教皇ベネディクト十六世の168回目の一般謁見演説 パウロの死とその遺産

2月4日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の168回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2008年7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の最終回(20回 […]

2月4日(水)午前10時30分から、パウロ六世ホールで、教皇ベネディクト十六世の168回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、2008年7月2日から開始した聖パウロの人と思想に関する連続講話の最終回(20回目)として、「パウロの死とその遺産」について解説しました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。

講話の後、各国語で行ったあいさつの終わりに、教皇はイタリア語でスリランカ情勢に関する次の呼びかけを行いました。
「スリランカ情勢が懸念を与え続けています。
  紛争が残酷さを増し、罪のない犠牲者の数が増大しているという知らせによって、わたしは紛争当事者に対する切迫した呼びかけを行うよう促されました。どうか人道法と、人々の移動の自由を尊重してください。そして、負傷者の支援と市民の安全を保証するためにできるかぎりのことを行い、緊急に必要な食糧と医薬品を十分に与えてください。
  カトリック信者からも、他の宗教信者からも崇敬されているマドゥーの聖母が、愛するスリランカに平和と和解が実現する日を早めてくださいますように」。


親愛なる兄弟姉妹の皆様。
  聖パウロについての連続講話も最終回となりました。今日わたしはパウロの地上の生涯の終わりについてお話ししたいと思います。古代のキリスト教伝承は一致して、パウロの死はここローマにおける殉教の結果だと証言しています。新約の諸文書はこのことについて述べていません。使徒言行録の記事の終わりは、使徒パウロが囚人の状態にあったことを示します。しかし使徒パウロは自分を訪ねてきたすべての人を歓迎することができました(使徒言行録28・30-31参照)。テモテへの手紙二においてのみ、次の予告のことばが見いだされます。「わたし自身は、すでにいけにえとしてささげられています。世を去る時が近づきました」(二テモテ4・6。フィリピ2・17参照)。ここでは二つのたとえが用いられています。一つはいけにえに関する文化的なたとえです。このたとえは、殉教をキリストのいけにえにあずかることとして解釈するために、フィリピの信徒への手紙ですでに用いられています。もう一つは、もやい綱を解くという航海のたとえです。二つのたとえはともにはっきりと死、それも残酷な死の出来事を暗示しています。
  聖パウロの最期に関する最初の明確な証言は、1世紀の90年代半ばのものです。したがってそれはパウロの実際の死から約30年後です。この証言とは、ローマ教会の司教クレメンス一世がコリントの教会にあてて書いた手紙にほかなりません。この手紙は、使徒たちの模範を思い浮かべなさいと招きます。そして、ペトロの殉教について述べたすぐ後に、次のように述べます。「嫉妬と諍(いさか)いのため、パウロは忍耐の賞に至る道を示した。彼が東方においても西方においても、福音の説教者として登場したとき、七度鎖につながれ、追い払われ、石にて打たれたのだったが、そのため彼はその信仰の栄(はえ)ある誉(ほまれ)を得たのであった。彼は全世界に義を示し、西の果(はて)にまで達して為政者たちの前であかしを立てた。かくしてから世を去り、聖なる場所へと迎え上げられたのだ――忍耐ということの最大の範例となって」(『クレメンスの手紙――コリントのキリスト者へ一』5・2〔小河陽訳、『使徒教父文書』講談社、1998年、86-87頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。手紙で述べられる忍耐は、パウロがキリストの受難、すなわちその寛大さと堅忍にあずかることの表れです。パウロはこの寛大さと堅忍をもって長い苦しみの歩みを受け入れました。それは次のようにいうことができるほどのものでした。「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです」(ガラテヤ6・17)。聖クレメンスのテキストの中ではパウロが「西の果(はて)にまで」達したと書かれています。これが聖パウロが行ったとされるイスパニアへの旅行を指すのかどうかについては議論があります。この点について確かなことはわかりませんが、聖パウロがローマの信徒への手紙の中でイスパニアに行きたいという望みを表明しているのは本当です(ローマ15・24参照)。
