1984年「世界平和の日」教皇メッセージ

1984年「世界平和の日」メッセージ
(1984年1月1日)
「新しい心から平和は生まれる」

1984年「世界平和の日」メッセージ
(1984年1月1日)

「新しい心から平和は生まれる」

諸国の政治指導者方に、

 経済、社会、文化の各生活の場で活躍している人々に、

 友愛と連帯の世界を希望している若人に、

 平和を願う男性および女性であるあなた方すべての一人ひとりに!

 私は、1984年の夜明けに際してあなた方に語りかけているが、この年は、到るとこ ろに問題と不安とが山積みしている。しかし、同時に希望と期待にも満ちている。第 17回世界平和の日を迎えるに当って、私の呼びかけは、心の底から湧き上がってくる ものである。そしてそれは、ずたずたに裂かれた世界の只中にあって真の友愛を熱望 している多くの男女の願望をこだまさせていることを私は、よく知っている。私があ なた方に送る教書の内容は、単純であるとともに多くを要求するものである。という のもあなた方一人ひとりに個人的にかかわるものだからである。教書は、各人が他人 に肩代りさせないで、世界の只中に平和を打ち立てるという義務を分担するよう促す ものである。あなた方の思索と行動を促して私が今日定義しているテーマは、次のと おりである。すなわち、「新しい心から平和は生まれる」である。

1.逆説的な状況
 今日、人々は暗雲とおどしにおののかずにはいられないが、同時に光明と希望を忘 れるわけでもない。  誠に、“平和はこわれやすく”、不正は世に満ちている。いくつもの国では、無慈 悲な戦いが繰り広げられ、しかも、死と悲嘆と荒廃を積み重ねているだけなのに今だ に続けられている。そして解決への前進のしるしは全くみられない。別の国々では、 暴力と狂信的なテロが容赦なく荒れ狂っている。そしていやと言う程しばしばツケを 払わされるのは、罪なき民であり、その間にも激情が高じ、恐怖にあおられてあらゆ る種類の過激な行動に走る危険がある。多くの地方で人権がふみにじられ、自由は嘲 笑のまととなり、人々は、不正に投獄され、党派的な理由による安易な処刑がよこし まに行なわれ、こうして、数々の宣言と上訴機関の設立を経験してきた。まさにこの 20世紀において、人類は、これらについて的確な情報を得ていないか、仮に得ている としても、これらの悪弊を阻止するのにほんんどお手上げの状態におかれたままであ る。数多くの国々は、飢え、病気および低開発を克服するための奮闘に懸命なのに、 一方では富める国々は、自分の有利な立場をさらに強化している。その上、軍拡競争 は、もっと善用できたはずの資源を相変らず弁明の余地なく浪費し続けている。