教皇ベネディクト十六世の83回目の一般謁見演説 プリスキラとアキラ

2007年2月7日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の83回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、定期訪問でバチカンを訪れている司教団に伴われ […]

2007年2月7日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の83回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、定期訪問でバチカンを訪れている司教団に伴われた、北西イタリアのロンバルディア州の諸教区の2500人以上の信者との謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで、2006年3月15日から開始した「使徒の経験から見た、キリストと教会の関係の神秘」についての連続講話の31回目として、「プリスキラとアキラ」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
演説に先立って、「使徒言行録」18章1-4節が朗読されました。パウロ六世ホールでの謁見には7000人の信者が参加しました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
 わたしたちは、数週間前から始まった、キリスト教信仰の最初の証人たちのいわば「展覧会」へと新たな歩みを進めています。今日わたしたちは一組の夫婦を考察します。わたしたちが取り上げるのはプリスキラとアキラです。二人は使徒パウロを取り巻く数多くの協力者の集団に属します。この二人についてはすでに先週の水曜日に簡単に触れました。わたしたちがもっている情報に基づけば、この結婚した夫婦は、主の復活後の教会の初期の時代にきわめて積極的な役割を果たしました。
 アキラとプリスキラという名前はラテン語です。しかしこのような名前をもつ二人はユダヤ人の生まれでした。ところで、少なくともアキラは、地域的にはアナトリア州北部のディアスポラ(離散)の出身でした。黒海に臨むアナトリア州は、現在のトルコです。これに対してプリスキラ(ときどき縮小されてプリスカと呼ばれます)はおそらくローマ生まれのユダヤ人です(使徒言行録18・2参照)。
 いずれにせよ彼らはローマからコリントに来ました。そこでパウロは50年代の初めに彼らと出会いました。コリントでパウロは二人と一緒に働きます。なぜなら、ルカの記述によれば、二人もパウロと同じ職業のテント造り、すなわち家庭用のテント職人だったからです。さらにパウロは二人の家に迎え入れられます(使徒言行録18・3参照)。
 二人がコリントに来たのは、クラウディウス帝がローマに住むユダヤ人をローマから追放する決定を行ったためです。ローマの歴史家スエトニウスが述べるところによれば、クラウディウス帝がユダヤ人を追放したのは、「ユダヤ人は、クレストゥスの煽動により、・・・・騒動を起していた」(スエトニウス『皇帝列伝』クラウディウス25参照〔『ローマ皇帝伝』下、国原吉之助訳、岩波書店、1986年、110頁〕)ためでした。
 スエトニウスはこの名前をよく知らなかったこと(スエトニウスはキリストでなく「クレストゥス」と書いています)、また、そこで起こったことについてきわめて混乱した考えしかもっていなかったことがわかります。いずれにせよ、ユダヤ人の共同体の中では、イエスがキリストであるかどうかという問題をめぐって意見の相違がありました。この問題が、皇帝がローマの全ユダヤ人を単純に追放した理由だったのです。
 ここからわたしたちはこう考えることができます。二人の夫婦はすでに40年代にローマでキリスト教信仰を受け入れていました。そして彼らは、パウロがイエスがキリストであるというこの信仰を共有するのを見いだしました。それだけでなく彼らは、パウロが復活した主ご自身によって召し出された使徒でもあることを見いだしました。だから、彼らはコリントで初めて出会うやいなや、パウロを自分たちの家に迎え入れ、一緒にテント造りをしたのです。
 その後、二人は小アジアのエフェソに移ります。二人はエフェソで、アレクサンドリア出身のユダヤ人アポロの教育を完成するために、決定的な役割を果たしました。アポロについては先週お話ししました。アポロがキリスト教信仰の一部しか知らなかったので、「プリスキラとアキラは彼を招いて、もっと正確に神の道を説明した」(使徒言行録18・26)。
 使徒パウロはエフェソからコリントの信徒への手紙一を書いた際、自分のあいさつとともに、「アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人びととともに」(一コリント16・19)あいさつを送るとはっきりと述べています。
 こうして、この夫婦が初代教会の中でたいへん重要な役割を果たしたことがわかります。二人は地域のキリスト信者のグループを自分たちの家に招き入れ、そこでともに神のことばを聞き、感謝の祭儀を行いました。
 このような集いこそ、ギリシア語で「エクレーシア(教会)」(ラテン語でも「エクレシア」、イタリア語で「キエサ」)と呼ばれるもののことです。「エクレーシア」とは、集まり、集会を意味します。それゆえアキラとプリスキラの家で教会が集まりました。教会とは、キリストに呼び集められ、聖なる神秘を記念する場です。
