教皇ベネディクト十六世の309回目の一般謁見演説 キリストの復活の意味

4月11日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の309回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、キリストの復活の意味について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 荘厳な復活祭の後、今日のわたしたちの集いは霊的な喜びに満たされています。空は曇っていますが、わたしたちの心は復活の喜びを感じています。キリストの復活が、罪と死に決定的なしかたで打ち勝ったことを確信しています。なによりもまず、あらためて皆様にご復活祭のお祝いを心から申し上げます。すべてのもののうちで、すべての人の心の中に、キリストの復活の喜ばしい知らせが響き渡りますように。こうして新たな希望が生まれますように。
 今日の講話では、イエスの復活が弟子たちのうちに引き起こした変化についてお示ししたいと思います。復活の日の晩から始めます。弟子たちはユダヤ人を恐れて、家の中に閉じこもっていました(ヨハネ20・19参照)。恐怖は心を縮こもらせ、出かけて行って他の人々や人生と出会うことを妨げます。師であるかたはもはやおられません。イエスの受難の記憶は不安を強めます。しかし、イエスは弟子たちを心にとめ、最後の晩餐で行った、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネ14・18)という約束を果たそうとされます。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。このことばは、わたしたちにも語りかけます。心が暗く沈んでいるときにも語りかけます。この弟子たちの不安な状況は、イエスの到来によって徹底的に変わります。イエスは鍵をかけた戸から入って来られ、彼らの真ん中に立って、平和を与えて元気づけます。「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20・19b)。これは普通のあいさつですが、それが今や新しい意味をもちます。なぜなら、このあいさつが内的な変化を引き起こすからです。それは復活のあいさつです。このあいさつが、弟子たちのあらゆる恐れに打ち勝ちます。イエスがもたらす平和は、彼が告別説教の中で約束した、救いのたまものです。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14・27)。復活の日、イエスはこの平和を完全な形で与えます。そしてこの平和は共同体にとって喜びの源、勝利の確信、神の支えの保証となります。「心を騒がせるな。おびえるな」。このことばは、わたしたちにも語りかけます。
 イエスは、こうあいさつしてから、弟子たちにご自分の手と脇腹の傷をお見せになりました(ヨハネ20・20参照)。これらの傷は、すでに起きて、決して取り消されないことのしるしです。イエスの栄光に上げられた人性は「傷ついた」ままであり続けます。イエスがこのようにしたのは、復活の新しい現実を証明するためです。今弟子たちの間にいるキリストは、現実の人です。三日前に十字架に釘づけにされた、イエスご自身です。こうして弟子たちは、復活のまばゆい光の中で、復活したキリストとの出会いによって、キリストの受難と死の救いをもたらす意味を悟りました。そのとき、悲しみと恐れは完全な喜びに変わりました。悲しみと嘆きそのものが喜びの源となりました。弟子たちの心に生まれた喜びは、「主を見る」(ヨハネ20・20)ことからもたらされます。イエスは弟子たちに重ねていいます。「あなたがたに平和があるように」(21節)。もはや、これが単なるあいさつではないことは明らかです。それはたまものです。復活したキリストが友に与えるたまもの「そのもの」です。同時にそれは任務でもあります。キリストがご自身の血によって勝ち取ったこの平和は、弟子たちのためのものであるとともに、すべての人のためのものでもあります。こうして弟子たちはこの平和を全世界にもたらさなければなりません。実際、イエスは続いていわれます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(同)。復活したイエスが弟子たちのところに戻って来られたのは、彼らを派遣するためです。イエスはこの世でのご自分のわざを成し遂げられました。今や人々の心に信仰の種を蒔(ま)かなければならないのは弟子たちです。それは、彼らが知り、愛している父が、散らばっているすべての子らを集めるためです。しかしイエスは、弟子たちがなおもつねに深い恐れを抱くことを知っておられます。だからイエスは彼らに息を吹きかけ、ご自身の霊で力づけます(ヨハネ20・22参照)。この行為は新しい創造のしるしです。実際、復活したキリストがもたらす聖霊のたまものによって、新しい世が始まりました。弟子たちが宣教に派遣されたことによって、世における新しい契約の民の歩みが始まります。この民は、キリストとその救いのわざを信じます。復活の真理をあかしします。復活によってもたらされた、この死ぬことのないいのちの新しさは、至るところに広がります。なぜなら、人間の心を傷つける罪のとげは、恵みと、神の現存と、神の愛の若枝に場所を譲るからです。神の愛は罪と死に打ち勝つからです。
 親愛なる友人の皆様。今日も復活したキリストは、わたしたちの家の中に、わたしたちの心の中に入って来られます。たとえ時として戸に鍵がかかっているとしても。復活したキリストは、入って来て、喜びと平和を与えてくださいます。いのちと希望を与えてくださいます。わたしたちが人間的、霊的によみがえるために必要なたまものを与えてくださいます。復活したキリストだけが、人がしばしば自分の感覚、人間関係、態度の上に載せる墓石を取り除けることが可能です。この石は死を裏づけます。分裂、敵意、恨み、嫉妬、不信、無関心を裏づけます。復活したキリスト、すなわち生きておられるかただけが、人生に意味を与え、悲しむ人、落胆した人、希望を失った人に再び道を歩み始めさせることが可能です。復活の日に、エルサレムからエマオに向かう道を歩いていた二人の弟子が体験したのは、このことです(ルカ24・13-35参照)。二人はイエスについて語っていましたが、彼らの「暗い顔」(17節参照)は失望と不安と悲嘆を表していました。彼らは友人たちとともにイエスに従うために自分の故郷を捨て、新しい現実を発見しました。この新しい現実の中で、ゆるしと愛はもはや単なることばではなく、具体的に人生に触れたからです。ナザレのイエスはすべてを新しくしました。彼らの生活を変えました。けれども、今やイエスは死んで、すべては終わったかのように思われました。