通常 兵器、化学兵器、細菌兵器、そして特に核兵器の製造によって諸国家、とりわけヨー ロッパの諸国家の未来に重苦しいおどしがのしかかり、それぞれの住民に対するもっ ともな憂慮が生じている。新たで、重大な不安が世論をおおっているが、私はもっと もなことだと思う。  現代世界は、かつてと同じように、緊張状態の網の中に囚われている。通常、東と 西と呼ばれているものの間の緊張状態は、直接巻き込まれている国々の間の関係に影 響を及ぼしているだけではない。世界の他の地方における多くの別の困難な状況にも 影響しているばかりか、それをいっそう悪化すらさせているのである。このような状 況に直面して我々は、このますます悪化する緊張状態と大規模な分極化によって表現 されている恐るべき危険に注意しなければならない。特に、大量かつ前代未聞の大破 壊をもたらす、前例のない諸手段がいつでも作動する状態にあるのを考えるとき、こ の注意を怠ってはならない。とは言え、この危険に十分気がついていても、主導者た ちは、右に述べた破壊の過程を防止するに当って、また緊張を少しずつ減らしていく ことを目指す具体的な措置や軍備縮小を目指す措置、さらには、経済的、社会的かつ 文化的進歩の優先目標に、もっと努力を割愛するのを可能にするような協約を目指す 具体的な措置を媒介として、これらの緊張を緩和する道を見いだすに当って、全くの お手上げと言わないまでも、相当な困難を経験しているのである。  イデオロギーを背景とする東西間の緊張が、世の注目を独占し、特に北半球におけ る大多数の国々の不安をたきつけてはいるが、そのためにもう一つ別の、もっと根本 的な緊張関係、つまり、人類の大部分の生命そのものをおびやかしている“南北間” の緊張関係の重大さの影を薄めてしまってはならない。この緊張関係にあっては、自 分たちの発展を加速し、富を増やすための機会をいつでも享受してきた国々と、低開 発という条件の下に閉じ込められている国々との間の、ますます増大して行く格差が 問題なのである。これは、もう一つの巨大な、抑圧、悲痛、反抗もしくは恐怖の源泉 であり、とりわけそれが多くの種類の不正義で増幅されているだけに一層悪質な源泉 となっている。  まさにこれらの法外な困難に直面して、私は「心」の刷新というテーマを提起する 。この提起は、あまりにも単純にすぎ、目的からあまりにもかけ離れすぎた手段だと 考えられるかもしれない。けれども、よく熟考するなら、ここで概略を述べる分析に よって、我々は問題の深層に切り込むことができるようになり、またこの分析が、ま さに平和への脅威をなしている多くの前提に異義をさしはさむ力を持っていることが わかるはずである。現にある緊張状態を解消するのに人類が全く無力であるという事 実は、障害と、そして同様に希望とが、体制そのものよりももっと根深い何物かから 由来するものであることをあらわにするものである。

