1979年「世界平和の日」教皇メッセージ

1979年「世界平和の日」メッセージ
(1979年1月1日)
「平和を達成するための平和を教えよ」

1979年「世界平和の日」メッセージ
(1979年1月1日)

「平和を達成するための平和を教えよ」

あなたがた平和を願うすべての人々へ。

 民族間の平和という大義には、人の心に現在するあらゆる平和のエネルギーが必要 である。まさにこれらのエネルギー ― これらを鍛練するために ― の放出と育 成とを目ざして、私の先任者パウロ6世は、その死去の少し前に、1979年度世界 平和の日を献じることを決定されたのであった。「平和を達成するため平和を教えよ 」。

 教皇在任期間を通じてパウロ6世は、平和への困難な小径をあなたがたと共に歩ま れた。平和がおびやかされたときは、あなたがたと心配を分かち合い、戦争の不幸に 巻き込まれた人々といっしょに苦しまれた。平和を回復するためのあらゆる努力を励 まし、あらゆる状況の下で不屈の精力をもって希望を持続された。

 平和とは、あらゆる人々によって打ち建てられるものであると確信しておられたパ ウロ6世は、1967年、世界平和の日という考えを打ち出し、あなたがたがこの理 念をあなたがた自身の仕事として責任をもって引き受けることを望まれた。それ以来 毎年教皇のメッセージは、諸国民と国際諸機関の指導者たちに彼らの権威を合法的な ものとしているもの、つまり自由で正義にかないかつ兄弟のような愛に富んだ人類が 平和のうちに進歩し、共存することを可能としているものを更新し、公に表明する好 機を提供してきた。大幅に相違する多くの共同体が、平和の計り難い成果を共に集ま って祝い、平和を守り、平和に奉仕する自分らの決意を固めてきた。

 私は、尊敬する先任者の手から、平和の巡礼のバトンを受け継ぐ。私は、平和の福 音を携えて最後の意志に従って世界平和の日を、平和を教えるという旗印の下に置き ながら、1979年の念頭に当たって平和の日を記念するようあなたがたに要請する。

1 困難な任務

 抑えきれない熱望 平和の達成は、私たちすべての希望の要約であり、またその有 終の美を飾ることである。私たちは、平和は、充満であり、喜びであると感じている。 国と国の間の平和を成就するために、両国間もしくは他国間の交流や国際会議を通じ て多くの尽力がなされている。また何人かの人々は、勇気のある個人的な自発心を発 掘して平和を築き上げたり、あるいは新たな戦争の脅威を避けようと努めている。

 傷つけられた信用 しかし、同時に、私たちは、個人や集団が自分たちのひそかな、 もしくは公然の紛争の解決を決して決意しないということも知っている。それゆえ、 平和は、私たちの手の届かない理想にすぎないのであろうか。戦争や緊張状態や分裂 を毎日見ていると、疑惑や失望が広がってくる。所々では、不和と憎悪の炎は、損害 を被らなくてすむ人々によって人為的にたきつけられているようにさえ思われる。あ まりにもしばしば見られることだが、平和の意志表示は、たとえ実際には押し流され てしまわないとしても、出来事の成り行きを変革するのにばかばかしいほど無力であ り、最終的には、横柄な収奪と暴力の論理で取って代えられるのである。

 一つの場所では、必要な改革を行うに当たっての臆病と困難とによって人間集団の 間の関係が、長い、もしくは典型的な共通の歴史で結び合わされる代わりに逆にゆが められている。権力を求める新たな願望が、状況を解きほぐすために、まったく数だ けによる圧倒的な影響力か、あるいは暴力に訴える動機となっている。そしてこのこ とは、遠くあるいは近くにある他の国々の尊大で、時として利己的で、かつ迎合的な 注視の下で行われている。最強国も最も弱い国も両方とも、もはや、平和の忍耐深い 手順に信用を置いてはならない。

 他の場所では、不安定な平和の恐怖、軍事、政治上の重要課題、貿易上の利害など が因となって、非常用兵器備蓄の定着あるいは恐るべき破壊力のある武器の販売が行 われている。次いで軍拡競争が、諸国家を新しい連帯関係に団結させるべきはずの平 和の大きな課題を圧倒してしまっている。軍拡競争は、散発的ではあるが、殺害を伴 う紛争を助長し、きわめて由々しい脅威を成している。真実、一見したところでは、 平和の大義は、気力を失わせるまでに不利な条件が付けられているように思われる。

