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全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の4回目。「関西編」として、大阪、京都両府内の史跡を紹介する。今回は、教区から提出された教区内巡礼地一覧も参考にしつつ、その他独自に各種資料を参照して訪問先を選定した。
京都の史跡
京都市内(7月24〜25日)
今回の旅、後半は京都市内を巡った。京都は、2008年11月に列福された188人のうち、都の大殉教として52人が殉教を遂げた地である。茨木での取材を終えたその日の夕刻に京都に入り、翌日朝から各史跡を訪ねた。
キリシタン遺物の資料館であるフランシスコの家のホルスティンク・ルカ神父と9時40分頃という約束をしていたので、まずはその方面に向かう。
京都は日本最大の観光都市、旅のガイドブックは無数に出されている。また詳細な市街地図がホテルのロビーで簡単に手に入るだろう。それらを上手に活用すれば、細い通りにまで名がつけられ整然とした京都の街で、一つ一つの史跡を巡ることはさして難しくはない。もっとも、これから紹介するキリシタンゆかりの場所が、どれも有名で種々のガイドブックで紹介されているというわけではない。しかし、既成の地図にそれら目的地をあらかじめ自分で書き込んでおけば十分事足りる。
それと、杉野栄さんという牧師が『京のキリシタン史跡を巡る――風は都から』という本を2007年に出版されており、これが史跡訪問のガイドブックとして大変役に立つ。わたしも今回、大いに活用させていただいた。この書籍を利用することもお勧めしたい(三学出版、本体1200円)。
フランシスコの家は堀川通を北に向かい、四条通に交わる手前で西に一本入ったところにある。約束の時間まで多少間があったので、先に南蛮寺跡を訪れることにした。
南蛮寺跡は、堀川通をさらに北に進み、蛸薬師通を東に入った先、烏丸通にぶつかる手前である。ビルの荷物搬出入口の手前に「此付近 南蛮寺跡」と刻された小さな標石と説明の板が立っている。

南蛮寺跡
フランシスコ・ザビエルは鹿児島に上陸したが、彼の内に目的地としてあったのは、当然京の都であった。苦労の末、彼が入洛したのは天文20(1551)年2月のことであったが、当時の京はその期待を裏切るありさまであった。応仁の乱以降続いた戦乱の結果、都は荒廃しきっていたのである。在洛わずか11日でザビエルは京の都を後にし、山口へ向かうことになる。
1560年代に入ってから、京での布教は本格化してくる。1561年にガスパル・ヴィレラが「下京に一軒の家屋と地所を購入し」「小聖堂のようなものが設けられ、ミサ聖祭が行われていた」と『日本史』にはある。
1570年代になると、ようやく都の平安が保たれるようになってくる。しかしその頃には上記の建物は「はなはだ古くなり、汚れ腐食していた」(『日本史』)ので、新聖堂建設が強く望まれるようになった。
しかし布教は思うように成果を収めてはおらず、都の信徒はさして増えてはいなかった。したがって経済的な援助を他に仰ぐ必要があったのであるが、そこで尽力したのが高山親子である。高山飛彈守は高槻から上洛し、「柱とか、その他、特別の良材(を使用せねばならない)多くの部分に要する材木の調達を引き受けた」(同)。この頃、信長による安土城築城の計画が進んでおり、木材の価格は高騰していた。それゆえ、これは都の宣教師にとって願ってもない支援であったろう。天正3(1575)年に建築工事は開始され、翌年の8月15日聖母の被昇天の祭日には「教会はまだ完成してはいなかったが、……オルガンティーノ師が、そこで初ミサを捧げた」(同)のである。聖堂は被昇天の聖母にささげられた。
しかしこの聖堂、その後の秀吉の迫害により、わずか11年ほどで破壊されてしまうことになる。