2.戦争は人の精神から芽生える
 戦争の元は人の心の中にあるというのは、私の深い確信であり、聖書とキリスト教 思想の中心思想であり、さらに、私はそう願いたいのだが、多くの善意の人々の直感 である。まさに人間が人を殺すのであって、人間の剣や、あるいは現代にあっては、 人間のミサイルが人を殺すのではない。  聖書の言う「心」とは、善に対する、他者に対する、神に対する関係をふまえた人 間ペルソナの最も内面的な深みのことである。心は、第一に情愛の問題ではなく、良 心、確信、自分が信奉する思考体系の問題であり、さらに自分に影響している強い感 情の問題である。心でもって人間は、善の絶対的な価値に対して、正義に対して、友 愛に対して、また平和に対して敏感な者となる。  心の乱れは、とりわけ、“良心”の乱れ、つまり、良心が自己の物質上の利害ある いは自己の権力への願望の充足のために選び取ろうと思っているものを善あるいは悪 と呼ぶ際の良心自身の乱れである。  権力の行使が複雑な性格であるということさえ、ある紛糾に道を開き、その口火を 切り、あるいはそれを拡大することの中には常に個人の良心の責任が横たわっている という事実を否定するための言いわけとはならない。責任がある集団で分担し合われ るという事実も右に述べた原則を変えるものではない。  しかし、この良心は、それ自体人間精神の仕業である。「社会:政治的かつイデオ ロギー的体制」から征服されるとまでは行かなくても、しばしば誘われている。排他 的であり、かつ殆どマニ教的でさえあるような人類に関する全体的なビジョンを提示 するところの体系によって人々が誘惑されるのを自認する限りにおいて、つまり、人 々が、他者に反対する闘争、他者の抹殺あるいは奴隷化を進歩のための条件となす限 りにおいて、人々は緊張を高める好戦心理の中に自分を閉じ込め、このようにして対 話が殆ど不可能となる限界にまで突っ走るのである。時には、これらの体系への人々 の無条件の愛着は、権力崇拝の形態、力と富の崇拝、指導者自身からさえ自由を奪い 取る隷属の形態へと転化するのである。  厳密には、いわゆるイデオロギー体系の多様さをはるかに上まわって、人の心を不 安にし、戦争に傾かせるところの“情熱”もまた多くの種類がある。人々は、人種に よる覇権の観念やこの理由に基づく他者への憎悪に心を奪われたり、あるいは、他人 の土地や資源に対するねたみ、うらやみ、あるいは、一般的な仕方で、権力を求める 願望や思い上がりや自分が見下している他人の上に自分の支配力を押し拡げようとす る願望やに没頭するがままに流されることがある。  確かに、他の人々が生存を保障することを拒んだり、あるいは社会条件が遅々とし て民主主義や富の分有を採用するのを阻んでいる場合、激情は、しばしば個々人と民 衆との“現実の挫折”から生じるものである。“不正義”はすでに搾取する者の心に 巣くう大きな悪徳である。しかし、激情は、時として故意にかき立てられている。も し両陣営の民衆が、相互的な敵がい心という強い感情を抱いていないなら、あるいは もし民衆が、敵の権利主張が自分らの重大な利害をおびやかすと堅く信じていないな ら、戦争が勃発するのは容易なことではない。このことから、攻撃的な意図を持つ人 々がイデオロギー上の“操作”に訴えるという事実の説明がつく。一度戦闘が起こっ てしまうと、敵がい心は増大の一途をたどる。なぜなら、それは、両陣営がともに体 験する苦悩と残忍さとによって助長されるからである。それゆえ、憎悪という精神病 が結果として生じることがある。  それゆえ、結局、暴力や戦争に訴えるという事実は、人間の罪やその精神の盲目状 態とその心の乱れに由来するものである。これらは、緊張状態もしくは紛糾を拡大す るため、あるいは悪化させるために不正義の動機を持ち出すのである。  いかにも、戦争は、“人間の罪ある心から”生まれる。旧約聖書の物語によれば、 弟アベルに対するカインの心にみなぎったねたみと暴力この方、つねにそうである。 人々が、何が善で何が悪かについて、また、神がその源泉かつ保証人であるところの 生命の価値について、同意に達することができなくなった今、問題は、実に、“さら にいっそう深刻な不和”にまつわるのではないだろうか。このことによって、人間が 、精神の正しさと心の善良さを伴いながら真理の土台に立って同胞と和解するのに失 敗したとき、その「心」の漂流状態が生じるという事実が説明されるのではないだろ うか。  もし本当の心の変革がなかったなら、平和の再建は、それ自体つかの間のものとな り、まったく幻想的なものとなるだろう。歴史が我々に教えたところによれば、占領 下にあえいできた国々の場合でさえ、あるいは人権が抑圧されてきた時でも、民衆が 非常に永年あこがれていた「解放」が、次のような条件の下では結局は期待はずれで あったことが判明した。すなわち、民の指導者と市民たちが、自分らの敵がい心を克 服しないで、自らの精神の狭量や不寛容や冷酷さに固執した場合である。聖書そのも のの中にも、本当の心の変革や実際の「回心」のない場合のはかない解放が預言者ら から公然と非難されている。

