1983年「世界平和の日」教皇メッセージ

1983年「世界平和の日」メッセージ
(1983年1月1日)
「平和のための対話、現代への挑戦」

1983年「世界平和の日」メッセージ
(1983年1月1日)

「平和のための対話、現代への挑戦」

1.1983年の年頭に当たり、第16回目の世界平和の日を迎えて、私は平和のための 対話、現代への挑戦と題して、このメッセージを皆様方に贈ります。私は、一方で、 平和について責任を負うすべての人々、つまり、それぞれの国民の命運を左右する指 導者、国際機関の公務員、政治家、外交官たちにこのメッセージを送ると共に、世界 各国の一般市民の皆様にも同時に呼びかけています。実際すべての人は誰でも否応な く本当の平和への地ならしをし、それを維持し、あるいは真の平和を堅固で正義に叶 う土台の上に据えつけるよう招かれているのです。今や私は、対話-それも本物の対 話-こそこのような平和のための欠くことのできない条件であると、深く確信してい ます。そうです。このような対話が必要なのである。単にあった方が良いだけと言う だけではないのです。対話は難しい。しかし、種々の障害にもかかわらず、それは可 能なことです。もちろん現実を踏まえて行くには、どうしてもこれらの障害を考えて おかねばなりません。ですから、対話は、まぎれもない一つの挑戦であり、私は皆様 がそれを受けて立つようおすすめしています。このようにおすすめする私の意図は、 外ではありません。ただただ、私自身と聖座をあげて平和に寄与したいからに他なり ません。その際、キリストのメッセージの継承者として、はたまた、特に全人類のた めの平和のメッセージであるこのキリストのメッセージに対して真っ先に責任を担っ ている者として、人類の命運を深く心にかけているからであることは申すまでもあり ません。

平和と対話への人々の願い
2.こうすることで、私は男女を問わず、現代の人々の心からの願いを言葉に表わ しているのだと確信いたします。この平和の願いは、あらゆる国の指導者たちが、自 国民向けの挨拶や他国民向けの宣言の中で是認していることではないでしょうか。そ の綱領の中に平和の追求を含めていないような政党があるでしょうか。国際機関につ いて言えば、それらは、平和を増進し、保障するために創設されたのであり、あらゆ る逆流にもかかわらずこの目的を保持しています。世論そのものを見ても、熱狂的な 自尊心や不当な欲求不満に基づいて人為的に煽られない限り、いつも平和的な解決策 を選んでいます。それだけではなく、単にあらゆる戦争を無くするだけではなく、さ らに戦争につながりかねない一切のものを無くさねばならないことを人々に覚らせる 運動が、ますます盛んになっています。しかも、この運動は、わかりやすく誠実なも のとさえなっているのですが、この点に関しては、時に今一歩と言う感じがしないで もありません。概して、一般市民は、平和な雰囲気のあることを望んでいます。この 平和こそ、彼らのしあわせへの努力をしっかりと支えるものであります。そしてこの ことは、とりわけ、彼らが、すべての労働者をおびやかす経済危機-今日のように- 直面している場合に特に言えることであります。  ところで、この願いから生じる論理的な帰結にまで行く必要がありましょうが、幸 いにも、この帰結は大へん広汎であります。つまり、手段を講じない限り、平和は得 られないし、維持もされない、ということであります。そして、最も素晴らしい手段 は、対話の心構えを抱くことです。すなわち、家庭の間、社会の中、国と国との間、 あるいは国家群の間で、平和がおびやかされているとき、あるいはすでに危機に瀕し ているときにはいつでも状況に応じた対話の手続きを辛抱強く取り入れることであり ます。

