「カトリック情報ハンドブック2015」巻頭特集

「カトリック情報ハンドブック2015」 に掲載された巻頭特集の全文をお読みいただけます。 ※最新号はこちらから 特集1 日本生まれの修道会 ―奉献生活の年に寄せて― カトリック中央協議会出版部・編  ♪沖に見えるはパーパ […]


「カトリック情報ハンドブック2015」
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特集1 日本生まれの修道会 ―奉献生活の年に寄せて― カトリック中央協議会出版部・編

 ♪沖に見えるはパーパの船よ 丸にやの字の帆が見える
禁教下、潜伏していたキリシタンたちは、永い間密かに信仰を守り続けた。やがて、「七代たてばコンヘソーロがやってきて、コンヒサンのできる日が来る」の言葉通り、横浜に続き、長崎の大浦にも天主堂が建立され、衝き動かされるようにそこへ向かったキリシタンたちがいた。パリ外国宣教会の司祭ベルナール・プチジャン(1829~1884)に堂内へ招かれた浦上のある女性は、囁いた。「ここにおります私共は、全部あなた様と同じ心でございます。サンタ・マリアの御像はどこ?」(『プチジャン司教書簡集』、1986)。「信徒発見」として語られるこの信仰告白があったのは、1865年3月17日のことである。
キリシタン復活以後の日本のカトリック教会史を繙くと、1867年「浦上四番崩れ」等の迫害や、20世紀の世界大戦下の強い風当たりなど、時代に翻弄され苦悩しつつも、信じた教えを生き、祈り続ける人々の姿が浮上する。キリスト教の伝来以降、知識や技術の革新、慈善事業による教育や医療、福祉など、日本はこの教えの恩恵に与った。それは殊に近代以降において目覚ましいが、看過できないのは、人々に寄与してきた修道会の存在であろう。2015年は、「信徒発見」から150年の節目にあたる。この間、日本で複数の修道会が誕生した。また、第二バチカン公会議『修道生活の刷新・適応に関する教令』(Perfectae caritatis)公布50周年を記念して、イエスに親しく従い福音的勧告の道を歩む修道者の重要性に目を向けた教皇フランシスコは、2015年を「奉献生活の年」と定めた。
この特集では、日本生まれの修道会がどのような背景のもと創立に至り、共同体としていかなる使命を担うのか、各修道会へのアンケートをもとに紹介する(文中の修道院や会員の数字は、2014年8月)。なお、ご協力くださった各会には、ここに深く感謝の意を表したい。
主イエスの十字架を見つめ、必要とされる場所で生涯をささげる修道会員の姿を通し、奉献生活の意義と魅力を知る一助になれば、幸いである。

1. お告げのマリア修道会C.M.A.

【沿革】
現在活動している日本人修道会でもっとも古い歴史をもつこの会は、キリシタン史と切り離せない存在である。明治政府による禁教は1873年に解かれ、精神的肉体的に厳しい「旅」を耐えた長崎浦上のキリシタンたちは故郷に戻ることが許された。帰村した彼らを待っていたのは荒廃した我が家であり、その後には台風襲来による甚大な被害、赤痢や天然痘の蔓延という事態も加わった。そのような中、岩永マキ(1849~1920)をはじめとする乙女4名は、パリ外国宣教会士であり医学知識をもつド・ロ(1840~1914)の指導のもと、罹災患者の救済に乗り出した。それは、浦上で提供を受けた家屋での、修道生活に準じた共同生活に基づくものであった。やがて疫病は収まったが、マキの手元には孤児となった一女児が遺る。いのちの尊厳を痛いほど知る彼女は、これを機に、世間に増えていた孤児や捨て子の養育を決意した。これが「十字会」の始まりである。マキは、リーダー的存在として活動し、これに共感した女性たちが続々と加わるようになった。このとき始められた浦上養育院は、日本最古の養護施設といわれている。このような、正式な修道会ではなくとも厳しい規則のもとで共同生活をする「女部屋」は、浦上のみならず、外海や五島、北松、平戸といわば長崎全域に続々と登場し、その地の要望にかなう活動を展開していく。各地の人により創立されたそれら共同体には、十字会の会員が手助けをしたり、また十字会から学ぶこともあったが、あくまで個々の独立した存在であった。
 浦上十字会で指導的立場を担ったド・ロ神父は、その後外海へ赴任し、貧困に喘ぐ土地の人々が自立する道を切り開くために邁進した。「ド・ロさまそうめん」で有名な「救助院」はその一例で、このような産業や伝道婦養成のための「伝道所」等での活動も、「姉(あね)さん」と呼ばれた彼女たちにとっては重要なものであった。姉さんたちは、地域生活に深く根ざして十字架の愛に生きるため、清貧生活の中、開墾から農業、養蚕や機織り、牧畜、行商といった労働によって生計を立てながら、宣教司牧活動に従順の精神で惜しみなく協力し、地域での信仰教育、典礼奉仕、孤児養育や病人・老人の世話などに尽力した。
 困難を抱える人々の求めに隣人愛で応じる共同体の活動は、日本の福祉・教育の先駆であり、現在の会にも受け継がれている。

【会の現状と今後の展望】
 各地に独立して存在していた女部屋(多くは「愛苦会」と称した)は、長崎教区がパリ外国宣教会の手を離れ初の邦人司教を戴いた1927年頃には15を数え、太平洋戦争勃発の頃には修道院設立を目的とする新たな共同体がさらに12、存在した。主任司祭の指導に従う祈りと労働の生活は終戦まで続くが、さまざまな課題が噴出する状況に、山口愛次郎司教(1894~1976)は各地の女部屋(無誓願修道院)の統合を図り、共同生活者に正当な修道者の身分を与える方針を採った。1956年、26の会が一つの共同体として統合され、在俗会「聖婢姉妹会」が発足。その名称は、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1・38)というマリアの心を戴くものであった。その後、正式修道会への動きが加速し、1975年には「お告げのマリア修道会」として教皇庁より認可を受けた。
 おのおのの創立者が異なりながら、修道精神の充実とよりよい教会奉仕を目的として女部屋の統合が実現したのは、その目的や生活様式、霊性や使徒職に多くの共通点があったからである。すなわち、神への無条件かつ全面的な協力を宣言したマリアの信仰と従順を模範とし、十字架上のキリストとの一致を目指す奉仕活動の励行を霊性として結ばれている。
 具体的には、児童から老人に至るまでの福祉医療活動、司祭館や神学校・小教区における奉仕、カテキスタとしての活動などを行う。
 現在、37の修道院と修練院が長崎に、また福岡、大分にも共同体があり、およそ340名の会員を擁する。「狭い範囲で活動する会でも心は全世界と繋がる」幅広い活動にも力を入れたいと考えている。

【会からのメッセージ】
名誉や地位を求めず、自由におおらかにキリストに従いたい人は、修道生活を求めてほしい。

【参考文献】
『礎 お告げのマリア修道会史』(1997)

2. カトリック愛苦会〔在俗会〕

【沿革】
 長崎浦上十字会は、各地の必要に応じて人員を派遣し、女部屋創設を支える役割を果たした。岩永キクも、十字会から福岡県三井郡大刀洗町今へ派遣された一人である。「今」という集落は筑後平野の潜伏キリシタンの里であったが、明治時代に今村教会主任司祭ミッシェル・ソーレ(1850~1917、パリ外国宣教会)等に教育され、この集落の人々はあらためてカトリックへと導かれる。このソーレ師の力を得て岩永キクや今村教会の平田ロクら5名の熱心な乙女たちにより、1884年3月17日、「天主公教愛苦会」が創立された。1933年、福岡教区長ブルトン司教は自らが創設した「日本訪問童貞会」(現・聖母訪問会)への吸収合併を図る。その後、戦時下の国策で宗教団体への風当たりが厳しくなると、外国人教区長は総辞任へと追い込まれ、今村小教区内の日本訪問童貞会も当地での活動停止および移転を余儀なくされた。これにより愛苦会の若い会員も移動、大刀洗に残されたのは3人の年老いた会員、平田トリ、平田タキ、橋本キヌだけであったが、彼女たちは農耕によって細々と生活の糧を得ながら、教会に奉仕する貧しい共同生活を営んでいた。会の自然消滅もやむなしと思われていた1940年、今村教会に主任司祭として着任した糸永一神父(1916~1992)の再建への志が、状況を変える。福岡教区長・深堀仙右衛門司教の命により糸永師は新たな修道会を設立することになり、翌年には新たな入会者3名を迎え、改めて会の基礎作りを始めた。その後、糸永師は福岡小神学校へ転任することになったが、後任の伊藤誠二師、さらに平田勇師へと志は受け継がれ、会員たちも各司祭の指導のもとで協力し、創立当初の活動が再開されることとなった。1947年9月、再び糸永師が今村教会の主任司祭となり、教会奉仕や乳幼児の収容施設など、さまざまな事業に着手、現在に至っている。

【会の現状と今後の展望】
 創立以来、福岡県大刀洗町を活動拠点としている。キリストの福音的勧告に従い、キリストとともに甘んじて苦しみを受け、自己の欠点と闘い、各人の完徳達成に努めること、また自己の救霊に励むのみならず、愛徳のおきてに従い神をあかしすることを目的に、愛の奉仕を通して人々の救霊のために働き、神のみ栄えのために尽くす福音宣教を行う。
 具体的には、保育園、介護保険事業所や在宅介護支援センターなどの福祉事業、またカテキスタ、典礼奉仕、オルガニストや聖具係といった小教区での奉仕に携わる。現在の会員数は11名。

【参考文献】
中川憲次「カトリック愛苦会修道会の歴史的研究Ⅰ:草創期」『福岡女学院大学紀要 人間関係学部編』9(2008)

3. 聖母訪問会S.V.

【沿革】
 この会の原点は、米国での出会いと活動に遡る。1905年に来日した宣教師アルベルト・ブルトン(1882~1954、パリ外国宣教会)は函館教区での活動中に病を得たため一時帰国し、再び日本へと戻る途上で寄港したアメリカ・カリフォルニア州にて、日本人移民の「飼い主のいない羊のよう」な群れ(マタイ9・36)――多忙さゆえ家庭で放置される子どもや病人たち――を目の当たりにする。そこで、ロサンゼルスの司教の理解と支援のもと日本人移民への宣教司牧活動を開始したのだが、やがて日本語ができる協力者を望むようになる。1915年、鹿児島のラゲ師(パリ外国宣教会)の指導下で私的誓願によって結ばれ共同で生活していた「ご訪問の愛苦会」がブルトン師の呼びかけにこたえた。第一陣として、46歳を筆頭に女性4人が渡米、ほとんど無からの出発ながら、「ジャパニーズ・シスター」として山積する仕事を着実に行っていった。なかでも、日本人移民たちがアメリカ社会の中で一市民として適応することを目標に、託児所や孤児院、幼稚園や小学校など子どもの教育に力を入れる。
 第一次世界大戦後にさらに高まった日本人排斥運動を受け、ブルトン師は日本での再宣教を決意し1921年に再来日、師とともに1925年までに9人の女性もすべてを置いて帰国した。日本で独自の修道会設立を図る師に、レイ東京教区大司教は小教区新設を託し、女性たちも幼稚園や医院等の活動をしつつ正規修道会設立を望んだ。そして1926年1月6日(ご公現の祝日)、現在の品川で東京教区立修道会「日本訪問童貞会」が誕生。初期には、修練女養成をサン・モール(現・幼きイエス会)修道会に託した。ブルトン師の福岡司教選任に伴い、1931年に拠点を福岡へ移転、その後も会の基礎を固め、1942年には聖座法による使徒的修道会として認可を受けた。1966年には「聖母訪問会」と改称、今に至っている。

【会の現状と今後の展望】
 会の使命は、名称の由来である聖母のエリサベト訪問――「急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(ルカ1・39)――に倣い、特定の仕事や場所に限らずマリアの心で「時」にこたえること、また、宣教師に育てられた会として国内外を問わず要請に応じる宣教の心を育みながら、創立者の示した「最も小さい者の一人」(マタイ25・40)に奉仕することである。会員の高齢化や召命の減少も事実ながら、第二バチカン公会議の流れを受け、奉献生活のより本質的な生き方や新しい福音宣教のあり方を模索し、会の使命を選び直す中で教育・医療・福祉などの事業体移管を決断し、推進してきた。その歩みのなか、地球環境や被造界の調和ある回復に向け、神・人・自然との和解を目指し、キリストの新しい創造に協力する呼びかけを感じている。
 具体的には、幼児教育や小教区奉仕、東ティモールでの自立支援、被造界との和解をシンボリックに生きる共同体としてのあかしを目指している。また、2011年12月には東日本大震災被災地に共同体を設置し、さらに四重苦にある福島との連帯を重視して、修道院の新設も探っている。
 より普遍的ないのちへのまなざしをもって健やかさを目指し、「痛んだいのちへの奉仕」に努めつつ、ヴィジョンを同じくする人びとと出会い、交わりを広げ、つなぎ、被造界を含む共生の中で、礼拝と愛の交わりが息づくことを願っている。
 修道院は、本部のある神奈川、京都、福岡の国内に計6か所、海外(東ティモール)に1か所ある。会員数は107名。

【会からのメッセージ】
 いのちを軽視し、環境が破壊されてゆく現代社会の中で、知足(足るを知ること)の精神で簡素に生き、すべてのいのちとの健やかな交わりを目指しつつ、聖母のエリサベト訪問の秘義を深め、「憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及ぶ」(ルカ1・50)神の国の「しるし」「あかし」となる生き方に魅かれるかた――御父が招いておられるかた――とともに生きたいと願っている。

【参考文献】
『創立85周年記念誌 マリアとともに急ぎ山地を 聖母訪問会の歩み1915‐2001年』(2002)

4. 聖心の布教姉妹会S.M.C.J.

【沿革】
 1909年にドイツから来日して金沢で宣教に従事し、後には初代新潟教区長になる宣教師ヨゼフ・ライネルス(1874~1945、神言会)は、北陸地方の医療事情の乏しさに心を痛め、子どもたちの養育に尽力した。教区長となった彼は、冷害のためたびたび凶作に見舞われ貧困家庭が多かった秋田に、宣教司牧の手伝いをする邦人修道会の設立を望むようになり、1920年5月30日、「聖心愛子会」を創立する。そしてライネルス師指導のもと、長木スヤ(1893~1984)ら5名の女性が、イエスの聖心、とくに十字架上のイエスの聖心を生き、あかしするために召命にこたえ、共同体の基礎を築いていく。創立後の手続きの不備により一時解散を余儀なくされたが、1926年には教皇庁の認可を得、修道女会として正式に発足する。1975年には、会の精神をより明確に表明すべく「聖心の布教姉妹会」と改称。それは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(ルカ12・49)という主の望みを全うする使命と、「イエスの聖心の愛を伝える使徒」としての自覚によって、小さい者、ともに生き働く者としての共同体であることを表す。

【会の現状と今後の展望】
 時代の必要に応じ各地で教育および社会福祉事業を展開しながら、聖体を礼拝し、イエスの聖心の愛を広める活動を行う。イエスのへりくだり、十字架の下に立つ聖母の謙遜に倣い、「キリストとともに十字架に」「喜んでする奉仕」をモットーに、おのおのの賜物を生かし、互いに祈り合い、助け合いつつ日々をささげる。
 具体的には、教育、福祉、小教区での奉仕、海外においては典礼奉仕や女性リーダーの養成、諸技能育成や若者を対象とした日本語教育などである。近年では、会員の高齢化や社会変化に伴い方向性の新たな模索あるいは転換をも求められるが、現代社会の要求や教会を通して示される神の望みにこたえるべく、新分野開拓の努力も行っている。どのような分野であれ、自らも貧しい者としてイエスの兄弟であるもっとも小さい者の一人に仕え、すべての人々にイエスの聖心に生かされた愛をもたらすよう、活動を通じ神の愛を告げ知らせるとともに、共同体ではこれまで以上に誓願をよりよく生かす相互愛の使徒的共同生活を大切にしている。
 本部のある神奈川をはじめ、秋田、新潟、栃木、千葉、愛知、岡山、島根、鹿児島、そしてインドネシア、ベトナムに計18の修道院が存在する。会員数は162名。

【会からのメッセージ】
 イエスはすべての人を救うため、とくに貧しい人に福音を告げ知らせ、重荷を負う者を休ませるために父から遣わされました。主の模範に倣い、貧しい者として、イエスの兄弟であるもっとも小さい者の一人に仕え、聖心の愛をもたらす使徒にあなたもなりませんか。

5. 純心聖母会(旧・長崎純心聖母会)I.C.M.