 平和に関する言葉から…… しかし、一国のレベルあるいは国際機構のレベルでの ほとんどあらゆる公式の発言では、めったにないほど非常に多くの論議が、平和やデ タントや協定や、さらに正義にかなった紛争の理性的解決などについてなされてきた。 平和は、心を安心させてまぎらすか、もしくはまぎらすことを意図したスローガンと なってしまった。ある意味で、私たちは、何か前向きのものを持っている。すなわち、 諸国民の世論は、もはや平和を正当化することやあるいは攻撃性の戦争の危険を冒す ことさえ容認しなくなったということである。

 平和の信念へ しかし、もし私たちが、平和という困難な課題と対決している人類 全体に投げかけられた挑戦を受けて立つべきであるならば、私たちは、真面目なもの であろうと扇動的なものであろうと、言葉以上のものが必要である。本当の平和の精 神は、特に政治家と集団または中央部 ― これらが、平和か、あるいは戦争もしく は暴力の状態の延長かのいずれかの方向への決定的な道を、多少とも直接に、多少と も秘密裡に左右している ― とのレベルで強く感受される必要がある。少なくとも、 人々は、次に述べるような、多少の初歩的だが堅固な原則に自分たちの信頼を置くこ とに合意しなければならない。人間社会の営みは、暴力によってではなく、人間らし いしかたで取り扱われなければならない。緊張状態、競合および紛争は、力づくでは なく理性的な話し合いで解決しなければならない。対立するイデオロギーは、対話と 自由な雰囲気の中でお互いに対面し合わなければならない。個別集団の正当な利害を 取り扱う際は、かかわりのある他の集団の正当な利害や、より上位の共通善からの要 求もを顧慮しなければならない。武器に訴えることは、紛争を解決するための正しい 方法と見なすことはあり得ない。不可譲の人権は、あらゆる条件の下で擁護しなけれ ばならない。ある解決を押し通すために人を殺すことは許されない。

 善意の人はだれでも人間性による、以上のもろもろの原則が自分自身の良心の中に 宿っているのを見いだすことができるだろう。これらの原則は、人類に関する神の意 志に対応する。これらの原則が、強者と弱者の両方の心の確信となるために、そして あらゆる活動に浸透していくためには、これらの原則は、そのあらんかぎりの効力を 回復しなければならない。あらゆる水準で、長く、忍耐深い教育がこのことのために 求められている。

2 平和のための教育

(1)平和の理想像を私たちの眼前に持ち出すこと

 自然に起こってくるこの無力感に打ち勝つためには、その名に値する教育によって 次のような能力が、教育の最初の有益な成果として生み出されねばならない。その能 力とは、表面に現われる不幸な真実を乗り越えて、平和の静かな前進を見通す能力、 あるいはむしろ荒れ狂う殺人的な暴力の真っただ中で、この平和の前進を認める能力 である。しかもこの平和の静かな前進は、決して屈服することなく、倦まず傷口をい やし、かつ生命を保持し、前進させてくれるものである。こうして平和への運動は、 可能なもの、望ましいもの、そして力強く、すでに勝利をもたらすものとして理解さ れることとなるのである。

 歴史を読み直すこと 連続する戦争と革命の大筋よりももっと真実であるところの 大筋を追いながら、まず諸国民と人類の歴史を読み直すことを学び取ろう。一般に認 められているように、戦闘の轟音が歴史を圧倒している。しかし、人類の名誉となる ような永続的な文化労作の生産を可能にしてきたのは、暴力の一時中止である。その 上、戦争や革命の時にさえみられたかもしれない生命と進歩のあらゆる因子は、暴力 の野望以外の秩序への熱望から生じた。つまり、全人類の共有する尊厳が承認される のを見たいという意志や人々の魂とその自由を救いたいという願望のような精神的な 性質の熱望から生じたものである。このような熱望があったところでは、これらの熱 望は、紛争最中の調整弁として作用し、取り返しのつかない破壊を予防し、希望を保 持し、そして平和のための新しい機会を用意した。このような熱望は、暴力の論理に 勝手なふるまいを許し、結局このことは、際限のない経済的、文化的退化と全体的文 明の死滅とをもたらした。諸国民の指導者たちよ、あなたがたの国史の偉大な頁に名 をとどめることによって、またあなたがたの先任者 ― 彼らの栄光は、平和の果実 を成育させたことにある ― の模範を強調することによって、平和を愛するすべを 学ばれよ。「平和を作り出す人は幸いである」。