  クレメンスの手紙の中でペトロとパウロの名前が続けて書かれているのはきわめて興味深いことです。もっとも、4世紀のカイサリアのエウセビオス(263/265頃-339/340年)の証言の中では、この名前の順が逆になっています。エウセビオスは皇帝ネロ(在位54-68年)について述べるくだりでこう書きます。「彼の時代にローマでパウロが斬首され、ペトロも同様に串刺しの刑にされたといわれる。それは、その地の墓に今日でも残るペトロとパウロの名・・・・によって裏づけられている」(『教会史』:Historia ecclesiastica 2, 25, 5〔秦剛平訳、『教会史1』山本書店、1986年、127頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。その後、エウセビオスは続けて、ガイウスという名のローマの司祭が以前に述べたことばを記します。ガイウスは2世紀初頭の人です。「わたしは使徒らの勝利の記念碑(トロパイア)を示すことができる。もしあなたがバチカンかオスティア街道を行けば、この教会を建てた者たちの勝利の記念碑を見るだろう」(同:ibid. 2, 25, 6-7〔前掲秦剛平訳、127頁。ただし文字遣いを一部改めた〕)。「勝利の記念碑(トロパイア)」とは墓碑銘のことです。そしてこれは、二千年後の今日も、同じ場所でわたしたちが崇敬しているのと同じ、ペトロとパウロの墓のことを述べています。すなわち、聖ペトロについては、ここバチカン大聖堂にある墓、異邦人の使徒パウロについては、オスティア街道沿いのサン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂にある墓です。
  二人の偉大な使徒が一緒に言及されているのは興味深いことだといわなければなりません。古代のいかなる資料も彼らが同時代にローマで奉仕職を務めたことを述べてはいません。しかし、それ以後のキリスト教の考え方は、二人がともにローマ帝国の首都に葬られたことに基づいて、二人をともにローマ教会の創立者としました。そこで、実際に2世紀末頃のリヨンのイレネオ(130/140-200年頃)は、さまざまな教会における使徒継承に関して次のように述べます。「すべての(地域)教会の継承を数えあげることはあまりにも長すぎるので、最大にして最古、またすべての人々に知られ、最もはえある二人の使徒ペトロとパウロによってローマに創立され、設立された教会の(継承のみ)を(数えあげ)・・・・ることにする」(『異端反駁』:Adversus haereses 3, 2, 2〔小林稔訳、『キリスト教教父著作集3/Ⅰ エイレナイオス3 異端反駁Ⅲ』教文館、1999年、9頁〕)。
  ここではペトロについては触れずに、パウロに集中したいと思います。パウロの殉教は2世紀末頃に書かれた『パウロ行伝』(Acta Pauli)の中で初めて語られます。『パウロ行伝』の記述によれば、ネロはパウロを斬首刑に定め、その後すぐに処刑しました(同9・5参照)。パウロが死んだ年代は古代の資料によって異なりますが、64年7月のローマ炎上の後、ネロ自身が扇動したキリスト教徒迫害と、ネロの統治の最後の年すなわち68年の間に置かれます(ヒエロニモ『著名者列伝』:De viris illustribus 5, 8参照)。年代の算出はパウロのローマ到着の年代に大きく依存しますが、ここでこの議論に立ち入ることはできません。後の伝承はそれ以外の二つの要素を明らかにします。一つは、きわめて伝説的なものですが、殉教がラウレンティーナ街道のアクアエ・サルウィアエで起きたというものです。パウロの首は三回転がり、その触れたところからそれぞれ水が湧き出しました。