【沿革】
 1927年、長崎教区に邦人初の司教が任命された。邦人聖職者による福音宣教を推進する教皇庁の方針に則り、教皇ピオ11世(在位1922~39)によって10月30日に叙階された仙台出身の早坂久之助司教(1883~1959)である。司教は、託された使命――キリスト教に対する偏見の壁を崩す――には、司祭と信徒の養成と、愛の奉仕に努める修道女たちの助けが必要であると感じていた。そこで、長崎教区の司祭団の要望でもあった、カトリック教育を通して社会に働きかける邦人女子修道会の創立を決意する。早坂司教は教育現場での経験を持つ江角ヤス(1899~1980)らを召命の道に導くと、教育修道会創立に向けた養成のためにフランスに派遣。初誓願を終えた江角ヤスと大泉かつみが帰国した後の1934年6月9日、大浦天主堂の信徒発見のマリア像前で、聖母の汚れなきみ心に奉献された「純心聖母会」を創立する(最初の修道院は南山手の15番修道院)。来日した宣教会や、外国人宣教師による日本創立修道会によって支えられていた当時の日本では初の、日本人の手による日本生まれの修道会であった。
 創立の翌年には、純心女学院を創設。しかし、病状が悪化した早坂司教は教区長を辞任。創立者早坂司教の願いを引き継いだSr.江角は、いちずに教育事業を実現し、1936年に長崎純心高等女学校の認可、1937年には純心幼稚園の設立などが続いた。殊に、1940年高女に併設された純心保母養成所は、長崎における保母養成所事業の先駆けとなった。
 時代は戦争へと突入、時局に翻弄されながらも神のみ旨にこたえるべく会員たちは尽力した。聖名会(カナダ)運営の鹿児島・聖名高等学校(現・鹿児島純心)のように、戦時体制強化に伴い外国人シスターによる教育活動が困難となった学校の後事を引き受けたこともある。1945年8月9日、原爆で校舎や修道院は灰燼に帰し、工場動員の「純女学徒隊」や職員・シスター214名が犠牲となった。しかし一方、三ツ山に松脂を取りに行った生徒や職員、会員たちは助かった。殉難者の最期の姿に励まされたSr.江角は、純心の復興を諦めなかった。戦時中、三ツ山の土地を疎開地として購入した場所を「恵の丘」と名づけ、養護老人ホームを開設。原爆で生命を奪われた生徒の老いゆく親や被爆者への奉仕を決意したのである。1981年の教皇ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005)来日の折には、この「恵の丘」への訪問が実現している。

【会の現状と今後の展望】
 現在、国内では本部のある長崎をはじめ、埼玉、東京、広島、鹿児島など30か所、海外ではブラジル4か所に修道院を有し、314名の会員を擁する。会員の心を一つにするのは、創立者早坂久之助司教のカリスマ「与えつくす十字架上のキリスト」である。人々の魂の救いのために「出かけて行って実を結び、その実が残るように」(ヨハネ15・16)、聖母マリアに倣いつつ惜しみなく自分をささげる。幼児から大学までの教育や社会福祉、教会や幼稚園・保育園での奉仕を中心に、平和教育にも力を入れている。
 1949年に会憲が認可された際、同名の他修道会と区別するため、会の名称には創立地「長崎」を戴いた。しかし、2014年に創立80周年を迎えたのを機に、創立時の命名に戻した。創立者早坂司教とSr.江角から受け継がれた「聖体への信仰」「聖母マリアの汚れなきみ心の霊性」「日本の殉教者の精神」の霊性から力を得、福音宣教の使命を純心聖母会らしく生きたいと願っている。

【会からのメッセージ】
 関心のあるかたは、遠慮なくご連絡ください。ホームページ(http://n-junshinseibokai)でも問い合わせできます。

【参考文献】
『長崎純心聖母会の五十年』(1984)、『長崎純心聖母会の八十年』(2014)

6. ベタニア修道女会

【沿革】
 ヨゼフ・フロジャク神父(1886~1959、パリ外国宣教会)が東京教区派遣の命を受けたのは、1909年9月、司祭叙階の翌日であった。その年末に来日してから18年後、東京市立結核療養所(中野療養所)で一人の患者を見舞ったことを契機に、師の療養所訪問が始まる。そして1929年、豊多摩郡野方町丸山(現・中野区野方町)で一軒の民家を借り受ける。当時、感染力の強い伝染病である結核は「死の病」と呼ばれて恐れられ、また有効な治療薬もなかったことから、見放され行き場がない患者も多数いた。借家は、そうした人たちを受け入れるためのものだった。これが、フロジャク師が生涯をかけ手掛けたベタニア事業の第一歩である。
 師は資金集めに奔走し、翌年6月、結核患者療養所「ベタニアの家」を設立。「ベタニア」には、ヘブライ語で「主の憐れみ」そして「神の前に身をかがめ、神により頼む貧しい者の家」という意味がある。これを皮切りに、患者の子女のための「ナザレトの家」、療養農園「ベトレヘムの園」、児童養護施設「東星学園」などを開設する。そうしたなかにあって師は次第に、「ベタニアの家」をこの世に建て続けるためには生涯をささげる修道女が必要と感じるようになり、協力者となる女性たちを育てる決意をする。こうして1931年に、奉仕に生きようとする若い女性たちによる「ロゼッタ会」が誕生した。会員たちは労働と祈りによって結核患者たちと向き合い、「悩める人々に仕えよ」との師の教えどおりともに働き、ベタニア事業の草創期を支えた。そして1937年6月4日(聖心の祝日)に教皇庁の認可に基づく教区立の修道会「ベタニア姉妹会」が正式に発足する。その後「ベタニア修道女会」と改称し、今日に至っている。

【会の現状と今後の展望】
 「自ら貧しいものになる」とのフロジャク師の遺訓は、会の霊性として生き、ベタニアの名、そして修道会の保護の聖人「聖ベルナデッタ」の生き方を源泉に、キリストの福音を伝えている。会のあるべき姿は小ささであり、マリアに対する信心と小さな者に対する愛である。また、ベタニアを訪れる人々に安らぎをもたらし、苦しむ人、弱く小さい人の中におられるイエスが憩われる家を建て続ける使命に生きることである。
 結核治療の進歩、福祉施策の進展により社会の必要も変化した。現在では、社会および会の高齢化という現状を考え、大きな事業から「ベタニア」のたまものを生かし、祈りを必要とする人々にキリストの心を注ぎ、いやしと恵みをもたらす新しい福音宣教に取り組んでいる。活動は、幼稚園から高校までの教育、療養型病院、乳児・児童、老人、障害者の福祉施設、小教区での典礼奉仕、祈りの集い、カテケジスなど諸活動への協力、病者への聖体授与の奉仕や病院訪問などに及ぶ。本部のある中野をはじめ、清瀬、那須などに計7つの修道院がある。

【会からのメッセージ】
 ベタニア修道女会の保護の聖人は聖女ベルナデッタです。自分が小さい者、貧しい者であることを自覚し、「聖女ベルナデッタのように、祈りながら微笑みながら」速やかに神の道具となるよう(会憲62)ともに祈り、ゆだね、ささげ、分かち合って参りましょう。

【参考文献】
『フロジャック神父の生涯』(1964)、『創立者フロジャック神父の小伝』(1976)、『ベタニア修道女会とフロジャク神父』(1991)、『創立とその歩み』(1994年)

7. イエスのカリタス修道女会(通称・カリタス会)

【沿革】
イタリア出身のアントニオ・カヴォリ神父(1888~1972)は、従軍司祭として第一次世界大戦に出征したが、その後宣教地へ赴くことを希望し、サレジオ会に入会する。そして1926年、ヴィンチェンツォ・チマッティ神父(1879~1965)を団長とする初めて日本に派遣されたサレジオ会宣教団9名の一人として、宮崎県で本格的な宣教活動を開始した。なかでも、貧困者や病者の世話など、社会の中でもっとも貧しく小さな人々に愛の手を差し伸べる教会活動の活性化を図り、神の摂理への深い信頼の内に、身寄りのない高齢者や子どもたちのための総合福祉施設「宮崎救護院」(現・カリタスの園)を開設する。宮崎教会付として始められたこの事業は、カヴォリ師が結成したヴィンセンシオ会女性信徒たちによる「愛子会」の献身的奉仕によって支えられた。第二次世界大戦の兆しが見え始めた1937年、宮崎知牧長となっていたチマッティ師の勧めに従い、カヴォリ師は修道会創立を決意、同年8月15日(聖母被昇天の祝日)に出されたチマッティ師の布告文をもって、宮崎市吉村町に「日本カリタス修道女会」が創立される。戦後の1949年4月に「宮崎カリタス修道女会」と改称。国内外で広く活動を展開してきたが、1977年、創立40周年を機にサレジオ会の招きでローマでの宣教活動を開始し、2008年には国際修道会としてよりよく機能することを目指して、総本部を日本からローマへ移転した。翌年11月に「イエスのカリタス修道女会」と改称し、現在に至っている。
 カヴォリ師を修道会創立へと導き、窮乏や困難にあっても慈愛に満ち忍耐強く活動を支え励まし続けた共同創立者チマッティ師は、その聖徳を認められ、1991年に「尊者」の宣言を受けている。

【会の現状と今後の展望】
 カヴォリ師は、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロと聖ヨハネ・ボスコの精神に倣い、神の限りなく憐れみ深い聖心の愛(カリタス)をすべての人、とくに貧しい人や苦しんでいる人にあかしするために、愛徳の事業を通して使徒的活動に献身する修道共同体を創立、会員の養成に努め、宣教地への派遣にも尽力した。会員はその創立者の遺志を受け継ぎ、人々のためにいのちを与えることでご自身の愛を示されたイエス・キリストに従うため、各地で献身的な愛の奉仕を行っている。
 海外への宣教女派遣を積極的に行ってきたカリタス会は、初めての海外派遣地となった韓国をはじめ、ボリビア、ブラジル、ペルー、ドイツ、イタリア、パプアニューギニア、フィリピン、オーストラリア、アメリカ、アルゼンチン、中国、南スーダンなど世界14か国168か所に修道院を有している。会員数は960名。国内では、幼稚園や学校、診療所、乳幼児・児童や高齢者の施設など、海外では、幼稚園、学校、学習センター、病院、障害者・児童・高齢者施設、外国人労働者や家庭内暴力被害者への支援、そして出版事業など、教育、医療・福祉の分野で活動を繰り広げている。同時に、新たな召命の発掘、生涯養成にも努めるなど、会員が一丸となって神からゆだねられた使命の実現に励んでいる。

【会からのメッセージ】
 志願期への受け入れは成人女子を対象としていますが、中学・高校など学生を対象とした寄宿院もあります。海外からの入会者もあります。学生のための寄宿院は宮崎に、成人のための養成院は東京にあります。神の光栄と人々の救霊のため、生涯を神に奉献することを希望する皆様、神からの召命をよりよく生きる道を見いだすことができるよう、本会において識別の時を過ごしてみませんか。

【参考文献】
「あしたに咲く シスターマリア長船の生涯」(1982年)、『ひまわりは太陽に向かって カヴァリ神父とその娘たち』(1995年)

8. お告げのフランシスコ姉妹会 F.S.A.

【沿革】
 1919年11月、教育や福祉事業の有効性を説き、時代や風土を考慮に入れた修道会の創設を促す世界宣教に関する回勅『マクシムム・イルド(Maximum illud)』が教皇ベネディクト15世(在位1914~22)により発布された。1925年に来日したカナダ出身の宣教師ガブリエル・ジュセロ・ジュセネ(1897~1978、フランシスコ会)は、これに応じた宣教活動を奄美大島で実施していた。不作と不況の影響で捨て子が続出していた1933年、師は孤児救済に着手し、「ナザレトの家」を開設する。師に協力しようと集まった寛トミ(1909~1992)他3名の女性たちは、3月25日(神のお告げの祭日)に最初の修道生活を開始。ジュセネ師は孤児の世話の傍ら、その姉妹たちの霊的指導にあたり、1935年にはフランシスコ律修第三会「お告げのフランシスコ姉妹会」としてローマからの認可を得る。戦時意識の高揚と国家主義的風潮によるキリスト教弾圧の影響により、1937年、東京都大田区久が原へ移転することになったが、その翌年には東京教区直轄の邦人女子修道会として認可を受けた。祈りと労働による姉妹的共同生活に基づく愛の使徒的活動は、戦時下そして戦後の困難な中でも続いた。1948年に「ナザレトの家」を「聖フランシスコ子供寮」に改め戦災孤児の救済にあたったことをはじめとして、時代への適応と地域の要望にこたえ、数々の保育園や幼稚園などを運営し、現在に至っている。

【会の現状と今後の展望】
 創立者が「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・28)という聖母マリアの精神と、聖フランシスコの回心に学ぶ姉妹として生きることを会の名称に託したように、教会の指導のもと、日本の福音化と霊性への使命を感じ、教会に役立つ修道会としての前進を目指して、貧しい人々に奉仕をするために遣わされることを大切に守り継ぐ。
 具体的には、児童養護施設や保育園・幼稚園などの福祉・幼児教育、小教区や神学校での奉仕が挙げられる。今後の展望として、とくにフランシスカンインターナショナルの精神を地域に根づかせることや、フィリピンでの活動の充実を図っていきたいと思っている。
 現在、群馬、東京、大阪、フィリピンの計8か所に修道院がある。会員数は41名。

【会からのメッセージ】
 本会の活動を通して神様の思いを伝えていき、フランシスコを今に生きることが出来るよう、お互いに励んでいきましょう。

【参考文献】
「お告げのフランシスコ姉妹会」パンフレット

9. 福音史家聖ヨハネ布教修道会(通称・聖ヨハネ会)S.S.J.E.

【沿革】
 青年医師・戸塚文卿(1892~1939)は、医学研鑽のヨーロッパ留学中に特別な光を受け、カトリック司祭として生涯を神にささげることを決意、1924年6月の叙階を経て帰国する。当時の日本は、貧しい人々、とくに結核患者が巷にあふれていた。そこで師は、結核患者のための「ヨハネ汎愛医院」を品川に開設し、司牧医師として活動を開始した。その後医院は西小山に移転、そこで交流を深めた信徒の岡村家から積極的な援助を得る。とくに永らく病床にあった娘ふく(1899~1982)は奇跡的に回復すると、戸塚師たっての望みで医療および宣教活動の協力者となる。
 戸塚師は、結核保養施設として「ナザレト・ハウス」を開設、患者が増加し施設に収容しきれなくなると拡張のため千葉に移転、サナトリウム「海上寮」を設立する。診療の他に、数々の翻訳や文筆にも力を注ぎ、さらに東京大神学校で教鞭を執るなど寝食を忘れ精力的な活動を繰り広げていたが、過労により当時建設中だった桜町病院の完成を見ることなく47歳で帰天した。
 その後、岡村ふくは観想修道会への入会を考えたが、土井辰雄東京大司教から師の遺志を継ぎ桜町病院の経営と修道会の設立を要請されると、時の状況における神のみ旨に従い、人々の救いのために神の道具となることを決意、戸塚富久、村井しげとともに会創設の準備を始めた。戦争の激化する1944年2月にローマから認可が届き、同年6月8日には着衣式が執り行われた。あらゆるものが次々と破壊される時代に、小金井で東京大司教直属の誓願修道会として産声を上げたのである。マザー岡村はしばしば語った。「神はたびたび、小さなつまらないものを通して大きな業をなさる」。

【会の現状と今後の展望】
 「ヨハネ」(神は慈しみ深い)のことばどおり、「ヨハネ福音書」および「ヨハネの手紙」に見いだされる福音史家聖ヨハネの悟り――キリストの愛に留まり、その愛に生きることを会の根本に、奉献生活者としての祈りや奉仕・宣教活動、とくに病み、苦しみ、弱い立場にある人々への奉仕を通しキリストをあかしするために召され、神の救いのみわざに協力する。
 具体的には、桜町病院やホスピス、特別養護老人ホーム、知的障害者施設などの運営や訪問看護といった医療・福祉、小教区での奉仕を、謙遜・相互愛・一致を重んじ行う。修道院は、小金井の本部をはじめ、東京と山梨に計4つ。会員数は41名である。病院や施設の職員、小教区の信者とともに、神に信頼しつつ、祈りと神の愛に生きる霊性を深め、互いの弱さを受け入れながら、いつくしみ深い神とその愛の温かさをあかしするよう力を尽くしたいと考えている。

【会からのメッセージ】
 わたしたちと一緒に、この現代社会の中で神がいつくしみ深いかたであることを表していきませんか。わたしたちの希望は、すでに始まっている神の国をあかしし続けることの中にあります。わたしたちは、キリストの招きにこたえて、とくに病める人、弱い立場にある人に奉仕することを通して神が愛であることをあかししていきます。キリストの招きにこたえることを通して、神の幸福、真実の愛に出会います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15・12)。

【参考文献】
『聖ヨハネ会 50年誌』(1989)、『戸塚神父伝 神に聴診器をあてた人』(1989)、『創立者 岡村ふくの生涯』(2003)

10. 大阪聖ヨゼフ宣教修道女会S.M.J.