 今日の平和を作り出す偉大な任務に対する敬意 今日、あなたがたは、人間の家庭 の肩にかかっている平和を作り出す偉大な任務をできるかぎり強調することによって、 平和のための教育に寄与することができる。人類共通の環境と遺産を理性的に、かつ 互いに依存し合いながら管理することを達成しようとする尽力や、無数の人間を押し つぶしている困窮を根絶やしにしようとする尽力、さらには、地域と世界の水準で、 人間家族の一致を表現しかつ増大させる能力のあるもろもろの制度を強化しようとす るあなたがたの尽力の中に、人々は、人の心を捕らえられるような平和の呼びかけを 聞き分けるであろう。この平和の呼びかけは、人間の自分たち互いの間に、また人間 を取り巻く自然の世界との間に、和解と親睦を成り立たせることを目ざすものである。 今流行しているあらゆる形態の悪宣伝をものともせず、所有・消費・支配本能の暴君 的圧力に比較的さらされず、むしろ個人の創造性や友愛の深いリズムに対してもっと 広く開かれた、より純朴な生活方法を探求するのを励ますことによって、あなたがた は、平和の思いもよらない多くの可能性のために計り知れない機会を、あなたがた自 身とあらゆる人々とのために設けることとなるのである。

 平和の数多いさまざまな模範が放つ光 ちょうど、各人の責任という限られた範囲 での平和のためのつつましい努力が、武力と軍拡競争による単純な関係という論理の とりことなっている大きな世界規模の論争によって無力化されていると感じることが、 個人にとって身をすくませるものであると同じように、国際的な諸団体が、平和の可 能性を確信して、平和の構築に情熱的に愛着するのを見るのは、心を伸び伸びとさせ るものである。この場合、平和のための教育は、あらゆる水準での平和の素朴な構築 者の日常生活の模範に対する新たにされる関心からも利益を得ることができる。つま り、これらの素朴な構築者とは、自分たちの情欲を制御することによって、また互い に受け入れ合い、尊敬し合うことによって、自分たち自身の内面的な平和を手に入れ、 これを外に輝かす個人と家庭であり、またその年功を積んだ英知が、平和という至高 の善の鉄床で鍛え抜かれてきたような、しばしば貧しく、非常に大きな試練を受けた 人々である。それはまた、暴君によって獲得された急速な進歩という人を惑わす誘惑 に対して、このようにして獲得されたものは、新たな紛争の毒を含む種子をもたらす ものであるとの確信の下に、繰り返し抵抗するのに成功した人々である。

 もちろん、暴力の悲劇を無視しないで、私たちは、これらの平和の理念を私たち自 身と若い世代との眼前に掲げよう。これらの理念は、決定的な魅力を発揮するはずで ある。なかんずく、これらの理念は、人間の本質的部分をなすところの平和への熱望 を解き放つはずである。これら新しいエネルギーは、平和の新しい言語の使用や平和 の新しい身ぶりへと発露するはずである。

(2) 平和の言語を話すこと

 言語は、心の思いを表現するため、また人々を一致させるためのものである。しか しそれが紋切り型のきまり文句のとりことなるならば、逆に心をその下落の方向へと 引きずり降ろす。それゆえ、心に働きかけるために言語に働きかけ、また言語の落と し穴を避けねばならない。非難したり、他人、特に「部外者」を批判するに当たって のしんらつな皮肉と粗暴な態度、さらに計画的な論争と私たちの権利主張についての しつようさなどがどの程度まで私たちの言葉による交流を荒廃させ、また社会的愛徳 と社会正義との両方をどの程度まで窒息させているかを指摘するのはやさしいことで ある。あらゆることを、力関係や、集団および階級闘争や敵・味方などととの関連で 言い表すことによって、社会的な障壁、蔑視、さらには憎悪やテロおよびこれらに対 する秘密の、もしくは公然たる支持などに都合のよい雰囲気が醸し出されている。他 方、平和というより高貴な価値に熱中する心は、耳を傾け理解しようとの願望、他人 に対する尊敬、現実の力である上品さおよび信頼などを産み出す。このような言語は、 人を客観性、真実および平和の小道へと導く。この点で社会的な伝達機関は、崇高な 教育上の任務を帯びている。国および国際水準の政治的対立に対する意見交換と論争 における意思表現の様式もまた大きな影響力を持っている。国家と国際機関の指導者 らは、新しい言語、つまり平和の言語を見いだすことを学んでいる。この言語は、そ れ自身で平和のための新しい機会を創り上げるのである。

