教皇レオ十四世、2026年9月27日、ルルド、聖母巡礼聖堂でのミサ説教

2026年9月27日(日)のフランス訪問の第3日の午前10時15分(日本時間同日午後7時15分)からルルドの聖母巡礼聖堂前の広場でささげたミサ説教(原文フランス語)。      兄弟姉妹の皆様。フランスと全世界から来られ […]

2026年9月27日(日)のフランス訪問の第3日の午前10時15分(日本時間同日午後7時15分)からルルドの聖母巡礼聖堂前の広場でささげたミサ説教(原文フランス語)。

 
 
 兄弟姉妹の皆様。フランスと全世界から来られた巡礼者の皆様。今朝、聖母の家に集まられた皆様の中に、わたしは教会の普遍的な姿を見いだします。皆様の中には、諸大陸を越え、困難を乗り越え、自分の喜びと重荷をこの聖なる洞窟まで担ってこられたかたがおられます。ともに一つの心で、一つの家族として集まることは、「一つの心、一つの家族」(Un solo corazón, una sola famiglia !)であることは、なんと喜ばしいことでしょうか。

 フランスのすべての州、すべての教区から来られた巡礼者の皆様にとくにごあいさつ申し上げます。皆様はこの多くの恵みを与えられ、祝福された地に立っています。この巡礼が、皆様の家庭と小教区に信仰の炎を燃え立たせますように。ルルドの慰めを近隣の人々、家族、すべてのフランス国民に届けてください。

 今日の主日にわたしたちに示された典礼の箇所は、おとめマリアが聖ベルナデット(1844-79年)に与えたメッセージの中心的な側面に通じます。すなわち、優しい、切迫した回心への呼びかけです。福音の中でイエスは真理と深い悲しみに満ちたまなざしを、閉ざされた心に向けます。「あなたたちは〔……〕後で考え直して彼を信じようとしなかった」(マタ21・32)。このことがなぜイエスの心を傷つけたのでしょうか。神はご自分の子らを失うことを望まれないからです。預言者エゼキエルはわたしたちに呼びかけます。「正しき者が正義に背を向け、不正を行い、そのために死ぬなら、彼は自分の行った不正によって死ぬ」。しかし、悔い改めるなら、「彼は顧みて、自分の行ったあらゆる背きから立ち帰ったのだから、必ず生きる。死ぬことはない」(エゼ18・26、28[聖書協会共同訳]参照)。だから悔い改めへの呼びかけは聖書の中にたえず響き渡り、何世紀をへてのべ伝えられた福音の中に生きているのです。この呼びかけは、切迫性と必要性を示すことにより、救いのための重要性を帯びます。わたしたちは、明日ではなく、今日、回心しなければなりません。今日こそ恵みの時、救いの日です(二コリ6・2参照)。まことに神は、人が生きることを、目を開いて神のもとに立ち帰ることを望まれます。回心するとは、さすらいの道を離れ、いのちの道を歩み、決して過ぎ去ることのない唯一の喜びに心を開くことです。

 イエスは悔い改めを促すのにあいまいなことばを用いません。たとえばルカはこう述べます。「いっておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13・5)。けれどもイエスは地上での生活の展望を永遠のいのちへと広げます。この世の幸福ははかなく過ぎ行くものであり、残念ながら時として一部の人はそれを手にすることができません。しかし、真の幸福は〈希望のうちに〉すべての人に約束されます。これをわたしたちの探求と努力と選択の第一目的としなければなりません。おとめマリアは聖ベルナデットにこういったではありませんか。「わたしはあなたにこの世の幸福ではなく、来世の幸福を約束します」。

 まさにこの地でなされたこの約束は、とくにこのフランスの地で力強く響き渡り、現代のわたしたちの物の考え方を覆します。進歩と物質的な豊かさを追求しながら、時として永遠へのまなざしを忘れがちな現代社会にあって、マリアは、いのちへの、それも永遠のいのちへのわたしたちの召命の偉大さと豊かさを思い起こさせてくださいます。病気と苦しみ、あるいは老いを前にして、人間のいのちの価値を再定義しようとする現代の風潮に対して、マッサビエルの洞窟はキリスト者の希望の聖域としてそびえ立ちます。ここではいかなる弱さも拒絶されません。皆様の松葉杖と車椅子と密かに流される涙は、妨げとはなりません。それらは、皆様が完全に尊重され、受け入れられ、神の限りない愛によって造り変えられるための特別な場となります。ルルドは、いのちのすばらしさと神聖さを信仰をもって宣言するための祝福された場所です。なぜなら、いのちはここでは、神の貴いたまものとして受け入れられ、御父の愛のうちで永遠に花開くようにと呼びかけられるからです。