現在このあたりを見回したところで、往時を偲ぶよすがは当然何も見あたらないのであるが、想像の助けとなる物品が2点、今に伝えられている。
■『都の南蛮寺図』は神戸市立博物館のサイトで見ることができます。下記の通り順にクリックしてください。
- 神戸市立博物館のページ⇒
- 画面上部タブで
「名品撰」⇒
- 画面中央
「南蛮美術」⇒
- 「都の南蛮寺図」
1つは神戸市立博物館が所蔵する前章にて紹介した池長コレクションの中の1点、狩野宗秀(元秀)の筆による『都の南蛮寺図』である。三層の天守閣風の建物と、庭にたたずむ数名のパーデレが描かれている。教会前の店では南蛮風の帽子も売られている。都に初めて建てられた聖堂がいかに壮麗なものであったかを、また、それは西洋風ではなく純和風の建物であったことも、この絵が教えてくれる。
もう1点は、右京区花園妙心寺町にある妙心寺の塔頭春光院が伝える鐘である。これについては後述する。

二十六聖人発祥の地の銘板
(京都四条病院)

妙満寺跡

フランシスコの家
フランシスコの家付近の史跡をここで紹介しておくと、堀川通を挟んだ向かい、京都四条病院の急患入り口の壁には、駐日スペイン大使館と京都教区によって「二十六聖人発祥の地」と刻まれた銘板が掲げられている。またフランシスコの家と同じ通りのやや南には「妙満寺跡 二十六聖人発祥之地」との標石が立っている。
日本26聖人の一人であるフランシスコ会の宣教師ペトロ・バプティスタは、まだキリスト教に対して好意的であった頃の秀吉からこの地を与えられ、聖堂とハンセン病患者のための病院を建てた。
その後、有名なサン・フェリペ号事件が起こり秀吉の態度は一変する。宣教師およびその追随者を捕らえて処刑するようにとの命が下され、1596年12月31日、この地の家は捕吏に取り囲まれ、フランシスコ会士たちは投獄されてしまう。そして、ここ京都から、長崎西坂へと至る殉教者の旅は始まるのだ。
つまりフランシスコの家は、26聖人ゆかりの地であり、また日本におけるフランシスコ会の宣開始地でもある土地に建っているのである。
資料館の中は広いスペースではないが、さまざまな遺物と手作りのキリシタン関連年表などが整然と陳列されている。
まずは、奥の修道院に通していただき、ルカ師から話をうかがった。
実はここを訪れる以前、わたしの中には、フランシスコ会がこのような施設を開いているということに対する、何かしら違和感のようなものがあった。確かに、秀吉の怒りが当初はフランシスコ会宣教師に向けられたものであったゆえ、26聖人はフランシスコ会士(6名)およびその教会の関係信徒が中心である。したがって、そのゆかりの地に同会が資料館を設けるのはもっともなことなのである。しかし、このように書いて誤解されると困るのだが、フランシスコ会は、もっと社会に対する実践的な修道会であるというような漠としたイメージを持っていたため、資料館の運営などということと同会とが結びつかないでいたのだ。
だが、ルカ師が語ることばは、わたしの内の違和感を氷解させてくれた。ゆかりの地なので私設資料館を開いてみました、そんな単純なことではないのである。
今年(2009年)でちょうど来日50年を迎えるというルカ師だが、実に多忙な日々を過ごされている。
20数年前、この地の旧家を購入しフランシスコの家を開いた際には、資料館開設などという発想はなかった。祈りの家として巡礼者を受け入れ、また、日本で働くフィリピン人女性を支援するなどの社会活動を行っていた。
姫路の淳心会から種々の遺物の寄贈を受けたことから、資料館開設の動きが始まり、ガレージであった場所を改造、それらを陳列していた。