(3) 平和の意思表示をすること

 平和の理念によって自由にされたもの、平和の言語によって満たされたものは、平 和の意思表示で表現されねばならない。このような表示がなければ、芽生え始めた確 信は、潰え、平和の言語は、急激に、信用されない巧言となる。平和を構築する人は、 もし彼らが自分たちの能力と責任に気づくようになれば、その数は非常に多くなるこ とができる。平和の実践こそが平和へと通じるのである。平和の実践は、平和の宝を 探求する人々に次のことを教える。すなわち、この宝は自分たちのできるあらゆる形 態の平和を毎日毎日謙虚に作り上げているような人々に明かされ、提供されるのであ る。

 両親、教育者および若い人々

 両親と教育者方よ、子どもたちと若い人々を助けて、彼らのできる範囲の無数の日 常行動の中に平和を体験せしめられよ。そしてそれは、家庭で、学校で、遊びの時に、 友だちといっしょに、班活動で、勝負を競うスポーツで、友人関係を作り、回復する ためにとるべき多くの方法で実現すべきである。国連は、1979年を国際児童年と 宣言したが、このことは、あらゆる人の注意力を平和に対する子どもたちの創意に富 む貢献に引きつけるはずである。

 若い人々よ、平和の構築者となられよ。あなたがたは、この偉大な共通の構築物を 産み出すことに全面的に参与する使命を帯びた働き手なのである。あなたがたをだま して、嘆かわしい凡庸さに陥れる安易な道に最後まで抵抗しなさい。自分たちの間で 仲よくやってゆけないおとなたちが暴力行為に際してあなたがたを利用しようとする ことが往々にしてあるが、そのような不毛な暴力に抵抗しなさい。自由に与え、生き ていることに喜び、共に分かち合うなどのあなたがたの良識が示唆する小道を進みな さい。あなたがたは、国境などを気にしないで他の人々と友好的に会合するために、 交流を用意にするため外国語を学ぶために、ほとんど資源に恵まれない国々に私心の ない奉仕をささげるために、あなたがたの新鮮な ― 先入の差別観によって縛られ ていない ― エネルギーを活用したいと望んでいる。戦争になれば最初に犠牲にな るのがあなたがたである。戦争は、あなたがたの情熱をくじくのである。あなたがた は、平和の希望である。

 社会的な努力に際しての共同者 専門職生活や社会生活への参与者たちよ、あなた がたにとって平和は、しばしば達成し難い。正義と自由がなければ、この両者を促進 するための勇気ある献身がなければ、平和もない。この場合求められるのは、当然、 人の言いなりになったり、気力が衰えたり忍耐強い精神力、挑戦を投げ出してしまわ ない強固な精神力、急速に消滅する激しい憤りの激発にエネルギーを浪費しないで望 む前進のために道を能動的に整えるに際しての賢明な精神力でなければならない。不 正と圧制に直面すると平和は、断固たる行動をとることによって自らのために活路を 切り開く。しかしこの断固たる行動は、それが目ざす目的の特徴をすでに帯びていな ければならない。すなわち、個人や集団がもっとよく互いに相手を受け入れ合うこと である。これは、人間の内面の奥深い所からくる平和への願望によって、また諸国民 の熱望と立法行為によって規制されるはずである。この洗練され、鍛練された、平和 のための能力、これこそが、緊張と紛糾の中にあってさえ憩いの場を見つけ出す力量 を発揮させるのである。この憩いの場は、平和のための能力の実り豊かで、建設的な 論理を展開させるために必要なのである。ある国内の社会生活にたまたま起こること は ― 良かれ悪かれ ― 諸国家間の平和に著しい影響を及ぼすものである。

