第52回「世界広報の日」教皇メッセージ(2018.5.6)

第52回「世界広報の日」教皇メッセージ 「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32) 「フェイクニュースと平和的ジャーナリズム」 親愛なる兄弟姉妹の皆さん  神の計画において、人間のコミュニケーションは交わりのうち […]

第52回「世界広報の日」教皇メッセージ
「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)
「フェイクニュースと平和的ジャーナリズム」

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 神の計画において、人間のコミュニケーションは交わりのうちに生きるために欠かせない手段です。創造主にかたどられ、似姿として造られた人間は、真理と善、美を表現し、分かち合うことができます。そして、自分自身の体験や世界について語り、そのことを記憶にとどめ、さまざまな出来事を理解することができます。しかし、聖書の中のカインとアベルの話やバベルの塔の話(創世記4・1-16、11・1-9参照)で当初から示されているように、もし思い上がり、自分のことだけを考えるなら、人はコミュニケーションの力をゆがんだかたちで用いることもできます。真実をすり替えることは、個人的にも集団的にも、そのゆがみの典型的な表れです。そうではなく、神の道を忠実にたどるなら、コミュニケーションは真理の追究と善の構築における自分自身の責任を表す場となります。コミュニケーションが加速し、デジタル化が進む現代において、わたしたちはフェイクニュースと呼ばれる「事実と異なる情報」を流す現象を目の当たりにします。わたしたちはこの現象について深く考えるよう求められています。したがって、パウロ六世をはじめとする多くのわたしの前任者がさまざまな機会で繰り返してきたように、わたしは真理をこのメッセージのテーマにしようと思います(1972年「世界広報の日」教皇メッセージ「真理のためのソーシャル・コミュニケーション」参照)。そうすることにより、フェイクニュースが広がるのを食い止め、ジャーナリズムの重要性を再発見し、真理の伝達における各個人の責任を再び見いだすために皆が協力できるよう貢献したいと思います。

1.「フェイクニュース」にはどんな嘘があるのか
 フェイクニュースはよく話題に上る、論議の的となることばです。それは、オンラインもしくは従来のメディアを通して事実と異なる情報が広まることを一般的に意味します。したがってこの表現は、ありもしないデータか、ゆがめられたデータに基づく根拠のない情報を指しており、その目的は読者を欺き、操りさえすることによって、一定の目標を果たしたり、政治的決断に影響を与えたり、経済的な利益を上げたりすることです。

 第一に、フェイクニュースの効果は、現実を模倣する性質、つまりもっともらしく見えるようにする力によってもたらされます。第二に、このまことしやかな偽りの情報は、読者の注意を引きつけ、社会全体にはびこる固定観念や偏見に訴え、不安やさげすみ、怒り、挫折といった、いとも簡単にわき上がる感情に付け込むことにより、人々を欺きます。こうした情報は、ソーシャル・ネットワークとその機能を保障する論理を巧みに操ることにより蔓延します。そしてその内容は、根拠がないにもかかわらず、人々の注目を集め、たとえ専門家が否定しても、その被害を食い止めることはなかなかできません。

 フェイクニュースの正体を暴き、根絶やしにするのが難しい理由としては、人々の交流が多くの場合、異なる考え方や意見を受け入れない、同質のデジタル環境の中で行われていることが挙げられます。フェイクニュースをもたらすこの考え方のために、わたしたちは他の情報源と公平に比較することにより、先入観に対して積極的に疑問を抱き、建設的な対話を切り開くのではなく、根も葉もない偏った見解が広まるのに無意識に加担するおそれがあります。フェイクニュースに伴う悲劇は、他者を中傷し、敵として描き、最後には悪者扱いして争いを誘発することです。このようにフェイクニュースは、不寛容で過敏な姿勢の表れであり、それによって広まるのは傲慢さと憎しみだけです。これこそが嘘が最終的に行き着く先です。

2.どのように嘘を見分けるのか
 わたしたちは皆、これらの嘘に対処する責任を免れることはできませんが、それは容易なことではありません。なぜならフェイクニュースは多くの場合、さまざまに異なる情報に基づいており、意図的に言い逃れをし、巧妙に欺き、しばしば高度な技術を用いるからです。したがって、教育分野における取り組みは称賛に値します。それらは、伝えられた内容をどのように読んで評価したらよいかを教え、フェイクニュースを無意識に広める人にならずに、暴く人になるよう導いているからです。また同様に、この現象を阻止するために規則を定めることを目指している組織的、法的な取り組み、そしてさらには、無数のデジタル・プロファイルに含まれる個人識別情報を確認するために新しい基準を定めるという、テクノロジー関連企業やメディア企業による取り組みも称賛に値します。