1993年にはフランシスコ会の来日が、1997年には26聖人の殉教がそれぞれ400年を迎えたことなどの影響で、この地を訪れる人が増え、恒常的な資料館として整備する必要が生じたのだが、その実現には地元の人たちの情熱が大いに寄与した。現在フランシスコの家には、ルカ師一人しか在住する会員がいない。そのうえルカ師は、京都における司牧のほかに、大阪での福祉施設の仕事やホームレスの人々への援助などにも多くの時間を割いている。困難のうちにある隣人に手を差し伸べることこそ、フランシスコ会士として何よりも優先しなければならない。さらに、この家の2階にプロテスタントのアメリカ人留学生を受け入れるなどのエキュメニカルな活動も行い、諸宗教と連携した平和運動への協力、参加もある。したがって資料館の運営は、ボランティアの協力なしには成立しない。
つまり、地元の人々の熱意が支えるキリシタン資料館としての側面と、アシジのフランシスコの霊性に従い社会とつながっていく側面とがあってのフランシスコの家なのである。
この資料館には公立学校の生徒が教師に引率されてよく訪れるのだそうだ。人権教育の一環でのことらしい。それを聞けば、資料館の運営自体も社会とのつながりという面において重要な役割を担っている、それもいえるのではないだろうか。
和室の聖堂にも案内していただいた。間の襖を取り払い、2部屋をつなげているのでそれなりの広さがある。さらにもう1部屋をつなげ、100名ほどを収容しての講演会を開くこともあるそうだ。床の間には「愛」という字を崩して墨書された磔刑キリスト像の掛軸が掛かっている。

フランシスコの家中庭
(左下がくぼみのある庭石)
資料館のほうへと戻る際に、中庭を見せていただいた。マリア像が置かれ、キリシタン燈籠(織部燈籠)が据えられているが、その脇に、中央にくぼみのある庭石がある。くぼみには水が溜まっている。ルカ師はこの石を見たときに、これは、ペトロ(岩)バプティスタ(洗礼)を表していると思い、もう一軒候補があったのだが、この家の購入を決めたのだという。
資料館では、河原町教会の信徒である写真家の島崎賢児さんから、貴重な話を色々とうかがった。
島崎さんは、ペトロ岐部と187殉教者列福調査の際に、京都の大殉教の「殉教者の誉れ」に関する証言をした証人の1人である。また鴨川端の「元和キリシタン殉教の地」碑建立時には教会関係者代表として立ち会っている。さらに、前述した『京のキリシタン史跡を巡る』収録写真の撮影者でもある。
殉教地碑は8年をかけて京都市と交渉を続けた結果、1994年に建立された。地元住民からの反対があり、困難も多かったのだそうだ。この頃は、列福などはるか先のことと島崎さんも他の関係者も考えていた。なので、2008年の列福式には特別の感慨があったという。
種々の条件が考慮され、建立の際にセレモニーが行われるようなことはなかった。夕刻に当時の教区長である田中健一司教が一人で訪れ祝別したのだそうだ。この碑の前では宗教行事を行わない旨、京都市との間で約束が取り交わされている。
また碑の下には、52名の名前を記した薔薇の花の付いたリボン、テクラ橋本殉教図(中山正美・画)の絵葉書、結城了悟師の著作『京都の大殉教』、『日本誌』の著者であるエンゲルベルト・ケンペルの地図、碑の建立のために寄付をした人たちの名簿、これらが壺に納められ埋められている。このことを知る人は少ないのでぜひとも紹介してほしい、そう島崎さんはいわれた。
事務所での話を終えてから、展示品の1点1点を島崎さんが丁寧に説明してくれたのだが、最後にいわゆる「キリシタン魔鏡」を見せていただいた。光を当て反射させると十字架が映し出されるという不思議な鏡である。見た目は、鏡面裏側に鶴亀の図が施された平凡な鏡だが、部屋の明かりを落とし、島崎さんがライトを当てると、前方の白いスクリーンに鮮やかに十字架が浮かび上がった。ぼんやりとではなく、かなりくっきりと見える。実物を見るのは初めてだったので、これも貴重な体験であった。
