第50回「世界広報の日」教皇メッセージ(2016.5.1)

第50回「世界広報の日(2016年5月1日)」教皇メッセージ 「コミュニケーションといつくしみ、実り豊かな出会い」  いつくしみの特別聖年は、コミュニケーションといつくしみの関係について考えるようわたしたちを招いています […]

第50回「世界広報の日(2016年5月1日)」教皇メッセージ
「コミュニケーションといつくしみ、実り豊かな出会い」

 いつくしみの特別聖年は、コミュニケーションといつくしみの関係について考えるようわたしたちを招いています。実際、キリストと結ばれた教会、いつくしみ深い御父の生きたからだである教会は、その存在と行動全体の特徴であるいつくしみを生きるよう求められています。わたしたちの発言、言い回し、一つひとつのことばやしぐさは、すべての人に対する神のいつくしみと優しさ、ゆるしを表わすものでなければなりません。愛は本来、コミュニケーションであり、人の心を開き、孤立させません。わたしたちの心と行いが慈愛によって、神の愛によって促されるなら、わたしたちのコミュニケーションは神の力を伝えるものとなるでしょう。

 わたしたちは神の子として、一人残らずすべての人とコミュニケーションを取らなければなりません。とりわけ、教会のことばと行いの特徴は、人々の心を動かし、いのちの充満への道を歩む人々を支えるために、いつくしみを伝えることです。イエス・キリストは、いのちの充満をもたらすために御父によって遣わされ、すべての人のもとに来られたのです。このことは、母である教会のぬくもりを、イエスが知られ愛されるように、自分自身の中に受け入れ、周囲の人々に伝えることを意味します。そのぬくもりは、信仰のことばに内容を与え、宣教とあかしを通してそれらを生き生きとさせる「火花」を燃え上がらせます。

 コミュニケーションには、かけ橋を築き、人々が出会い、社会にとけ込めるよう手助けする力があり、それにより社会はより豊かになります。人々が誤解を解き、傷ついた記憶をいやし、平和と調和を確立するために、ことばと行いを注意深く熱心に選ぶさまを見るのは何とすばらしいことでしょう。ことばは人々の間、家庭や社会団体、諸民族同士の間にかけ橋を築くことができます。それは、物理的領域でもデジタル領域でも可能です。したがって、ことばと行いは、人や国を混乱させ、憎しみのことばで表現するよう仕向ける、非難と報復の悪循環からわたしたちが脱する助けとなるべきです。一方、キリスト者のことばは、つねに交わりを促すものであるはずです。悪を強く非難すべき場合にも、決して人間関係やコミュニケーションを壊そうとしてはなりません。

 したがって、引き裂かれた関係を修復し、家庭と共同体に平和と調和を取り戻すために、いつくしみの力に新たに目を向けるよう、わたしはすべての善意の人を招きたいと思います。ご存じのように、過去の傷と恨みが人々をとらえ、コミュニケーションと和解を阻んでいます。諸国民の間の関係についても同様です。いずれの場合にも、いつくしみには、新しい形の発言と対話を生み出す力があります。シェークスピアはそのことを雄弁に語っています。「慈悲は強いられるべきものではない。恵みの雨のごとく、天よりこの下界に降りそそぐもの。そこには二重の福がある。与えるものも受けるものも、共にその福を得る」(『ベニスの商人』第四幕、第一場〔福田恆存訳、新潮文庫〕)。

 政治や外交で使われることばも、それらにとって不可欠ないつくしみに基づいていることが望ましいです。組織や政界の責任者と世論の形成に携わる人々にとくにお願いします。異なる考えや行動をとる人々や、過ちを犯した可能性のある人々について語る際には、いつも表現方法に気を配ってください。そうした状況を悪用して、不信や恐れ、憎しみの炎をかき立てるという誘惑にかられるのは容易です。そうではなく、和解のプロセスに人々を導くためには勇気が必要です。過去の争いを真に解決し、永続的な平和を実現する機会をもたらすのは、こうした前向きで創造性のある大胆さにほかなりません。「あわれみ深い人々は、幸いである、その人たちはあわれみを受ける。……平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5・7、9)。