過去の経験に照らせば対話は大切
3.歴史の経験、それも極く最近の歴史に限ってさえ、対話が平和のために必要な ことが明らかであります。衝突は避けられないように思われたが、当事者が対話の効 力に信頼し、延々と続く、しかし誠実さのある討議を積み重ねてこの対話を実行した 結果、戦争が回避された、あるいは放棄されたというような例を挙げるのは、難しい ことではないでしょう。これに反して、かつて戦争が起った場合を見れば-流布して いる憶測とは逆に第二次大戦後、残念なことに 150回以上の武力衝突を数えることが できる-、対話が実際には行われていなかったか、もしくは曲げられ、落し穴に落ち 込んだか、故意に短縮されてしまったのがもとでありました。丁度幕を下ろしたばか りの1982年にも私たちはまたまた暴力と戦争の光景を見せつけられました。 人々は、他人の心をわかろうと努力するよりも武器に訴える方を選んだことをまざま ざと示したのでした。そうです、1982年は、希望のしるしと共に荒涼と瓦礫の記憶、 涙と死の苦渋を多くの人間家庭に残しながら過ぎ去ってしまおうとしているのです。

平和のための対話は必要です
4.さて、そのいくつかは現に続いている、このような戦争や戦闘状態やあるいは 戦争の後遺症である深刻な挫折などを一体誰が無謀にも軽視しようとするでしょうか 。一体誰が、依然として人類にのしかかっている、これまでのものよりもさらに大規 模で、もっと恐ろしい戦争をおののきもせず敢てもくろもうとするのでしょうか。生 活に必要な平安が乱されること、社会機構の頽廃、戦争が原因となって起る隣人に対 する不信と憎しみの増大などを別としても、人命や苦悩や、さらに、人間らしい生活 と発達のために必要とされるものが踏みにじられることなどによって支払わねばなら ない代償で具体的に象徴される害悪を思うとき、戦争を避けるためにあらゆる手を打 つ必要があるのではないでしょうか。それも全面戦争だけではなく、直接巻き込まれ ていない人々が、言葉巧みに「限定戦争」と呼んでいる戦争をさえ避けるために万策 を講じるべきではないでしょうか。しかも、核兵器を用いない通常戦争さえ非常に残 忍なものとなっている今日、核戦争が引き起さずにはおかない悲劇的な結果を誰知ら ぬ者のない今日、戦争を押し止める必要、もしくはその前兆をそらせる必要は、全く 一刻も猶予ならないことであります。こうして私たちは、対話に頼る必要、その政治 の場での効力に頼る必要が一層重要であることを悟るのです。対話こそ、武力に訴え ることを回避させるに違いありません。

