1983年「世界広報の日」教皇メッセージ

第17回世界広報の曰(毎年、主の昇天の祝日、日本では一週間前の日曜日)にあたり、教皇ヨハネ・パウロ二世は、「平和の促進」のために、広報と情報の役割が重大であることを強調した。特に広報活動に従事する人も、それをうけとめる人にも「とぎすまされた良心」が必要であり、操作された情報は、平和を脅かすものであると指摘している。教皇のメッセージの要旨は次の通り。

1983年「世界広報の日」教皇メッセージ

 マス・メディアの目覚しい発展と急速な広がりのおかげで世界中の生活状況はより相互依存の度を深めています。この世界にあって、広報と情報は、今日、平和に力強く貢献する力となっていますが同時に、それは、緊張を生み出し、不正義や人間破壊を生むこともできます。
 広報に従事している人たちの役割を考えると、新年の平和の日のメッセージ「今日の時代の挑戦、平和のための対話」で述べたことの重要性を感じます。
 どのような方法で広報は平和を推進することができるでしょうか。
 まず第1に、情報の正確な、正しい、建設的な利用を保証する広報秩序の組織的な計画の設立を通してであります。つまり、抑圧とか政治的・経済的・思想的な差別から解放されることによってであります。
 ここでは広報の新しい技術の適用について考えるのでなく、広報において優先を与えるべき目的と基本的な原理を再考したいと思います。
 これを成しとげるために、良心をとぎすますことが、広報に従事する人にも、それをうける人々にも求められます。
 広報の正しい秩序とその恩恵に等しくあずかることは、市民、国民、いろいろな文化の間の相互の実りある対話のための環境と好ましい状況を作り出すことであります。この分野での不正と無秩序が争いを生み出すのであります。上から、あるいは市場や広告の法則などから独断的に置かれた一方的な情報や欺瞞などは、広報の正しい秩序を攻撃するばかりでなく、責任ある報道の権利を傷つけ、平和をおびやかすことになります。
 第2に、広報が、その内容において、平和の精神を学ぶとき、広報は平和を促進します。
 より正確にいえば、情報は決して中立ではありません。それは常に内容がその意図において、ある立場に応えているからです。意見の広報と価値観の教育とは密接に結びついています。
 巧みな表現法、片寄った解釈、意味ありげな沈黙は、伝達されるものの意味を変える謀略であります。状況と問題-開発や人権、民族間の関係、イデオロギー闘争、社会的政治的差異、国家的主張・軍拡競争など―が提示される形式と方法は、直接的に、また間接的に世論の形成に影響を与え、平和の方向か、反対に武力の行使を通して、解決を求める方向に行くかの考え方をつくることになります。
 もし、広報が平和の道具であろうとするならば、一方的、党派的な思いを超えなければならないし、偏見を取り除かなければなりません。そして、理解と相互の連帯の精神を生まなければなりません。
 いろいろな生活状況の中で、平和的な共存の論理を忠実にうけ入れることは、対話の方法の不断の適用を求めています。すべての立場の存立と表現の権利をみとめながら、対話は、互いに平和というより高いものに達するために、他のものとの総和を示さなければならない義務を肯定します。
 従って、人道主義に価値をおくことは、ますます必要な緊急なこととなって来ています。それは、人間の権利と真の尊厳の認識にもとづいており、人々の間の、グループの間の、国家間の社会的経済的連帯に開かれているのと同じように、人間性が共通に、同じ召命をもつという意識の中で、文化的連帯に開かれています。
 結局、情報の専門家が平和のための働き手であるならば、広報は平和を促進するのであります。
 平和に関して広報する者にかせられる特別な責任と避けることのできない任務は、能力と力の考察から推察されます。それらは、ときには決定的な方法で、世論と政治家の態度に影響を与えるものであります。
 広報活動において情報源への接近や、客観的に事実を提示する自由という重要な機構や基本的な権利の実践のための一致がなければなりません。
報道機関に対する当然の責務と法的な責任をこえて、広報に従事する者は、真理についての義務と社会の共通善に対する義務があることを心得なければなりません。
 たしかに、宣教であるこれらの仕事において、広報関係者は、落ちついた、片寄らない情報を提供し、理解と対話をすすめ、理解と連帯を強めるエ夫をするならば、平和のために、すばらしい貢献をすることでしょう。

1983年3月25日
バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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