そのため今でもそこは「トレ・フォンターネ(三つの泉)」と呼ばれています(偽マルケルス『ペトロとパウロの殉教(5世紀)』:Passio sanctorum Petri et Pauli)。もう一つは、すでに触れた司祭ガイウスによる古代の証言と一致したものです。それによると、パウロの埋葬は「オスティア街道を2マイル行った・・・・ローマ市城外」というより、正確には、キリスト教を庇護した「ルティナの所有地」で行われました(偽アブディア『パウロの殉教(6世紀)』:Passio Pauli)。この地に、4世紀、皇帝コンスタンティヌス(在位306-337年)は最初の聖堂を建てました。後に聖堂は4世紀から5世紀にかけて皇帝ウァレンティニアヌス二世(ローマ皇帝在位375-392年)とテオドシウス(ローマ皇帝在位379-395年)とアルカディウス(東ローマ皇帝在位383-408年)によって大幅に拡張されました。1800年の火災の後、現在のサン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂が建設されました。
  いずれにせよ、聖パウロの姿はその地上での生涯と死を超えて際立っています。実際、聖パウロは特別な霊的遺産を残しました。イエスのまことの弟子であった聖パウロは、反対を受けるしるしともなりました。当時のユダヤ人キリスト教徒である、いわゆる「エビオン派」の間で、パウロはモーセの律法に背く者とみなされました。しかし、すでに使徒言行録の中には使徒パウロに対する深い崇敬が示されています。ここでは『パウロとテクラの行伝』(Acta Pauli et Theclae)や偽書『哲学者セネカとパウロの往復書簡』(Epistolae Senecae ad Paulum et Pauli ad Senecam)のような外典は扱わないことにします。何よりも次のことを確認するのは重要です。聖パウロの手紙はただちに典礼に取り入れられました。典礼においては、預言者-使徒-福音という構造がことばの典礼の形態を決定したからです。こうして、使徒パウロの思想は、教会の典礼の中に「存在した」おかげで、すぐにあらゆる時代の信者の霊的な糧となりました。
  教父や、後のすべての神学者が聖パウロの手紙とその霊性を自らの糧としたことはいうまでもありません。それゆえ聖パウロは、現代に至るまでのすべての時代において、教師また異邦人の使徒であり続けてきました。現存する教父による新約文書についての最初の注解はアレキサンドリアの偉大な神学者オリゲネス(185頃-254年頃)によるものです。オリゲネスはパウロのローマの信徒への手紙を注解しました(Commentarii in Epistulam ad Romanum)。この注解は残念ながら部分しか現存していません。聖ヨハネ・クリゾストモ(340/350-407年)は、パウロの手紙の注解を著しただけでなく、パウロをたたえる記念すべき7つの説教(De laudibus sancti Pauli apostoli homiliae 1-7)を著しました。聖アウグスチヌス(354-430年)はパウロのおかげで自らの回心の決定的な歩みを進めることができました。またアウグスチヌスは全生涯にわたって、パウロに立ち戻りました。この使徒パウロとの絶えざる対話からアウグスチヌスの偉大な恩恵に関する神学が生まれました。この神学はカトリック神学にとっても、すべての時代のプロテスタント神学にとっても基本的なものであり続けています。聖トマス・アクィナス(1224/1225-1274年)はパウロ書簡に関するすばらしい注解(Lectura super Epistolas sancti Pauli)を残しました。この注解は中世の釈義のきわめて成熟した成果を示しています。16世紀の宗教改革は真の意味での転換となりました。ルター(1483-1546年)の生涯における決定的な瞬間はいわゆる「塔の体験(Turmerlebnis)」(1517年頃)です。この体験の中で、ルターは義認についてのパウロの教理の新しい解釈を瞬時に見いだしました。この解釈は、それまでの生活に関する疑悩と不安からルターを解放し、神のいつくしみへの新しく徹底的な信頼を与えました。神のいつくしみはあらゆることを無条件にゆるすからです。この時からルターは、使徒パウロが非難したユダヤ人キリスト教の律法主義とカトリック教会の生活様式とを同一視するようになりました。ルターにとって教会は律法への隷属の表現のように思われました。この律法と、福音に基づく自由とは対立するからです。トリエント公会議(1545-1563年)は、義認の問題を深く解釈し、カトリックの伝統全体に沿って、律法と福音の真の総合を見いだしました。それは全体的・統一的な読解から読み取られる聖書のメッセージと一致するものでした。