平和のための対話は可能です
5.しかし、現実主義者を自負している若干の人々は、今日、対話の可能性とその 効果に疑いを抱いています。少なくとも、情勢が非常に切迫し、和解できない有り様 だから、どんな合意にも達する余地はないと彼らが思っているこの時点では不可能だ としています。どれ程多くの否定的な経験、どれほど多くの繰り返される失敗が、こ の幻滅を感じさせる見解を裏付けているようにみえることでしょうか。それでも依然 として、平和のための対話は可能であります。それは夢想郷ではありません。さらに 言えば、対話が可能とは思えなくなってしまったときでさえ、また武器をとって対峙 するところまでに行ってしまったときですら、対話が必要であったのであり、また、 征服者の力を誇示しただけで、紛争の的であった諸々の権利に関しては何も解決した ことにはならなかった戦争の荒廃のあとで、結局、対話を求めることが必要となった のではないでしょうか。実を言えば、私がここで述べている確信は、上に述べたよう な災難に根拠を置いているのではなく、現実の世界に根ざしているのです。すなわち 、人間のペルソナの深淵な本性についての考察に土台を置いているのです。キリスト の信仰を共に分かち合う人々は、上記の事実をもっと容易に納得されるでしょう。た とえ、人間の生来の弱さと人類の始めから人の心を欺いている罪とについての信念を 同時にあわせ持っているとしても、対話に頼ることができるのです。  さて、人間ペルソナは誰でも、信者であろうとなかろうと、一方では自分の兄弟の 心をかたくなにするかも知れないということについていつも慎重で、明敏さを保ちな がらも、同時に人間自身に対して、その理性的でありうる能力に対して、その善、正 義、公正についての正しい感覚に対して、決して全面的に横ぞれてしまうことのない 兄弟愛と希望について人間がもっている可能性に対して向けられる十分な信頼をこの ペルソナは持ち続けることができますし、また持ち続けねばなりませんが、そうする のは、対話に頼ろうと努力するためであり、また場合によっては対話を再開すること ができるためであります。そうです。人間というものは、最終的には分裂を克服し、 利害の衝突を超克する能力を持っているのです。そしてこれは、たとえ対立が根本的 なものだと思われる-特に当事者が各々正義を擁護しているのは自分だと確信してい る-ときでさえ言えることであります。ただし、人々が対話の精神的な力を信じ、紛 糾を平和的かつ理性的に解決することを求めて互いに顔と顔を合わせてあいまみえる ことを受け入れる、との条件が伴わねばなりません。さらにもっと必要なのは、実際 の失敗や見かけの上での失敗に落胆したままでいてはならないということであります。 その上、さらにもっと必要なことは、-障害を遠ざけ、これから私が述べようとして いる対話の欠陥を除去しながら-再び休みなく本当の対話を提案し始めることに同意 しなければならないということであり、また平和へと導くこの唯一の道を最後まで、 その要求と条件とをすべて受け入れながら、たどることに同意しなければならないと いうことであります。