 一方、フェイクニュースのメカニズムを見極め、阻むためには、心の底から注意深く識別する必要があります。実際、どこにでも隠れ、かみつくことのできる「蛇の論理」と呼べるものの正体を暴かなければなりません。それは、創世記に記されている「ずる賢い蛇」が用いた策略です。人類の原初の時代に、最初にフェイクニュースを流したのはこの蛇です(創世記3・1-15参照)。その策略は罪という悲劇的な結果をもたらし、その後、最初の兄弟殺し(創世記4章参照)や、神と隣人、社会、被造物に対する他のありとあらゆる悪事として具体化されました。この狡猾な「偽りの父」(ヨハネ8・44参照)の策略は、まさに模倣すること、すなわち魅惑的な嘘で人間の心に忍び寄る、狡猾で危険な誘惑です。実際、原罪の話の中で誘惑者は、相手のためになることを考える友のふりをしながら女に近づき、一部しか正しくないことを話し始めます。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神はいわれたのか」(創世記3・1)。実は、神がアダムに語られたのは、どの木からも食べてはいけないということではなく、たった一本の木から食べてはいけないということでした。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(創世記2・17)。女は蛇に答え、そのことを説明しようとしますが、挑発に乗ってしまいます。「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(創世記3・3)。この答えには、おきてを重んじながらも悲観的になっているような気配があります。嘘つきを信用し、その説明に惑わされ、女は道を踏み外します。だからこそ「決して死ぬことはない」(4節)と蛇が保証したとき、すぐに関心を示したのです。その後、誘惑者のまことしやかな説明が真実味を帯びます。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(創世記3・5)。とうとう、敵の魅惑的な誘いにそそのかされ、幸せをもたらす父なる神の命令が信用できなくなります。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた」(6節)。聖書のこの箇所は、わたしたちの考察の本質となる要素をこのように明らかにしています。無害なフェイクニュースなどありません。それどころか、嘘を信じることにより、最悪な結果がもたらされます。わずかしか真実をゆがめていないように思えても、恐ろしい影響を与えうるのです。

 実際、問題なのはわたしたちの欲望です。多くの場合、フェイクニュースはウイルスのように広まります。つまり素早く広まり、なかなか食い止められません。それはソーシャル・メディアの特徴である分かち合いの精神のためではなく、人間の心にいとも簡単にわき上がる、飽くことを知らない欲望に訴えかけるからです。フェイクニュースの経済的、日和見主義的な動機は、力をもち、所有し、楽しむことへの渇きに根ざしています。その渇きは結局、わたしたちを欺きという何よりも悲惨なもの、すなわち心の自由を盗み取るために嘘から嘘へと渡り歩く悪魔のわざの犠牲者にします。したがって、真理にむけて教育を行うことは、自分たちの中で揺れ動く欲望や気持ちを識別し、評価し、熟考するすべを教えることを意味します。そうすれば、善を見失わずに、一つひとつの誘惑に「かみつく」ことができるからです。

3. 「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)
 人の内面は、嘘によってつねに汚されることにより、実に不明瞭になります。このことについて、ドストエフスキーは注目に値する記述を残しています。「自分に嘘をつき、自分の嘘に耳を傾ける人間というのは、自分のなかにもまわりの人間のなかにも、どんな真実も見分けがつかなくなって、ひいては、自分に対しても他人に対しても尊敬の気持ちを失うことになるのです。だれも敬わないとなると、人は愛することをやめ、愛をもたないまま、自分を喜ばせ気持ちをまぎらわそうと、情欲や下品な快楽にふけって、ついには犬畜生にもひとしい悪徳に身を落とすことになるのですが、それというのもすべて、人々や自分に対する絶え間ない嘘から生まれることなのです」(『カラマーゾフの兄弟』Ⅱ、2〔亀山郁夫訳、光文社〕)。

