教皇ベネディクト十六世の70回目の一般謁見演説 タルソスのパウロ

10月25日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の70回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」につい […]

10月25日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の70回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の24回目として、「タルソスのパウロ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
教皇は、前回(69回目)の一般謁見で十二使徒についての講話を終えましたが、今回の一般謁見から十二使徒以外の初代教会の重要な人物について連続して考察することを明らかにしました。
演説に先立って、ローマの信徒への手紙1章1-5節が朗読されました。謁見には25,000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 わたしたちはイエスが地上での生涯の間に直接招いた十二使徒についての考察を終えました。今日わたしたちは、これ以外の初代教会の重要な人物の考察を始めます。この人びとも、主と福音と教会のために自分のいのちをささげました。ルカが使徒言行録で述べているように、彼らは「わたしたちの主イエス・キリストの名のために身をささげている人たちです」(使徒言行録15・26)。
 彼らは主ご自身によって、すなわち復活した主によって、やはり真の意味での使徒として召し出されました。これらの人びとの筆頭がタルソスのパウロであることは間違いありません。パウロは、教会の歴史の中の最初の偉大な星として輝いています。それは、その出身の偉大さによるだけではありません。
 聖ヨハネ・クリゾストモは、パウロを多くの天使や大天使さえも超える人物としてたたえています(『使徒聖パウロをたたえる講話』:De laudibus sancti Pauli apostoli homiliae 7, 3参照)。ダンテ・アリギエリは『神曲』の中で、使徒言行録(使徒言行録9・15参照)のルカの記事から霊感を受けながら、パウロをただ「選びの器」(『神曲 地獄篇』第2歌28行〔寿岳文章訳、集英社、1987年、19頁〕)と述べています。「選びの器」とは、神に選ばれた道具という意味です。他の人はパウロを「十三番目の使徒」と呼びます。実際にパウロは自分が真の意味での使徒であると主張しました。パウロは復活した主に召し出された者であり、「唯一のかたに次ぐ第一の者」でさえあるからです。
 たしかに、パウロはその出身においてイエスに次ぐ人物です。彼の出身についてわたしたちは多くのことを知っています。実際、わたしたちは使徒言行録におけるルカの記述だけでなく、パウロがその手で直接書いた一連の手紙を手にしています。この手紙はパウロの人となりと思想を直接わたしたちに示しています。ルカはパウロの元の名がサウロであったことを伝えています(使徒言行録7・58、8・1など参照)。サウロはヘブライ語のサウルです(使徒言行録13・21参照)。パウロはディアスポラ(離散)のユダヤ人でした。タルソスはアナトリアとシリアの間に位置するからです。
 パウロは若い頃にエルサレムに行き、ラビ・ガマリエルのもとでモーセの律法を深く学びました(使徒言行録22・3参照)。パウロはまた、テント造りの手仕事も習得しました(使徒言行録18・3参照)。後にパウロはこの手仕事のおかげで、教会に負担をかけずに自分で生計を立てることができました(使徒言行録20・34、一コリント4・12、二コリント12・13-14参照)。
 パウロに決定的に重要な影響を与えたのは、イエスの弟子であることを告白する人びとの共同体を知ったことでした。この人びとを通じて、パウロは新しい信仰、新しい「道」と呼ばれるものを知りました。この新しい「道」が中心としたのは、神の律法ではなく、イエスという人でした。イエスは十字架につけられて復活し、罪のゆるしを与えます。
 パウロは熱心なユダヤ教徒として、このメッセージは受け入れがたいものであるばかりか、つまずきであると考えました。そこで彼は、エルサレム以外の場所でも、キリストに従う人びとを迫害しなければならないと感じました。パウロのことばによれば、30年代の初め、まさにダマスコへと向かう途中で、サウロは「キリストに捕らえられ」(フィリピ3・12)ました。ルカはこの出来事を詳しく語りますが――復活した主の光がサウロを照らし、その生き方を根本的に変えました――、パウロは手紙の中でその本質を取り上げます。彼は主を見ただけでなく(一コリント9・1参照)、主の光に照らされたと述べます(二コリント4・6参照)。そして何よりも、自分が復活した主との出会いによって啓示を示され、召し出されたことを語ります(ガラテヤ1・15-16参照)。