本物の対話が備えている精神力
6.それゆえ、私はここで本物の対話が備えているべき資質を思い出すのが有益だ と考えます。これらの資質は、先ず個人間の対話に当てはまります。しかし、私はさ らに、ある国家の内の社会集団間の対話、政治勢力間の対話、国際社会内の国家間の 対話などについても特に考えをめぐらせています。これらの資質は、また互いに相手 から区別され、かつ人権、文化、イデオロギーあるいは宗教などの水準で互いに相手 に直面している広大な人間集団の間の対話にも適用されます。それゆえ、戦争問題の 研究者たちは、紛争の根源が大部分この点にあることを認めるのです。同時にまた、 今日の大問題である東西両陣営の対立、南北の対立とも密接に関連していることも認 めています。  対話は、どんな民族にあっても、その倫理思考を形成する中心的かつ本質的な一要 素であります。言葉を用いることで可能となる人間同志の交易や交流と言った観点か らすれば、対話は実に人類共通の探求活動であります。  基本的には、対話は、個人にとって、個々の集団にとって、また個々の社会にとっ て、真実であるもの、善であるもの、正義にかなうものの探求を前提としています。 そしてこの探求は、自分がその一員である集団の中で、あるいは自ら対立する集団と して立ち現われる集団の中で行なわれます。  それゆえ、先ず何よりも開いた心と大きな抱擁力が必要です。すなわち、当事者は 、おのおのの自分の考えを説明しなければなりませんが、それと同時に、相手の当事 者が、自分に固有の真剣な困難、彼の権利、気がついている不正、示唆している妥当 な解決策などを指摘しながら状況を述べ、それを真面目に感じ取っている場合、この ような状況の説明にも耳を傾けねばなりません。一方の当事者が、他方の当事者の生 存のための条件を考慮しようとする気持すら無いならどうして平和は、堅固なものと なれるでしょうか。  こうして、対話に入るということは、おのおのの当事者が、相手の当事者の相違と 特殊な性質とを受け入れ合うことを前提としています。さらに前提とされるのは、お のおのの当事者が、自分を相手から離しているものに実際に気がつくことであり、ま た各当事者がこの事実を、この事実に由来する緊張状態の危険ともども甘んじて受け ることであります。しかし、この際、各当事者が、真実であり、また正義であると知 っていることを臆病や強制によって放棄してはなりません。そんなことをすれば、結 果的には定見のないなれあいに堕してしまうだろうからであります。他方では、相手 の当事者を単なる物的客体におとしめてしまおうと企ててはなりません。かえって相 手を知性と自由と責任能力とを備えた主体と見なさねばなりません。  同時に、対話は、緊張関係や対立や紛糾の最中にあってさえも、人々に共通するも の、および常に人々にとって共通であり続けるものを目指す探求であります。この意 味で、対話とは、相手の当事者を隣人となすことであります。それは、相手の貢献を 受け入れること、相手と一緒に真理と正義に対する責任を分かち合うことであります 。対話は、誠実な和解のためのあらゆる可能な様式を示唆し、また検討することであ ります。同時に、一方では自分が属する集団の利益と名誉を正しく擁護すること、他 方では相手の集団の言い分を同程度に正しく理解し、尊重することの二者を結び合わ せ、さらにこれに、両当事者に共通する普遍的善に基づく諸々の要求事項を結合する 能力を備えていることであります。  なおその上、地球上の全人類が、経済、政治、文化の各水準で相互に依存し合う状 況に置かれているのを自覚するに至ったことは、ますます明白となった事実ではない でしょうか。このような連帯関係から自分勝手に離れようと企てる人は誰でも、直ち にその不幸な結果を自分で味わうこととなるでしょう。  最後に、本当の対話は、善であるものを平和的な手段を用いて探求することであり ます。対話は、交渉、調停、取り引きなどあらゆる可能な手続きに頼ることを決意し 、人々を一致させる要因が、結局は分裂と憎悪の要因に勝利を博するような仕方で行 為することを根気強く決意することであります。それは人間というものの奪うことの できない尊厳を是認することであります。対話は、人間生命の尊重に基礎を置いてい ます。それは、人間の社会的本性に対する賭けであり、創造主が人類のために定めた もうた目的に向かって、精神と意志と心を結集しながら継続して一緒に前進して行く という人間の召命に対する賭けなのであります。そして、この目的によって、世界は 、すべての人にとっての住み家となり、またすべての人に価値あるものとなるのであ ります。  このような対話の政治的な力が平和のための実を結ばないということはあり得ませ ん。尊敬する私の前任者パウロ6世教皇は、その最初の回勅『エクレジアム・スアム 』の大きな部分を対話の問題にあてておられます。次のように書かれました。「公平 、客観的、かつ率直な対話に心を開くことは、それ自体、自由で誠実な平和支持を宣 言することである。それは、言い抜け、張合い、ごまかし、裏切りなどを排除するも のである。」(AAS 56,1964,654頁)この対話という徳は、現代の政治指導者たちが 、はっきりした見通しを持ち、誠実で勇気のある人間となることを求めています。そ れもただ他国の国民に対してだけではなく、自国民の世論に対してもそのようになる ことを求めているのです。この対話の徳が開花するには、しばしば本物の回心が必要 であります。それはつらいことですが、戦争の脅威に直面しては、これ以外に可能な 道はあり得ません。そしてもう一度申し上げますが、それは幻想ではないのです。現 代人で、この徳を実践して誉れを得た人々を引証するのは容易なことでありましょう 。

