教皇フランシスコ、第15回シノドスの開会あいさつ

 

 10月3日(水)午前、バチカン・サンピエトロ広場における開会ミサで、世界代表司教会議(シノドス)第15回通常総会の幕が開かれた。その日の午後、会場をシノドス・ホールに移し、教皇フランシスコは開会のあいさつを行った。以下はその全訳。

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親愛なる東方典礼総大司教、枢機卿、司教・大司教の皆さん、
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、そして、愛すべき若者の皆さん、

 若者について討議するためにこのホールに集い、わたしたちは若者たちが参加することでもたらされる力をすでに感じています。それは積極性と情熱を発し、このホールだけでなく、教会全体、世界全体を満たし、喜ばせます。
 だからこそ、皆さんに感謝のことばを言わずに始めることはできません。ここに出席してくださった皆さんに感謝し、多くの人にも感謝したいと思います。この2年間の準備を通じ、この時を迎えることができるように、——ここローマの教会においても、世界中のすべての教会においても——、献身し情熱をもって働いてくださった皆さんです。シノドス事務局長のロレンツォ・バルディッセーリ枢機卿、議長代理の皆さん、総書記のセルジオ・ダ・ローシャ枢機卿、シノドス事務局事務次長のファビオ・ファベーネ司教、事務局の職員とアシスタントの皆さんに心から感謝申し上げます。シノドス教父の皆さん、オブザーバー、専門家の皆さん全員に感謝します。友好使節の皆さん、通訳者、合唱隊、ジャーナリストの皆さんにも感謝します。皆さんの積極的で実り多い参加に心から感謝いたします。
 とくに深謝するのは、2人の特別秘書、イエズス会のジャコモ・コスタ神父とサレジオ修道会のロサーノ・サラ神父で、彼らは無私の献身をもって寛大な心で働いてくれました。準備の中で、身を粉にして働いてくれました。
 いま、わたしたちとつながりのある若者たちにも、心から感謝し、さまざまな方法でその声を聞かせてくれた若者たち全員に感謝しています。彼らが次のようなことに努力する価値があると考え、賭けてくれたことに感謝しています。つまり、教会の一部と感じ、教会と対話すること、教会を母、教師、家、家庭として、人間の弱さと困難さにもかかわらず、キリストの時代を超えたメッセージを広め、伝えること、世の厳しい荒波にもかかわらず、あらゆる人に隠れ場と歓迎を提供し続ける教会という船にしっかりつかまること、互いに耳を傾け合うこと、世の流れに逆らって泳ぎ、家庭、誠実さ、愛、信仰、犠牲、奉仕、永遠のいのちといった崇高な価値観に結ばれていること、これらのために賭けてくれたのです。ここシノドスにおけるわたしたちの責任は、そういったものを批判するのではなく、むしろそこに賭けることは正しいのだと示すことです。つまり、それは真に努力する価値のあることであり、時間の無駄ではありません。
 さらに、ここに参加している若者の皆さんに、とくに感謝します。若者の世界は非常に多様で、完全に代表することはできないということが、シノドスを準備する歩みの中でよく分かってきましたが、皆さんは確かに、シノドスの重要なしるしとなっています。皆さんの参加によって、わたしたちは喜びと希望に満たされています。
 わたしたちが過ごす本シノドスは分かち合いのときです。したがってわたしは、シノドス総会のはじめに、すべての人が勇気をもって、包み隠さず(=パレーシア)話すよう、つまり「自由」「真理」「愛」を一体化するよう招きたいと思います。対話だけがわたしたちを成長させます。正直で、透明性のある批判は建設的で助けとなり、無益なおしゃべり、うわさ話、憶測、偏見には与しません。
 そして、耳を傾ける謙遜さをもって、話す勇気に応えなければなりません。わたしはシノドス事前会議で若者たちに話しました。「もし皆さんが、わたしが嫌いなことを語るのなら、わたしはさらに聞かなければなりません。すべての人は、聞いてもらう権利があるからです。それはちょうど、すべての人に言論の自由があるのと同じです」。この開かれた傾聴のためには、ここにはいない、世界中の多くの若者たちの声となって語る勇気が必要です。対話のための空間を生み出すのは、こうして聞くことです。シノドスは、何よりも皆さん、参加者同士の対話の実践でなければなりません。この対話の最初の実りは、すべての人が新しいものに開かれ、他の人から耳にしたことのおかげで自分の選択肢を変更することです。これが本シノドスにとって重要なことです。皆さんのうち多くはすでに、自分の発題について事前に準備されていることでしょう——そしてわたしはそのことに感謝しています——。しかしわたしは、本シノドスの歩みが皆さん一人ひとりに示唆を与える、準備した草稿への追加や変更について、自由に考えてもらえるよう呼びかけたいと思います。自由に他者を受け入れ理解しましょう。そうすれば、わたしたちの信念や立ち位置も変わります。つまりこれは、人間としての、また霊的な、大きな成熟の一つのしるしとなるのです。