 わたしたちのコミュニケーションと、教会における司牧者としてのわたしたちの奉仕が、敵より優っているという傲慢な思い上がりを表現したり、世間から敗者や見捨てられた人と考えられている人々に屈辱を与えたりすることがないよう、わたしは望んでやみません。いつくしみは、人生における逆境を和らげ、裁きの冷たさしか知らない人々にぬくもりを与えることができます。わたしたちのコミュニケーションが、正しい人と罪人をはっきりと分け隔てる考え方を克服するものでありますように。わたしたちは、罪深い状況――暴力、汚職、搾取など――を裁くことができますし、そうしなければなりません。しかし、人を裁くことはできません。神だけが人の心の奥底を見通すことができるからです。わたしたちの務めは、犠牲者を解放し、倒れた人を起き上がらせるために、過ちを犯している人に忠告し、特定の行いの悪と不正を非難することです。ヨハネによる福音書は、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)ことを思い起こさせてくれます。その真理は、最終的にはキリストご自身です。キリストの柔和ないつくしみは、わたしたちが真理を告げ、不正を非難する方法を測る基準です。わたしたちの主要な使命は、愛をもって真理を明らかにすることです(エフェソ4・15参照)。愛をもって告げられ、柔和さといつくしみを伴うことばだけが、わたしたち罪人の心を動かします。厳しく独善的なことばや行いは、わたしたちが回心や解放へと導きたいと願っている人々をさらに遠ざけ、彼らの拒絶感と防御意識を強めてしまう恐れがあります。

 いつくしみに根ざした社会という考えは、根拠のない理想主義で、甘すぎると思っている人もいます。しかし、家庭内での最初の人間関係の体験を思い出してみましょう。両親は、わたしたちの能力や成果ではなく、むしろありのままの姿によってわたしたちを愛し、認めてくれました。両親は、当然、子どもたちのためにできる限りのことをしたいと望みます。しかしその愛は、決してある種の条件を満たすことを前提とするわけではありません。家族のいる家は、わたしたちがいつも受け入れられる場です(ルカ15・11-32参照)。人間社会を、見知らぬ人々が競い合い、優位に立とうとする場としてではなく、互いを受け入れ合い、扉がいつも開かれている家や家庭として考えるようわたしは皆さんにお勧めしたいと思います。

 そのためには、まず耳を傾けなければなりません。コミュニケーションは、分かち合うことを意味します。分かち合うには、耳を傾けて受け入れる必要があります。耳を傾けることは、単に聞くこと以上のものです。聞くことは、情報の領域へのかかわりです。一方、耳を傾けることは、コミュニケーションの問題であり、親しさが求められます。耳を傾けることにより、わたしたちは、傍観者や消費者、顧客という何も働きかけない状態から抜け出して、正しい態度をとることができます。耳を傾けることは、質問や疑問を分かち合い、他の人に寄り添って道を歩み、全能であるかのような思い上がりをすべて捨て去り、自分の能力とたまものを共通善のために謙虚に用いることのできる状態も意味するのです。

 耳を傾けることは決して容易ではありません。多くの場合、耳をふさいでいるほうがずっと楽です。耳を傾けることは、注目すること、理解しようとすること、他の人のことばを評価し、尊重し、大切にしようとすることを意味します。耳を傾ける中で、ある種の殉教、すなわち燃える柴の前でモーセが行った神聖なしぐさを繰り返す自己犠牲が行われます。つまり、自分に語りかける人と出会う「聖なる土地」では、履物を脱がなければならないということです(出エジプト3・5参照)。耳を傾けるすべを知ることは、はかり知れない恵みです。それはわたしたちが願い求め、実践すべきたまものなのです。

 EメールやSMS、ソーシャル・ネットワーク、チャットも、十分に人間的なコミュニケーション・ツールになりえます。コミュニケーションが本物であるかどうかを決めるのは技術ではなく、むしろ人間の心と、ツールを正しく使いこなす能力です。ソーシャル・ネットワークは人間関係を円滑にし、社会の善を促進することができますが、その一方で個人や集団の間に、さらなる隔たりや分裂を生む可能性もあります。デジタル環境は、好意をもつことも傷つけることも、また有意義な討議も道義的な攻撃も行うことのできる出会いの場であり空間です。いつくしみのうちに生きるこの特別聖年に、わたしは祈ります。「さらによく知り合い理解するために、わたしたちがより対話へと開かれた者とされますように。いかなる姿であろうと閉鎖的・侮辱的態度は根絶され、いかなる暴力も差別もしりぞけられますように」(『イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔』23)。インターネット上でも、真の市民が育まれます。デジタル・ネットワークへのアクセスには責任が伴います。それは、見えなくとも実在し、尊重すべき威厳をもっている他の人々に対する責任です。インターネットは、分かち合いを受け入れる健全な社会を育むために、賢明に用いることができるのです。

 コミュニケーションとその領域とツールは、多くの人の地平を広げてきました。このことは神のたまものですが、大きな責任も伴います。わたしは、このコミュニケーションの力を「親しさ」と定義したいと思います。コミュニケーションといつくしみの出会いは、世話をし、なぐさめ、いやし、寄り添い、そして歓迎するという親しさを生み出す限りは、実り豊かです。引き裂かれ、分裂し、分極化している世界において、いつくしみをもってコミュニケーションを行うことは、神の子どもたちと人間家族の兄弟姉妹の間に正しく、自由と兄弟愛に満ちた親しさが生じるよう貢献することなのです。

バチカンにて
2016年1月24日
フランシスコ

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