教皇ベネディクト十六世の329回目の一般謁見演説 典礼の祈りの教会的性格

10月3日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の329回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、9月26日から開始した「典礼における祈り」に関する連続講話の第2回として「典礼 […]


10月3日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の329回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は、9月26日から開始した「典礼における祈り」に関する連続講話の第2回として「典礼の祈りの教会的性格」について考察しました。以下はその全訳です(原文イタリア語)。

謁見の終わりに、教皇はイタリア語で次の呼びかけを行いました。
「親愛なる兄弟姉妹の皆様。明日(10月4日)わたしは、ロレートの聖母巡礼所を訪問します。この巡礼は、第二バチカン公会議開会の1週間前になされた福者ヨハネ二十三世によるこのマリア巡礼所への有名な巡礼の50周年にあたって行われます。
 皆様にお願いします。わたしたちが開催を準備している主要な教会行事を、わたしとともに祈りのうちに神の母にゆだねてください。すなわち、信仰年と、新しい福音宣教をテーマとする世界代表司教会議(シノドス)です。聖なるおとめが、現代世界の人々に福音を告げ知らせる使命を果たす教会とともに歩んでくださいますように」。
教皇は10月4日(木)午前9時(日本時間同日午後4時)にバチカンをヘリコプターで出発、午前10時(同午後5時)にロレート郊外のモントルソにあるヨハネ・パウロ二世青年司牧センターに到着。午前10時20分(同午後5時20分)にロレートの聖母巡礼所を訪問、聖体礼拝を行い、ロレートの聖母への祈りをささげた後、午前10時30分(同午後5時30分)から聖母広場でミサをささげます。昼食後、午後5時(日本時間5日午前0時)にヨハネ・パウロ二世青年司牧センターをヘリコプターで出発、午後6時(同午前1時)にバチカンに戻る予定です。


