教皇ベネディクト十六世の279回目の一般謁見演説 黙想について

8月17日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸中庭で、教皇ベネディクト十六世の279回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の […]


8月17日(水)午前10時30分から、夏季滞在先のカステル・ガンドルフォ教皇公邸中庭で、教皇ベネディクト十六世の279回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、5月4日から開始した「祈り」についての連続講話の第10回として、「黙想」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で次のように述べました。
「ご存じのとおり、明日(18日)からマドリードにまいります。マドリードで、第26回WYD(ワールドユースデー)のために集まった多くの若者とお目にかかれるのをうれしく思います。皆様にお願いします。この重要な教会行事のために心を一つにして祈ってください。皆様の祈りに感謝します。ご清聴ありがとうございます」。
教皇は第26回WYD(ワールドユースデー)マドリード大会に参加するため、18日(木)から21日(日)までスペインのマドリードを訪問します。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 わたしたちは今なお聖母の被昇天の祭日の光の中にいます。すでに申し上げたとおり、聖母の被昇天の祭日は希望の祭日です。マリアは楽園に至りました。そして、わたしたちも皆、楽園に至ることができます。これがわたしたちの目的です。問題はこれです。わたしたちはどうやって楽園に至ることができるでしょうか。マリアは楽園に至りました。福音は述べます。マリアは「主がおっしゃったことはかならず実現すると信じたかた」(ルカ1・45)でした。それゆえ、マリアは信じました。神に身をゆだね、自らの意志を主のみ心と一致させました。こうしてマリアは、楽園に至る道、それももっとも近道を通ったのです。信じること、主に身をゆだねること、主のみ心と一致すること。これがもっとも大切な道です。
 今日わたしはこの信仰の歩み全体についてお話しするつもりはありません。むしろ、祈りの生活のわずかな点についてお話ししたいと思います。すなわち、神に触れる生活である、黙想です。黙想とはいかなることでしょうか。それは、主がなさったことをすべて「思い起こす」こと、主のすべての恵みを忘れないことです(詩編103・2b参照)。わたしたちはしばしば、よくないことだけに目をやります。わたしたちはよいこと、すなわち神が与えてくださった恵みも記憶にとどめなければなりません。神からもたらされるよいしるしに目をとめ、それを憶えていなければなりません。それゆえ、わたしたちはここで、キリスト教の伝統の中で「心の祈り(念祷)」と呼ばれる種類の祈りについて語っています。わたしたちは口祷をよく知っています。もちろん口祷の中でも思いと心を用います。しかし、今日わたしは黙想についてお話しします。黙想は、ことばを伴わず、自分の精神を神のみ心に触れさせます。ここでもマリアは真の意味で模範です。福音書記者ルカは何度も繰り返して、マリアが「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19。2・51b参照)と述べます。マリアはこれらのことを心に納めて、忘れませんでした。彼女は、主がいわれたこと、なさったことのすべてに心をとめ、それを思い巡らしました。すなわち、さまざまなことに触れて、それを心の中で深く考えたのです。
 それゆえ、マリアは天使が告げたことを「信じ」、いと高きかたの永遠のみことばが受肉できるための道具となったかたです。このかたはまた、神であり人であるかたの誕生という驚くべき不思議なわざを心に受け入れ、それを黙想し、神が自分の中で行われたすべてのことを深く考察しました。それは、神のみ心を自分の人生のうちに受け入れ、これにこたえるためです。神の子が受肉し、マリアが母となるという神秘はきわめて偉大なものだったので、それはこれを内面化する過程を必要としました。神がマリアのうちで行ったことは単に物理的なことではなく、マリアの側から内面化することが必要でした。マリアはそれを知性で深く理解し、意味を解き明かし、結果と影響をとらえようと努めました。こうしてマリアは、日々、日常生活の沈黙のうちに、その後も自分が目の当たりにしたさまざまな出来事を心の中に納めました。この出来事には、十字架という最大の試練と復活の栄光も含みます。マリアは自分の生涯、日々の務め、母としての使命を完全にまっとうしました。しかし、彼女はまた、神のことばとみ心、自分の身に起きたすべての出来事、御子の生涯の神秘を考察するための内的な空間を自分のうちに持ち続けることもできたのです。
 現代のわたしたちは、多くの活動、仕事、心配事と問題に忙殺されています。立ち止まって自分を顧み、霊的生活、すなわち神との触れ合いを深めるための時間をもたずに、一日の時間を埋めようとすることもしばしばです。マリアは次のことをわたしたちに教えてくださいます。どれほど多くの活動をしていても、日々の生活の中で、沈黙のうちに精神を集中し、主が自分に教えようと望んでおられること、主がどのようなしかたで世とわたしたちの生活の中におられ、働いておられるかを黙想する時を見つけることが本当に必要です。それは、一時、立ち止まって、黙想できるためです。聖アウグスティヌス(Aurelius Augustinus 354-430年)は、神の神秘を黙想することを食物を消化することにたとえます。彼はキリスト教の伝統を通じて見られる、「咀嚼(そしゃく)する(ruminare)」という動詞を用いています。神の神秘は絶えずわたしたち自身のうちで響き渡らなければなりません。神の神秘がわたしたちに親しみ深いものとなり、わたしたちの生活を導き、わたしたちの糧となるためです。それは、食物がわたしたちの健康を保つために必要であるのと同じです。聖ボナヴェントゥラ(Bonaventura 1217/1221-1274年)も聖書のことばについて触れていいます。「聖書のことばを常に咀嚼しなければならない。それは、魂が熱心に集中することによって、それを固く保つことができるためである」(『ヘクサエメロン講解』:Collationes in Hexaëmeron, ed. Quaracchi 1934, p. 218)。それゆえ、黙想するとは、わたしたちのうちに精神の集中と内的沈黙の場を作ることです。それは、過ぎ去り行くものだけでなく、わたしたちの信仰の神秘と、神がわたしたちのうちでなされるわざを顧み、自分のものとするためです。わたしたちはこのような「咀嚼」をさまざまなしかたで行うことができます。たとえば、聖書、とくに福音書や使徒言行録や使徒の手紙の短い記事、あるいは、神の存在を現代に現してくれるような、親しみ深い霊的著作家のことばを味わうこと。また、聴罪司祭あるいは霊的指導者の助言を受けること。読んだことを読み直し、反省し、考察すること。それがわたしに何をいおうとしているかをとらえ、悟ろうとすること。主がわたしたちに語りかけ、教えようと望まれることに自分の心を開くことです。ロザリオも黙想の祈りです。アヴェ・マリアの祈り(天使祝詞)を繰り返し唱えながら、わたしたちは、示された神秘について熟考し、考察を深めるよう招かれます。しかし、ある種の深い霊的体験や、主日の感謝の祭儀にあずかって印象に残ったことばを考察することもできます。それゆえ、ご覧のとおり、黙想にはいろいろなやり方があります。神に触れ、神に近づき、そこから、楽園に向かって歩むには、いろいろな方法があるのです。
 親愛なる友人の皆様。粘り強く神のために時間をとることは、霊的成長にとって根本的な要素です。主ご自身が、ご自身の神秘と、ことばと、現存と活動を味わわせてくださいます。神がわたしたちに語ることのすばらしさを感じさせてくださいます。神がわたしに、わたしたちに望まれることを深く理解させてくださいます。要するに、黙想の目的はこれです。それは、わたしたちはみ心を行うことによって初めて最終的に真の幸福を得るのだと確信しながら、信頼と愛をもって、ますます神のみ手に身をゆだねることです。

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