 「わたしはあなたに約束します」。まことに永遠のいのちは、主がわたしたちに与える堅固で確かな〈約束〉です。主はすでにご自分の十字架上の死と復活によってそれをわたしたちに与えてくださいました。そしてすでに洗礼の恵みによってそれを日々わたしたちのうちで実現してくださいます。永遠のいのちはわたしたちの手の届くところにあります。しかし、それを自由に受け入れ、つかみ、その前に障害物を置かないようにしなければならないのはわたしたちです。恵みと永遠のいのちの障害物は、それも唯一の障害物は、罪と、自分を中心とすることと、神を拒絶して自分を闇のうちに閉じ込めることです。それゆえ、問われているのはわたしたちの個人的な責任です。そしてその責任は大きいのです。神はわたしたちが自由な者となることを望まれました。なぜなら、自由は愛の条件だからです。強制されて愛することはできないからです。わたしたちは、与えられたこの自由を、マリアの後に従い、キリストの恵みに支えられながら、キリストに「はい」というために用いなければなりません。それは、わたしたちが最後の息を引き取るまでたえず新たにささげる「はい」です。「アヴェ・マリアの祈り」の中で唱えるとおり、「今も、死を迎える時も」ささげる「はい」です。

 この回心への執拗な呼びかけは、マリアがこの地で発したことばの中に再び見いだされます。「悔い改めなさい。悔い改めなさい。悔い改めなさい」。マリアはこのことばを三回繰り返して、ベルナデットに悔い改めのわざを行うように促します。なぜでしょうか。わたしたちがなかなか理解しないからでしょうか。あまりにも簡単に自分には罪がないと考えるからでしょうか。十分に悔い改めのわざを行っていないからでしょうか。おとめマリアがわたしたちに悔い改めを求めるのは、わたしたちのためだけではありません。わたしたちもそれを必要としているからです。それは、「罪人のため」、病んでいる世界のためです。ますます広がり、罪のない多くのいのちを奪っている紛争を前にして、わたしたちの心はやましさを感じずにいられるでしょうか。しかし、現代の悪は人間の心から生まれるものであって、神にその責任は一切ありません。神はイスラエルの子らにいわれます。「わたしの道は公正ではないのか。公正でないのはあなたがたの道ではないのか」(エゼ18・25[聖書協会共同訳])。それゆえ、変えなければならないのは人間の心です。それは自分の心から始めなければなりません。

 悔い改めは、愛と、人類との連帯から生まれるわざです。それは神への愛のわざです。なぜなら、わたしたちは自分たちの罪によって生じた神のみ心の傷をいやさなければならないからです。それはすべての兄弟への愛のわざです。なぜなら、この兄弟たちは回心への呼びかけを聞かず、その罪は彼らを死へと導くからです。この回心の必要性は地上を旅する教会にもかかわります。教会は率先してこの回心を実践する勇気をもたなければなりません。教会内部で生じた深い傷と、不忠実と、痛ましい過ちをいやすために、わたしたちは主の清めのまなざしのもとにへりくだって身を置かなければなりません。自らの欠点を認めることは霊的成長にとって不可欠です。聖アウグスティヌスがこう述べるとおりです。「あなたがまだそうでない者となりたいなら、現状に満足してはならない」(『説教』[Sermones 169, 15. 18])。

 聖母が、祈りと回心の務めをわたしたちに呼びかけたことは、わたしたちを大きな希望で満たします。なぜなら、聖母はわたしたちに物事の進め方を変えるための道を、すなわちキリストの受難に自分を結びつける道を示してくださるからです。ルルドに来られた多くの苦しむ親愛なる病者の皆様。皆様はこの奉献の精神をもって自らの悲嘆と苦しみを生きることができます。こうして皆様は世が深く必要とするあがないの道を歩み始めることができます。この意味で皆様は真に教会の中心におられます。皆様の役割はかけがえのないものです。

 巡礼者の皆様。兄弟姉妹の皆様。皆様は来たときと同じようにルルドから帰るのではありません。皆様は希望の宣教者として帰って行くのです。試練と悲しみのただ中に希望の喜びを呼び覚ますこと――これがこの地の奇跡です。おとめマリアはわたしたちのまなざしをいやし、心を造り変えて、心に平和を与えてくださいます。自分の国と教区と家庭で、この力と優しさの生き生きとした証人となってください。そうすれば、わたしたちは道を歩み続け、目的地に到達することができるでしょう。病者の祈りと聖母の愛に支えられながら、信頼をもって未来に向けて歩んでください。世の嵐を恐れてはなりません。聖なる神の母がわたしたちの歩みを見守り、優しいマントで教会を包み込んでくださるからです。輝く明けの明星であるマリアがわたしたちの旅路を導き、御子イエスと同じいのちへとわたしたちを生み出してくださいますように。

 アーメン。

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