 それではどのように自分自身を守ったらよいのでしょうか。嘘というウイルスへの特効薬は、真理による清めです。キリスト教における真理は、物事を判断し、真偽を確かめることに関する概念的な存在だけを指すのではありません。また、古代ギリシャ語の「アレテイア(aletheia、隠れていない)」ということばが示唆しているように、「現実を暴くこと」、つまり不明瞭なものに光を当てることだけを指すのでもありません。真理はいのち全体にかかわります。聖書において、真理はアマン(´aman)という語源から分かるように、支え、連帯、信頼という意味をもちます。典礼用語「アーメン」は、このことばから派生しています。真理は、倒れないように支えてくれるものです。このように考えると、わたしたちが頼ることのできる真に信頼に値する確固たる存在は、「真なるもの」すなわち生きておられる神よりほかにありません。「わたしは……真理である」(ヨハネ14・6)とイエスも断言しておられます。そして人間は、自分を愛してくださる誠実で信頼できるかたのうちに、真理を自分自身の中で体験するたびに、真理を繰り返し見いだします。そうしてはじめて、人間は解放されるのです。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8・32)。

 嘘から解放されることと、結びつきを求めることは、わたしたちのことばと行いが正確で真正で信頼に値するものとなるために欠かせない二つの要素です。真理を識別するためには、交わりと善を促すものと、その逆に孤立と分裂と敵対をもたらすものを見分けなければなりません。したがって、外から機械的に押しつけられても、真理を本当の意味で会得することはできません。真理はむしろ、人々が自由に交わり、互いに耳を傾け合う中でわき出るものです。また、正しいことを述べているときにも、嘘はつねに忍び寄るので、決して真理を求めるのをやめてはなりません。非の打ちどころのない論証は、明白な事実に基づいていますが、もしそれが相手を傷つけ、その人の信用を落とすために用いられるなら、たとえどんなに正しく見えても、そこには真理はありません。わたしたちは述べられたことの真偽を、その成果を見て見極めることができます。それらが争いを巻き起こし、分離を助長し、あきらめを感じさせているか、それとも、情報に基づく成熟した考察や建設的な対話、有益な活動をもたらしているかを見極めるのです。

4.平和は真のニュース
 嘘に対する特効薬は策略ではなく人です。つまり欲張らずに他の人に耳を傾け、真理が表れるよう誠実な対話に努める人々、さらには善に導かれ、ことばの使い方に責任をもつ人々です。責任が、フェイクニュースの広まりを食い止める方法であるとすれば、情報を伝える責務を担う職業、すなわち情報の番人であるジャーナリストはとりわけその責任を負います。現代社会において、ジャーナリストは仕事をこなすだけでなく、自らの真の使命を果たしています。情報があふれ、特ダネが渦巻く中、情報の核心は伝える速さでも、聴衆への反響でもなく、人々であることを忘れないという使命を、ジャーナリストは帯びています。情報を提供することは、人を育成することであり、人々の人生にかかわることです。だからこそ情報源を確認し、コミュニケーションを守ることは、信頼関係をはぐくみ、交わりと平和への道を切り開く善を発展させるために欠かせない真のプロセスなのです。

 したがってわたしは、平和的ジャーナリズムを推し進めるよう呼びかけたいと思います。それは、深刻な問題の存在を否定し、感傷的な口調を用いる「甘ったるい」ジャーナリズムではありません。そうではなく、うわべを取り繕わず、嘘も、巧妙なスローガンも、大げさな見出しも退けるジャーナリズム。人々によって人々のために作られ、すべての人、とりわけ――世界の大部分の――声なき人々のために尽くすジャーナリズム。事態を根底から理解し、人道的なプロセスを進めることを通して紛争を解決するために、情報を無駄にせずに、その紛争の真の原因を突き止めようとするジャーナリズム。怒鳴り合いやことばの暴力の激化に対し、何か別の解決策を示そうとするジャーナリズムを指しているのです。

 したがって、聖フランシスコの祈りに導かれながら、人の中におられる真理であるかたに心を向けましょう。

主よ
わたしたちをあなたの平和の道具にしてください。
交わりをはぐくまないコミュニケーションに潜む悪に気づかせ、
わたしたちの判断から毒を取り除き、
兄弟姉妹として他の人のことを話せるよう助けてください。
あなたは誠実で信頼できるかたです。
わたしたちのことばを、この世の善の種にしてください。
騒音のあるところで、耳を傾け、
混乱のあるところで、調和を促し、
あいまいさには、明確さを、
排斥には、分かち合いを、
扇情主義には、冷静さをもたらすものとしてください。
深みのないところに、真の問いかけをし、
先入観のあるところに、信頼を呼び起こし、
敵意のあるところに、敬意を、
嘘のあるところに、真理をもたらすことができますように。
アーメン。

フランシスコ

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