【沿革】
 1945年、太平洋戦争は終結した。その後の社会の混乱の中で、心のよりどころを求めて教会を訪れる多くの人々のために、司祭は多忙を極めていた。その様子を見た大阪教区司教(後に、日本人として二人目の枢機卿)田口芳五郎(1902~1978)には、深く感じるところがあった。つまり、「今こそ聖なる司祭が求められている時」と悟ると同時に、その司祭を助け司祭職に奉仕する協力者が必要である、という聖霊の促しを受けたのである。そこで、司祭と協働し地域の教会とともに歩みキリストの祭司職を生きる修道女会の設立を決意し、1946年大阪市の関目教会内に、司祭職と直結した「聖ヨゼフ女子修道会」の仮修道院を設置する。1948年には、教区立修道女会として兵庫県尼崎市で「大阪聖ヨゼフ布教修道女会」を創立、正式に教皇庁の認可を受けた。その後、この会は「大阪聖ヨゼフ宣教修道女会」と改称され、現在に至っている。

【会の現状と今後の展望】
 マリアとともにイエスを守り育てたヨセフは、救いのみわざに協力し、生涯をささげ尽くし、今も教会の保護者としての使命を生きておられる。この聖ヨセフの保護のもと、その精神をもって「永遠の大祭司」(ヘブライ人6・20、7・26)イエス・キリストの聖心への自己奉献と、司祭職への奉仕によって、教会とともに苦しみも喜びも分かち合うことが会の使命である。
 具体的には、幼稚園から高校までの教育事業、医療や保育園運営などの福祉事業、小教区での奉仕などを行う。本部のある大阪をはじめ、宮城、東京、兵庫、長崎、そして1992年に開設したブラジルに、計10の修道院が存在する。会員数は104名。
 ブラジル人やベトナム人の会員も誕生するなど、会には新しい活気がみなぎりつつある。2015年には6年に一度の総会が開催されるが、これを機に、今までの歩みを振り返り今後を考える必要を感じている。それを経て、先人から受け継いだ宝である「確かなかた、キリストの記憶」を困難の多いこの社会の中で、会員一人ひとりがその使命を一日一日生きることによって、次世代へと継承できるのでは、との希望が膨らむ。「神からの恵みの風にいっぱいの帆を張って、今、出発します」(ペトロ岐部)。

【会からのメッセージ】
 「星はおのおの持ち場で喜びにあふれて輝き、その方が命ずると、『ここにいます』と答え、喜々として、自分の造り主のために光を放つ」(バルク3・34-35)。さあ!!神から頂いたあなたの光を放つ場を探す旅に出ませんか。

【参考文献】
『走るべき道を走り…大阪聖ヨゼフ宣教修道女会創立者パウロ田口枢機卿』(1991)

11. けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会(通称・聖母の騎士修道女会)

【沿革】
 会史を繙くと、聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者(1894~1941、コンベンツアル聖フランシスコ会)にまで遡る。フランシスコ会派ながら祖国ポーランドで独自の信仰に基づく信心会「聖母の騎士」を設立した師は、アジアでも出版(広報)による宣教活動を望むようになり、1930年に来日する。それは、当時留学中の里脇浅次郎(後の枢機卿)による早坂久之助司教への紹介で実現したという。日本語もおぼつかないまま修道者たちが長崎で機関誌『聖母の騎士』を発行する中、コルベ師はより充実した活動のために聖母の騎士会の精神を生きる女子修道会の創立を望むようになる。しかし実現を果たす前に師は帰国、第二次世界大戦のさなかアウシュヴィッツ強制収容所で愛の殉教を遂げたのであった。
 長崎にコルベ師とともに来日しその活動に従っていた神学生ミェチスラオ・マリア・ミロハナ(1908~1989)は、日本で司祭として叙階され小神学校の運営にかかわっていた。1945年に終戦を迎えおびただしい数の戦災孤児がいた長崎の状況をみて、師は養護施設「聖母の騎士園」を設立、子どもたちの養育に努めた。だが、ボランティアの助けのみではなく奉献された修道女の全面協力が必要であると痛感すると、ミロハナ師は「コルベ師の望みが実現される時」と悟り、新たな会の創立を決意する。1949年12月8日(無原罪の聖母の祭日)、志願者7名の着衣により「けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会」は誕生した。1950年には、教皇庁より長崎教区管轄の通常誓願修道会として正式な認可を得て、今に至っている。

【会の現状と今後の展望】
 人々の回心と聖性を呼びかける聖コルベ殉教者の霊性を継承し、「けがれなき聖母マリアを通してイエスのみ心へ」をモットーに、フランシスカンの霊性を生かすマリアの騎士として、会員たちは自己を無条件かつ無制限に奉献する。とくに、「キリストの母マリアの心で、心身において助けを必要とする人々の傍らに寄り添う」ことを謳い、当初独自に着手したのが知的および重症心身障害児への支援であったことから、おもに社会福祉事業を通して「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)というみことば実現のために働く。
 現代の活動は政策や制度の影響下にあるが、今の時代においてカトリックの愛と奉仕の精神、理念をいかに伝えるか、けがれなき聖母が何を望んでおられるか、を祈り求め実行することが課題といえる。また、コルベ師の福音宣教を継承する出版事業では、聖母を通しイエスそして三位一体の神へ人々を導く働きを目的とする。
 現在、本部のある長崎を中心に九州や東京に計17か所、海外では創立者の故国ポーランドおよび韓国に修道院がある。日本の会員数は120名。

【会からのメッセージ】
 わたしたちはいつも不思議のメダイを身に着けています。けがれなき聖母にすべてをささげて、聖母とともに主の道を歩んでみませんか。カトリックの洗礼を受けていて、修道生活への招きを感じておられる40歳未満の独身女性のかた、お待ちしています。

【参考文献】
『コンベンツアル・フランシスコ会来日50年の歩み』(1980)、季刊誌『愛』220号(2014)

12. 聖マリア在俗会〔在俗会〕

【沿革】
 1929年に来日したドイツ出身のゲオルグ・ゲマインダ神父(1900~1985、神言会)は、若い女性たちを修養する「聖母姉妹会」(後に「日本姉妹会」)を創立し全国的な運動へと発展させた。太平洋戦争下の思想統制により活動が難しくなると、師は一時ブラジルに転任したが、1948年に再来日し、名古屋外国語専門学校(現・南山大学)教授に就任した。
 そのおよそ一年前の1947年2月、在俗会に関する教令『プロヴィダ・マーテル・エクレジア(Provida mater ecclesia)』が教皇ピオ12世(在位1939~58)により発布されていた。在俗会の男女の使命と責任を説くこの文書を手にしたゲマインダ師は、在俗会は社会にも教会にも必要とされている生き方であると感じ、この教令を「時のしるし」として受け止めた。そして自身が創立した聖母カテキスタ学院の学院長を務める傍ら、1954年、名古屋教区長認可のもとで在俗会「童貞にして母なる聖マリアのカテキスタ会」(通称・聖母カテキスタ会)を創立した。このとき10名の志願者が修練期を開始したが、以後もゲマインダ師は会員の指導に尽力する。
 さらに1980年には、福音宣教省の布告をもって聖座法による女子信徒在俗会として正式に承認された。2006年、現在の「聖マリア在俗会」に改称し、新たな出発点に立っている。

【会の現状と今後の展望】
 在俗会の会員は、社会の一般的な生活条件の中で自分の仕事に従事しながら全生涯を神にささげ、キリスト者としての責任をもって現実の諸価値――社会、政治、経済、文化、教育、宗教など――を正しく用い、この世に福音の精神を浸透させるよう召されている。
 名古屋を本部とする本会は、全国を北日本・東日本・名古屋・西日本・九州の5地区と韓国1地区に区分し、それぞれを地区長が管轄する。会員数は175名。
 具体的な活動として、教育、医療、福祉、カテキスタやボランティアなどの小教区奉仕が挙げられる。
創立60年の節目と11回目の総会を開催した2014年は、過去5年間を振り返り、またこれからの5年に向けてのビジョンを見いだす大切な年である。今後も養成の充実と召命の促進を図り、日々の歩みが現実的具体的な在俗奉献として確実に生きるものとなるよう、発信を続けていきたいと願っている。

【会からのメッセージ】
 生活を神に奉献する意志と福音宣教に生きる強い望みを持っているかた、社会に適応する能力を持ち、心身ともに健康であるかた、生計を確保する職業的能力を持ち、自分の生活設計に全面的に責任を持てるかた、カトリックの洗礼を受けている独身女性のかた、お待ちしております。

【参考文献】
《Webサイト》http://www.maria-secular.jp/

13. 福音の光修道会S.L.E.

【沿革】
 1926年2月28日、教皇ピオ11世が全世界の枢機卿および司教に宛てた福音宣教に関する回勅『レールム・エクレジエ(Rerum ecclesiae)』は、日本に日本人の修道女会誕生を促す大きな契機となった。その土地と文化の中で修道生活を生きるようにという勧めが、本会の誕生にも影響しているといえる。
 日本人の精神と文化に深く通じていた函館教区長ベルリオーズ司教(1852~1929、パリミッション会)は、上記の司牧書簡に沿って、日本の福音宣教のために、日本人の修道女会設立を望んでいた。同じく、日本の女性徳によって宣教する修道会を創立しようとしていた長田シゲ(1900~1979)は、ベルリオーズ司教と出会ったと伝えられているが、確かではない。司教は修道会創立に着手する間もなく、1927年に病のため教区長を辞し母国フランスに帰国、その2年後に帰天した。
 その後、シゲは「ベタニアの家」での結核療養事業に携わり、1936年からは大分県別府市で同志とともに結核診療所「光の園病院」を設立するなど精力的な活動を行っていたが、宣教と愛のわざに身をささげるなかで、修道会設立を再び願うようになっていた。そんなシゲを中心とするグループは1948年頃に、同じく女子修道会を設立したいと考えていたドミニコ深堀仙右衛門福岡教区司教(1894~1985)と出会った。深堀司教は教会法による手続きを行い、1954年4月18日に福岡で、聖座の許可のもと正式に「福音の光修道会」が設立された。聖座に提出された修道会の名前は「聖心の光の使徒姉妹会」であったが、教皇ピオ12世は会の認可とともに、「福音の光修道会」という名を与えた。
 その後、シゲは自らの意志で修道会を退会したが、最後まで児童福祉分野で輝かしい功績を残した。

【会の現状と今後の展望】
 本会は、イグナチオの霊性を支えとし、「キリストと思いを一つにして」(フィリピ2・5)、父なる神と教会のために「すべての人に対してすべてのものに」なって(一コリント9・22)、父なる神と教会のために自分自身を余すところなくささげて福音を宣教することを目的とする。すべての人の救いと聖化を望むキリストの渇きにこたえるために、社会の不幸な現実に惜しみなく奉仕するとともに、社会が福音の喜びに満たされていくよう、福祉分野や小教区での教会奉仕活動を中心に献身している。
 具体的な使徒職は、幼稚園、保育園、児童養護施設、高齢者ケアハウス、デイサービス、居宅介護支援事業所、アルコール依存症者回復ハウス、作業所等である。
 本部がある広島の他に、福岡、ベトナムにも修道院がある。会員数は22人。ベトナムの会員も増えている。

【会からのメッセージ】
 会員は、まず互いに神の愛をより深く生きることに招かれている。それによって福音の光、すなわち神の愛の喜びが人々に伝わるようすべての人のすべてとなって献身するのである。大切な「いのち」が軽んじられている現代社会にあって、人々の救いと幸せを望まれるキリストの渇きはますます強く迫っている。キリストの渇きを満たすためにわたしを使っていただけるのは大きな喜びであり、恵みである。

【参考文献】
『永遠の生命―偲・ドミニコ深堀仙右衛門司教』(1996)

14. 聖マリアの汚れなき御心のフランシスコ姉妹会

【沿革】
 敗戦により、沖縄県および鹿児島県奄美群島はアメリカ軍政下に置かれ、琉球列島は鹿児島使徒座司牧区から離れ、一時的にグアム使徒座代理区へと委託されていた。1947年9月、琉球列島へのカプチン・フランシスコ修道会士の派遣が許可されたことを受け、宣教師フェリックス・アルビン・レイ(1909~1972)が来沖、宣教活動を開始する。焦土と化した沖縄には、衣食住の欠乏や教育・医療施設の不備のみならず、戦争未亡人の救済など、早急に対処せねばならない難問が山積していた。活動に取りかかるなかで、司祭や信徒とともに働く修道女を必要としたが、当時の沖縄に女子修道会は皆無で、日本国内はもとよりフィリピンやアメリカなどへの修道女の派遣要請も、人材不足により応じてはもらえなかった。そうしたなか、奄美でも教会の信徒たちから修道会新設を提案する声が挙がり、教区長と宣教活動において協働する邦人修道女会設立の準備が始まった。1949年3月、琉球教区長になっていたレイ師の許可を受け、3名の女子が奄美の笠利教会内で「愛苦会」の名のもと、共同生活を始める。それは、自給自足の傍ら、一時預かりの託児所を農繁期に開設し、子どもの世話や要理教育を行うものであった。
 1951年8月、戦前に奄美で活動をしていたガブリエル師との縁で、愛苦会は東京の「お告げのフランシスコ姉妹会」に4名の修道女としての養成を託す。同年12月、聖座より教区立のフランシスコ律修第三会「聖マリアの汚れなき御心のフランシスコ姉妹会」として設立認可を受ける。そして1954年8月、最初の誓願式が行われた。以降、奄美沖縄から続々と志願者を東京へ送り出す状況を受け、レイ師は沖縄県島尻郡与那原に土地を購入、本部修道院を創立するに至った。1958年7月、「お告げのフランシスコ姉妹会」設立協力者かつ初代総長となったSr.エリザベト寛トミや修練長Sr.セシリア川畑とともに、立願者8名、志願者4名が東京から沖縄に帰り、宣教活動を開始する。

【会の現状と今後の展望】
 フランシスカンとしての霊性である小ささや喜び、「イチャリバチョウデー(出会ったら皆兄弟)」を大切にしながら、教区の娘として教区長の要請と指導のもと、那覇教区の小教区と結びつきつつ聖母マリアの「みことばを心に納め生きる」精神で、使徒的奉仕をする。4、5名のグループを共同体の基本とし、小教区にある幼稚園や保育園での事業、教会へのカテキスタとしての直接・間接的な奉仕、南米やフィリピン人の司牧協力、病人訪問や女性相談所・児童相談所からの支援依頼への対応、平和活動や環境問題への取り組みなどで福音宣教に携わっている。
 県内7つの修道院には、39名が所属。フランシスカンとしてイエス・キリストの福音を生きる努力のなかで、今沖縄が置かれている現状から、また教区修道会として、地域社会とともに正義と平和と一致のパン種となる活動展開を心がけている。

