教皇ベネディクト十六世の33回目の一般謁見演説 コロサイ1

1月4日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の33回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第4水曜日の晩の祈りで新約の歌として用いられる、コロサイの信徒への手紙の賛歌(朗読箇所はコロサイ1・3、12、18-20)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見には15,000人の信者が参加しました。パウロ六世ホールでの謁見の後、教皇はサンピエトロ大聖堂で、パウロ六世ホールに入れなかった信者に挨拶しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。

1 今日、新年最初の一般謁見にあたり、コロサイの信徒への手紙に収められている有名なキリスト賛歌について考えてみたいと思います。この賛歌は、このパウロの内容豊かな手紙のいわば荘厳な門だということができます。それはまた、わたしたちがこの一年を始めるための導きともなるものです。
 わたしたちが考察しようとしている賛歌は、感謝を表すさまざまな表現で縁取られています(3、12-14節参照)。こうした感謝の表現の助けによって、わたしたちは、この2006年の最初の数日間と、新しい年の長い道のりをふさわしく過ごすために必要な、霊的な心を整えられます。
 使徒パウロは、わたしたちとともに、「主イエス・キリストの父である神」(3節参照)に賛美をささげます。この神がもたらす救いは、消極的なかたちと積極的なかたちの両方で述べられます。すなわち、御父はまず「わたしたちを闇の力から救い出し」(13節参照)、「あがない、すなわち罪のゆるし」(14節)を得させてくださいました。次いで、この救いは、「光の中にある聖なる者たちの相続分」(12節)であり、また「愛する御子の支配下に移」(13節)されることだと述べられます。
 
2 最後に述べた点をめぐって、このすばらしい、内容豊かな賛歌は展開します。賛歌の中心にあるのはキリストです。このキリストが、創造とあがないの歴史において、第一の者として働いていることを、賛歌はたたえるのです(15-20節参照)。それゆえ、賛歌は二つの部分に分かれます。第一の部分では、キリストがすべての被造物の中で最初に生まれた方であることが示されます。キリストは「すべてのものが造られる前に生まれた方です」(15節参照)。実際、キリストは「見えない神の姿(エイコーン)」です。このことばは、東方教会の文化において「イコン」ということばがもつのと同じ重みをもったことばです。このことばが強調しているのは、御子が神と似ていることだけではありません。それは、姿と、姿が映し出しているものとの密接な関係をも強調しています。
 キリストは、わたしたちに「見えない神」を、目に見えるかたちで、あらためて示します。わたしたちはキリストの内に、その神と共通の本性を通して、神の顔を仰ぎ見ます。この共通の本性が、キリストと神を結びつけているからです。キリストは、その最高の尊厳のゆえに、「すべてのもの」よりも先におられます。それは、キリストが永遠であるためだけではありません。同時にまた、何よりも、キリストが、創造と摂理のわざを行われるからです。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、・・・・万物は御子において造られたからです。・・・・すべてのものは御子によって支えられています」(16-17節参照)。実にすべてのものは「御子のために」(16節)造られたものでもあります。
 そこで聖パウロは、わたしたちにとても重要なことを指摘します。それは、歴史には目的、すなわち目指す方向があるということです。歴史は、人類がキリストの内に一致することを目指しています。それゆえ歴史は、人間の完成、人類愛の完成を目指して歩んでいるのです。
 いいかえると、聖パウロはわたしたちにこう語りかけています。たしかに歴史は進歩します。歴史は進化するといってもよいかもしれません。わたしたちをキリストに近づけてくれるもの、それゆえ、わたしたちを人類の一致へと、真の意味での人類愛へと近づけてくれるものはすべて、進歩ということができます。そこで、この指摘の裏には、歴史を進歩させるために働きなさいという、わたしたちへの命令も含まれています。歴史が進歩することは、わたしたち皆が望んでいることだからです。歴史を進歩させるために、わたしたちは人をキリストへと導かなければなりません。歴史を進歩させるために、わたしたち自身がキリストに似たものに変わっていかなければなりません。このようにして、わたしたちは真の意味での進歩の道を歩むことができるのです。

3 賛歌の第二の部分(コロサイ1・18-20参照)の中心をなしているのは、救いの歴史における救い主キリストの姿です。キリストのわざは、まず、キリストが「そのからだである教会の頭(かしら)」(18節)であることによって示されます。教会は、完全な解放とあがないを実現するための、最高の意味での救いの場です。教会は、からだの頭と肢体、すなわちキリストとキリスト信者を結びつける、生きた交わりです。パウロのまなざしは、歴史が目指す最終目標にまで向けられます。キリストは「死者の中から最初に生まれた方」(18節)です。だからキリストは、わたしたちを死と悪の限界から引き離して、永遠のいのちへの扉を開く方なのです。
 実にこれこそ、キリストご自身のうちにいのちと恵みとして「満ちあふれるもの(プレーローマ)」です。わたしたちはこの満ちあふれるものを受け、伝えられました(19節参照)。この生ける現存の恵みを通じて、キリストの神性にあずかることによって、わたしたちは内的に生まれ変わり、和解させられ、平和が再び打ち立てられました。こうして、あがなわれたすべてのものは一致します。そのとき、いまや神は「すべてにおいてすべてとなられる」(一コリント15・28)のです。キリスト信者として生きるとは、このように、わたしたちが、キリストに似たものとして、内的に造り変えられることです。そこから、和解と平和が実現します。

4 このすばらしいあがないの神秘を、コンスタンティノポリスの聖プロクロス(446年没)のことばを使って仰ぎ見たいと思います。『神の母マリアについての第一講話』の中で、プロクロスは、あがないの神秘を、受肉の結果として、あらためて示しています。
 このコンスタンティノポリスの大司教はいいます。実際、神が人となったのは、わたしたちを救って、闇の力から引き離し、愛する御子の支配下に連れ戻すためでした。まさにコロサイの信徒への手紙の賛歌が述べている通りです。プロクロスはこう述べます。「わたしたちをあがなった方は、たんなる人間ではありません。実に、全人類は罪の奴隷とされたからです。しかし、この方は、人間の本性を欠いた、たんなる神ではありませんでした。この方は、実際にからだをもっておられたからです。もし、わたしの肉をまとわなければ、この方がわたしを救うこともなかったでしょう。この方は、おとめの胎で形づくられて、罪に定められた衣をまといました。この方は、ご自分の霊を与え、肉をとられるという、驚くべきあがないを行われたのです」(『神の母マリアについての第一講話』8:Testi mariani del primo millenio, I, Roma, 1988, p. 561)。
 こうしてわたしたちは、神のあがないのわざを目の当たりにします。このあがないのわざは、神がまさに人間でもあったことによってもたらされました。この神は、神の子であり、救い主であると同時に、わたしたちの兄弟でもあります。このようなわたしたちとの親しさを通じて、神はわたしたちに神のたまものを注がれました。
 まことに、神はわたしたちとともにおられる方です。アーメン。

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