  19世紀は啓蒙主義の優れた遺産を取り入れながら、パウロ思想をあらためて復興しました。この復興はとりわけ聖書の歴史的・批判的解釈の学問的発展のレベルで行われました。20世紀と同じく19世紀においても、聖パウロに対する真の意味での中傷が行われたことは、ここでは扱いません。わたしはとりわけニーチェ(1844-1900年)のことを考えています。ニーチェは聖パウロのへりくだりの神学を嘲笑し、このへりくだりの神学と、自らの力と権力に満ちた人間の神学を対置しました。けれどもそれは置いておき、19世紀の聖書に関する新たな解釈と、新しいパウロ思想の本質的な傾向に目を向けたいと思います。そこでは何よりも自由の概念がパウロ思想の中心として強調されます。自由にこそパウロ思想の核心が見いだされるのです。それはすでにルターが洞察していたとおりです。しかし、今や自由の概念は近代の自由主義との関連で再解釈されることになります。そこから、聖パウロの使信とイエスの使信の違いが大きく強調されました。そして、聖パウロはあたかもキリスト教の新しい創立者であるかのように考えられました。たしかに聖パウロにおいて、イエスの宣教にとって決定的な、神の国を中心とすることは、キリストを中心とすることに変わりました。このキリストを中心とすることにおいて決定的な点は過越の神秘です。そして、過越の神秘から、この神秘を永久に現存させるものとして、洗礼と聖体の秘跡が生まれます。そして、この神秘からキリストのからだが成長し、教会が築かれます。しかし、ここでは詳しい議論に立ち入ることなく、次のことを申し上げたいと思います。まさにこの新たにキリストと過越の神秘を中心とすることのうちに、神の国は実現します。すなわち、イエスが真の意味で告げ知らせたことが、具体化し、現存し、働きます。これまでの講話の中で考察したように、このパウロの新しい要素は、イエスの使信にもっとも深い意味で忠実に従ったものにほかなりません。特に過去200年の釈義の発展において、カトリックの釈義とプロテスタントの釈義はますます歩み寄るようになりました。そこから、義認という、まさに歴史的に最大の見解の相違の起源となった点において、著しい意見の一致が得られました。こうして、エキュメニズムにとって大きな希望が生まれました。そして、エキュメニズムは第二バチカン公会議にとって中心的な意味をもつものです。
  終わりに、近代においてカトリック教会の中心で生まれた、聖パウロの名にちなむさまざまな修道制運動にも簡単に触れたいと思います。16世紀の「バルナバ会」と呼ばれる「聖パウロ修道参事会」、19世紀の「聖パウロ宣教会」あるいは「パウリスト会」、20世紀の福者ジャコモ・アルベリオーネ(1884-1971年)によって創立されたさまざまな会から成る「パウロ家族」、そして、いうまでもなく「聖パウロ在俗会」です。要するに、聖パウロの使徒としての、またきわめて実り豊かで深いキリスト教思想家としての姿は、今もわたしたちの前で輝き続けています。聖パウロに近づくことはすべての人の役に立つからです。聖ヨハネ・クリゾストモはパウロをたたえる説教の一つの中で、パウロとノアとの独自の比較を行い、次のように述べます。パウロは「箱舟を作るために板を束ねませんでした。彼は木の板をまとめる代わりに、手紙を書きました。こうして彼は、自分の家族の二人、三人ないし五人ではなく、滅亡に瀕した全世界を洪水から救い上げたのです」(『使徒聖パウロをたたえる説教』:De laudibus sancti Pauli apostoli homiliae 1, 5)。今も、またとこしえに、使徒パウロはこのわざを続けることができます。それゆえ、パウロからその使徒としての模範と教えを学ぶことは、わたしたち一人ひとりがキリスト者としてのあり方を確固としたものとし、全教会を若返らせるための、保証とまではいえないまでも、刺激となることでしょう。

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