【会からのメッセージ】
 平和建設のため、神の国づくりのため、わたしたちとともに、イエス・キリストの弟子になりませんか。「主がお入り用なのです」(ルカ19・34)とあなたを招いています。

【参考文献】
『那覇教区25周年記念誌』(1974年)、『那覇教区50周年記念誌』(1997年)

15. 聖ヴィアンネ会S.S.V. 〔在俗会〕

【沿革】
 1961年、名寄教会主任司祭ローター・ポレンバ(1928~、フランシスコ会)の霊的指導のもと、一般社会の中で多くの人々と接する在俗という形で、キリストの愛と教えを伝えたいと考えた6名が修練を行うようになった。そして1963年6月2日、札幌教区司教冨澤孝彦(1911~1989)を創立者とする女子在俗会としてその共同体が認可され、初誓願に至ったことが会の始まりである。
 以降、名寄、旭川、釧路、富良野、根室、士別など北海道内の各教会の付属幼稚園に会員が派遣され、幼児教育に尽くしてきた。現在は、旭川と釧路で園長などを会員が務めている。また、永年幼稚園に勤務した後に退職した会員も、祈りと奉仕の精神を共にしている。本部は1966年に旭川へと移転し、現在に至っている。

【会の現状と今後の展望】
 「全世界の司祭の保護の聖人」である聖ヴィアンネ神父(1786~1859)の精神に倣い、それぞれの場で祈りと行いを通してキリストの教えを実践することを旨とする。神の国の発展と福音のため、宣教精神をもち人々に神の愛といつくしみを伝え、この世を聖化することに努めている。
 主な活動は、幼児教育で献身的に働き、幼児とその家族、職員のために祈り、キリストの愛を伝え導くことを心に留める。また、教会に対する愛のあかしとして司祭のために祈り、教会の必要にこたえるべく、教会学校や祈りの集いなどの小教区への奉仕、病人訪問、癒しのための対話なども行う。会員は高齢化しているが、おのおのの能力に応じた宣教や奉仕活動を実践している。
 旭川本部と釧路支部に、会員が所属している。ほかに準会員制度がある。

【会からのメッセージ】
 よりよき人生を過ごすために、神の国の発展のため、自己をささげることを望まれるかたで、健全な精神をもち共同生活が可能なかたは、どうぞおいでください。

【参考文献】
日めくりカレンダー「創立50周年記念 聖ヴィアンネ司祭のこころ」

16. 聖体の秘跡のうちにましますイエスの聖心の奉仕者の会(通称・聖体奉仕会)

【沿革】
 太平洋戦争終結の翌年、秋田市郊外にあたる湯沢台の丘に入植した菅原すま子(1917~2013)は、祈りの場を作るべく原野を開拓し始めた。その後、集まった数名の女性たちはカトリック教会が日本の精神風土に根づくことを望み、新潟教区長で後に司教となる伊藤庄治郎(1909~1993)に観想的な修道会の設立を願った。1962年のことである。聖母マリアへの信心普及のために働き、以前から聖体にささげる会を作りたいという希望を抱いていた伊藤教区長は、これを受け、第二バチカン公会議の精神に則る新しい会の形態である「在俗会」の設立をめざす。そして1970年、新潟教区司教の認可による「聖体奉仕会」を秋田市に創立、教区内の教会カテキスタ等の在俗会員を増やした。
 秋田の本部では、1975年からの7年間で101回に渡り、聖堂に安置した木彫りの聖母像から涙が流れるという出来事が起きた。そして信者であるなしにかかわらず、この噂を聞きつけた国内外の多くの人々が訪問し、祈るようになった。これにより現在、本部修道院は涙を流した聖母像のある「祈りの巡礼地」(秋田の聖母)としても知られている。

【会の現状と今後の展望】
 「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(ヨハネ6・57)のみことばに従い、聖体に現存するイエスにすべてを奉献一致して生きることを目的に、新潟教区長の指導のもと、「渇く」(ヨハネ19・28)と叫ぶ主イエス・キリストのみ心に生活のあらゆる場面で愛によってこたえることを会の使命とする。幼稚園での勤務、老人介護やダルク支援、小教区奉仕、祈りの巡礼地での奉仕などを行っている。
 修道院は秋田にある本部のみで、ここで祈りを中心とした共同生活を送っている。他に、修道院外で1~2名が奉仕生活の形をとる会員たちが、新潟、東京、神奈川、千葉、和歌山、熊本にいる。会員数は23名。
 すべての出来事に思いをめぐらし、神のいつくしみ深い摂理に会をゆだねつつ、教会の中で出会う人々を通して「聖体」のイエスに仕え、「祈りの巡礼地」を福音宣教の場、人々が神と出会う場、信仰を深める場として守りたいと考えている。

【会からのメッセージ】
 本部共同体では、自然豊かな環境の中で共同生活を通して、ともに祈り、それぞれにあった仕事を通して、主イエスに仕える生活を送っています。また、社会の中で誓願を立て、それぞれの仕事、生活を通して仕える道もあります。

【参考文献】
『秋田の小さな修道院の物語―聖体奉仕会60年のあゆみと涙のマリア像』(2006)、『――祈りの巡礼地・秋田――湯沢台の風景』(2012)

(内藤浩誉)

特集2 キリシタン史跡をめぐる―九州編【2】カトリック中央協議会出版部・編

 全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の第9回目。今回は「九州編【2】」として、大分県、および昨年訪れることのできなかった熊本県天草の史跡を紹介する。訪問先については、教区から提出された教区内巡礼地一覧を参考にしつつ、各種資料を参照し選定した。
 (なお本文中、一部の文献、資料の引用にあたっては、旧字を新字に、旧かな遣いを現代かな遣いに、漢字をかなに、適宜改めた)

大分の史跡(1)

国東半島(7月28日)
 大分空港からタクシーに乗り海岸線を行く。車窓から海の景色をゆっくり眺めようと思っていたのだが、それができなかった。タクシーの運転手の話があまりにもおもしろかったからである。
 60歳代後半であろう彼は、1960年代から70年代にかけて、警視庁に機動隊員として奉職していたという。3億円事件、東大安田講堂事件、三島由紀夫自決、あさま山荘事件など、大事件が次々と起きた激動の時代に、若き機動隊員としてそれぞれの現場に立ち会わせた証人の貴重なことば、メモ帳片手に必死に耳を傾けてしまった。しかしながら、こういったことがタクシーに乗る際の一番の楽しみだろう。
 30分弱で前方左手に目的地が見えた。ペトロ・カスイ岐部公園である。運転手に教わるまでもなくすぐに分かった。緑の小高い山を背後に、手前に純白のマリア像が、そしてその奥の中央にはペトロ岐部のブロンズ全身像がすっくと立っている。像の作者は舟越保武氏である。
 わたしは以前から舟越氏のファンで、長崎西坂の二十六聖人像はもちろんのこと、氏の代表作といわれる作品の多くを直に見てきたのだが、このペトロ岐部像は未見であった。以前からの念願が今回ようやくかなった。

 ペトロ・カスイ・岐部像(舟越保武)

ペトロ・カスイ・岐部像
(舟越保武)

 空港に降り立ったときにすぐに感じたのだが、今日の暑さはだいぶしのぎやすい。澄んだ青空の下、丈高い大理石の台座に立つ像を見上げた。左手には聖書を持ち、胸を張って口をきりりと結び、じっと一点を強いまなざしで見つめるペトロ岐部である。しかしこの像、舟越氏の作品の中では異質といえるのではないだろうか。
 ダミアン神父像や原城の兵士像など、舟越氏の手による全身像の多くは、どちらかといえばやや背を丸め、肩をすくめたような姿勢をしている。そして、その顔は悲しみに似た表情を示している。確かに天へとまなざしを向けている西坂の二十六聖人像は背を丸めてはいないが、その姿勢はいわゆる「胸を張る」というものとは異なる。
 塗炭の苦しみを耐え抜いた殉教者であっても、ダミアン神父のような上長の命令に背いてまでハンセン病患者救済にその身をささげた勇者であっても、あるいは、血と汗にまみれて十字架を担いつつ刑場へと向かうイエス・キリストに対し、怯える群衆の中から抜け出して顔を拭う布を差し出したベロニカのような女性であっても、舟越氏が造形する人物は、毅然とした表情や自信にあふれた表情はしていない。個々の顔つきはさまざまであっても、一貫して「静謐」ということばが、氏の作品にはふさわしい。彫刻という芸術は一瞬の時を切り取る作業であるが、舟越氏は、そこに永遠を感じさせる。そしてそれは、明らかに祈りへと通じているのである。砂岩を素材とするベロニカの胸像の少しだけ口を開いた表情は、少なくともあらゆる恐怖を物ともせずといった烈女のそれではない。西坂の丘の二十六体の顔はそれぞれに異なってはいるが、聖者の威厳や歓喜というよりも、すべてを神にゆだねようとする純粋で無垢なまなざしを天へと向けている。
 対して、このペトロ岐部の像はどうだろうか。間違いなくこれは、自信に満ちた者の力強い表情である。司祭となって迫害に苦しむ日本の信徒を救うために、ことばも分からないままイスラムの隊商に加わって砂漠を渡りローマまでたどり着いた不屈の男の、神以外は何ものもおそれることはなかった勇気に満ちた精悍な顔つきである。マントを羽織り、その胸はぐっと前に張り出している。周防灘で海賊として暴れ、また戦のときには水軍として大友氏を助けた一族の遺伝子を受け継いだ稀代の冒険家の、実に堂々とした姿がそこにはある。
 しかし、じっと見つめているうち、一つの不自然さに気づいた。聖書を持つのとは反対の手、右手のことである。肘が微妙に曲がっていて、ある動作の途中のように思える。この腕は、ここから上げられようとしているのか。あるいは下げられるのか。親指以外の四本の指は揃えられているが、少しだけ内側に曲がっている。この右手は、果たして何を表しているのであろうか。はっきりとは分からないが、いずれにしろこの右手からは、他の部分とは妙にそぐわない印象を受ける。とくに正面から見つめていると、やや奇異な感じすら覚えてしまうのである。つまり、ここにだけ他の部分とは違って、威厳や力強さが欠けているようなのである。
 作者の意図は違うかもしれない。しかし、写真で見るだけでは一切感じることのなかったこの感覚に悩み像を凝視し続けて、わたしが至った結論を書く。この右手は、祝福の十字を切るために、今まさに振り上げようとされている手だと思う。
 有馬の神学校で学んだ後、迫害の進展によってマニラへと追放され、そこで司祭叙階されることを希望したが現地のイエズス会からは厄介者扱いを受け、あらゆる艱難辛苦を耐え抜いてヨーロッパへと渡り、ローマで念願の司祭となり、地上の栄達には一切目をくれることなく、苦しむ同胞に祝福を与えるため、告解を聴くため、ミサをささげるために、迫害の嵐がいっそう吹きすさぶ日本に恐れることなく潜入した岐部。怯えつつ潜伏して信仰を守り続ける信者を力づけようと、九州から東北の水沢(岩手県)まで旅した岐部。やがて捕らえられ、江戸であの井上筑後守の訊問を受け、逆さ吊りという過酷極まりない拷問をも耐え抜き、同僚が棄教する中でも信仰を堅持し続け、そのとき内臓が噴き出したといわれる残酷な火刑に処され殉教した岐部。舟越氏によるその像の右手に威厳がないなどというのは果たして暴言であろうか。
 確かに岐部という人を考えるならば、むしろその右手にこそ力強さが表現されているべきかもしれない。しかし、その尊い右の手に威厳ではなく、柔らかさが、優しさが、何ともいえない温かみがあるのだ。ここにこそ、舟越氏の信仰理解が、無意識裡であったのかもしれないが、確かに表現されたに違いない、そう感じたのである。この考えに至ったとき、これもまた氏の傑作の一つであることをわたしは確信した。

ペトロ・カスイ・岐部像(パウロ・ファローニ)

ペトロ・カスイ・岐部像
(パウロ・ファローニ)

 薄い朱色の花を咲かせているキョウチクトウの樹を挟んで、舟越氏の像の向かって左には別のブロンズ像がある。椅子に座った井上筑後守が両手を縄で縛られた立ち姿の岐部を訊問する様子で、パウロ・ファローニ神父の作である。痩せ衰えた岐部は笑顔とすらとれるような、不敵な表情を浮かべている。
 背後の山の頂上は岐部城址であり現在も石垣が残っているとのことだが、今回はそこまでは登らず、少しだけ高い位置にある十字架の場所まで行ってみた。この高さでは海は見えない。しかし、すぐ前を流れる岐部川の向こうに広がる水田の緑が実に鮮やかで美しい。一匹のカラスアゲハが悠々と飛翔していた。
 さて、ここからは海岸線を離れ、山中の道を宇佐駅へと向かう。こういったら失礼かもしれないが、ほとんど自動車の往来がないにもかかわらず、整備されたいい道が通っている。田中角栄内閣時代に初代国土庁長官を務めた西村英一が、この国東半島の北に浮かぶ姫島の出身であり、タクシーの運転手によれば、彼の力によるところが大きいのだそうだ。やや便の悪い場所に空港があるのもそれゆえとのことである。

天念寺の不動明王と二童子像

天念寺の不動明王と二童子像

 少し時間があるとのことで、運転手が気をきかせてくれて、天念寺という寺に寄ってくれた。臼杵をはじめ大分にはいくつもの磨崖仏があるが、この寺の前を流れる川の中の巨岩には、不動明王と二童子像が彫られている。
 寺の隣には社がある。石の鳥居の島木を支える台座が丸い座布団のような形をしているのが特徴的だ。
 国東は、天台宗の修験道と八幡信仰とが融合し、独特の山岳信仰が形成されていった地である。悪女として名高い大友宗麟の妻は、この国東半島の出身である。大分空港の南に奈多という地があるが、彼女はその奈多の八幡宮の大宮司の娘として生まれた。宗麟との結婚後、夫がキリスト教へと傾倒していくことに猛烈に反発し、その結果、宣教師たちからイゼベルと綽名されている。イゼベルは列王記に登場するイスラエル王アハブの妻であり、預言者エリヤに敵対した女である。チースリク師によれば、彼女は「ヨーロッパのキリスト教国では、夫に対して悪影響を及ぼす妻の典型」なのだそうだ(『東国東郡におけるキリシタン』)。宗麟が受洗したのは、この悪妻と離別した後のことであった。
 確かにこの奈多夫人にはやや暴力的な言動も伝えられており、フロイスをはじめ宣教師たちが彼女を悪しざまに描くのは、しかたのないことかもしれない。しかし、わたしは彼女に対して幾分同情的である。おそらく彼女は寂しかったのだろう。キリスト教へと傾いていく夫の姿を見て、己の出自が否定されるかのように思えたのではないだろうか。夫が自分のもとを去り別の世界へと旅立ってしまうかに思われ、一人切なく孤独を感じたのではないだろうか。
 宇佐駅に着きタクシーを降りた。小さな駅舎だが、社に見立てて塗られた朱色が派手だ。御神燈の提灯とともに注連縄も飾られている。冷房のきいた待合室でささやかな昼食を済ませ、大分へと向かう特急電車に乗り込んだ。 

大分市内(同日)
 本を読みながら寝入ってしまったのだが、目を覚ますと、電車は別府駅で停車している。車内放送に耳を傾けると、何らかの理由で3号車の窓ガラスに亀裂が入ってしまい、その応急処置を行っているとのこと。別府出発後は徐行運転になり、予定より20分以上遅れて14時ごろ大分に到着した。
 大分駅は現在改装工事中で、北口駅前広場に建っているはずの大友宗麟像も一時的に移設されてしまっている。立派な口ひげをたくわえ、首から大きな十字架を下げたこのブロンズ像を見たかったので、少々残念に思う。作者は長崎出身の彫刻家、富永直樹氏である。

