教皇レオ十四世、2026年10月11日、「お告げの祈り」でのことば

2026年10月11日(日)、年間第28主日の正午に、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。 「お告げの祈り」の後、イタリア語で次のように述べた。  親愛なる兄弟姉妹の皆様。   […]

2026年10月11日(日)、年間第28主日の正午に、教皇公邸書斎の窓から「お告げの祈り」を唱える前に述べたことば(原文イタリア語)。

「お告げの祈り」の後、イタリア語で次のように述べた。

 親愛なる兄弟姉妹の皆様。

 昨日(10月10日)、マントヴァで、イエスのみ心ウルスラ姉妹会の創立者であるマリア・イグナツィア・イサッキ修道女(1857-1934年)が列福されました。イサッキ修道女は19世紀から20世紀初頭にかけて、貧しい人々、恵まれない人々のために勇気ある愛をもって献身しました。イサッキ修道女の模範がわたしたち皆のうちに世においてすべての人に対する福音的な愛の証人となる望みを再び燃え立たせてくれますように。

 苦しむウクライナにおける戦争は、ウクライナ以外の地域、とくにもっとも貧しい国々にも苦しみをもたらし続けています。これらの国々では多くの人が穀物の輸入に頼っているからです。紛争当事者に対して、黒海における安全な穀物輸送を可能にするように心から訴えます。何百万もの人々の日々の糧を戦争の人質としてはなりません。

 今日はイタリアにおける労働災害犠牲者の日です。労働災害による傷病・障害労働者全国連盟にごあいさつ申し上げます。そして労働災害の防止のための努力を励まします。

最後に教皇は自身の手術の予定に関してイタリア語で次のように述べた。

 愛する友人の皆様。最近の何回かの検査の中で、医師たちがわたしの肺に小さな結節を発見しました。結節はきわめて初期段階で、局所的に特定されました。医師たちが手術を行うのが適切だと判断したため、医師の助言に従い、結節の切除手術を受けることに決めました。手術は数日内に行うことがすでに予定されています。皆様の霊的な寄り添いに感謝するとともに、わたしを皆様の祈りにゆだねます。

12日(月)、教皇庁広報部のマッテオ・ブルーニ報道官は、教皇が13日(火)午前にローマのジェメッリ病院に入院することを発表した。また同じ12日、教皇儀典室は教皇の入院に伴い、10月20日(火)まですべての教皇謁見が行われないことを発表した。14日(水)午前に教皇司式によってささげられることが予定されていた『愛のよろこび』(Amoris Laetitia)公布10周年記念会議(10月7日―14日)閉会ミサは、10月8日付で首席枢機卿に任命された教皇庁福音宣教省初期宣教部門副長官のルイス・アントニオ・タグレ枢機卿が司式することになった。

 
 親愛なる兄弟姉妹の皆様。こんにちは。

 今日の福音の中で、イエスは、王が王子のために催した婚宴について語られます(マタ22・1-14参照)。

 子どもの結婚式はすべての家族にとって特別な行事です。この幸せな父親はすべての人と喜びを分かち合おうと望み、祝宴を開いて、多くの人を招きます。このことに関して、聖トマス・アクィナスは、善は本性上、自らを広げることを目指すと述べています。「善は自己の存在をおし拡げるものである(Bonum dicitur diffusivum sui)」(『神学大全』[Summa theologiae I, q. 5, a. 4 ad 2〔山田晶訳、『世界の名著続5 トマス・アクィナス』中央公論社、1975年、205-206頁〕])。わたしたちの箇所のイメージも、現実生活の特定の状況の中でこのことを語ります。何かよいことが起きたとき、光がともり、その光は自分たちの幸福を他の人に分け与えさせるのです。

 しかし、このようにすばらしい招待を受けたにもかかわらず、招かれた人々は祝宴に参加せずに、背を向けて自分たちの仕事をし続けることを選びます。それどころか、ある人々は王の使者を煩わせ、侮辱するばかりか、殺してしまいます。わたしたちが与える善は必ずしも理解され、認められ、評価されません。それどころか、それは時として誤解され、拒絶されることもあります。残念ながら、このようなことも起きるのです。しかし、だからといって失望してはなりません。王は、拒絶されても、婚宴を取り消すことも、中止することもしません。それどころか、より多くの人を招くために、家来を送って、新郎新婦の喜びがすべての人へのたまものとなるように、通りで呼びかけさせます。

 ここでわたしたちは自問します。この物語の登場人物はだれを表しているのだろうか。聖ヒエロニモは、王は天の父であり、花婿はイエスであり、花嫁は教会だといいます(『マタイ福音書注解』[Commentarii in Evangelium Matthaei liber III, cap. 22]参照)。それゆえ、登場人物の中にはわたしたちも含まれます。わたしたちは、自分の生活を主と分かち合い、主とともにいのちをもたらす者となるために、主に選ばれたからです。婚宴はわたしたちの婚宴であり、宴会場はわたしたちの教会であり、わたしたちの家であり、わたしたちが生きる場です。王の子であるイエス・キリストは、日々、そこに戻って来て、ご自身の愛をわたしたちに告げ、わたしたちが「はい」というのを待っておられます。わたしたちもそこで、花嫁と同じように洗礼の白い衣をまとい、わたしたちを神に近づけ、また互いに近づけるよいわざの宝石で飾られながら、主と出会います。

 わたしたちがのべ伝える喜びは人工的なものではありません。むしろそれは、深く、具体的で、現実的です。出会う人の顔のように美しく、日々の仕事、笑い、涙、握手、親切な行いのように真実です。それは世の救いのために与えられた神のたまものです。

 それゆえ主の母であるマリアに願い求めます。このような喜びのうちに成長し、いつでもどこでも――たとえ理解されないところでも――寛大さと勇気と信仰をもってこの喜びを告げ知らせることができるようにわたしたちをお助けください。

PAGE TOP