対話の障害、間違った形の対話
7.別の観点からすれば、平和のための対話を妨げる障害を非であると断定、指摘 することもまた有益だと私は思います。  私は、互いに対立しあっている具体的な利害を仲裁するときしばしばみられる困難 のように、政治的な対話に元来つきまとっている困難について話しているのではあり ません。厳密に言えば相手の側に不正のあることを指摘できないで、二通りの不安定 な生存条件を強調するという困難もしばしば見られます。私が今考えているのは、正 常の対話の過程を損ないあるいは妨げるものは何か、ということであります。すでに わかっていただけたと思いますが、対話は、前もって一切何も譲らないと決定するこ とによって、耳を傾けるのを拒むことによって、-自分自身が、そして自分自身だけ が-正義の尺度だと言い張ることによって、袋小路に入ってしまいます。このような 態度の裏にありがちなのは、簡単に言って、ある国民の見ることも聞く余裕もない利 己心か、あるいはもっとしばしばみられるのは、このような国民の指導者たちの権力 への意志であります。さらに起りがちなことですが、このような態度は、国家の主権 と公安に関する誇張された、しかも時代遅れの考え方と一緒に現われます。このよう な場合、国家は、いわば一切の疑問をはねつける礼拝の対象と化す危険にさらされま す。非常に怪しげな事業をさえ正当化する危険を冒します。宣伝のために自由に使え る強力な手段を総動員して、このような国家崇拝-これは、正しく理解された、自分 の国に対する愛国心による愛着と混同されてはなりません-は、心ある市民の批判精 神や道徳感を圧し殺し、彼らを戦争へ赴くように鼓舞することがあるのです。さらに 追加の理由として挙げておかねばならないのは、戦術的な、熟慮の上でなされるうそ であります。これは、言語の濫用であり、宣伝に関する最も手のこんだ技術に訴える ことであり、対話を惑わし、ゆがめ、そして人を侵略へとそそのかすのであります。  最後に、ある当事者が、イデオロギーで繰られているとき、対話は、膠着状態に陥 り、不毛なものとなります。このようなイデオロギーは、その主張とは裏腹に、人間 ペルソナの尊厳に矛盾し、理性の健全な原則や自然法、神法の原則に叶った人間ペル ソナの願望に敵対するのである(『パーチェム・イン・テリス』AAS 55,1963,300頁 参照)。このようなイデオロギーは、闘争をもって歴史の原動力と見なしています。 力を光明の源泉だと考えます。敵を識別することをもって政治の初歩とするのです。 このような場合、仮に対話がまだ残っているとしても、それは上べだけの偽りの事態 にすぎません。それゆえ、対話は、不可能とまでは言えないとしても、非常に至難な ものとなるのです。その結果、国と国、陣営と陣営の間のほとんど全面的な交流の欠 落が生じます。国際的な諸制度すら麻痺します。こうして対話の挫折は、軍拡競争を 助長する危険を冒すのです。  しかしながら、個人がこのようなイデオロギーを支持している限り、行き詰まりと 見なしてよい点に関してさえ、わかりやすい対話をしようと努力するのは、やはり必 要だと思われます。それは、情勢を打開し、個々の具体的な局地に実行可能な平和を 打ち建てることを目指して働くためであります。このような努力は、良識を信頼し、 あらゆる人を襲う危険の可能性を考慮し、そして人々自身が強く抱いている正しい願 望を斟酌しながら、なされねばなりません。

国家の水準での対話
8.平和のための対話は、社会紛争を解決するため、共通善を追求するため、まず 第一に国家の水準で確率せねばなりません。様々な集団の利害を念頭に置きながら、 平和への共通の努力を絶え間なく続けねばなりません。この際、すべての人にとって 民主的に平等である自由と義務とを行使しながら、社会参加の機構を活用し、労使間 の和解のための多くの手段を用い、かつ、一国を構成している種々の文化的、人種的 、宗教的集団を尊重し、結合するような仕方で努力せねばなりません。不幸にも、政 府と国民との間の対話が欠如している場合は、社会平和もおびやかされているか、不 在であります。それは戦争状態に似ています。しかし、歴史や現代観察されているこ とから明らかなのは、多くの国では、本当に効果的な対話という手段を取り入れるこ とによって、自国内に生じる紛争を解決するため、あるいは紛争を未然に防止するた めにさえ、真剣に一緒に努力し合うという方法を確立するのに成功したか、もしくは 成功の途上にある、ということであります。これらの国々ではまた、自ら法律を制定 していますが、この法律は、つねに進化、前進しています。また適切な司法権が、共 通善に一致してこの法律が遵守されるよう配慮しているのであります。