大分のデウス堂跡碑

大分のデウス堂跡碑

まずは駅前の国道10号を東に進み、デウス堂跡を目指す。歩道橋のある交差点を通過して県立盲学校の前あたりで右に入りすぐに左折すると「さとう」という割烹の大きな看板が見える。ここがデウス堂跡である。小さな碑とタイル製の解説の板が「さとう」看板下に建っている。
 まだ受洗前ではあったがキリシタンを庇護した宗麟が、この地をバルタザール・ガーゴ師らに与え教会堂が建てられたのは天文22(1553)年のことである。それは、山口にいたフランシスコ・ザビエルに当時22歳の青年であった宗麟が書簡を送り、二人の会見が実現した2年後のことであった(ここで断っておくが、本来ならばここでは宗麟ではなく義鎮と書くのが正しい。大友宗麟は生涯に何度か名前を変えている。しかし煩雑になるので、便宜的に表記は宗麟に統一する)。
 教会堂建設後、府内では順調に布教が進んでいく。これは1555年の記事だが、「四旬節の初めから聖霊降臨の日まで、府内では毎日説教が行なわれ、人々は席を確保しようと、夜分に、そして時には夜明けの二時間前に村々から集まって来た。その数はあまりにも多く、場所が足りぬほどであった。そして連日ほとんどあたりまえのように洗礼が授けられた」とフロイスは記している(松田毅一・川崎桃太訳『日本史6 豊後篇I』)。ザビエルによって蒔かれた種は、このように大きく花開いていったのである。
 大友宗麟とはいかなる人物であったのだろうか。これがわたしには妙に分かりにくい。遠藤周作氏に宗麟を主人公とした『王の挽歌』という小説がある。読みだしたら止められない傑作なのだが、その小説世界に描かれる宗麟と実際の宗麟には、多少の落差があるような気もする。
 たとえば受洗後の宗麟は、神社仏閣の破却を盛んに行った。これを遠藤氏は描いていない。そのことを谷川健一氏がある対談で厳しく批判している(大江修編『魂の民俗学――谷川健一の思想』。もっともその中で谷川氏が、遠藤氏には「今も生月に残るかくれキリシタンに対しての同情はない」といっているのだが、これは言い過ぎだと思う。少なくとも『母なるもの』一編を読むだけで、それとは正反対の心情を遠藤氏が抱いていたことは理解できるだろう)。
 いずれにしろ宗麟という人物は、実にさまざまな面をもった人であったようである。サビエルと会見した頃の宗麟は、他の武将と同様、宣教師に近づくことが南蛮との貿易による利潤をもたらすという打算ももっていたことだろう。また、受洗前は深く仏教に帰依していた彼だが、同時に好色な面も併せもっていた。毛利や島津との戦いを見るかぎり、戦国武将として優れていたとは言い難いようにも思う。しかし、この宗麟の存在があったからこそ、豊後にはキリスト教が広まり、多くの西洋文化が花開いた。これは事実である。
 先ほど通過した交差点まで戻り、大分城址に向かって右折する。やがて、道路の中央に続く細長い公園に出る。遊歩公園である。ここには、キリスト教の伝来と同時にもたらされた、さまざまな西洋文化に材を採った彫刻や記念碑が点在している。今回わたしは逆にたどったのだが、城側から紹介したほうが分かりやすいので、関係のない内容のものを除き順に列挙しておく(括弧内は作者名)。

西洋音楽発祥記念碑(富永直樹)

西洋音楽発祥記念碑(富永直樹)

 聖フランシスコ・ザビエル像(佐藤忠良)

 聖フランシスコ・ザビエル像  
(佐藤忠良)

伊東ドン・マンショ像(北村西望)

伊東ドン・マンショ像(北村西望)

西洋医術発祥記念像(古賀忠雄)

西洋医術発祥記念像(古賀忠雄)

西洋劇発祥記念碑(舟越保武)

西洋劇発祥記念碑(舟越保武)

育児院と牛乳の記念碑(圓鍔勝三)

育児院と牛乳の記念碑(圓鍔勝三)

 「聖フランシスコ・ザビエル像」(佐藤忠良)、「西洋音楽発祥記念碑」(富永直樹)、「伊東ドン・マンショ像」(北村西望)、「西洋医術発祥記念像」(古賀忠雄)、「西洋劇発祥記念碑」(舟越保武)、「育児院と牛乳の記念碑」(圓鍔勝三)。どれもが1900年代の日本彫刻界を代表する作家の手による作品である。なお、正確にはザビエル像は遊歩公園横の大手公園内に、西洋音楽発祥記念碑はその向かいの県庁敷地の角に建っている。
 五野井隆史氏が『豊後におけるキリシタン文化』という論稿において、上に挙げたような西洋文化がどのように豊後に伝えられ、どのように活動が行われ広がっていったかを詳しく論じているが、そこで氏は次のように述べている。「一五五〇年代半ばから一五六〇年代半ばにかけて、豊後府内がヨーロッパ文化の受け皿となってこれを移植し、各地のキリシタン教会に対する発信地となっていたことが確認される。これは同時期キリスト教宣教の拠点が府内にあったことに起因する。キリスト教の初期宣教時代において、府内が果たした文化的役割の大きさもまた再認識されるべきである」。
 ザビエルの訪問地として鹿児島や山口は有名である。それと比較して大分があまり注目されないのは、インドへと渡る直前のわずかな滞在であったからであるが、ザビエルが豊後を訪れ、そして、宗麟の庇護を受けバルタザール・ガーゴによってこの地で宣教が行われたことにより、初期キリシタン時代において豊後は重要な役割を担っているのである。そうした歴史的事実を、この遊歩公園の彫刻群は丁寧に伝えている。
 ここで二人の人物に触れないわけにはいかない。伊東マンショとアルメイダである。
 伊東マンショはいうまでもなく、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンとともにローマに渡り、ローマ教皇の謁見を受けた天正遣欧少年使節の一人である。
 使節一行は、ローマで熱烈な歓迎を受けた。伊東マンショはその一行の主席であり、大友宗麟の名代であったのだが、松田毅一氏の詳細な研究によって、宗麟はこの使節に実際にはかかわっていないことが明らかになっている(『天正遣欧使節』)。宗麟がマンショをローマへと送ったのではないのである。使節の立案者はヴァリニャーノ師であり、彼は、日本での布教促進の援助を得るため、そして日本人に、ヨーロッパにおいて教会がいかに偉大であり権威あるものであるかを知らしめるために、これを企てたのである。したがってこの使節は、日本のキリシタン大名がローマ教皇への恭順の意を表すために実施されたものではない。ヴァリニャーノ師は宗麟の書状を偽造し、使節のメンバーの身分も偽って、4人の少年を日本の諸侯の正使に仕立てたのである。
 この偽装についてヴァリニャーノ師は後に非難を浴びることになるのだが、彼にはこのような無茶をしなければならない理由があった。
 当時の布教長カブラル師は日本人を激しく嫌悪していた。日本人を低級な民族と決めつけ、日本人の司祭を生むことなど考えず、むしろ日本人の司祭叙階への道を妨げていた。これに真っ向から対立したのがヴァリニャーノ師なのである。彼は、日本は日本人聖職者によって司牧されるべきと考え、有馬と安土とにセミナリオを開設、日本人聖職者の育成を始めたのである。遣欧使節の4少年は、この有馬のセミナリオで研鑽を積んだ。
 この点でヴァリニャーノ師は評価されるべきなのであるが、彼にしても日本の文化や風習をすべて肯定していたわけではない。したがって、使節たちに、ヨーロッパの優れた文化に直に触れさせ、それを日本人へと伝えさせようとの意図を彼はもっていたのである。
 北村西望氏による伊東ドン・マンショ像は騎馬姿である。したがってこれは、教皇謁見の際の行列の姿であろう。表情には幼さがある。伊東マンショの出生年は正確には分からないが、長崎出帆時には13歳ぐらいであったろうと推定される。教皇の謁見を賜ったのは出国から3年後のことなので、もう少し青年らしさがあってもいいのではないかとは思う。
 ちなみに、そのときの教皇はグレゴリオ十三世であるが、彼は使節謁見のわずか1か月後に帰天してしまう。次教皇はシスト五世で、使節一行は図らずも2人の教皇の謁見を賜るという栄誉に浴したのである。
 次にアルメイダである。西洋医術発祥記念像と育児院と牛乳の記念碑とに彼の姿は刻まれている。
 アルメイダは、商人として天文12(1552)年に初めて来日した。その際には、平戸からわざわざ山口のトルレス師を訪ねている。
 1555年に再来日。翌年イエズス会に入会し修道者となる。彼は商人として得た莫大な財産を持参していたが、これを貿易基金として投資し利潤を上げ、資金難に苦しんでいた会を救った。
 彼は精力的に布教活動に従事したが、同時に、当時貧しさゆえに出生後すぐにいのちを奪われていた新生児を救うための育児院の開設に尽力した。この育児院では、乳児を養うために当時の日本人にはなじみのなかった牛乳を与えたという。また府内に会によって建てられた病院では、若き日に学んだ外科医術を駆使して医師としての仕事にも携わった。
 フロイスはアルメイダの人柄を次のように伝えている。「(アルメイダ)師は、日本の習慣をよくわきまえており、(日本の)人々と談話していて、その心を掴むことに不思議な(ばかりの)才能を有していたから、キリシタンであると異教徒であるとを問わず、彼は日本の殿方にこの上もなく愛された。彼の事業がすべての人々から大いに受け入れられたところからすれば、我らの主なるデウスは、人々との交際において、(アルメイダ)師に特別な恩寵と才能を授け給うた(ように思われる)」(同前『日本史10 西九州篇Ⅱ』)。アルメイダの備えていた医療技術がどの程度のものであったかは明らかではないが、このフロイスの記述からは、藁をもすがる気持ちでその病院を訪れた貧しい病者から慕われ、深く愛された人物であったことが理解できる。真摯に信仰を求める姿勢と、商人として培われた社交性とが、彼においては理想的なかたちで融合していたのだろう。
 遊歩公園の彫刻を一つ一つ眺めていけば、16世紀後半にこの大分の地において、キリスト教の布教とともにさまざまな西洋文明に日本人が接していったことがよく分かる。しかし、この西洋文明の移植は、幕末および明治期のいわゆる文明開化とはまったく質の異なるものである。つまり、それによって日本の文化が根底から揺さぶられたわけではない。やがてキリスト教は迫害されることになり、日本は西欧諸国に対し国を閉ざしてしまう。
 富永氏の西洋音楽発祥記念碑は、外国人宣教師の奏でるヴィオラに合わせて、あどけない表情の日本の子どもたちが大きく口を開けて合唱しているという、なかなか味わいのある彫刻であるが、大友宗麟も魅了されたこの西洋楽器の音は、歴史の流れから見れば、わずかの期間、日本人の耳を楽しませたに過ぎない。
 ちなみに、この彫刻では宣教師が楽器を胸に当て弓でそれを演奏しているが、当時もたらされたヴィオラという楽器が「楽器を膝に置いて弾くビオラ・ダ・ガンバ系統のものか、胸に置いて弾くビオラ・ダ・ブラッチョ系統のものであるか」は、各種史料の記述からだけでは特定できないのだそうだ(竹井成美「『サカラメンタ提要』が語るもの――ザビエルが伝え、残したもの」、『東洋の使徒ザビエル(2)――アジア世界におけるヨーロッパ・キリスト教文化の展開』所収)。
 大分駅に戻り臼杵行の日豊本線に乗車し、2つ目の高城駅で下車。県道610号を徒歩で南下する。時刻は午後3時過ぎ。午前中に国東では気候を爽やかに感じていたが、この時間になるとさすがに暑い。別に景色が楽しめるわけでもない道をひたすら歩き、県道21号と交わる交差点を左折。八坂神社の前を過ぎしばらく行くと、前方に左手を指し示す「キリシタン公園」の表示が見える。徒歩50分ほどである。公園の入り口には「大分県キリシタン殉教記念公園」という木製の看板とともに白い十字架が建っている。
大分県キリシタン殉教記念碑(北村西望)

大分県キリシタン殉教記念碑(北村西望)

 芝に覆われた築山の上で、男女6、7人ほどの子どもたちが鬼ごっこに興じていた。その脇を通って奥に向かうと、役人に捕えられたキリシタン一家の描かれたブロンズレリーフが嵌め込まれた、大変大きな碑が目に入る。作者は北村西望氏である。
 豊後では大友宗麟によりキリシタンは手厚い庇護を受けていたが、彼が天正15(1587)年に58歳で病没し、跡を子義統が継いだ後に迫害が始まる。この義統は、はっきりいってしまえば出来の悪い息子で、妻子とともに受洗はしたが、秀吉が禁教令を出すとあっさり棄教してしまい、領内のキリシタンに棄教を命じ、その処刑も行っている。「嫡子に見られる惰弱な性格、頽廃した素行、および底知れぬ非道の深淵にひたりきった、その生活態度こそは、父君なる国主フランシスコの(輝かしい)信仰や徳行から遠くかけ離れ、彼を堕落せしめる原因であった」とフロイスの記述は手厳しい(同前『日本史8 豊後篇Ⅲ』)。そして彼は、文禄の役での失敗を秀吉に咎められ、この地で400年近く続いた大友の家をも潰してしまうのである。
 弾圧が過酷さを極めるのは寛永14(1637)年の島原・天草の乱以後のことである(この一揆については、後に改めて触れる)。幕府の禁教政策は厳重になり、各地で多くのキリシタンが殉教したわけであるが、ここ豊後ではとくに、1660年代に「豊後崩れ」と呼ばれる大弾圧が起きている。その後も迫害は続き、万治3(1660)年から天和2(1682)年までの間に豊後において召し捕らえられたキリシタンの人数は517人に及び、処刑あるいは牢死によって、多くの殉教者が出ている(姉崎正治『切支丹宗門の迫害と潜伏』参照。なお人数には諸説ある)。
 碑に添えられている由来書によれば、この周辺には多くの潜伏キリシタンがいて、公園のある葛木という地はもっとも多くの殉教者を生んだそうである。碑は1970年に建てられているが、このような立派な碑でもって顕彰が行われているのは、1947年から1963年にかけて第3代大分市長を務め、カトリック信者であった上田保氏の力によるところが大きい。政治家としての手腕の評価は高く、大分発展の基礎を築いた人として知られている。

 カトリック鶴崎教会

カトリック鶴崎教会

 公園を出て県道21号をそのまま東に進み、県道208号と交わる交差点で左折し北上する。高城駅に戻るのではなく、一駅先の鶴崎駅へと向かった。どちらに行くにしてもほぼ同じ距離であるし、せっかくなので鶴崎教会に立ち寄ろうと思った。
 駅近く乙津川を渡る手前、大手家電量販店の向かいの細い道を入った先に教会はある。静かな住宅街の一角である。隣の幼稚園で何か催しがあるのだろうか、若い父親に手を引かれた女の子が、わたしの前で教会の敷地に入っていった。質素な聖堂で、内部は木のぬくもりを感じる。汗を拭って椅子に腰かけ、しばしの間十字架像に向き合った。

速見郡日出町(7月29日)
早めに起床。大分駅7時15分発の日豊本線・杵築行に乗り込んだ。
20数分後、豊後豊岡駅で下車。日出藩成敗所跡を目指す。ここは188福者の一人、加賀山半左衛門の殉教地である。
ホテルを出たときは、湿度が低く快適と思ったのだが、段々と暑くなってきた。セミの声が喧しい。セミの声は確かに夏の風物詩ではあるが、夜鳴く虫の声のように穏やかな気持ちにはしてくれない。とくに西日本に来ると、アブラゼミやミンミンゼミだけでなくクマゼミの大きな声が混ざるので、さらに暑さが募ってくるような気分になる。子どものころは間違ってもこんなことは思わなかったがなあと、そんなことを考えつつ歩を進めた。
駅を降りると「日出藩成敗所跡地」および「日出殉教公園」まで1.8kmの表示がすぐに目に入った。おおよその場所の見当しかつけていなかったのだが、それを見て、さして迷うこともなさそうだと安心した。しかし結果を先にいえば、単純な道順であるはずなのに大いに迷ってしまった。
小学校の先に「日出殉教公園1.2km」の表示があり左を指している。そこで左折したのだが、ここからおかしなことになってしまった。住宅街の細い坂道(かなり急な勾配である)を上っていったのだが、そのうちよく分からなくなってしまった。
迷った以上、たどった道を説明することはできない。「日出殉教公園250m」の表示を見いだしたときには正直ほっとした。8時10分頃、ようやく到着。急坂をうろうろしたので、全身汗まみれである。
広くはないが、四阿もあり花壇も美しく、品よく整備された公園である。手前には、つい数週間前に大分を訪問しているローマ教皇庁大使ジョセフ・チェノットゥ大司教の植樹の標柱が見えた。

