心と希望を深く傷つけます。失業者とその家族に支払われる助成金は必要なものですが、一部の埋め合わせにしかなりません。不幸なことに職場でいまだに差別を受けている女性たち、さらには不安定で危険な環境のもとに働いているにもかかわらず、その社会的使命の重要性に見合った収入を得ていない、特定の職種の労働者にも特別の配慮が払われるべきです。
 最後に、病者の生活環境を向上させるために有効な措置がとられ、在宅医療の可能性を含め、生きるために不可欠な治療や薬をすべての病者が確かに受けられるよう促したいと思います。
 各国首脳もまた、自国の国境の先に目を向け、他国の人々との関係を刷新し、すべての人が国際社会の営みに含まれ、活発に参加できるようにしなければなりません。それは、諸国が構成する家庭の中でも、兄弟愛が実現するためです。
 こうした展望のもとに、わたしは三つのことを訴えたいと思います。他国の人々を紛争や戦争に巻き込まないでください。紛争と戦争は、人々の物的、文化的、社会的な財産を破壊するだけでなく、道徳的、精神的な一体性を長期にわたって傷つけます。また、最貧国の国際債務を帳消しにするか、持続可能な形で管理してください。さらに、協力の精神に基づく政策を採択してください。特定のイデオロギーによる独裁の前に屈しない政策、地元の人々の価値観を尊重する政策、そして胎児の基本的かつ不可侵な生存権をいかなる場合も侵害しない政策です。
 わたしは、新年のお祝いを申し上げつつ、これらの思いを、人類の必要を気遣ってくださる母であり聖なるかたであるマリアのとりつぎにゆだねます。マリアのとりなしによって、平和の君である御子イエスがわたしたちの祈りを聞き入れ、兄弟愛と連帯に基づく世界に向けたわたしたちの日々の努力を祝福してくださいますように。

バチカンにて
2015年12月8日
無原罪の聖マリアの祭日
いつくしみの特別聖年開年の日
フランシスコ

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