国際的水準での平和のための対話
9.対話が、国家の水準で豊かな成果を上げることを立証しているなら、国際的な 水準でも同じような成果を上げる筈で、そうであってはならないといういわれはない でしょう。もちろん、問題はもっと複雑で、当の当事者数や利害ももっと数多く、多 様であります。しかし、最善の手段は相変らず誠実で忍耐深い対話であることに違い はありません。国家間の対話が欠けているところでは、あらゆる努力を傾けてこれを 回復しなければなりません。それが十分でないときには、対話を完全なものとしなけ ればなりません。紛争を解決するため武力に訴え、対話をのけものにするようなこと は決してあってはなりません。この点で、大きな責任があるのは、熱情を抑えるのが むつかしい対立中の当事者だけではありません。彼らを助けて対話を回復させること のできない大国、彼らを戦争に駆り立てているか、あるいは武器を売って彼らを誘っ ている大国の責任もあり、むしろその方がもっと大きいのです。  国家間の対話は、国民の善は最終的には他国民の善に逆らって成就することはでき ない、という強い確信に基づかねばなりません。つまりすべての国はどれでも同一の 権利があり、その市民のために価値ある生活を要求する同一の権利を持っているので す。過去の遺産として受け継いだ人為的な分裂や陣営間の敵対関係を克服する点で前 進するのも極めて大切なことであります。国家間の相互依存がますます増大している という事実をもっとよく是認することも必要であります。

国際的対話の対象
10.国際的対話の対象を正確に言い表わそうとすれば、次のように言えるでしょう 。それは、人間の諸権利、民族間の正義、経済、軍縮、および国際上の共通善と著し いかかわりを持たねばならない、と。  そうです。このような対話は、各個人と集団としての人間とに向けられねばなりま せん。この場合、他の動物から区別された人間の本性、必要な自由の雰囲気を伴う人 間の独創的な性格、そして特に人間の基本的人権の行使などとの関連で、各個人と集 団をとらえる必要があります。この主題については、国際的な司法体系に期待を寄せ ることができますが、このような体系は、権利を侵害されている人々の訴えに一層の 理解力を示すのであります。また、司法権に期待することもできますが、この司法権 は、その権威に従わせることのできる効果的な手段を備えているのです。  あらゆる形態での不正義が、暴力と戦争の第一の源泉であるなら、申し上げるまで もなく、一般的な仕方で、平和のための対話と他国による挫折と抑圧とを味わってい る国民のためにする正義のための対話とを引き離すことは許されません。  平和のための対話には、経済生活を左右する法則に関する討議も必ず含まれていま す。なぜなら、少数の富者が、食物、教育、健康、生命などに対する最も基本的な権 利を国民大衆が満たそうとするのを貪欲と物的財物の追求とのため、力づくで妨げて いるような社会にあっては、暴力と戦争への誘惑が、常に目の前にちらついているか らです。(「ガウディム・エト・スペス」69参照)。このことは、あらゆる国家の水 準で言えることですが、さらに国家間の関係についても真であります。特に相互依存 の関係が優勢であり続ける場合にはそうです。このような場合にこそ、就中、国際組 織の枠内で、多岐的な相互関係に心を開くことが、対話への好機となるのです。もち ろん、このような対話は、不平等にわずらわされることが少なく、従って一層正義に とって有利なものであります。  明らかに、国際的対話の対象は、あの危険な軍拡競争にもかかわるものでなければ なりません。しかも、その場合、私が去る6月に国連に送ったメッセージの中で示唆 したように、軍備を段階的に縮小するような仕方で、また教皇庁科学アカデミーの識 者たちが、私に代わって核兵器保有国の指導者らに宛てたメッセージに沿って、この 問題にかかわって行かねばなりません。国民に仕える代わりに、今や経済は軍拡に利 用されようとしています。発展や福祉は、公安に従属させられています。科学と技術 とは、戦争の補助者の地位に下落させられています。聖座は、決して倦むことなく、 前向きの交渉を通して軍拡競争に双方の側から終止符を打つ必要を強調し続けます。 聖座は、この非常に重要な分野で、理性に基づく対話のあらゆる措置を、それがどん なに微少なものであっても支援し、勇気づけ続けて行くつもりです。  しかし、平和への対話の対象をただ軍拡競争の断罪にだけ縮小してしまうのは許さ れません。大切なのは、全体的でもっと正義に叶った国際秩序を探求すること、財物 、公益活動、知識、情報などをもっと公平に分かち合うことに関する社会的合意を得 ること、さらに財物など上に挙げたようなものを共通善に向かって秩序づけるよう強 く決意すること、などであります。南北間の対話を含むこのような対話が非常に複雑 なことは私もよく知っています。しかし、第三千年期を迎えるに当って、真の平和の ための条件を整えるために強い決意でこれを追求し続けなければなりません。