 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 先週の講話で、典礼という、キリスト教の祈りの特別な源泉の一つについての話を始めました。『カトリック教会のカテキズム』が述べるとおりです。典礼は「聖霊において御父にささげられるキリストの祈りにあずかることです。キリスト者の祈りのすべては、まさに典礼のうちにその源と到着点とを見いだします」(同1073)。今日わたしは自らに問いかけます。わたしは自分の生活の中で、祈りのための十分な時間をとっているでしょうか。何よりも、神との関係の中で、典礼の祈り、とくにミサはどのような場を占めているでしょうか。ミサは、教会というキリストのからだが行う共同の祈りにあずかることだからです。
 この問いに答えるには、まず次のことを思い起こす必要があります。祈りは、神の子らと、限りなくいつくしみ深い御父、その御子イエス・キリスト、そして聖霊との、いのちに満ちた関係です(同2565参照)。それゆえ、祈りの生活とは、常に神の現存のうちにいること、そしてそれを自覚することです。それは、生活の中で親しい家族や本当の友との普通の関係を生きるのと同じように、神との関係を生きることです。そればかりか、主との関係は、わたしたちの他のすべての関係を照らします。このような三位一体の神とのいのちの交わりをもつことが可能なのは、わたしたちが洗礼によってキリストに接ぎ木されたからです。わたしたちがキリストと一体となり始めたからです(ローマ6・5参照)。
 実際、わたしたちはキリストに結ばれて初めて、子として、父である神と語ることができます。もしキリストに結ばれていなければ、このようなことは不可能です。しかし、御子との交わりのうちに、御子がいわれたのと同じように、わたしたちも「アッバ」ということができます。わたしたちはキリストとの交わりのうちに、神がまことの父であることを知ることができます(マタイ11・27参照)。ですから、キリスト教の祈りとは、絶えず新たなしかたでキリストに目を注ぎ、キリストと語り、沈黙のうちにキリストのみ前にとどまり、キリストに耳を傾け、キリストとともに行い、苦しむことです。キリスト信者は自らの真の姿をキリストのうちにあらためて見いだします。キリストは「すべてのものが造られる前に生まれたかた」であり、万物はこのかたにおいて造られたからです(コロサイ1・15以下参照)。わたしは、キリストと似たものとなり、キリストと一体となることによって、自分が何者であるかをあらためて見いだします。わたしは、神が愛に満ちた御父であることを知っている、まことの子なのです。
 しかし、忘れてならないことがあります。わたしたちは教会の中で、キリストを見いだし、生きたかたとしてキリストを知るのだということです。教会は「キリストのからだ」だからです。教会がキリストのからだであることは、男と女について述べた聖書のことばから理解することができます。「二人は一体となる」(創世記2・24、エフェソ5・30以下、一コリント6・16以下参照)。愛の一体化する力による、キリストと教会の切り離すことのできないつながりは、「あなた」や「わたし」を否定するものではありません。むしろそれは「あなた」と「わたし」をより深い一致へと高めます。キリストとの一致を見いだすとは、キリストとの交わりに達することです。キリストとの交わりは、わたしを否定せず、むしろいっそう高い尊厳へと高めます。すなわち、キリストと結ばれた神の子としての尊厳です。「神と人間の間の愛の歴史とは、まさしく、神と人間が共通の思いと感情を抱くことによってますます共通の意志をもつようになることであり、こうして人間の意志が神のみ旨とますます一致するようになることです」(回勅『神は愛』17)。祈るとは、必要とされる自分の存在の段階的な変容を通じて、神の高みへと上げられることなのです。
 ですからわたしたちは、典礼にあずかることによって、母である教会のことばを自分のものとします。わたしたちは教会の中で、教会を通じて語ることを学びます。もちろん、すでに述べたとおり、このことは段階的に、少しずつ行われます。わたしは、祈り、生活し、苦しみ、喜び、思考することを通じて、教会のことばにゆっくりと浸されていかなければなりません。この歩みがわたしたちを造り変えるのです。
 そこでわたしは、以上の考察が、初めに立てた問いに答えることを可能にしてくれるのでないかと思います。わたしはどのようにして祈りを学ぶのでしょうか。どうすれば祈りにおいて成長するのでしょうか。イエスがわたしたちに教えてくださった模範である「主の祈り」に目を注ぐなら、次のことが分かります。最初のことばは「父よ」であり、二番目のことばは「わたしたちの」です。それゆえ答えは明確です。わたしが祈りを学び、深めるのは、神に向かって「父よ」と呼びかけ、他の人々とともに祈ることによってです。教会とともに祈り、教会のことばのたまものを受け入れることによってです。こうして教会のことばはわたしにとって少しずつ親しみ深く、意味深いものとなっていきます。祈りの中で、神がわたしたちと行い、わたしたちが神と行う対話は、常に「ともに」ということを含みます。個人主義的に神に祈ることはできません。典礼の祈り、とりわけ感謝の祭儀や、典礼によって形成されたあらゆる祈りにおいて、わたしたちは個人で語るのではありません。むしろわたしたちは、「わたしたち」として祈る教会の中に歩み入ります。それゆえわたしは、この「わたしたち」に歩み入ることによって、自分の「わたし」を変容させなければなりません。