 実際、パウロははっきりと、自分を「召されて使徒となった」(ローマ1・1、一コリント1・1参照)者あるいは「神の御心によって使徒とされた」(二コリント1・1、エフェソ1・1、コロサイ1・1)者といいます。それは、自分の回心が、思考や考察の発展の結果ではなく、神のわざ、思いがけず与えられる神の恵みがもたらしたものであることを強調するためです。そこから、パウロのことばによれば、かつてパウロにとって価値のあったものは皆、逆説的にも、損失、塵あくたとなりました(フィリピ3・7-10参照)。そしてそのときから、パウロは自分の力をすべてイエス・キリストとその福音に仕えることだけに注ぎました。今やパウロの生き方は、無条件に「すべての人に対してすべてのものになる」(一コリント9・22)ことを望む使徒の生き方となりました。
 ここから、わたしたちにとってとても大事な教えが導き出されます。すなわち、重要なのは、わたしたちの生活の中でイエス・キリストを中心に置くことです。それは、わたしたちの存在が、キリストとそのことばとの出会いと交わりによって基本的に特徴づけられるためです。キリストの光の中で、他のすべての価値あるものは、場合によって無価値なものから回復され、浄められます。
 パウロが与えるもう一つの根本的な教えは、パウロの使徒職の特徴である、普遍的な観点です。パウロは、異邦人、すなわち異教徒を神に近づけるという課題を強く意識しました。神は、十字架につけられて復活したイエス・キリストによって、一人の例外もなしにすべての人に救いを与えるからです。そこでパウロは、この福音、すなわち文字通り「よい知らせ」を知らせるために献身しました。すなわち、人を、神、自分自身、また他の人と和解させるために与えられる恵みを告げ知らせたのです。パウロは最初から、この恵みがユダヤ人や特定の人の集団に対してだけ与えられるのでないこと、むしろそれが全世界とすべての人に与えられることを知っていました。神はすべての人の神だからです。
 パウロの旅の出発点は、シリアのアンティオキアの教会でした。このアンティオキアで、福音は初めてギリシア語を話す人びとに告げ知らされ、また、「キリスト者」(すなわちキリストを信じる者)という名称もここで初めて用いられました(使徒言行録11・20、26参照)。パウロはアンティオキアから出発してまずキプロスに向かいました。次いで、何度か小アジアのいくつかの地域(ピシディア、リカオニア、ガラテヤ)に行き、後にヨーロッパの諸地域(マケドニア、ギリシア)に行きました。パウロが行ったことで有名なのは、エフェソ、フィリピ、テサロニケ、コリントです。ベレア、アテネ、ミレトスも忘れてはなりません。
 パウロの使徒としての活動には数々の困難がありました。パウロは、キリストへの愛のゆえに、それらの困難に勇気をもって立ち向かいました。パウロ自身が次のように思い起こしています。「苦労したこと・・・・投獄されたこと・・・・鞭打たれたこと・・・・死ぬような目に遭ったことも度々でした。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。・・・・しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さにこごえ、裸でいたこともありました。このほかにまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」(二コリント11・23-28)。
 ローマの信徒への手紙のことば(ローマ15・24、28参照)から、パウロが西洋の果てのイスパニア(スペイン)に行くつもりであったことがうかがえます。それは、当時知られていた地上の辺境に至るまで、すべてのところに福音を告げ知らせるためでした。このような人をどうしてたたえずにいられるでしょうか。これほど偉大な使徒を与えてくださったことを、どうして主に感謝せずにいられるでしょうか。もしパウロが、それを前にすればいかなる限界も乗り越えられるような、絶対的な価値を動機としてもっていなかったなら、あれほど困難で、しばしば絶望的な状況に立ち向かうことができなかったことは明らかです。パウロにとって、この動機がイエス・キリストであったことを、わたしたちは知っています。彼が次のように述べている通りです。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。・・・・その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために」、すなわちわたしたちのために、すべての人のために「死んで復活して下さったかたのために生きることなのです」(二コリント5・14-15)。 
 実際、使徒パウロは、皇帝ネロの時代に、ローマで、血による最高のあかしを行いました。わたしたちはローマでパウロの亡骸を保存し、崇敬しています。1世紀末、わたしの使徒座の先任者であるローマのクレメンスは次のように述べています。「嫉妬と諍(いさか)いのため、パウロは忍耐の賞に至る道を示した。・・・・彼は全世界に義を示し、西の果てにまで達して為政者たちの前であかしを立てた。かくしてから世を去り、聖なる場所へと迎え上げられたのだ――忍耐ということの最大の範例となって」(『クレメンスの手紙――ローマのキリスト者へ(一)』5〔小河陽訳、『使徒教父文書』講談社、1974年、60頁〕)。
 主の助けによって、使徒がその手紙に残した勧めを、わたしたちが生きることができますように。「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(一コリント11・1)。

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