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指導者らへの訴え
1.以上の考察に続いて、私がこのメッセージで意図しているのは、特に平和のた めの挑戦を受けて立つよう呼びかけ、訴えることであります。  私は、第一番目にあなた方、国家の政府の首長にこれを訴えます。あなた方の国民 が現実の社会平和を味わえるために、対話と共通の努力のためのすべての条件を受け 入れる能力があなた方に備わることを望みます。これらの対話や努力は、正しくなさ れるなら、悪い意味での妥協をもたらすのではなく、長い目で見るなら、自由と独立 の下で、民族の共通善に資することとなるでしょう。どうぞあなた方には、他国と対 等の立場でこの対話を行うと共に、また紛争中の当事者たちに対しては、彼らを助け て、対話の道、理性の道、そして正義に叶う平和の道を見出させてやることができる ような人物になっていただきたいと思います。  私は、あなた方、外交官にも訴えます。あなた方の高貴な専門職務は、数ある中で も特に、紛争問題を取り扱うこと、武力に訴えるのを避けるために対話と交渉を通し て紛争解決策を探ったり、あるいは、交戦者の立場を代理することなどであります。 それは忍耐と堅忍のいる仕事でありますが、聖座は、この任務を、自ら外交関係にか かわっているという観点から、一層高く評価しています。ちなみに、この外交関係に 際して聖座が求めているのは、意見の相違を克服するために最も適切な手段として対 話を採用させることであります。  特にあなた方、国際組織の指導者とその職員に対する私の信頼を繰り返して表明し たいと思います。そしてあなた方、国際機関の公務員諸子に訴えます。過去10カ年間 、皆様の機関は、余りにもしばしば、このような機関を食い物にしたいと望む国家群 から、下心のある操作のまととされてきました。しかしながら、次の事実が真実であ ることは少しも変りがありません。その事実とは、つまり、相互関係を崩そうとする 暴力や衝突や分裂が、現在無数にありますが、これらはかえって偉大な国際組織にと っては、自らの活動に質的な変更を加えるための好機、さらに、新しい現実を考慮に 入れるため、また効果的な力を発揮するために、いくつかの点で、自らの機構を改善 するための好機とさえなっているという事実であります。地域的なものと世界規模の ものとを問わず、あなた方の機関には、逃してはならない格別な機会があります。そ れは、これら機関の起源、規約、委任などに基づく力によって、本来これら機関に固 有である使命をその全範囲にわたって取りもどすこと、つまり、平和のための対話の ための最良の場かつ道具となることであります。人を麻痺させる悲観主義や落胆に決 して打ちひしがれてしまわないばかりか、さらにこれらの機関には、その上、出会い の中心として名乗りを上げる可能性が開かれています。そして、この中心においては 、政治的、経済的、金銭的かつ文化的交流に関して、今日圧倒的に多い慣習について 非常に大胆な疑問を投げかけることができるのです。  私は、特別な訴えかけをあなた方、マスメディアの分野で働く人々にも呈します。 世界が最近経験した悲惨な出来事によって、紛争が戦争にまで下落してしまわないた めには、明徹な世論が重要であることが確証されました。事実、世論は、好戦的な動 向にブレーキをかけることができますし、あるいは逆に、この同じ動向を支持して盲 目状態にまで陥らせることもあります。ところで、あなた方は、ラジオ、テレビ放送 に責任を負う者として、また新聞に責任を負うものとして、この分野でますます重要 性を帯びる役割を担っておられます。私は、あなた方が、その責任の重さをわきまえ 、また、集団間、国家間および文明と文明の間の理解と対話を促進するために、それ ぞれの当事者の諸権利、課題および心構えなどをできる限り客観的に示されるよう励 まします。  最後に、私は、あらゆる男性と女性、そしてあなた方若者にも語りかけねばなりま せん。あなた方は、あなた方の家庭で、村で、隣り近所で、また政府から独立の組織 を含む、あなた方の市や地方の団体の中で、あなた方なりに対話を行いながら、毎日 、利己心、理解の欠如、不当な攻撃などの障壁を打ち砕く多くの好機に恵まれていま す。平和のための対話は、人間誰でもの任務なのであります。