フランシスコの家を後にし、次は河原町教会に向かった。小聖堂にある都の聖母像を見るためである。しかし、教会では葬儀が行われていて、受付にはだれもいない。センター内の事務所にも行ってみたが、施錠されている。外から教会の番号に電話を掛けてみてもだれも出ない。
しかたがないので、後でもう一度訪れることにして、バスに乗り京都大学に向かった。
敷地内にある京都大学総合博物館には11基のキリシタン墓碑が展示されている。蒲鉾型のものが5基、板碑型のものが6基である。どれも保存状態がよく、十字架はもちろんのこと、年号や名前の文字もくっきりと見て取れる。茨木で見たような野外で保存されているものでは、これほど鮮明に文字を読み取ることはできないので、一見の価値はある。
博物館の外で再度河原町教会に電話を入れた。すると今度はつながったので、教会に向かう。受付で用件を伝え、大聖堂横のヴィリオン・ホールにある小聖堂へと案内してもらった。
祭壇の後ろに、黒く光るブロンズの小さな聖母子像がある。膝の上に幼子を抱いた聖母の柔和な表情が美しい。

都の聖母像
この像には次のような由来がある(この記録については、ヴィリオン神父の伝記作者ごと細部に異同がある。以下については、ヴィリオン・ホール入り口に掲げられた解説を参照させていただいた)。
フランス東部ジュラ県ディーニャ村サン・クロード司教区所属のレオン・ロバンという神父が日本の殉教者の記録を読み感銘を受け、日本人の改宗のための祈祷会を起こした。1864(元治元)年、ロバン師はザビエルが来日時に携えていたと伝えられる聖母画像をモデルに6体のブロンズ聖母像をローマで鋳造させ、ピオ九世教皇から祝別を受けた。1866(慶応2)年、そのうちの1体が横浜のジラール師のもとに届き、それには「京都に一日も早く宣教師が入れる日の来るように、市街を見おろす丘の一つに埋めて下さい」という手紙が添えられていた。その後、1873(明治6)年にヴィグルー師によって、像は将軍塚に埋められた。1879(明治12)年9月28日、フランス語教授の名目で京都に赴任したヴィリオン師は、話に聞いていた将軍塚に登って聖母像を掘り出し、高倉二条の借家に設けた仮聖堂に安置した。
禁教の末期、1868(明治元)年に来日し、浦上キリシタン流罪の悲劇を目の当たりにしたヴィリオン師は、『切支丹鮮血遺書』の著者としても知られ、殉教者の顕彰に尽力した。京都においては、1890年に献堂された旧・河原町教会建設の基礎を築いた。その聖堂に聖母像は安置されることになるのである。なお、現在の都の聖母小聖堂は2004年に完成している。
華美ではない落ち着いた小聖堂の中にあって、都の聖母像は柔らかな輝きを放っている。聖母のすらりとした指先が、膝から転げ落ちることのないよう我が子をしっかりと抱える様子に、日本の教会の発展のために力を尽くしたヴィリオン師の生涯と、150年以上も前のフランスの地で日本のためにささげられた多くの人々の祈りとを思った。

元和キリシタン殉教の地碑
次に殉教地碑へと向かう。碑は、京阪七条駅を降り鴨川沿いの川端通を北へ、正面通と交差する先の歩道脇にひっそりと建っている。車で走っていればまず見過ごしてしまうであろう小さな碑である。先に紹介した島崎さんの話によれば、ドライバーの目に入ると危険なので、街路樹より低いものをという要望が京都市からあったのだそうだ。
京都の大殉教については列福式前後に関連書籍が多く出ているので、ここで詳細に書くことはしないが、52人が十字架に付けられ、この鴨川べりで火焙りとなった。元和5(1619)年10月6日のことである。その中には、2歳、3歳、4歳などのごく幼い子どもが何人も含まれている。さらに、殉教者の一人テクラ橋本は身重であった。
