大阪千提寺(せんだいじ)キリシタン墓地発掘報告会開催

 大阪教区高山右近列福運動推進委員会が主催する「千提寺キリシタン墓地発掘報告会」が、7月1日(月)、サクラ ファミリア(大阪・北区)を会場に開催されました。講師には、この発掘調査に関わった亀井聡氏(財団法人大阪府文化財センター)を迎え、90人が参加しました。

大阪千提寺(せんだいじ)キリシタン墓地発掘報告会開催 今回、発掘調査が行なわれた大阪府茨木市千提寺地区は、当時、高槻城主であったユスト高山右近父子の支配下にありました。大正期には、付近のクルス山で、キリシタン墓碑が発見されたことは、よく知られています。最近になって、千提寺地区を縦貫する高速道路の建設が計画され、2012年に始まった事前発掘調査によって、この地域一帯で、新たなキリシタン墓地が発見されました。約43,000㎡のうち、これまでに約29,000㎡の調査が終了しています。
 千提寺遺跡群と名付けられた一群の墓所で発掘された近世の墓280基の内、32基がキリシタン墓と推定されます。その有力な根拠の一つは、埋葬方法が、遺体を横たえて納棺する「伸展葬」であることです。当時は、座った形で遺体を棺に納める「屈葬」(坐棺)が一般的でした。隠れキリシタンの末裔の証言によれば、キリシタン禁教により迫害が激しくなるにつれ、追求の目を逃れるため、キリスト信者の遺体を納める棺の形が、日本の習慣に倣った円形もしくは方形の坐棺に変わっていったとされています。こうした証言はこの遺跡がキリシタンのものであることを裏付ける貴重な証拠であると言えるでしょう。亀井先生のお話の概要は以上です。

 キリシタン時代、信者たちは、「こんふらりあ」と呼ぶ信仰共同体・生活共同体をいくつも作っていました。信者たちは、日々の祈りだけではなく、互いの生活を助け合っていたのです。「こんふらりあ」は、祈りをともにするだけではく、貧者や病者の救済事業も行い、葬儀も出していました。「こんふらりあ」の中では、信者の身分の区別はなく、大名も武士も町民も被差別者も平等でした。
 右近親子も「こんふらりあ」の一員として葬儀の手伝いをしたとの記録が残っています。
 当時の社会では、野辺の送りで棺を担ぐのは、賤民と呼ばれる人びとの仕事でした。そんな時代に、大名であった右近親子が、進んで棺を担いで野辺の送りに加わったことが、驚きをもって記されています。今回発見された墓のどれかは、右近親子が運んだ棺を埋葬したものかもしれません。
 そんな歴史に思いを馳せながらこの墓を見ると、新たな感慨が沸いてくることでしょう。

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