教皇ベネディクト十六世の7回目の一般謁見演説 詩編111

6月8日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の7回目の一般謁見が行われました。謁見には35,000人の信者が参加しました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3主日の晩の祈りで用いられ […]

6月8日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の7回目の一般謁見が行われました。謁見には35,000人の信者が参加しました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3主日の晩の祈りで用いられる、詩編111(朗読個所は詩編111・1-2、4-5、10)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
教皇ヨハネ・パウロ二世によって始められ、教皇ベネディクト十六世によって引き継がれた、教会の祈りの晩課の詩編と賛歌の解説は、ヨハネ・パウロ二世のときから数えて、これで通算50回目となります。
演説の後、教皇ベネディクト十六世は、一般謁見に参加したウクライナのルボミル・フサール枢機卿と、東方典礼カトリック教会の30名あまりの司教とことばを交わしました。


 

親愛なる兄弟姉妹の皆様

1 今日は強い風が吹いています。聖書の中で、風は聖霊を表す象徴です。わたしたちはたった今、詩編111を聞きました。この詩編を考察しようとするわたしたちを、聖霊が照らしてくださることを希望します。詩編111には、主が与えてくださった多くの恵みについて、主にささげる賛美と感謝の賛歌が収められています。この恵みは、主がどのようなかたであり、また、どのような救いのわざを行われたかを示します。詩編は、主が「恵み深く」、「憐れみに富」むこと、その「正しさ」、「まこと」、「まっすぐなこと」、「力」、「真実」、「契約」、「御わざ」、「驚くべき御わざ」を語ります。さらに、主は「糧」を与えてくださいます。最後に、詩編は、主の栄光ある「御名」、すなわちその存在を語ります。それゆえ、この祈りは、神の神秘と、救いの歴史において神が行った驚くべきわざを観想しているのです。

2 この詩編は感謝のことばから始まります。この感謝は、詩編作者の心から出るだけでなく、会衆全員から発するものです(1節参照)。感謝の典礼を含む、この詩編の祈りのテーマは、「御わざ」ということばで表されます(2、3、6、7節参照)。御わざとは、神が救いのために介入されること、神がその「正義」を現すことです(3節参照)。「正義」とは、聖書の中で、何よりもまず、救いをもたらす愛を示すことばです。
 それゆえ、この詩編の中心部は、契約に対する賛歌に変わります(4-9節参照)。契約は、神とその民を親しく結ぶきずなであり、主の態度と振舞いかたを含んでいます。詩編は、主が「恵み深く憐れみに富」むと述べます(4節参照)。これはシナイ山で荘厳に行われた宣言を踏まえたものです。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、いつくしみとまことに満ちる者」(出エジプト34・6)。
 「恵み深い」は、信じる者を包み、変容させる、神の恵みです。他方、「憐れみに富む」とは、ヘブライ語の原語では、主の「母胎」を表す、特徴的なことばです。主の母胎は、人間の母親の母胎よりも憐れみ深いのです(イザヤ49・15参照)。
 
3 このような愛のきずなは、基本的な糧を与えること、したがっていのちを与えることを含みます(詩編111・5参照)。この糧は、キリスト教にとっては、聖体を表すものと再解釈されます。聖ヒエロニモがはこういっています。「主は糧として、天から降ったパンを与えてくださった。わたしたちがふさわしい者であるなら、食べようではないか」(『詩編注解』110: PL XXVI, 1238-1239)。
 ついで、地上の賜物、すなわち「諸国の嗣業」(詩編111・6)が与えられます。「諸国の嗣業」は、出エジプトの偉大な出来事のことを指すと考えられます。出エジプトの出来事によって、主は、ご自身が解放をもたらす神であることを示しました。それゆえ、この賛歌の中心部分を一言でまとめるのは、主とその民の間で結ばれた特別な契約というテーマです。9節は簡潔にこう述べています。「主は契約をとこしえのものと定められた」。

4 詩編111は、神のみ顔の観想でしめくくられます。神のみ顔とは、すべてのものを超えた、聖なるその「御名」によって示される、神の存在のことです。そこで、詩編作者は、知恵文学のことばを引用しながら(箴言1・7、9・10、15・33参照)、信じる者が「主への畏れ」(詩編111・10)を深めるように招きます。主を畏れることは、知恵の初めだかからです。畏れとは、恐れや恐怖ではなく、心から真摯に神を敬うことです。神を敬う心は、愛の結果として生まれます。それは、わたしたちを解放する神に、真の意味で積極的に従うことにほかなりません。そして、感謝のことばをもって始まったこの賛歌をしめくくるのは、賛美のことばです。救いをもたらす主の恵みの御わざが「永遠に続く」(3節)ように、詩編作者も、絶え間なく感謝をささげます。その祈りは「永遠に続く」(10節)のです。
 要約するなら、この詩編は、主がわたしたちに毎日与えてくださる、すべてのよいものを見いだすように、わたしたちを招いています。わたしたちは、人生の暗い面に目をとめがちです。この詩編は、人生のよい面、すなわち、わたしたちに与えられた多くのたまものにも目をとめるようにと招いています。そうすれば、わたしたちは感謝することができます。感謝の心をもつ者だけが、感謝の典礼(エウカリスチア)をふさわしく行うことができるのです。

5 この考察の終わりに、最初の数世紀の教会の伝統に従って、この詩編の最後の節で述べられた、「主を畏れることは知恵の初め」(詩編111・10)ということばを黙想してみたいと思います。これは、聖書の他の個所(箴言1・7参照)でも述べられる、有名な格言です。
 キリスト教的著述家である、ガザのバルサヌフィオス(6世紀前半に活動)は、このことばを次のように注解しています。「知恵の初めとは、神が憎むとから離れることでなくして、何でしょうか。また、どのようにして、神が憎むことから離れることができるでしょうか。それは、何かをするにはまず人の助言を聞いてからにすること、口にすべきではないことをいわないこと、自分を正気を失った、愚かな、さげすむべき、価値のない者とみなすことです」(『書簡』234:Collana di testi patristici, XCIII, Roma, 1991, pp. 265-266)。
 一方、ヨハネス・カッシアヌス(4-5世紀に活動)は、もっとはっきりと次のように述べています。「知恵と知識に富んだ、完全な愛と、『知恵の初め』と呼ばれる、不完全な愛の間には大きな違いがあります。後者の愛は、自分を罰せられるべき者だと考えて、完徳に達すれば、完全な愛を得ることができると考えることを否定してしまいます」(『霊的談話集』2・11・13:Collana di testi patristici, CLVI, Roma, 2000, p. 29)。それゆえ、わたしたちがキリストに向かって人生の旅路を歩むとき、わたしたちが初めに抱く、奴隷としての畏れは、完全な愛に代えられるのです。この完全な愛とは、聖霊がたまものとして与える愛です。

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