 本シノドスは、識別をしながら進める、教会的な実践です。もし本シノドスが識別のプロセスをとろうとしているのであれば、率直に話し、心を開いて聞くことは基本的なことがらです。識別とは、宣伝のスローガンではなく、組織上の技法でもなく、いまの教皇職による流行でもなく、信仰から来る行動に根ざす一つの内的態度です。識別は、手段であると同時に、わたしたちが設定した目標でもあります。つまりそれは、世界の歴史の中で、日常生活の出来事の中で、わたしが出会い、わたしに語りかける人々の中で、神は働かれるという信念に根ざしているのです。このためにわたしたちは、しばしば予測不能な方法と経路を通って霊がわたしたちに示唆するものに耳を傾けるよう招かれています。識別には空間と時間が必要です。したがって、総会と分科会で討議が行われている間、五つの発題がなされたあとに約3分ほどの沈黙の時間をとりましょう。これはすべての人が、いま聞いたことのニュアンスを心の中で認識し、深く内省し、何がもっとも心に残ったかを理解するためです。こうして内面性に注意することが、理解し、解釈し、選択する働きを完成するためのかぎです。
 わたしたちは、耳を傾け歩む教会のしるしです。耳を傾けるという態度は、このシノドスの働きの間に交わすことばに限ったことではありません。この期間のための準備の歩みの中で、耳を傾けることが必要な教会が強調されてきました。耳を傾ける対象には、自分の本性を教会は理解してくれず、したがって自分は真にありのままの姿で受け入れられていない、さらには、拒絶されているときもあると感じている若者たちも含まれています。このシノドスは、真に耳を傾ける教会の一つのしるしとすべき機会であり、課題であり、義務です。そうした教会は、出会う人々の経験にしたがって問いを受ける姿勢をもっており、またいつもお仕着せの答えを用意しているわけではないのです。耳を傾けない教会は、新しい物事に対し自らを閉ざし、神が与える驚きに対しても閉ざされており、とくに、近づくよりは遠ざかってしまうことが避けられない若者たちにとって、信頼感をもたれません。
 先入観とステレオタイプを脇に置きましょう。聞くことの最初の一歩は、頭と心を先入観とステレオタイプから解放することです。他の人がどういう人で、何を望んでいるか、すでにわたしたちは知っていると考えてしまうと、その人たちに真剣に耳を傾けることは実に苦労を要します。世代をまたぐ関係には、ことわざで言われるような安易さで、先入観とステレオタイプが根付いており、非常に根付いているためしばしばそのことを忘れてしまうほどです。若者たちは、大人は時代遅れだと考えたくなります。大人たちは、若者は経験不足だと考え、彼らがどういう存在で、とくにどうあり、行動すべきかを自分は知っていると考えたくなります。こうしたすべては、世代間の対話と出会いにとって圧倒的な障害となりえます。現在存在しているものの大部分は、もはや若者世代には当てはまらず、わたしたちが若者を、すでに時代遅れとなっている分類や考え方で論じるリスクに、何よりも注意を払わなければならないことは明らかです。もしこうしたリスクを避けられれば、そのとき、世代間に橋を架けることができるでしょう。大人たちは若者の能力を過小評価する誘惑に打ち克つべきであり、否定的に判断すべきではありません。かつて読んだことがありますが、こうした事実について最初に言及したのは、紀元前3千年の昔のことであり、それは古代バビロニアの陶器のつぼの中で発見されました。そこには、若者たちは不道徳で、人々の文化を守ることができないと書かれています。これは、わたしたち老人の、古くからの伝統です。一方若者は、大人たちを無視し、年配者は「古くさく、時代遅れで、退屈だ」と考える誘惑に打ち克つべきです。彼らは、人生は彼らの一人ひとりだけで始まったかのように、いつもゼロからスタートすることは馬鹿げているということを忘れています。肉体的な衰えにもかかわらず、年配者はつねに人類の記憶、わたしたちの社会のルーツ、わたしたちの文明の「鼓動」なのです。年配者を拒絶し、否定し、孤立させ、鼻であしらうことは、世間的なメンタリティに傾くことになります。それではわたしたちの家が内側から壊れていきます。各世代が受け継ぎ、次の世代に伝えていく豊かな経験を無視することは、自殺行為です。