日出藩成敗場跡地の供養塔

日出藩成敗場跡地の供養塔

ここは日出藩の罪人処刑場跡地で、十一代藩主木下俊懋が、松屋寺住職大蓮和尚に命じ慰霊のために建立した立派な供養塔が残っている。寛政11(1799)年に建てられ、碑の下には法華経を一字ずつ写した川石が収められているとのことだ。正面には「大乗妙典石書等」と、勢いのある太字で彫られてある。色鮮やかなカノコユリが手向けてあった。
バルタザル加賀山半左衛門は、昨年紹介した加賀山隼人の従弟にあたる人物で、5歳になるその息子ディエゴとともに当地で殉教した。この人物について残されている史料は多くはないが、パジェスはその殉教の模様をこう伝えている。「役人は、彼に敬意を表して次の如く尋ねた。『貴下は、何處でお果てなさりたいか。』彼は、彼の贖主たるキリスト様に倣い申したいと希望を述べた。(中略)悦びのしるしに、彼の夫人と娘とは、家の閾で彼の足を洗った。四歳になる彼の息子ジャコモは、彼の膝にからまって、イエズス・キリストのために一緒に死にたいとせがんだ。/おお神の御計画の深きことよ! 息子の留置されていることを知らなかった父は、彼に刑場に来ることを許した。彼は、死ぬ前に立派な演説をし、勝利の賞品として死を受けた。幼い子供は聖なる遺骸の前に跪き、幸福な父の後を追って死んだ」(『日本切支丹宗門史』中巻)。間違った感想とのそしりを受けるかもしれないが、この幼いいのちが天に召された美文調の殉教譚を読むと、どうしても切なさややりきれなさを禁じ得ない。
公園にはこの地が加賀山半左衛門の殉教地であることを解説する板は建てられているが、それ以上のものはない。しかし、殉教公園と名付けられている。あるのは木下俊懋が建立した供養塔ばかりである。それは、死の直前の「立派な演説」で、加賀山半左衛門が「虚偽に満ちている」といった仏教徒の手によるものだ。だが、このことに皮肉を感じたりする必要はない。あまり余計なことはせずに、史跡は守られるべきである。
帰りは下り坂だ。正面には、夏の日差しを浴びて銀色に輝く別府湾の海原が見える。炎天下に立ち止まり、しばし美しい風景を堪能した。しかし、次の予定のために8時56分の電車に乗らなければならない。単線で本数の少ない路線ゆえ、これを逃したらすべてが狂ってしまう。やや歩を速め駅へと戻った。

臼杵市野津町(同日)
大分駅に戻り、遅めの朝食をそそくさと済ませた後、9時48分発、佐伯行の路線バスに乗り込んだ。目的地は臼杵市野津町。大分市内でバスは、アルメイダの名を頂く病院の前を通過した。
野津には、個人で経営しているキリシタン資料館があるとの情報を出発前に得ていた。インターネットで検索して調べてみると事前予約が必要とのことなので、電話を掛けてみた。しかし、何度掛けても不在である。出発前日の夜、ようやく電話がつながった。要件を伝えると、5年ほど前にすでに資料館は閉館したとのこと。おそらく戸主が代替わりし、続けていくことが困難になったのだろう。所蔵品はすべて市に寄贈したとのことである。ネット上のさまざまなサイトでは、いまだにこの資料館が存在しているかのように書かれているので注意してほしい。
しかし、野津を訪れる第一の目的が上記の資料館であったわけではない。ここには、キリシタン地下礼拝堂という少々珍しいキリシタン史跡がある。詳細はよく分からないのだが、迫害時代の史跡のようで、横穴式の古墳を利用した、潜伏キリシタンの礼拝堂であるらしい。これをぜひとも訪れようと思ったわけである。
大分駅から1時間弱。野口というバス停で下車した。国道から西側の山道に入っていく。事前に大まかな位置を地図上で特定してはいた。しかし、周りは山と畑ばかり、付近に案内表示などが立っているわけではないので、ある程度勘を働かせて進んでいくことになる。今はブログなどで、こうしたあまり有名ではない地元の史跡を紹介している人も多く、各種サイトで見た写真が、こういった際に結構役立つ。また、この取材では、こうした状況は幾度も経験してきている。心のゆとりは十分にあった。
それにしてもだれにも行き会わない。自動車も通らず、畑仕事をしている人すら見かけない。セミと鳥の声が響くばかりである。
やがてこのあたりだろうと思われる場所に到着した。竹で覆われた山の中にあるようなので、立ち入れそうなところから付近の竹林に分け入ってみた。すぐ見つかるだろうと高をくくっていたのだが、どうしてどうして、なかなか見つからない。あちらこちら藪の中を歩き回り、蜘蛛の巣だらけになった。だが、分からない。
だれかに尋ねてみたかったのだが、人っ子一人いない。段々と焦ってきた。可能性を感じるところには、ことごとく分け入った。藪蚊の集中攻撃にも耐え、猪なのか鹿なのか、突然藪を揺らす大きな音に驚かされながらも、どんどん進んだ。しかし、いずれもが不発であった。
一時間半ほど、ひたすら探し回ったのだが、ついに諦めざるを得なかった。この取材を始めてはや9年になるが、初めての完敗である。
本欄で、この史跡を紹介できないまま終わることを申し訳なく思う。中途半端な取材になってしまったことを謝りたい。
少なくとも、当地に関しては、地元のかたの協力を得て訪れるべきであった。一人で訪れることを基本コンセプトにして、これまで各地を歩いてきたのだが、目的の史跡に行き着けないのであれば、それは自己満足になってしまう。そう考えると悔しかったし悲しかった。
個人的にでも、ぜひこの地を再訪し、地下礼拝堂をこの目にしたいと思う。その機会が得られたならば、後日何らかのかたちで報告できればと思う。
野津には他に「磨崖クルス」なるものも残されている。大きな岩に十字が陽刻されたものである。この遺物についても詳細は分かっていない。せめてこれを見られればよかったのだが、その時間すらなくしてしまった。ちなみにその場所は、国道10号沿い、野口バス停より少し手前で、日当三叉路から数百メートル南の寺小路というところである。国道10号には「磨崖クルス」という案内表示も立っているようだ。
野津は、天正6(1578)年の日向侵攻の際に宗麟の嫡子義統が居住地とした場所である。義統は「自分に奉仕していた若く身分の高い家臣たちの数名に洗礼を受けさせようとして」、臼杵にいたフロイスをこの地に招聘している(同前『日本史7 豊後篇Ⅱ』)。フロイスによれば「野津の(キリシタンたち)の初穂」は「リンセイと称する」当地の支配者であった(同前)。その後、この地では多くの人が受洗し、天正9(1581)年の「イエズス会日本年報」には「野津のレジデンシヤは臼杵のカザに附属しているが、本年は同所にパードレ一人及びイルマン一人がいた。労役者が欠乏せるため、右のパードレが年末に他の地方に派遣されたので、同レジデンシヤ及びその周囲に在る町々の六千人を超えたキリシタンは、当カザの管轄に帰し、ここから巡回して本年は二千五百人のキリシタンを得た」との記述を見ることができる(村上直次郎訳『新異国叢書3 イエズス会日本年報 上』)。
このように豊後のキリシタンの歴史を考えるうえで、野津は重要な地なのである。何らまともな取材を行えなかったことを深く恥じ入る次第である。

竹田市(同日)
犬飼という大変寂しい無人駅で豊肥本線に乗車。約1時間後に豊後竹田駅に降り立った。
もう30年近くも前のことになるのだが、この竹田には一度訪れたことがある。大学入学を控えた高校3年生のときで、一人旅であった。その際には、滝廉太郎が「荒城の月」の着想を得たといわれる岡城址に登った。夕景の中で見た美しい石垣が今も記憶に残っている。
気持ちは大いに傾くのだが、今回は岡城には行かない。まずは竹田市立歴史資料館へと向かう。2階に上がると、数名の高校生が、地元の文化財を紹介する企画なのだろうか、マイクを持ってビデオ収録を行っていた。
2階の資料室には、十字が刻された墓石などキリシタン関係の資料が展示されている。織部燈籠もあったが、その解説には「キリシタンの意匠とする説があるが、詳細は不明な点が多い」と記述されており好感がもてる。
目当ては「サンチャゴの鐘」である。中央の陳列ケースにそれは収めてあった。2010年の本特集で紹介した、京都の妙心寺春光院にあるものと同型の銅鐘である。「1612 HOSPITAL△SANTIAGO」の文字と十字とが陽刻されている。この刻まれた文字から、これは、長崎にあった「聖ヤコボの病院」(『日本切支丹宗門史』上巻)の鐘であることが分かるわけだが、どのような経緯で、それが岡藩主中川氏の所有するところとなったのかは詳らかでない。この病院を含め長崎に7つあった病院は、元和6(1620)年に長崎奉行長谷川権六の命により破壊された。
京都のときとは異なり陳列ケースのガラス越しに見たわけだが、重量感は十分に伝わってくる。400年前には、さぞ澄んだ音色を長崎の空に響かせていたことだろう。
鐘は国の重要文化財であるため当然保護が最優先されるのだが、2012年5月に竹田市が文化庁から特別の許可を受け、現在は失われている舌を複製し、大分市内のスタジオで鐘の音の収録が行われている。この音源は岡藩城下町400年祭のサイトで聴くことができる(http://www.taketa-city.com/oka400th/)。

14

資料館で絵地図をもらい、それを片手に歩く。趣きのある殿町武家屋敷通りを進むと、ここに掲げた写真のような道案内に出くわした。これには思わず笑ってしまった。こんなことをしていいのだろうか。観光資源としてはキリシタン洞窟礼拝堂のほうが優位ということなのだろうが、それにしても少々ルール違反ではないかとも思える。この狐の像の表情がやや滑稽で(普通お稲荷さんの狐は、もう少し緊張感のある顔をしているものではないだろうか)、それに「切支丹礼拝堂」の文字が何やらロックバンドのロゴのようなレタリングで、すべてが微妙にずれていることが笑いを生む。だれがこんなことをしたのか知らないが(お役所の仕事ではまずないだろう)、果たして趣味がいいのか悪いのか。
この狐の案内に従い細道に入ると、すぐに左折を促す看板があり、解説の板が立っている。「竹田とキリシタン」というこの解説の板は、竹田商工会議所青年部によって立てられているが、もしかすると狐の案内もその青年部の仕業かもしれない。道を挟んで向かいには赤松稲荷神社の赤い鳥居が建っているが、二体が対であるはずの狐の像が右側にしかない。まさかとは思うが、左側の狐像をあそこに移してしまったのか。表情も大きさも件のものと同一なので、両者が対である可能性は非常に高い。

キリシタン洞窟礼拝堂

キリシタン洞窟礼拝堂

鮮やかな黄色に染まった瓢箪のような形をしたカボチャ(だと思う)が、棚で鈴生りになっているのを見ながら先へと進む。すると眼前に、樹木に覆われた山肌の一部に露出した岩に彫られた洞窟礼拝堂が現れる。背面が鬱蒼としていて、いわく言い難い奇景のようにも思える。もっと山奥であれば分かるのだが、正直にいえば、武家屋敷が立ち並ぶ通りから距離幾ばくもないこんなところに、「隠れる」ために苦労してこのような規模の洞窟を彫ったというのは、俄かには信じられぬような気もする。ただ、半田康夫氏によれば、この地は「岡(竹田)藩の処刑場の裏山で、しかも竹藪にかくされていたために、土地の人にもあまり知られていなかった」とのことである(『豊後キリシタン遺跡』)。つまり、わたしが今辿ってきた道のあたりは、以前は深い竹藪であったということなのであろうか。それならば、多少は潜伏に効果があったかもしれない。
白く塗装された木で柵が設けられており中に入ることはできないが、入り口上部の曲線など、実に丁寧にしつらえてある。柔らかい凝灰岩であるため比較的細工がしやすいことは確かであろうが、このような几帳面な仕事から想像されるのは、これが一時的に利用されただけの施設ではないということである。ある程度の恒久性がなければ、こうした造りにはならないであろう。
内部についても同様で、入り口には階段が続き、正面の祭壇状の遺構の上部の三角形に沿って、天井も切妻屋根の内側のように三角形に彫られてある。祭壇状の遺構は4層になっていて、一番奥は長方形にくり抜かれている。そこに現在では小さな十字架と燭台が置かれてあるので、それが祭壇なのであろうとの判断がつくのだが、十字の刻印などはとくに存在しないようだ。
竹田市教育委員会による解説には次のようにある。「凝灰岩をくりぬいたこの洞窟は、一四世紀頃のローマの洞窟礼拝堂によくにている。こうした点で洞窟礼拝堂としては全国でも例を見ない。/内部は、幅三メートル、高さ三・五メートルで、正面奥の壁をほりこみ祭壇として使用していたと考えられる」。
祭壇遺構のある洞窟の左には、横に大きく口を開けた広いくぼみがある。ここは潜伏司祭が隠れ住んだ場所であると伝えられている。先に引用した半田氏によると「今はこの洞窟の前壁はくずれ落ちてしまった」(同前)とのことなので、もともとは、正面の洞窟のほうへと向かって横に彫られた穴だったのであろう。
しかし、竹田市教育委員会の解説を読んでも、半田氏の著作を読んでも、この洞窟がキリシタン史跡であるという決定的な根拠を知ることはできない。あえていえば、その造作が純粋に東洋的な印象を持つものではないという点が、根拠といえば根拠なのであろうか。しかし、教育委員会の解説にある「一四世紀頃のローマの洞窟礼拝堂」というのが具体的にどのようなものを指すのかは知らないが、逆に西洋的かと問われれば、まさしくそうだと即答することもできないように思う。
藪蚊を追い払いつつ洞窟内部を観察し、写真撮影を終えて石段を下りると、ここにも教皇大使の植樹があった。チェノットゥ大使が竹田を訪れたのは7月7日で、地元のプロテスタント教会付属の保育園の園児が讃美歌を歌って出迎えるなど、大変な歓迎ぶりであったようだ。後日大分合同新聞のサイトで、市民に取り囲まれ盛んに握手を求められている大使の写真を見た。
竹田は規模こそ大きくはないが、大変情緒ある落ち着いた城下町だ。さまざまな史跡に足を止めつつゆっくり散策してこそ、その魅力が理解できる。しかし今回は、わずか1時間半ほどの滞在。気持ちを残しつつ、九州横断特急に乗り込んだ。
発車してまもなく、激しい夕立が降り始めた。この日は昼食を取ることもできなかったのだが(犬飼にいた時刻がちょうど昼食の頃合いであったのだが、あの寂しい駅近辺には何もない)、濡れずに済んだ幸いを喜びつつ、一日の行程を終えた気安さで缶ビールをぐびりとやると、すぐさま寝入ってしまった。

熊本の史跡(1)

熊本県天草(7月30~31日)
 前日熊本に入り宿泊した。朝8時5分に、熊本交通センターでバスに乗り込み天草に向かう。天草の中心である本渡までおよそ2時間半の行程である。
 朝に見たテレビの天気予報では、天草は午後から雨とのことであったが、現在の熊本市内は快晴、燦々と日差しが注いでいる。
 バスは熊本市内を南下し、宇土市へと入る。ここで西に進路を変えると、やがて海が見えてくる。水平線の向こうに見えるのは島原半島である。天気が良いので普賢岳までよく見えた。勇壮な姿で鋭角な稜線が輝いている。
 その後バスは三角西漁港を過ぎ天草五橋に入る。橋上から海を眺めると、お椀を伏せたようなこんもりとした緑の小島が点在する中を縫うように、いくつもの小舟が行き交っている。