 政治家 しかし、私たちは、もう一度強調しなければならない。右に述べた多くの 平和の意志表示は同じ平和の活動をそれ固有の水準で見つけることができなかった国 際的な政策によって妨害されたり、部分的に無にされたりする危険を冒している。諸 国民と国際機関の指導者である政治家たちよ、私は、心からなる敬意をあなたがたに 表する。また平和を維持し、あるいは回復するためのあなたがたの、しばしば疲労を もたらす努力を全面的に支持する。その上、人類の幸福と存続すらがかかわっている という事実を認識し、かつ「平和を作り出す人は幸いである」とのキリストの重要な 訴えを忠実にまねるという私の重大な責任を確信して、私はあえてあなたがたを、さ らに前進するよう激励する。平和への新しい門戸を開かれよ。対話の道が、力の道に 打ち勝つよう力の及ぶかぎりあらゆる尽力をいたされよ。このことをまず国内の次元 で適用されよ。あるイデオロギーに従えば、正義と平和は、何らの検討もなしに頭か ら、自分たちの未来を打ち立てるにふさわしくない、あるいは共通善に向かって強力 する能力がないと判定を下される人々を無力にしてしまうことによってしか獲得でき ないとしているが、もし一国の国民自体がこのようなイデオロギーのとりことなって いるなら、どうしてこれらの国民は、国際的な平和を本当に育てることができるだろ うか。

 対立者との交渉に際しての名誉と有効性は、自分の利害を守る頑固さの度合によっ て図られるのではなく、むしろ当事者たちの尊敬、真実、善意および友愛を産み出す 能力によって ― つまり言い換えれば、彼らの人間性によってきまるのであること を確信されよ。歴史から受け継いだ情念の重荷や悪循環からの束縛を破って自由とな るため、平和の意志表示、しかも大胆な意志表示をすら実行されよ。ついで平和とい う政治的、経済的、文化的織物を忍耐深く織り出されよ。武器売買という気がかりな 問題をとことんまで再検討する勇気を出されよ。隠れた紛糾を適時に探り当て、それ らが情念をかき立てる前に冷静に解決するすべを学ばれよ。地域集団や世界共同体に 適切な制度上の枠組を施されよ。利害の衝突を利するために合法的な、さらに霊的で すらある価値を利用することを断念されよ。もし利用すれば、これらの価値は、衝突 と同じ低次元にまで下落してしまい、衝突をいっそう硬直したものにしてしまうので ある。考えを伝達し合いたいという正当な願望が、おどしと武力の圧力によってでは なく、説得を通じて働かされるよう留意されよ。

 平和の断固たる意志表示をすることで、あなたがたは、諸国民の本当の熱望を解き 放ち、これらの願望の中に万物の平和裏の発展のために働く力強い同盟者を見いだす べきである。あなたがた自身を平和のために教育し、平和という偉大な大義のための 率先的な行動をとるための強固な確信と新しい能力とをあなたがた自身のうちに目覚 めさせるべきである。

3 キリスト者らによる特別な貢献

 信仰の大切さ 平和 ― 諸国民間、自分自身の国内での、自分の近隣での、そし て自分の心の中の平和 ― のためのこの教育は、すべて、あらゆる善意の人々にあ てられたものである。それは、教皇ヨハネ23世がその回勅『地上に平和を』で注意 しておられるとおりである。平和は、度合の創意はあるが、これらあらゆる善意の人 々の力の届く範囲内にある。また、「地上の平和は……神によって立てられた秩序を 精励して遵守しないでは、決して構築され、保証されることはあり得ない」(『パー チェム・インン・テリス』1,AAS 55,1963,P.275)のであるから、信仰ある人々は、 その宗教の中に平和を目ざす教育のための光明、動機づけおよび力を見いだすのであ る。真実の宗教感情は、つねに必ず真実の平和を増進する。公権力は、宗教上の自由 を ― 彼らが当然なすべきままに ― 是認することによって、平和の精神の発展 を、人々の心の最も奥深い水準と、信じる人々が育成している教育制度とにおいて、 後援するのである。キリスト者たちとしては、特別にキリストから教育を受け、また キリストから平和の構築者となるよう導かれている。「平和を作り出す人たちは、幸 いである。彼らは神の子と呼ばれるであろうから」(マタイ5・9、ルカ10・5な ど参照)。読者諸子は、私が、平和に対する教会の子らの貢献を奨励するために、ま たイエズス・キリストのうちなる神によって啓示された平和の偉大な計画の流れの中 にこの貢献を位置づけるために、このメッセージを末尾で、これら教会の子らに特別 な配慮を払っていることを了解するであろう。キリスト者たちと教会によってなされ た、万人の努力に対する特別な貢献は、もしそれがその養分をその固有の独特の源泉 から、つまりその固有の独特の希望から組みだすのであれば、それだけますます確実 なものとなるであろう。

