教皇ベネディクト十六世の132回目の一般謁見演説 聖なる過越の三日間の意味

3月19日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の132回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、大学生との謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六 […]

3月19日(水)午前10時30分から、サンピエトロ大聖堂とパウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の132回目の一般謁見が行われました。教皇はまずサンピエトロ大聖堂で、大学生との謁見を行いました。その後、教皇はパウロ六世ホールに移動し、そこで、「聖なる過越の三日間の意味」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
謁見の終わりに、教皇はイタリア語で、最近のチベット情勢に関して次の呼びかけを行いました。
「わたしは大きな不安とともにこの数日間、チベットからもたらされる知らせを聞いています。わたしの父としての心は多くの人々の苦しみに対して悲しみと痛みを覚えます。この聖週間の間、イエスの受難と死を追体験することによって、わたしたちはこの人々の状況にとくに敏感になることができます。
  暴力は問題を解決せず、かえって悪化させるだけです。皆様にわたしとともに祈ってくださるようお願いします。光の源である全能の神に願い求めようではありませんか。どうか全能の神がすべての人の精神を照らし、一人ひとりに対話と寛容の道を選ぶための勇気を与えてくださいますように」。
中国チベット自治区では3月10日以降、デモが発生し、詳細は依然不明ですが、警察との衝突により多くの死傷者が出ています。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  聖なる過越の三日間の前晩となりました。明日からの三日間は一般に「聖なる三日間」と呼ばれます。なぜなら、この三日間によって、わたしたちはわたしたちのあがないの中心的な出来事を追体験できるからです。実際、この三日間はわたしたちをキリスト教信仰の核心へと導きます。すなわち、イエス・キリストの受難と死と復活です。この三日間は一つの日だと考えることができます。それは典礼暦年と教会生活全体の中心と要をなすものだからです。四旬節の歩みの終わりに、わたしたちもイエスご自身がエルサレムで体験した雰囲気に入ります。わたしたちは、主がわたしたちのために受けた苦しみを生き生きと心のうちに思い起こしたいと望みます。そして、喜びをもって次の主日を祝う準備をしたいと望みます。この主日は、アンブロジオ典礼の復活祭の叙唱が述べるとおり、「キリストの血が栄光に覆われたまことの過越、教会がすべての祭の起源である祭を祝う過越です」。
  明日の「聖木曜日」、教会は最後の晩餐を記念します。主は最後の晩餐の中で、受難と死の前の晩、聖体と役務としての司祭職の秘跡を制定しました。同じ夜、イエスはわたしたちに新しいおきて(mandatum novum)を与えました。すなわち、兄弟愛のおきてです。聖なる過越の三日間に入る前に、しかしこの三日間と密接に結ばれたしかたで、明日の午前、すべての教区共同体で「聖香油のミサ」が行われます。このミサの中で司教と教区の司祭団の司祭は、司祭の約束を更新します。秘跡で用いられる聖香油の祝福も行われます。すなわち、洗礼志願者の油、病者の油、聖香油の油です。それはすべての教区共同体の生活にとってもっとも重要な時です。教区共同体は牧者を囲んで、自分たちの一致と、永遠の大祭司であるキリストへの忠実を強めるからです。聖木曜日の晩、「主の晩餐」のミサの中で、わたしたちは最後の晩餐を記念します。キリストは最後の晩餐の中で、わたしたち皆にご自分を救いの糧として、すなわち不死の妙薬として与えました。それが聖体の神秘です。聖体はキリスト教生活の源泉と頂点です。主はこの救いの秘跡によって、主を信じるすべての人に、わたしたちのいのちとご自分のいのちのもっとも深い一致を与え、実現しました。足を洗うというはっきりとしたへりくだりのわざによって、わたしたちは主が使徒たちになさったことを思い起こすよう招かれます。使徒たちの足を洗うことによって、主は具体的なしかたで、何よりも大事なのは愛であることを示しました。この愛は自分を与えるまでに仕える愛です。こうして主は、翌日カルワリオ(されこうべ)で行おうとしていた、ご自分のいのちの最高の奉献を先取りました。すばらしい伝統に従い、信者は聖木曜日の終わりに徹夜の祈りと聖体礼拝を行います。それは、ゲツセマネでのイエスの苦悩をできるだけ深く追体験するためです。
