教皇ベネディクト十六世の2010年3月21日の「お告げの祈り」のことば 姦通の女のゆるし

教皇ベネディクト十六世は、四旬節第5主日の3月21日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリ […]


教皇ベネディクト十六世は、四旬節第5主日の3月21日(日)正午に、教皇公邸書斎の窓から、サンピエトロ広場に集まった信者とともに「お告げの祈り」を行いました。以下は、祈りの前に教皇が述べたことばの全文の翻訳です(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「来週の日曜日の枝の主日に、敬愛すべき尊者ヨハネ・パウロ二世が望んだ『世界青年の日』開始25周年を記念します。そのため、木曜日の午後7時からこのサンピエトロ広場で特別な記念集会を行うために、ローマとラツィオ州の多くの若者が来てくださるのをお待ちしています」。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 わたしたちは四旬節第5主日に到達しました。今日、今年の典礼は、イエスが姦通の女を死刑から救うという福音の記事を示してくれます(ヨハネ8・1-11)。イエスが神殿の境内で教えておられたとき、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女をイエスのところに連れて来ました。モーセの律法はこのような女に石打ちの刑を命じていました。これらの人々はイエスに、罪深い女を裁くように求めました。それは、「イエスを試して」、彼を陥れるためでした。状況はきわめて劇的です。この女のいのちも、イエス自身のいのちも、イエスのことばにかかっているからです。実際、偽善的な告発者たちは、イエスに判決をゆだねるふりをしながら、本当は、イエス自身を告発して、罪に定めようと望んでいたのです。これに対してイエスは「恵みと真理とに満ちて」(ヨハネ1・14)いました。イエスは何がすべての人の心の中にあるかを知っておられます。彼が望まれるのは、罪を裁きながら罪人を救うこと、また、偽善をあばくことです。福音書記者ヨハネは次のことを特に強調します。告発者たちがしつこく問い続けたとき、イエスはかがみ込み、指で地面に書き始められました。聖アウグスティヌスの考えによれば、この動作はキリストが神なる立法者であることを示します。実際、神は石の板の上に指で律法を書かれました(『ヨハネ福音書講解』:In Johannis evangelium tractatus 33, 5参照)。それゆえ、イエスは律法を与えるかたであり、人となられた義そのものです。それでは、彼の判決はいかなるものでしょうか。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。このことばは、真理と愛がもつ、人の心を静める力に満ちています。真理は偽善の壁を打ち壊し、良心をより大きな義へと開きます。愛はあらゆる律法をまっとうします(ローマ13・8-10参照)。タルソスのサウロを救い、彼を聖パウロに造り変えたのも、この義です(フィリピ3・8-14参照)。
 告発者たちが「年長者から始まって、一人また一人と立ち去」ると、イエスは女の罪をゆるし、彼女を新しいいのちに導き入れ、いつくしみへと方向づけます。「わたしもあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない」。これと同じ恵みによって、使徒はこういいました。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3・14)。神はわたしたちのためにいつくしみといのちしか望まれません。神はご自分の奉仕者を通じてわたしたちの霊魂に救いを与えてくださいます。すなわち、ゆるしの秘跡によってわたしたちを悪から解放してくださいます。それは、だれも滅びることなく、すべての人が回心できるためです。「司祭年」にあたり、司牧者の皆様に勧めたいと思います。アルスの主任司祭に倣って、秘跡によるゆるしの奉仕を行ってください。それは、信者がゆるしの秘跡の意味とすばらしさを再発見し、神のあわれみ深い愛によっていやされるためです。この神は「わたしたちをゆるすために、進んで罪を忘れます」(「アルスの聖なる主任司祭の没後150周年を記念する『司祭年』開催を告示する手紙」)。
 親愛なる友人の皆様。隣人を裁かず、罪に定めないことを、主イエスから学ぼうではありませんか。自分自身から始めて、罪に立ち向かい、そして、人々をゆるすことを学ぼうではありませんか。そのために聖なる神の母がわたしたちを助けてくださいますように。いかなる罪もない神の母は、あらゆる悔い改めた罪人にとって、恵みの仲介者となってくださるかただからです。

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