 しかし、突然、道を歩いているのが、二人ではなく三人になります。イエスが二人の弟子に近づいて来て、彼らとともに歩き始められます。しかし二人はそれがイエスだとは分かりませんでした。もっとも二人は、イエスが復活したという知らせを聞いていました。実際、彼らはこの知らせに言及します。「ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたというのです」(22-23節)。にもかかわらず、これらすべてのことも彼らを十分に納得させることができませんでした。なぜなら「あのかたは見当たらなかった」(24節)からです。するとイエスは、忍耐強く「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」(27節)。復活したイエスは弟子たちに聖書を説明します。そして、聖書を解釈するための根本的な鍵を示します。すなわち、ご自身と、その復活の神秘です。聖書はイエスについてあかしします(ヨハネ5・39-47参照)。律法と預言者と詩編に書かれたすべてのことの意味が突然解き明かされ、彼らの目の前で明白になりました。イエスは二人の心を開いて、聖書の意味を悟らせたのです(ルカ24・45参照)。
 そうこうするうちに彼らは村の、おそらく二人のうちの一人の家に着きました。見知らぬ旅人は「なおも先へ行こうとされる様子」(28節)でしたが、家にとどまります。二人が「一緒にお泊まりください」(29節)と熱心に願ったからです。わたしたちもいつもあらためて主に熱心にこういわなければなりません。「一緒にお泊まりください」。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)。これは明らかにイエスが最後の晩餐で行った行為を思い起こさせるものでした。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かった」(31節)。初めはことばをもって、次いでパンを裂くという行為をもって、イエスがともにいてくださることが、弟子たちにイエスを認めることを可能にします。こうして弟子たちは、イエスとともに歩いていたときにすでに体験していたことを新たなしかたで感じることができるようになります。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。この話は、わたしたちの人生を造り変えてくださる主と出会える、二つの特別な「場」を示してくれます。キリストとの交わりのうちにみことばを聞くことと、パンを裂くことです。二つの場は互いに深く結ばれています。実際、「みことばと聖体は、一方なしに他方を理解することができないほど深く結ばれています。神のことばは、聖体の出来事のうちに、秘跡的に肉をとります」(シノドス後の使徒的勧告『主のことば』54-55)。
 この出会いの後、二人の弟子が「時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたといっていた」(33-34節)。二人はエルサレムでイエスの復活についての知らせを聞くと、復活したイエスへの愛に心を燃やしながら、今度は自分たちの体験を報告します。復活したイエスは、二人の心を開いて、抑えることのできない喜びを抱かせます。聖ペトロがいうとおり、彼らは「死者の中からのキリストの復活によって、新たな希望を与え」(一ペトロ1・3参照)られました。実際、彼らのうちに、信仰の熱意と、共同体への愛と、よい知らせを伝えなければならないという思いが新たに生まれました。師であるかたは復活されました。そして、師であるかたとともにすべてのいのちがよみがえります。この出来事をあかししなければならないという思いが、彼らにとって抑えがたいものとなるのです。
 親愛なる友人の皆様。復活節はわたしたち皆にとって、信仰の泉である、わたしたちのただ中における復活した主の現存を、喜びと熱意をもって再発見するよい機会です。 それは、神のことばと聖体の再発見を通して、イエスがエマオの二人の弟子に歩ませたのと同じ道をたどることです。それは、主とともに歩み、聖書の真の意味と、パンを裂くことのうちに主が現存されることへと目を開いていただくことです。かつても今も、この歩みの頂点は聖体拝領です。聖体拝領によって、イエスはご自分のからだと血をもってわたしたちに糧を与えてくださいます。それは、わたしたちの生活の中にともにいて、わたしたちを新たにし、聖霊の力によってわたしたちを力づけてくださるためです。
 終わりに、弟子たちの体験は、わたしたちが自分にとっての復活祭の意味を考察するように招きます。復活したイエスと出会おうではありませんか。この生きておられ、真実であるかたは、つねにわたしたちのただ中におられます。わたしたちとともに歩み、わたしたちを導き、わたしたちの目を開いてくださいます。復活したイエスに信頼しようではありませんか。このかたは、いのちを与える力をもっておられます。わたしたちを、信じ、愛することのできる神の子として生まれ変わらせる力をもっておられます。復活したイエスへの信仰はわたしたちの人生を造り変えます。人生を恐れから自由にし、堅固な希望を与えます。人生に完全な意味を与えるもの、すなわち神の愛によって人生を導いてくださいます。ご清聴ありがとうございます。

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