カトリック本渡教会

カトリック本渡教会

 予定到着時刻は10時32分であったが、それより10分ほど遅れて本渡バスセンターに到着。宿泊するホテルに荷を預け歩き始める。
 いまだ快晴で日差しが痛い。まずは本渡教会を訪れた。バスセンターから徒歩10分ほどである。赤い屋根の塔が印象的なこぢんまりとした聖堂だが、前庭には手入れの行き届いた庭木に囲まれた立派なルルドがある。奥では、付属幼稚園の子どもたちが簡易プールに入り、盛んに歓声を上げていた。
 ここから西へさらに10分ほど歩き、急な坂道を上って殉教公園に至る。坂の上り口には「天草市立天草キリシタン館 ここを左折」という大きな看板が立っている。
 殉教公園というのは通称で、城山公園というのが正しい名称のようである。この地は天草氏の居城である本戸城の城址であり、「史跡 本戸城」と刻まれた碑が建っている。
 天草氏は、いわゆる天草五人衆の中でもっとも有力であった家だが、天正17(1589)年に小西行長に対して謀反を起こした(宇土城普請にあたって小西は天草一党にも賦役を命じたが、彼らはこれを不服として応じなかった)ことで合戦が始まった。天草氏は志岐氏とともに本戸城に籠城し総力戦となったが、加藤清正・小西行長の軍により、城は攻め落とされた。
 城主である天草種元はキリシタンであり、本渡にはキリシタンが大勢いた。したがって、この戦では多くのキリシタンがいのちを落としている。フロイスは、小西行長が多数のキリシタンを救ったことを記しているが、同時に「男女、子供をふくめ千三百人のキリシタンが落命した。かくてこの(本渡)城とその近辺で栄えていたキリシタン宗団は壊滅してしまった」のである(同前『日本史12 西九州篇Ⅳ』)。しかし、戦の終結後には小西の働きもあって、天草のキリシタン宗団は再興する。フロイスはこの戦の記録の末尾を次のように結んでいる。「天草のキリシタンは、すでに以前から(キリシタンで)あった者、志岐にいた(キリシタン)、および新たにキリシタンになりつつある者を加えると、合わせてほぼ二万五千人に達するであろう」(同前)。

殉教戦千人塚

殉教戦千人塚

 石灯籠が左右に建ち並ぶ坂を上ると公園の中央に出る。そこには、シダ科の植物に全体が覆われ(これが実に特殊な雰囲気を醸し出している)、上部には「殉教戦千人塚」と刻まれた碑の立つ慰霊塚がある。これは上記の戦の戦没者ではなく、寛永14(1637)年に起きた天草島原の乱の犠牲者を祀る塚である。島内の船之尾町・亀場町・小松原町でそれぞれ千人塚として祀られていたものを発掘し合祀したものである。1956年に建設された。
 塚に刻まれた「殉教」ということば。その文字を前にして、わたしは深く考え込んでしまった。天草島原の乱は、過酷な年貢取り立てに耐えかねた領民が起こした一揆である。先の引用から理解されるとおり、当時天草のキリシタン人口は飛躍的に増加しており、一揆を起こした農民が必然的にキリシタンであったわけだ。もちろん彼らは、その信仰を結束の基盤とした。そして、キリシタン弾圧はこの乱と無関係ではない。しかし、理由は何であれ武器を手に蜂起したことは事実でもあり「殉教」とは少し違うのではないかと思う。また逆にこの一揆は、幕府のさらなるキリシタン弾圧に格好の口実を与えることとなり、多くの人々にキリシタン恐るべしという偏見を植えつけるために利用されたのである。
 もちろん戦没者を弔うことに問題があるわけではない。また、当時の農民がどれほど虐げられ過酷な生を強いられていたかは、考えるまでもなく明らかなことである。しかし「殉教」ということばには違和感がある。もっとも、どのようなかたちであろうと、人の死は人の死であり、個々のいのちに優劣など存在しないのは自明のことではあるが。

アダム荒川碑(左)、アルメイダ碑(右。レリーフ=舟越保武)

アダム荒川碑(左)、アルメイダ碑
(右。レリーフ=舟越保武)

  次に公園内に建つ天草キリシタン館に向かう。公園内のさらに小高い場所にこの資料館は建っているが、その手前にはキリシタン墓地があり、さらにその奥には、純白の十字架とキリスト像を挟んで、188福者の一人であり天草最初の殉教者とされるアダム荒川の碑と、アルメイダの碑とが並び立っている。アルメイダ碑に嵌め込まれたブロンズレリーフの原画は舟越保武氏による。幼女の頭の上に掌を載せたアルメイダは優しげな顔だちをしているが、何か悲しさに似たような感じをも同時に漂わせているのが、いかにも舟越氏らしい。
 キリシタン墓地は、五和町に散在していたキリシタンの墓石を集めたものである。十字が刻まれた平らな墓石が7基並んでいる。
 さらに坂を上り、入り口前に建つ天を指さす天草四郎像を眺めた後、キリシタン館内に入る。今のところまったくの快晴、冷房で人心地である。1階で入場券を購入して2階の展示室へと向かう。
 実は、ここには学生の頃に一度訪れたことがある。記憶は少々曖昧になっているのだが、当時と違って展示スペースの照明がだいぶ落としてあるように感じた。当然展示物保護のためである。
 多数のキリシタン関連遺物等が展示されている中で、最大の目当ては国の重要文化財である「天草四郎陣中旗」である。部屋に入ってすぐの場所にこれは展示されているが、何と実物ではなくレプリカであった。以前には確かに実物を見たはずだがと思って脇の説明書きを読むと、現在では文化財保護の観点から、1年間のうち1週間ごと4期のみの実物展示を行っているとのことだ。その4期とは、3、5、8、11月の1日から7日である。つまり、あと2日ばかり日程がずれていたならば実物に対面できていたわけである。
 この陣中旗、多くの人が歴史の教科書か何かでご存じのことであろう。大きなカリスとホスチアの両側に天使がかしずく図であり、上部には「LOVVAD SEIAOSACTISSIM SACRAMENTO」(いと尊き聖体はほめたたえられよ)と記されている。表面には赤黒いしみが確認できるのであるが、これは血痕である。なお天草四郎陣中旗というのは通称で、文化財指定名称は「綸子地著色聖体秘蹟図指物」というらしい。
 天草四郎という強烈なカリスマ性をもった謎の多い人物を先頭に、この陣中旗をたなびかせ、島原と天草の領民は討伐軍と戦った。最後に彼らは島原の断崖絶壁の上に建つ原城に籠城するが、厳しい兵糧攻めに遭い落城した。城に立てこもった一揆軍は37,000人ほどであったといわれている。
 室内にはこのほかに、「原城包囲諸将陣営図」や潜伏キリシタンの遺物、また先ほど触れた舟越氏によるアルメイダのブロンズレリーフ原画や、アダム荒川の処刑の様子を描いた油絵なども展示されている。
 次に、館の裏手に回り、墓地の間の道を通って明徳寺へと向かった。道は下り坂で、彼方には本渡の街並みがよく見渡せる。

 明徳寺山門の双聯

明徳寺山門の双聯

 明徳寺は、山門が天草市の指定文化財となっている古刹である。その重厚な楼門は実に堂々たるものであるが、そこにはキリシタンにまつわることばの書かれた一対の聯が掲げられている。「祖門英師行清規流通仏陀正法」「将家賢臣革弊政芟耶蘇邪宗」、すなわち、仏陀の正しい法を広め、邪宗であるキリスト教を駆逐するというわけである。
 天草は天草島原の乱後には、天領すなわち幕府の直轄地となり、民心の平定とキリスト教からの改宗を目的として、多くの寺院が建立された。明徳寺もそのうちの一つである。
 山門をくぐると、本堂の濡れ縁で、日に焼けた二人のおばあさんが弁当を食べていた。本尊を拝見して再び外に出ると「観光ですか」と声を掛けられ、しばし立ち話をした。「天草には見るところなんて何もないよ」と言われ返答に窮したのだが、変にお国自慢をしないところがいい。

 明徳寺の異人地蔵

明徳寺の異人地蔵

 ここ明徳寺には、もう一つおもしろいものがある。山門前の石段を下ると、左手に実に奇妙な顔をした地蔵が建っているのである。異人地蔵というのだそうだ。確かに特異な顔立ちである。太すぎるほどの眉、大きく見開かれた目、高い鼻梁――なるほど日本人あるいは東洋人の顔ではない。その顔と法衣とのアンバランスには、何かグロテスクなものすら感じる。詳しいいわれは不明のようだ。
 市役所前を走る大通りまで出て、本渡バスセンターへと戻る。とぼとぼと歩くわたしを、自転車に乗った女子中学生のグループが追い越して行くが、彼女たちは見知らぬわたしに向かって「こんにちは」とあいさつする。旅先でこうしたあいさつを受けるのは初めてではないが、実に気持ちのいいものだ。観光が資源である地方では、こうした教育が行き届いているのであろうか。子どもに道を尋ねただけで不審者扱いされる殺伐とした都会に生きる者にとっては、大げさでなく心洗われる思いがする。
 バスセンターで13時20分発の富岡港行バスに乗り込む。約1時間、終点の富岡港で下車。目的はアダム荒川の殉教地碑である。富岡城址のふもとにこの碑はある。ちなみに、碑や城址へと向かうには、終点ではなく、その一つ手前の一丁目バス停で下車するのがよい。終点からだと来た道を戻ることになる。わたしは、何となく港が見たかったので終点まで乗った。富岡港からは高速船で長崎の茂木へと渡ることができる。北西の方角には、澄んだ青空を背景として、山上に復元された城がくっきりと眺められた。

袋沼と富岡城

袋沼と富岡城

 一丁目バス停近くに、「富岡城跡」「アダム荒川殉教の地」という案内表示が立っているので、その指し示す方向へと歩を進める。途中に袋沼という沼があるのだが、百合のような葉をもつ丈高い植物が周囲に群生するこの沼を前に山の上の城を眺めると、少々幻想的な雰囲気が漂い、なかなかに美しい景観である。こうしたことが徒歩ならではの楽しみだ。人通りもまったくなく、聞こえるのはセミの声と、かすかな汽笛の音ばかり。ひたすら汗が流れ落ちる暑さだが、静寂は心地よい。なおこの沼には、米屋の父の不正を悲しみ嘆いた娘が龍となり住み着いたという伝説が残っているのだそうだ。
 アダム荒川の碑へとまっすぐには向かわずに、まずは城へと上った。下に本日休館の掲示があったが、城址を訪れて何よりも見るべきは石垣である。休館でもそれにはさして支障はないだろう、そう思いつつほの暗い石段を上っていった。
 富岡城は、天草島原の乱の一揆軍が総攻撃を仕掛けた城である。結局一揆軍はこの城を攻め落とすことはできず、天草四郎らは島原へと渡ることになる。右手に海を眺めつつ頂上まで上ったことで実感できるのだが、簡単に攻め落とせるような城ではない。堅固な、まさしく天然の要害である。さらに石垣も三重の構造を持っている。しかし現在はほとんどが復元であって、残念ながら見物には物足りない。
 本丸近くから下界を眺めると、港がよく見え、この半島のくびれた地形がはっきりと分かる。あそこから歩いてきたんだなと、汗を拭いつつ思った。
 下へと降り碑へと向かう。碑は二の丸駐車場の近くにあるが、途中何箇所かに案内表示があり、一本道なので、まず迷うことはない。

アダム荒川殉教之地碑

アダム荒川殉教之地碑

 黒い御影石に「アダム荒川殉教之地」と彫られた、大きくはない質素な碑である。背後は山、前は農地、のどかな場所にひっそりと建っている。
 アダム荒川は「もと、天主堂の『看房』で、キリシタンを助け、嬰児に洗礼を授け、病人を見舞い、死者を埋葬するの役を宣教師から委されていた」とパジェスは記している(『日本切支丹宗門史』上巻)。当時天草を支配していた唐津藩主澤志摩守による宣教師追放によってガルシア・ガルセス師が島を去ることになり、彼はその後事を託されたのである。
 殉教は慶長19(1614)年のことである。ガルセス師の離島後迫害は厳しくなり、アダムも捕らえられ拷問を受ける。「裸にされて引廻され、次いで縛られて二本の柱の間に吊るされた」が、彼はこの拷問を「枝の主日(三月二十日)から聖土曜日までずっとよく耐えた」。富岡城の番代である川村四郎左衛門は「キリシタンが尊敬する殉教者にすることを避け」、このとき彼を殺さなかった。そして、中国人であった彼の妻マリアを脅して棄教させ、アダムは60日間幽閉された。
 あらゆる脅迫に動じることのないアダムに業を煮やした藩主澤は、ついにアダムの処刑を命じる。その最期をパジェスは次のように記している。「ブーローは劔をとって、まず彼の肩に切りつけた。首を落すのに更に二撃を要した。アダムの遺骸は、網に入れて大きな石を結びつけられ、海中に投込まれた。キリシタン達は、辛じて血の染んだ土を取ることが出来た。アダムは時に六十歳であった」(同前)。そしてこの引用箇所には、次のような註が付されている。「その場にいた異教徒達は、体から離れた首が、二度イエズスの名を呼んだと確言した」。
 この地は、このような壮絶なアダム荒川の殉教があったと推定される地である。しばらく碑の前にたたずんでいても、だれ一人通りかかる人もいない。鳥の声が聞こえるばかりである。
 さて、来た道を戻り、さらに先へと歩を進める。バスで通って来た国道を歩いて南下する。日差しを遮るものは何もない。右手には海水浴場が見える。今海に体を沈めたらさぞかし気持ちの良いことだろうと思いつつ、ただただ歩いた。途中に苓北町観光マップという絵地図が立っていたが、そのアダム荒川殉教地の説明には「平成19年にアダム荒川を含む日本人殉教者188人が『福者』に列せられました。日本人が福者に列せられるのは、今回が初めてのことであり、天草ではアダム荒川が唯一の福者となりました」とあった。列福式後に、ここまで見てきたような細かな案内表示が整えられたのであろう。しかし「日本人が福者に列せられるのは、今回が初めて」という誤った記述が残念である。おそらく「日本で列福式が挙行されるのは、今回が初めて」と書くべきところであったのだろう。
 苓洋高校の前を過ぎると、国道389号と324号とが交わる地点がある。ここに「千人塚」として右手を指し示す案内表示が立っている。これに従いしばらく行くと上に十字架と鐘とが付いた立派な看板が目に入る。そこには「富岡切支丹供養碑 千人塚 文部省指定史跡」とある。これは、天草島原の乱で討ち死にした一揆軍の首級1万余りを3分し埋めた首塚の一つである。碑は、正保4(1647)年に天草代官の鈴木重成によって建立された。

 富岡切支丹供養碑・千人塚

富岡切支丹供養碑・千人塚

 上部には見たこともないような奇妙な文字が丸の中に記され、下には漢文が刻してある。山口瑠璃光寺住職中華珪法なる人の撰である。「夫れ原ぬるに鬼理志丹の根源は、専ら外道の法を行ないて、偏に国を奪わんと欲するの志二無き也」と書き出され(他にも見られる用法だが、「鬼理志丹」と鬼の字が用いられている)、末尾近くには「数千之魂霊の悪趣に沈淪し苦患するを愍れみ、塚上に碑石を建て、以て供養を伸ぶ」とある。つまり、キリシタンは国を滅ぼす悪い者どもだが、そんな異国の宗教に囚われてあわれな死を遂げた魂を、可哀そうだから供養してやりましょうというわけだ。
 珍しい史跡だと思う。仏教徒がキリシタンを供養した碑やそれに類するものは全国で色々と見たが、こんな文面を掲げて供養しているものは見たことがない。鈴木重成にとってキリシタンは正体不明の不気味な存在であったのだろう。日本的な感覚で、その祟りが恐ろしかったのかもしれない。だから自分の所轄地域の首塚に碑を建て供養した。しかし、幕府による禁教令の中、為政者としての威厳をこの碑文に込めたというわけだ。
 天草島原における乱の多くのキリシタンの死とはいったい何なのであろう。この碑を見ながら、あらためて考えさせられた。さまざまな解釈があると思うので、素人のわたしがあまり深入りすることはしないが、何ともやりきれない気持ちが残る。
 はや夕刻。停留所の下に座り込んでバスを待つ。この路線は1時間に1本程度走っている。日差しは和らいではいないが、海からの風が心地よかった。