 こうしてわたしたちは、信者の家で現実の教会が生まれたことを知ることができます。実際、キリスト信者は3世紀頃まで自分たち固有の礼拝の場をもっていませんでした。最初の頃、キリスト信者はユダヤ教の会堂(シナゴーグ)に集まりました。それは旧約と新約の最初の共存が解消し、異邦人の教会が自分たちの独自性をもつことを強いられるまで続きました。しかしこの独自性は常に旧約に深く根ざすものです。
 それから、この「分裂」の後、彼らはキリスト信者の家に集まりました。こうしてキリスト信者の家が「教会」となりました。それからついに3世紀になって、キリスト教の礼拝のための真の意味での固有の建物が生まれました。
 しかし、この1世紀前半と2世紀において、キリスト信者の家が真の意味で固有の「教会」となりました。すでに述べたように、彼らはともに聖書を読み、感謝の祭儀を行いました。こうしたことが、たとえばコリントや――このコリントで、パウロは「わたしとこちらの教会全体が世話になっている家の主人ガイオ」(ローマ16・23)に言及します――、ラオディキアや――ラオディキアでは、教会はニンファという人の家に集まっていました(コロサイ4・15参照)――、コロサイで行われていたことでした――コロサイではアルキポという人の家で集会が行われました(フィレモン2参照)――。
 それからアキラとプリスキラはローマに戻り、このローマ帝国の首都でも貴重な役割を果たし続けました。実際、パウロはローマの信徒に宛てて、はっきりと次のあいさつを送っています。「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。いのちがけでわたしのいのちを守ってくれたこの人たちに、わたしだけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人びとにもよろしく伝えてください」(ローマ16・3-5)。
 このことばにはなんと特別な称賛が込められていることでしょうか。しかもそれはほかならぬ使徒パウロが述べたものです。パウロははっきりと二人を自分の使徒職の真に重要な協力者として認めていました。
 パウロのために二人がいのちを危険にさらしたというのは、おそらくエフェソでパウロが投獄されたときに、二人がパウロのために執り成したことに関していわれたものと思われます(使徒言行録19・23、一コリント15・32、二コリント1・8-9参照)。
 そして、パウロが自分の感謝に異邦人のすべての教会の感謝を結びつけたことは、この表現が誇張と思われるにしても、二人の行動範囲と福音のための影響力がどれほど大きかったかを窺わせてくれます。
 後の聖人に関する伝承は、プリスキラに特別に重要な位置づけを与えています。ただしプリスキラを殉教者であるもう一人のプリスキラと同一人とすることには問題が残ります。いずれにせよ、ローマのアヴェンティノにはサンタ・プリスカに献堂された教会があり、ヴィア・サラリアにはプリスキラのカタコンベがあります。
 こうして一人の女性が永遠に記念されます。彼女がローマのキリスト教史において積極的で重要な意味をもつ人物であることは間違いないからです。確かなことが一つあります。それは、パウロが語る、最初の教会の感謝に、わたしたちの感謝も加えなければならないということです。プリスキラとアキラのような、信徒、家族、夫婦の信仰と使徒的献身のおかげで、キリスト教がわたしたちの時代にまで伝わったからです。
 キリスト教が成長することができたのは、使徒たちがキリスト教を宣べ伝えたからだけではありません。キリスト教が人びとの大地に根ざし、生きたしかたで発展するためには、こうした家族、夫婦、キリスト教共同体、信徒の献身が必要でした。彼らは信仰が成長するための「土壌」となったからです。
 そして、教会の成長は、常にただこのようなしかたでのみ行われます。とりわけこの二人は、キリスト信者の夫婦の働きがどれほど大事であるかを示しています。キリスト者の夫婦は、信仰と堅固な霊性に支えられるなら、自然に教会のため、また教会の中で勇気ある献身を行うようになります。
 キリスト信者の夫婦は、日々の共同生活を延長し、ある意味で昇華することによって、キリストの神秘的なからだのための公的な責任を引き受けます。たとえそのわずかな部分であってもです。最初の時代の人びとはそのように行いました。これからの時代にあってもそれはしばしば同じように行われることでしょう。
 二人の模範から引き出すことのできるもう一つの教訓を忘れてはなりません。それは、すべての家が小さな教会に変わることができるということです。それは、家の中で、隣人愛と互いの配慮という、本来のキリスト教的愛が中心とならなければならないということだけではありません。さらに、信仰に基づく家庭生活全体が、唯一の主であるイエス・キリストを中心として回るよう招かれているということです。
 エフェソの信徒への手紙の中で、使徒パウロが、夫婦の関係を花婿であるキリストと花嫁である教会の交わりにたとえたのは、偶然ではありません(エフェソ5・25-33参照)。さらにわたしたちは、使徒パウロが間接的なしかたで、教会生活全体を家庭生活に基づいて整えようとしたということさえできます。実際、教会は神の家族なのです。
 ですからわたしたちは、アキラとプリスキラを、キリスト教共同体全体への奉仕のために責任をもって献身した、結婚生活の模範としてたたえます。そしてわたしたちは彼らの内に教会の模範を見いだします。教会はいつの時代にも神の家族だからです。

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