 したがって、他方で、聖職者主義の弊害を徹底的に克服することが必要です。耳を傾け、ステレオタイプを脇に置くことは、聖職者主義のリスクに対する強力な対抗手段です。今回のような総会は、わたしたちの意図にかかわらず、聖職者主義にさらされることが避けられません。聖職者主義はとりわけ、召命に関する、エリート主義で排他的なビジョンから生まれ、受けとった奉仕職を、提供すべき無償で寛容な奉仕としてではなく、行使すべき権力として解釈します。これによってわたしたちは、すべての答えをもち、聞くことも学ぶことも必要のない、つまり聞いている振りをしていればいい集団に属していると信じるようになるのです。聖職者主義は逸脱であり、教会の多くの悪の根源です。わたしたちはこのことに対し、謙遜にゆるしを願い、なによりも、それを繰り返さないための条件をつくり出さねばなりません。
 他方、わたしたちは、「自己充足」というウィルスを治療しなければならず、多くの若者が到達する「性急な結論」というウィルスを治さなければなりません。エジプトのことわざはこう言います。「もし家に老人が誰もいなければ、1人買い求めなさい。彼が必要になるから」。世代を通して手渡されたあらゆるものを避け、拒否するということは、悲しいかな、わたしたちの人間性を脅かす、方向感覚の喪失というリスクを招くだけです。すべての世代の人の心に侵入する幻滅をもたらします。歴史を通じて人間の経験を積み重ねることは、ある世代が前の世代から受け継ぐ、もっとも貴重で信頼のおける宝です。決して神の啓示を忘れることはありません。それは歴史とわたしたちの存在を教え導き、意味を与えます。
 兄弟姉妹の皆さん、本シノドスがわたしたちの心を目覚めさせてくれますように。現代は、争い、問題、重荷でうちひしがれているかのようであり、教会にもまたこれは当てはまります。しかしわたしたちの信仰は、いまはまた主がわたしたちを愛し、いのちの充満を告げるためにわたしたちに会いに来る「カイロス(=時)」でもあると告げています。未来とは、恐れるべき脅威ではなく、主がわたしたちに、主との、兄弟姉妹との、そして被造界全体との一致を経験できるようになることを約束するときです。わたしたちは、「希望の理由」を再発見し、何よりも、希望に飢えている若者たちに受け渡さなければなりません。第2バチカン公会議が確認しているように、「人類の未来は、生きる理由、希望する理由を明日の世代に提供できる人々の手中にある、と考えて間違いないであろう」(『現代世界憲章』31項)。
 世代間の出会いは、希望を生み出すために極めて実り多いものとなりえます。預言者ヨエルはこのことをわたしたちに教え——わたしはシノドス事前会議で若者たちに思い起こさせました——、そしてそれは「現代の預言」だとわたしは考えています。「老人は夢を見、若者は幻を見」(3・1)、そして預言するのです。
 現代世界が、偽りの希望をもたず、廃墟と災難ばかりを見るのではなく、神の国に向かって歩むのを助けることがわたしたちの義務であるということを証明するのに、洗練された神学的議論は必要ありません。実際、十分な客観性や賢明な判断力なしに現実を考察する人について語るとき、聖ヨハネ23世教皇は次のように語りました。「この人々は、人類社会の現状を見ては破壊と災難しか見ることができず、過ぎ去った世紀と比べて現代はただただ悪い方に向かってしまったと繰り返し言い続けます。そして……歴史は生活の師であるといわれるにもかかわらず、歴史からはなにも学ぶべきものはないかのようにふるまうのであります」(「第2バチカン公会議開会演説」1962年10月11日)。
 したがって、「破滅の預言者」によって惑わされないでください。「失敗の点数をつけ、批判に固執する」ことに、エネルギーを費やさないでください。「しばしば音も立てず、ブログの話題にも、1面のニュースにもならない」善いことに目を凝らしてください。そして、「罪によって、しばしば教会の子らによって、いつも苦しめられているキリストの肉の傷を前にして」恐れないでください(「司教省と東方教会省主催の講座参加司教へのあいさつ」2018年9月13日、参照)。
 したがって、「未来とともに時を過ごす」よう力を尽くしましょう。このシノドスから単に文書を出すだけでなく——一般にそれはごくわずかの人によって読まれ、多くの人に批判される——、なによりも、このシノドスの目的を果たすことのできる、具体的な司牧上の提案を出しましょう。言い換えるなら、夢を植え付け、預言と幻を描き、希望を花開かせ、信頼を生み、傷をいやし、ともに関係性を編み、希望の夜明けを目覚めさせ、互いに学び合い、頭脳明晰で機知に富むことを作り出すことは、精神を照らし、心を温め、手に力を与え、若者たちの中に——すべての若者であり、誰も排除しません——福音の喜びに満ちた未来のビジョンをひらめかせます。どうもありがとうございます。

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