熊本の史跡(2)

熊本県天草続き(7月31日)
 最終日である。朝起きると一面の曇り空であった。台風が近づいており、熊本南部ではすでに雨が降っているとのことだが、天草では降るのか降らないのか、実に微妙な予報であった。
 バスセンターでバスを待つ間にぽつりぽつりときだしたが、すぐに晴れ間が広がってきた。何とか今日一日もってほしい、祈るような心境である。
 8時10分、乗り込んだのは「天草ぐるっと周遊バス」という観光バスである。大江や崎津をめぐる4時間のコースで、料金は1千円。ガイドも同乗している。種々の制約があるし、観光バスで教会を訪れるというのも変な気がするが、何よりも料金が安いので、今回はこれを利用することにしてみた。
 わたしを入れて計3人の乗客を乗せたバスは、市街地を抜け、山の中の道を走る。亀川ダムの辺りは、原生林の緑が目に鮮やかであった。
 下田温泉に向かう途中で福連木という集落を通過したのだが、ここには、哀感漂う福連木の子守唄が今に伝えられている。これをガイドの女性が素晴らしい美声をもって歌ってくれたので、こんな観光バスに乗り込むのも悪くはないなと、少々得した気分になった。福連木の子守唄は、有名な五木の子守唄よりも成立が古いといわれている。天草が天領となり、それまで木材の切り出しによって生計を立てていたこの集落の住民は、幕府管理となった山に入ることができなくなり、一遍に生活に窮することとなった。そこで子どもを子守奉公に出し家計の足しとしたわけである。奉公に出された娘たちは、寂しさや苦しさを紛らわすために、この子守唄を歌った。
 ガイドの唄は素晴らしかったのだが、ただ聞いていても、方言ばかりでまったく意味が分からない。単語を解説してもらってようやくその意を理解した。切ない文句であるが、したたかに生きようとする少女たちの力強さをも感じさせる。
 下田温泉で5人が乗り込み、乗客は計8人となった。ガイドにいわせると本日は盛況らしい。
 『五足の靴』という紀行文をご存じだろうか。歌人の与謝野鉄幹が、まだ学生であった太田正雄(木下杢太郎)、北原白秋、平野万里、吉井勇を連れて九州を旅した記録である。1907年に「東京二六新聞」に連載された。当初執筆者は匿名で「五人づれ」となっている。この5人は東京を出発した後、下関から福岡に入り九州各地を訪ねるが、長崎の茂木港から船に乗って天草の富岡港に着き、その翌日、大江まで歩いている。下田温泉を抜け大江へと向かう道は、もちろん当時とは異なるが、彼らがたどったルートである。
 大江教会でガルニエ師と会ったりもしているこの記録は、その後の北原白秋の『邪宗門』などに代表される明治文学の南蛮趣味の先駆となった。明治から大正にかけての日本文学には、このようにキリスト教を異国情緒を醸すための素材として扱う作品がいくつも生まれている。西欧の宗教であるキリスト教と思想的に真の対峙を行う文学作品が登場するのは、長与善郎の『青銅の基督』を数少ない例外として、随分と先のことになる。
 今回下車することはなかったが、途中の十三仏公園には与謝野夫妻の歌碑がある。五人づれの旅でたいそう天草が気に入った鉄幹は、後日晶子夫人を伴ってこの地を再訪している。碑に刻まれている歌は以下のとおり。鉄幹「天草の十三仏の山に見る 海の入日とむらさきの波」、晶子「天草の西高浜のしろき磯 江蘇省より秋風ぞ吹く」。晶子圧勝である。

カトリック大江教会

カトリック大江教会

 またぽつりぽつりと雨が落ちてくる中、大江教会に到着した。白亜の美しい聖堂を設計したのは、昨年紹介した福岡県の今村教会と同じく鉄川与助である。白さが際立つ建物であるだけに、夏の紺碧の空が背景でないことが残念でならない。
 現聖堂が建築されたのは1933年のことであり、したがって五人づれの一行が目にしたのはこの建物ではなく、1879年建築の旧聖堂である。写真で見たが、日本家屋のような質素な建物である。
 聖堂内へと入る。今村教会のようなコウモリ天井ではないが、さして高くはないこの天井には、今村とは別種の美しさがある。ステンドグラスは質素だが淡い色彩が鮮やかで、本日の天候ではそこから光が差し込まないのが惜しい。身廊と側廊とを区切る柱は聖堂外壁同様白色で、さらに白い木材によって天井に桝目が切られていて、その一つ一つには花模様が描かれている。真ん中の一列がスズラン、その両脇が菊の文様である。菊が日本、スズランがフランスを表しているらしい。
 フランス――それはこの小教区で約半世紀もの長きにわたって主任司祭を務めたガルニエ神父の母国である。1892年パリ外国宣教会司祭として、ガルニエ師は来島した。以来49年間、最初の35年は崎津教会の主任も兼任してひたすら司牧に身をささげ、一度も母国に帰ることはなかった。
 流暢に天草弁を話したとのことで、五人づれの一行は、そのガルニエ師と出会い、「昔の信徒が秘蔵した聖像を彫んだ小形のメタル、十字架の類」を見せてもらい、キリシタンの受難の歴史について教わっている。ついでに付け加えておくと、『五足の靴』のこの箇所には当時の信徒数が記されていて、「大江村に四百五十三人、……崎津村に四百五十九人」となっている。

 ガルニエ神父像

ガルニエ神父像

 聖堂横にはガルニエ師の胸像が建っていて、その下には師の墓がある。台座に「敬慕」と刻された胸像で拝見するその顔は、眼鏡をかけて豊かなあごひげをたくわえ、一見コルベ神父を思わせるような穏やかな表情である。信者ではない地元の人々からも深く愛されたであろう人柄が偲ばれる。
 ツアーのようなものなので、ゆっくりと時間をとることもできず、付近で見ておきたいものも色々とあったがそれもままならず、慌ただしくバスに乗り込み次へと移動する。この不自由さを考えれば、当然ながら単独行動で訪れるべきだろう。
 続けて教会のすぐ近くにある天草ロザリオ館を訪問。潜伏キリシタンの遺物を陳列する資料館である。まずは15分ほどのビデオ映像を見た。なんとこの映像、専用眼鏡をかけて観る3D映像である。わたしは普段から眼鏡を着用しているので、この3D映像観賞用眼鏡が不便で嫌いである。出始めのころは物珍しさで何度か観たが、現在は映画館に行く際にも3D版は選択しない。工夫を凝らそうという館側の気持ちは分かるが、高齢者の来訪も多いことと思うので、わたし同様の感想を抱く人も少なくないと思う。キリシタン遺物が画面から飛び出してきてもしかたがないと思うのだが……。
 映像鑑賞後、館長の案内で陳列物を見た。「経消しの壺」というものがあった。蓋の付いた小さな水瓶のような壺である。「かくれ」の人たちは、もちろん表立っては自分たちの信仰の儀式を行うことはできない。親族が亡くなっても仏式の葬儀で送らなければならないのだが、その際には、僧侶の唱える経に合わせて特別な祈りをひっそりと唱え、経をこの壺の中に封じ込めたのだそうである。
 マリア観音などもいくつか展示されているが、その中に大黒天の像がある。大黒天を「かくれ」の人たちが自分たちの信仰を象徴するものに見立てた例があることは知っていたが、わたしには今までその理由がよく分からないでいた。しかし、今回館長の話を聞き、なるほどと腑に落ちた。大黒が乗る俵を縛る藁縄の形に十字を見たというのである。
 またこの資料館には「かくれ部屋」なるものが実物大で復元されている。「かくれ」の人々がオラショを唱えるために設けた隠し部屋である。もちろん、このような部屋を自宅に作ることができたのは、ある程度経済力のある人だけであったであろうから、周囲の人々がそこに秘密裡に集合して祈っていたのだろう。館のすぐそばの丘の上にある民家には、この「かくれ部屋」が現存しているそうである。
 次は崎津教会へと向かう。残念ながら傘が必要な天気になってしまった。
 海岸線を走るバスは、途中特別に細い旧道を通ってくれた。この道で車窓から、小さな岬の突端に海に向かって建つマリア像を見た。船上からでなければ正面から見ることはできない像である。夕景が有名だそうで、白いマリア像と水平線に沈む赤い夕陽のコントラストが大変素晴らしいとのことだ。
 崎津教会周辺は、民家の建ち並ぶ古い町並みで道は細い。通常観光バスが入ることは禁じられているので、10分ほど歩くことになると前もって知らされていたのだが、どういうことか仔細は不明だが、急遽変更になり、特別に教会のすぐ近くまでバスを進めてくれた。

カトリック崎津教会

カトリック崎津教会

 古い民家に囲まれるように建つ重厚なゴシック建築である。しかし、これが周囲に完全に溶け込んでいる。まったく違和感を覚えない。おそらく、灰色がかった外壁の色が効果を示しているのだろう。これが計算であるならば凄いことと思う。設計は大江教会と同じく鉄川与助。鉄川の代表作の一つである。
 内部は典型的なコウモリ天井、すなわちリブ・ヴォールト天井である。柱の色は白ではなく、やや灰色を帯びている。そして畳敷きである。大江教会も、現在は絨毯が敷いてあるが、その下は畳なのだそうだ。
 この地に最初に教会が建てられたのは1883年のことであるが、現聖堂の建築は1934年のことである。この改築に尽力したのが、ガルニエ師の後を継ぎ崎津教会の主任司祭となったハルブ神父である。師の来日は司祭叙階の翌年である1889年であるが、長崎や奄美での司牧を経て、1927年に崎津に赴任し、この地を生涯最後の赴任地とした。1945年、56年間にわたり、そのほぼすべてを日本で過ごした宣教師としての生活を全うし、81年の生涯を終えた。

ハルブ神父碑

ハルブ神父碑

 教会の敷地内には台座に略歴が記された師の記念碑が建っているが、路地を少し戻ったあたり、観光駐車場の裏にはその墓がある。ツアー一行はこの墓を無視してしまうので、慌てて団体を離れて訪った。十字の形をした墓石で、南国らしく両脇にはソテツが植わっている。
 近代の天草の教会史を語るに、ガルニエ師とハルブ師を忘れることはできない。この二人の偉人は、アルメイダにまで遡る天草信徒の歴史、隆盛と苦難、そして再興の歴史を、確実に現代へと継承したのである。それを思えば、この寂しい漁村にたたずむゴシック建築が、何ら違和感なく周囲に溶け込んでいるさまというのは、大きな意味があるように思えてくる。現在、長崎とともに崎津集落は世界遺産への登録を目指している。その活動が今後実を結ぶかどうかは分からないが、今すでに、わたしたちにとってこの地は、偉大な宣教師の名が刻まれた大切な遺産である。そして、それは単純に遺されたものではなく、今も生き続けている。

ハルブ神父の墓

ハルブ神父の墓


 雨の中、町を歩き、途中で「さいのつ」というNPO法人が運営する無料休憩施設「よらんかな」というところに立ち寄った。旧崎津教会の写真が飾られていた。瓦葺きで板壁には隙間がいくつもあるような建物だ。信徒の心の拠り所として、地域にとっての象徴として、ハルブ師が新聖堂建築に尽力した気持ちがあらためて理解できる。
 この「よらんかな」の建物は100年以上も前に建てられた網元の旧家であり、崎津の景観を構成する重要な要素である「カケ」が復元されてある。カケとは護岸から海にせり出した構造物で、干物作りや網の手入れなど、漁業者のさまざまな作業に用いられる空間である。

カケから崎津教会を臨む

カケから崎津教会を臨む

 そのカケの上から、海越しにあらためて教会を眺めた。周囲の民家の瓦屋根が多くを覆い、灰色の尖塔しか見えない。しかし、それがいい。実にいい。瓦屋根が並ぶ向こうにゴシックの尖塔、そして背景は緑の山、前には漁船が浮かぶ海。すべてが渾然一体となっている。心から世界に誇りたい日本の景色の一つだ。地元とは縁もゆかりもないわたしだが、そう強く確信した。16世紀にこの地に伝えられたキリスト教は、幾多の苦難を経て、その血を現代にまで伝えており、それは地域に生きる人々の生活と一体となって、今なお確かな鼓動を打ち続けている。
 最後に河浦町にある天草コレジヨ館を訪れた。天正遣欧使節にまつわる資料を展示する天草市立の施設である。河内浦にはコレジヨ(大神学校)が1591年から7年間存在した。この時期には迫害の手を逃れて、神学校は何度か移転をしているのだが、このコレジヨでも天正遣欧使節の少年たちは学んでいる。施設の名称はこれに由来する。
 南蛮船の模型、西洋古楽器、当時の衣装など、点数こそ多くはないが、なかなかに見ごたえがある。なかでもこの施設の一番の売りは、グーテンベルク印刷機の精巧な複製である。
 グーテンベルク印刷機は、天正遣欧使節の帰国船に積まれ、1590年に初めて日本にもたらされた。宣教師は多くの西洋文明を日本にもたらしたが、グーテンベルク印刷機はその象徴のような存在である。したがって、このコレジヨ館をオープンするにあたっては、何としてでも当時の本物の印刷機を手に入れたかった。当然のことである。日本にもたらされたグーテンベルク印刷機は、天草では「どちりな・きりしたん」「コンテムツス・ムンジ」、また「平家物語」や「伊曾保物語」その他、さらに長崎に運ばれ「ぎゃどぺかとる」「倭漢朗詠集」「日葡辞典」他、多数の印刷物刊行のために用いられたのだが、1614年の徳川家康による大追放令を受け、宣教師とともにマカオへと運ばれてしまう。そしてそれ以後は所在不明となった。
 結局コレジヨ館では、ドイツのグーテンベルク博物館に依頼し、当時の資料をもとにして、忠実な複製を製作したのである。
 実際に動かしてもらったのだが、プレスなどの重みのある動きを体感できるのが貴重である。
 また、もう一つ、大変興味をひく展示があった。竹製のパイプオルガンである。16世紀にヨーロッパからオルガンを運ぶことは当然困難なことで、だから先にも触れたようにヴィオラのような本来教会音楽とは無縁な楽器が教会でも用いられたわけだが、この竹製のパイプオルガンは、宣教師の指導によって日本の職人が作り上げた純日本製の西洋楽器である。
 展示物がもちろん当時のものであるわけではないが、その音を聞かせてもらったことも貴重な体験であった。金属のパイプとはまったく違う柔らかな音色である。笙の音を想像されるかもしれないが、笙よりも一本一本の竹が太いので、だいぶ音色は異なる。背面に手動のふいごが付いていて、鍵盤を叩く演奏者に合わせこのふいごを動かす者がいて、初めて音を奏でることのできる楽器である。
 4時間の行程を終え、バスは本渡バスセンターに戻った。帰路に説明を聞いたのだが、天草には、正月だけでなく一年中玄関に注連飾りを飾っている家がある。それも立派なものが多い。これは「我が家はキリシタンではありませんよ」というあかし――もちろん現在では形骸化したものであろうが――なのだそうである。
 実はこの後、自転車を借りてキリシタン墓地を訪れようと思っていたのだが、雨脚が強くなり、断念せざるを得なかった。まだまだ天草には紹介しなければならない史跡は多々ある。ほんの一面を紹介するものとご理解いただき、ご勘弁願えれば幸いである。
 市役所のある本渡は天草市の中心であるが、なぜか土産物店というようなものが全然ない。観光は重要な資源であるだろうに不思議なことと思う。しかし、それがこの町のよさでもあるのだろう。傘を差して港のあたりをぶらぶらしつつ、そんなことを考えていた。 (奴田原智明)

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