キリスト者が対話の挑戦を受けて立つ特別な理由
2.さて、ここで、私は特別にあなた方キリスト者に強く勧めます。そして、あな た自身の責任に応じてこの対話に参加すること、キリストへの愛徳が求める開かれた 心、率直さ、正義などの資質を備えながらこれらの責任を果し続けること、信仰によ って可能となる堅忍と希望をもって、不断に責任を繰り返し引き受けること、などを 求めます。あなた方はまた、回心と祈りとが必要なことも知っています。それは、丁 度カインがその兄弟アベルとの対話を拒んだとき(創世記4・6~9参照)、その障 害がカインの心の中にあったように、正義と平和を打ち建てるためのおもな障害は、 人間の心の中に、つまり罪の中に突きとめねばならない(「ガウディウム・エト・ス ペス」10参照)からであります。イエズスはどのようにして、相手に耳を傾け、分か ち合い、自分にしてほしいように他の人々に対しても振舞い、一緒に道の途中にいる 間に和解し(マタイ5・25参照)、ゆるさねばならないかなどを私たちに教えられま した。そして特に、そのご死去と復活によって、イエズスは、互いをせめぎ合わせて いる罪から私たちを解放し、その平和を私たちに与え、人々を分けへだてている壁を 打ち倒すために来られました。だから教会は、昨年のメッセージで強調しましたよう に、御主が人々にその平和の賜物を恵み給うよう懇願して止まないのです。人々はも はや、あのバベルにおけるのと違って(創世11・7~9参照)、互いに理解できなか ったり、あるいは互いに分裂しあったり、という誓約には縛られていないのです。聖 霊降臨の日に、エルサレムで、聖霊は、言語の相違を乗り越えて、兄弟愛における平 和への王道を見つけることを、御主の最初の弟子たちに得させられました。教会は、 常にこの偉大な希望の証し人としてとどまっているのです。

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 どうか、キリスト者は、逆境にもめげず、クリスマスの聖夜に、神が私たちに託し たもうたあの平和の羊飼いであるとの召命をますますよく自覚するようになってもら いたいものである。  そして、彼らと共にすべての善意の男女が、最も困難な状況のさ中においてさえ、 現代のためのこの挑戦を受けて立つことができるようになって欲しいものであります 。と言うことはつまり、彼らが、戦争を避けるために、また、この目的を目指して、 ますます増大する確信を抱きながら、戦争の脅威を取り除く道に献身することができ るようになって欲しいということである。そして、まさにこの道こそ、平和のための 対話に他ならないのです。

1982年12月8日
  バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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