河原に下り、遊歩道に立ってしばらく川面を眺めた。水量は豊かだが流れは緩やかだ。のぞき込むと小魚が泳いでいるのが見える。何種類もの水鳥が盛んに餌をついばんでいる。静かな景色だ。ここで年端もいかない子どもを何人も巻き込んだ惨劇を想像するのは難しい。それほどにおだやかな時間が今は流れている。だからこそ、ここにこの碑が建っている、そのことに大きな意味があるのだろう。
烏丸通まで出て地下鉄に乗り、西陣方面に向かった。今出川駅で下車、落ち着いた外観の西陣教会を眺めた後、堀川通に出て、一条戻橋を訪れた。この付近で26聖人の中の24名が耳をそがれ、その後京都市内を引き回されたのである(この時点では捕らえられたのは24人で、長崎へと向かう道中で2人が加わり26人となる)。フロイスによると、秀吉の命は両耳と鼻を切れというものであったが、下京の奉行であった石田三成は「ただ左耳の一部を切るに止めるように指示した」(『日本二十六聖人殉教記』結城了悟訳)。フロイスはさらに、ヴィクトル野田源助がその切りとられた耳を拾い、形見としてオルガンティーノ師のもとへと持っていったことを記録している(同前参照)。
ここから堀川通を北に進み、元誓願寺通を東に入ると、中央図書という会社の敷地内に「此付近慶長天主堂跡」と刻まれた標石が立っていて、金網越しに見ることができる。解説板には、慶長9(1604)年頃、この付近に天主堂があったとある。前述のとおり、秀吉の迫害により南蛮寺は破壊されたが、その後徳川の世になり、イエズス会によってこの地に聖堂が再建されたのである。ここでは多くの受洗者が生まれ、教会は再び活気を呈したのであるが、慶長17(1612)年、徳川幕府は禁教令を発し再度迫害が始まる。そしてこの聖堂も焼き払われてしまうのである。南蛮寺同様、短い期間のものであった。宣教師と信徒たちは、まさに治世者に翻弄された。都のキリシタンに与えられた恵まれた時間は、ごくわずかだったのである。
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春光院

南蛮寺の鐘(春光院蔵)

側面に見られる1577の文字

同じくイエズス会紋章
翌日、朝から降ったり止んだりの微妙な空模様である。
京都駅前からバスに乗り、右京区の臨済宗妙心寺の塔頭である春光院へと向かった。南蛮寺の鐘を見せていただくためである。通常は拝観を受け付けてはいないが、あらかじめ取材の申し込みをし、了承をいただいた。
玄関で案内を乞うと、いきなり金髪の若い白人女性が現れたので驚いた。後で知ったのだが、外国人を対象にして座禅体験を受け付けているのだそうだ。このときも旅行者であろう外国人を相手に、若い僧侶が英語で寺の説明をしていた。
川上史朗住職(後で名刺をいただいた際に「芸名みたいな名前でしょ」と笑っておっしゃっていた)は、早速鐘の前に案内してくれた。
障子が閉められやや暗い廊下の一隅に、鐘は釣られている。高さは60cmほどで、側面に太陽の文様の中のIHSの文字と、1577という西暦を見て取ることができる。他の教会の鐘ではないという絶対的な根拠はないであろうが、この1577とイエズス会紋章によって、都の南蛮寺の鐘であるとほぼ間違いなくいえるのであろう。
この鐘が春光院の所蔵となった経緯であるが、嘉永7(1854)年に仁和寺から、朝鮮伝来の鐘として譲り受けたのだそうだ。当時キリスト教の教会の鐘であるなどとは当然いえなかったからだが、住職は、春光院の側でもキリスト教のものであるとは分かっていたはずとおっしゃった。
鐘は春光院において長きにわたり大切に所蔵されてきた。戦中に金属の供出が求められた際には、これを地中に埋めて隠し、寺にとって大切な仏具である三具足(香炉・燭台・花立の一組のこと)を代わりに供出したのだそうだ。それも、この鐘は他宗教であるキリスト教のものであるからこそ、大砲の弾にするわけにはいかないという気持ちゆえであったのだという。