 平和についてのキリスト者の理念 キリストにおける親愛なる兄弟がた、あなたが たがあらゆる人々と共有している平和への熱望は、同一の天父の似姿に創造された兄 弟たちから成る単一の家庭を形作るための神の最初の呼びかけに対応するものである。 天啓は、私たちの自由と連帯とを強調している。平和を求める私たちの旅路で出会う もろもろの困難は、部分的には被造物としての私たちの弱さに関連がある。つまり、 私たちは、否応なしに緩慢で斬新的な足取りで進まねばならないのである。これらの 困難は、私たちの利己心によって深刻化する。兄弟間の断絶を必ず伴う神との断絶を 表すところの原罪をはじめとするあらゆる種類の私たちの罪によってますます悪化す る。バベルの搭の光景は、この状況をよく描写するものである。しかし、私たちは、 イエズス・キリストが、その生命を十字架上でささげることで私たちの平和となられ たことを信じている。すなわち、キリストは、敵意を抱き合っている兄弟たちを分裂 させる憎悪の壁を打ち倒されたのである(エフェソ4・14参照)。復活あれ、御父 の栄光の中に入ってしまわれたキリストは、神秘なしかたで私たちをご自分の生命に 参加させられる。つまり、私たちを神と和解させることによってキリストは、罪と分 裂の傷をいやし、かつ私たちの中でご自分が再び作り上げようとしておられる一致の 大筋を私たちの社会の中に作り出す力を私たちに授けられるのである。

 キリストのいちばん忠誠な弟子は、その敵をゆるすほどまでにすら、平和の構築者 であってきた。これら弟子の残した模範は、もはや一時的な妥協では満足せず、むし ろ最も深い友愛を成就しようとする新しい人類のために道を指示している。私たちは、 地上の平和を目ざす私たちの旅路は ― その自然の一貫性もしくはその独特の困難 を失うことなしに ― もう一つの旅路、つまり救いの旅路の中に含まれるものであ ることを知っている。この救いの旅路は、恩寵の永遠の充満の中において、つまり神 との全的な交わりにおいて完成に到達するのである。こうして、神の支配、平和の支 配は、その固有の源泉、手段および目的をともなって、すでに地上における活動全体 に、力を弱めることなく浸透している。この信仰の理念は、キリスト者の日常行動の 上に深い影響を及ぼすものである。

 平和のためのキリスト者の活動力 確かに、私たちといっしょに旅するすべての人 々の弱さと暗中模索を伴いながら平和の小道を進んでいる。これらの人々と共に私た ちは、平和の悲惨な欠如に苦しんでいる。私たちは、神の栄光のために、また人間の 名誉のために、これらの欠如をもっとすぐれた解決法で除去しなければと痛感する。 私たちは、今日平和に向かって具体的な前進をするための既成の処方せんが福音書の 本文の中に見いだされるなどとは主張していない。しかし、福音と教会史とのほとん ど各頁には、精神つまり力強く平和を教えるところの兄弟的愛の精神が見いだされる。 私たちは、聖霊の賜物と秘跡とのうちに、神的源泉から汲みだされた力を見いだす。 私たちは、キリストのうちに希望を見いだす。たとえ、直接の結果が、はかないもの であることがわかるとしても、たとえ、平和を支援する私たちの証言のために迫害さ れるとしても、妨害は、平和の努力を空しくすることはできない。救い主キリストは、 平和のために愛をもって努力するすべての人々をご自分の定めに参加させたもうので ある。

 平和の祈り 平和は私たちの仕事である。それは私たちの勇気に富み団結した行動 を必要とする。しかし、それは分離できないほどまでに、そして何よりもまず神の賜 物である。それは私たちの祈りを必要とする。キリスト者は、日夜平和のために祈っ ている人々の最前列にいなければならない。キリスト者はまた他の人々に平和のため に祈ることを教えなければならない。平和の元后マリアと共に祈るのはキリスト者の 喜びであるはずである。

 キリスト者、信じる人々、および善意の人々などあらゆる人に向かって私は言明す る。平和にかけてみること、平和を教えることを忘れてはならない、と。平和の熱望 は、永久に、空しくなることは決してない。消え去ることのない愛徳、その成果を生 むはずである愛徳に鼓舞されて、平和のために努力されよ。平和は、歴史の最後の言 葉となるだろう。

1978年12月8日
  バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

PAGE TOP