 もう一つの重要な点を思い起こしたいと思います。『カトリック教会のカテキズム』にはこう書かれています。「新約の典礼では、すべての典礼行為、とくに感謝の祭儀や諸秘跡の挙行が、キリストと教会との出会いの場となっています」(同1097)。それゆえ、祭儀を行うのは、「キリスト全体」、すなわち、共同体全体、自らの頭と結ばれたキリストのからだです。ですから典礼は、共同体の「自己顕示」のようなものではなく、むしろその反対に、それは単なる「自分のあり方」、すなわち自分に閉じこもったあり方から出て、大きな会食に加わることです。生きた大きな共同体に歩み入ることです。この共同体の中で、神ご自身がわたしたちを養ってくださるのです。典礼は普遍性を意味します。わたしたちは皆、この典礼の普遍的性格をますます自覚しなければなりません。キリスト教の典礼は、復活したキリストという、普遍的な神殿でささげられる礼拝です。キリストは、十字架上で両手を広げて、すべての人を引き寄せ、神の永遠の愛をもって抱きしめます。キリスト教の典礼は、天に開かれた礼拝です。それは、特定の時間と場所で、個々の教会が行う単なる行事ではありません。すべてのキリスト信者が、この普遍的な「わたしたち」の一員であることを自覚し、また現実にそうなることが大切です。この「わたしたち」こそが、教会というキリストのからだにおいて、「わたし」の基盤となり、逃れ場となるからです。
 ここでわたしたちは神の受肉の論理を意識し、受け入れなければなりません。神は、歴史と人間本性の中に入って来られ、わたしたちの一人となることによって、近くに来られ、ともにいてくださいます。神の現存は、ご自身のからだである教会の中で継続します。ですから典礼は、過去の出来事の記念ではなく、あらゆる時間と空間を超越し一致させる、キリストの過越の神秘の生きた現存です。祭儀の中でキリストの中心的性格が現れて来なければ、それはキリスト教の典礼とはいえません。キリスト教の典礼は、完全に主に依存し、主の創造的な現存によって支えられるものだからです。神はキリストを通して働かれます。わたしたちも、キリストを通して、キリストのうちに初めて働くことが可能です。日々、わたしたちは次の確信を深めなければなりません。典礼はわたしたちのものでも、わたしが「行う」ものでもありません。むしろそれは、わたしたちの中で、わたしたちとともに神が行われるわざなのです。
 それゆえ、典礼をささげるのは、個人(司祭または信者)でもグループでもありません。典礼は第一に、教会を通して神が行われるわざです。そして教会は、自らの歴史と豊かな伝統と創造性を有しています。すべての典礼は本来、このように普遍性と根本的に開放的な性格をもっています。これが、典礼が、個々の共同体や専門家によって考案されたり改変されたりしてはならず、むしろ普遍教会の形式に忠実でなければならない理由の一つです。
 どれほど小さな共同体の典礼においても、常に教会全体が現存します。そのため、典礼共同体の中に「部外者」は存在しません。どの典礼祭儀にも、常に教会全体が、天と地、神と人間が参加します。キリスト教の典礼は、たとえ具体的な場所と空間でささげられ、特定の共同体の「然り」を表すとしても、そのカトリック的な性格のゆえに、全体に由来し、全体へと導かれます。教皇、司教団、あらゆる時代と場所の信者と結ばれているからです。祭儀がこのような自覚に基づいてささげられればささげられるほど、典礼の本来の意味が実り豊かなしかたで実現されます。
 親愛なる友人の皆様。教会はさまざまなしかたで目に見えるものとなります。すなわち、愛のわざ、宣教事業、すべてのキリスト信者が自分の置かれた場で実現すべき個人的な使徒職がそれです。しかし、教会が完全な意味で教会として体験される場は、典礼です。典礼という行為の中で、わたしたちは神がわたしたちの現実の中に入って来られることを信じています。またそこでわたしたちは神と出会い、神に触れることができます。典礼という行為の中で、わたしたちは神に触れ始めます。神はわたしたちのところに来られ、わたしたちを照らしてくださいます。ですから、典礼を考察するとき、どうすれば典礼を魅力的で、面白く、美しいものにできるかということだけに注意を向けるなら、本質的なことを忘れる恐れがあります。つまり、典礼はわたしたちのためにではなく、神のためにささげられるということです。典礼は神のわざです。典礼をささげる主体は神です。わたしたちは神に心を開き、神と、教会という神のからだに導いていただかなければなりません。
 主に願いたいと思います。日々、典礼を、とくに感謝の祭儀を生きることを学ばせてください。教会という「わたしたち」の中で祈り、自分ではなく、神に目を注ぐことによって。そして、自分があらゆる場所と時の中で生きる生きた教会の一部であると感じることによって。ご清聴ありがとうございます。

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