現代においては文化財を維持、管理していくことには経済的な負担が大きい。もともとは僧侶になるつもりはなく、修行に入る前、大学で経営を学んだという住職が語ることばは、具体的で説得力があった。しかし、宗教家として、このような財産を大切にするという気持ちを周囲に育てていくことは必要なのだとも強く主張なさった。
春光院では現在でもこの鐘を半鐘として使用している。しかしあくまでも西洋式のベルであるため、木槌で外側を叩くのではなく、内側を叩いて鳴らしている。住職が実際に叩いてくださったが、澄んだ高音が高らかに響いた。
「さざれ石の庭」と称される前庭にも案内してもらったのだが、廊下を歩きつつ住職は「ここにはキリスト教の鐘があって、庭にはお伊勢さんを祀ってある」といわれた。伊勢神宮をかたどり、内宮の森、外宮の社として、庭中には拝石が据えられた神道式の枯山水なのである。もともと春光院は、秀吉の家来であった堀尾吉晴が戦死した長子を弔うために建立した寺である。三代後に堀尾家は嫡子がなく断絶、息女が嫁いでいたことから、石川家が檀越となった。この石川家が伊勢神宮崇拝者であったため、このような庭が作られたのだそうだ。住職によれば、神仏混淆であった当時にいわゆる「伊勢講」にあやかった面もあるのではないかということだが、伊勢を祀る寺というのは他にはないそうだ。
この図らずも3つの宗教が同居している空間が、今の日本人の宗教観にぴったりだと住職は笑った。初詣に行き、結婚式は教会で、葬式となれば寺にという日本人の宗教意識である。それを批判的には語らない住職のことばが印象的だった。
さらに、住職の話の中で強く印象に残ったことがある。日本の仏教界も現代では布教における困難を抱えている。家庭というものの形態が大きく変化し、信仰の伝達や教育があまりなされなくなっているため、個人個人にいかに教えを伝えていくかがどの宗教でも課題となっているわけだが、そういった中で住職は「まずぼく自身のファンになってもらう。そうやって掴んでいくしかない」といわれた。はっとすることばだった。それぞれの人にとって「この人だ」と思う人から伝えられる、そのことの大切さは、カトリック教会の中でももっと重要視されてもよいのではないだろうか。
一時は声が聞こえにくくなるほど激しく雨が降り出したのだが、庭を前にして聞かせていただいた住職の話は、すべてが興味深く、充実した楽しい時間を過ごさせていただいた。
最後に今年(2009年)の初めから開催されている「妙心寺展」について記しておく。「妙心寺展」は東京と京都ではすでに会期を終えているが、名古屋では2009年10月10日から11月23日に名古屋市博物館にて、福岡では2010年1月1日から2月28日まで九州国立博物館にて開催され、春光院の南蛮寺の鐘も出品される。本『情報ハンドブック』発行時には名古屋での開催はあと数日ということになるが、九州のかたにとっては現物を見る貴重なチャンスになると思う。ただし、春光院に鐘がない状態をあまり長期にしないために、名古屋では会期の後半、福岡では前半にのみ展示されるとのことなので、あらかじめ展示の有無を確認してほしい。
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やや雨が小降りになってきたので、キリシタン墓碑があるという椿寺まで歩き出した。妙心寺の北門を出て東へ北野白梅町まで歩くだけなので、さほどの距離ではない。しかし数分後、傘も役立たないほどの猛烈な降りとなってしまった。服もズボンもずぶ濡れになって、しかたなくバスに乗り込んだ。
多少尻切れトンボのような感じで、今回の取材を終えることになった。しかし、前半の大阪、後半の京都ともに、歴史を刻んだ土地が持つ力と、語り伝えるという意志をもって放たれることばが持つ力、この二つの力に強く心打たれる旅であった。 (奴田原智明)
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