  「聖金曜日」は、イエスの受難と十字架と死を記念する日です。この日、教会の典礼はミサを行いません。しかし、キリスト信者の会衆は集まって、人類にのしかかる悪と罪という深い神秘を黙想します。それは、神のことばに照らされながら、また感動的な典礼の儀式の助けによって、この悪をつぐなった主の苦しみを思い起こすためです。キリストの受難の物語に耳を傾けた後、共同体は教会と世界が必要とするすべてのことのために祈り、十字架を礼拝し、前日の「主の晩餐」のミサで保存しておいた聖体を拝領します。あがない主の受難と死を黙想するためのさらなる招きとして、そして信者が愛とキリストの苦しみにあずかることを表すために、キリスト教の伝統は行列や聖劇などのさまざまな民間信心の形を生み出してきました。それは、キリストのあがないをもたらすいけにえに本当の意味であずかる感覚を、信者の心にいっそう深く刻むためです。これらの民間信心の中で際立っているのが「十字架の道行」です。この信心業は、年月を経るにつれて、さまざまな文化の感性に基づく多くの霊的・芸術的表現によって豊かなものとなりました。多くの国では「カルワリオ」と名づけられた巡礼所が作られました。「カルワリオ」には坂道を登って行きます。こうして信者は、主の受難の苦しみの道を思い起こしながら、主の十字架の丘への登り道にあずかることができます。十字架の丘は、この上ない愛の丘です。
  「聖土曜日」は深い沈黙によって特徴づけられます。教会には何の飾りもなく、特別な典礼も行われません。信者は復活という偉大な出来事を待ち望みながら、マリアとともに祈りと黙想のうちに待ち続けます。実際、この沈黙の日は必要です。それは、人間の人生の現実と、悪の力、そして、主の受難と復活から湧き出る偉大ないつくしみの力を黙想するためです。この日、ゆるしの秘跡にあずかることには重大な意味があります。ゆるしの秘跡は、心を清め、新たな心で復活祭を祝う準備をするために不可欠だからです。少なくとも1年に1回、自分自身を新たにするためのこの心の清めを行うことが必要です。沈黙と黙想とゆるしと和解の聖土曜日が「復活徹夜祭」をもたらします。「復活徹夜祭」は、歴史の中でもっとも重要な主日、すなわちキリストの復活の主日を開始します。この夜、教会は祝福した新しい火のそばで、旧約と新約の中で述べられた偉大な約束を黙想します。すなわち、かつての罪と死への隷属状態からの決定的な解放の約束です。夜の闇の中で、新しい火によって復活のろうそくがともされます。復活のろうそくは、栄光のうちに復活したキリストの象徴です。人類の光であるキリストは、心と思いから闇を打ち払い、世に来たすべての人を照らします。復活のろうそくのもと、教会の中で復活の偉大な知らせが響きわたります。キリストはまことに復活し、死はもはやキリストに対して力をもちません。キリストはご自身の死によって悪を永遠に打ち負かし、すべての人に神ご自身のいのちのたまものを与えてくださいました。古代からの伝統に従い、「復活徹夜祭」の中で洗礼志願者は洗礼を受けます。それは、キリスト信者がキリストの死と復活の神秘にあずかることを強調するためです。復活祭の輝かしい夜から、キリストの喜びと光と平和が、すべての共同体の信者の生活へと広がります。すべての場所、すべての時へと及びます。
  親愛なる兄弟姉妹の皆様。この特別な三日間の間、寛大に確信をもって天の父の計画に従うよう、生活をしっかりと方向づけようではありませんか。イエスが十字架のいけにえによって行ったのと同じように、あらためて神のみ旨に対して「はい」といおうではありませんか。聖木曜日と聖金曜日の意味深い典礼、聖土曜日の実り豊かな沈黙と荘厳な復活徹夜祭は、過越の神秘から生まれるキリスト信者の召命の意味と価値を深める機会をわたしたちに与えます。そして、キリストがしたのと同じように、どのようなときにも、自分のいのちを惜しみなくささげるに至るまで、キリストに忠実に従いながら、この召命を具体的に実現させてくれます。
  キリストの神秘を記念するとは、歴史の中の今の時に深く固く結ばれて生きることでもあります。わたしたちは、自分が記念することが、生きた本当の現実であると確信しています。それゆえわたしたちの祈りの中で、世界中のあらゆるところで多くの兄弟を今苦しめている悲惨な出来事と状況を思い起こそうではありませんか。わたしたちは、憎しみと分裂と暴力が歴史の出来事の中で最後に勝利を収めるのでないことを知っています。この聖なる過越の三日間は、わたしたちの心に偉大な希望をあらためて呼び覚まします。十字架につけられたキリストは、復活して、世に打ち勝ちました。愛は憎しみよりも力があります。愛は勝利を収めます。わたしたちはこの愛の勝利にあずからなければなりません。それゆえわたしたちは、キリストから再出発し、キリストとの交わりのうちに、平和と正義と愛に基づく世界を築くために働かなければなりません。これはわたしたち皆が果たさなければならない務めです。ですからマリアに導いていただこうではありませんか。マリアは神である御子とともに受難と十字架の道を歩み、信仰の力によって、救いの計画の実現にあずかりました。このような思いをこめて、これからわたしは皆様と、皆様の愛する人々、そして皆様の共同体に、喜ばしく聖なる復活祭のごあいさつを申し上げます。

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