3.新しい心から平和が生まれる
 もし、人間の「心」から生み出された現行体制が、平和を護るのに無力と化したな らば、その時には、体制、制度、方法などを刷新するために先ず、刷新しなければな らないのは人間の「心」である。キリスト者の信仰には、この心の根本的変革を表わ すための言葉がある。すなわち、「回心」である。一般的に言えば、大切なことは、 精神の自由を伴う明敏と公平無私、人権尊重を伴う正義感、富める人々と貧しい人々 との間の世界規模での連帯や相互信頼と友愛を伴う公平感などを再発見することであ る。  第一に、過去に不毛な態度や、哲学的かつ社会的体系の偏見のある不公平な性格な どに気づくためには、個々人と諸国家とは、真の“精神の自由”を手に入れねばなら ない。これら哲学的かつ社会的体系は、議論の余地のある前提から出発するところの もの、人間と歴史を物質主義的諸力の閉じたつながりに矮小化するもの、武器の力と 経済力以外には一切信頼しないもの、人間たちを互いに敵対し合うカテゴリーに閉じ 込めるもの、一方的な解決策を押しつけるもの、諸国民の生命の複雑な現実を無視し 、諸国民が自由な人間として処遇されるものを妨げるもの、なのである。それゆえ、 これらの体系の再検討が必要である。すなわち、明らかに行き詰まりに行き着く体系 、現実の問題を解決しないで、本当の安全をもたらさないで、人々を本当にしあわせ で、温和で、自由な者としないで、かえって対話と意思疎通を閉ざし、不信をかき立 て、そして脅威と危険を増大する、そんな体系を見直すことが必要である。この精神 と心の深層での変革は、確かに大きな勇気を必要とする。謙遜と明晰な精神状態とを 伴う勇気を必要とする。この変革は、まず個々人の良心を打つことを通して集団の精 神に影響を及ぼさねばならない。これは無理な望みだろうか。我々現代人は、重大か つ危険な立場に置かれているが、この事実から現代人は、この、“真実への回帰”を 一寸延ばしに回避しないよう強く求められている。ちなみにこの回帰だけが現代人を 解放し、またより善い体制を造り上げる能力をもたらしうるのである。以上が「新し い心」を創造するための第一条件である。  他の積極的な立場は、よく知られている。簡単に触れるだけで十分である。平和は、 正義の成果であるとき、いつも本物である。預言者イザヤが言うようにOpus Justi- tiae pax(義の業は平和)(イザヤ32・17参照)である。ここでは社会生活での仲間 の間、人々の間の正義を指す。そして、社会は、「人間ペルソナの基本的権利」を尊 重するとき、正義にかない人間にふわさしいものとなる。さらにその上、人間の奪い 得ない権利が侵害される場合、好戦気分が起り、ますます強くなって行く。たとえ独 裁権や全体主義が、搾取され、強圧されている人間の訴えを一時的に押さえこんでも 、正しい人間は、いかなるものも人間の権利のこのような侵害を決して正当化するこ とはあり得ないとの確信を抱き続ける。正しい人間には苦しむ他者のために取りなし てやる勇気があり、不正義に屈伏したり、妥協することをきっぱり拒絶する。また同 様に、それがどれほど逆説的に見えようとも、平和を心から願望する人は、おく病も しくは事なかれ主義に他ならないような平和主義はどんなものでもはっきりしりぞけ る。事実、自分の支配力を他者に強要したくなる人々は、正義を推進するために自由 を擁護しようと構えている、知的で勇敢な男性や女性の抵抗にいつも遭遇することに なるのである。  平等性の観点からも正義に基づく関係を強化し、また、“貧しい国々との連帯”特 に貧困と飢餓に悩んでいる国々との連帯を強化することが要求される。「発展とは、 平和を意味する新しい名称である」とのパウロ6世教皇の言葉は、その後多くの人々 の確信するところとなってきている。こうして富んだ国々は、世界的な地平に視野を 開き、交換と相互援助について新しい観点に立って考えるべく自らの集団的利己主義 を脱却する。  さらにその上、新しい心は、戦争の恐れと精神異常を一掃しようと努める。新しい 心は、平和は軍備の均衡から生じると主張する格言を、真の平和は、“相互信頼”の 中でしか打ち立てることはできない、という原理(『パーチェム・イン・テリス』11 3 参照)でもって置き替える。もちろん、うそやごまかしを見破るために、また慎重 に前進して行くために、いつも用心を怠らず、明敏であり続ける。がしかし、新しい 心は、敢えて対話にふみ切り、また絶えずそれを再開する。この対話が昨年の私の教 書の主題であった。 一言でいえば、新しい心とは、“愛”の霊感に進んで身を委ねる心のことである。 すでにピオ11世教皇は、次のように言明しておられた。「平和の精神が、精神と心を つかんでいないなら、個々人や諸国民の間の本当の外面的な平和」はあり得ない。… …「精神をつかむのは、正義に属する諸権利を是認し、尊重するため、心をつかむの は、正義が愛徳と結合するため、また愛徳が正義に勝つことすらあるようになるため である。なぜなら、平和が正義の所業であり成果でなければならないとしても……平 和は、正義よりもむしろ愛徳に属するからである」(1930年12月24日の談話。AAS,〔 1930〕535 頁)。問題は、暴力、虚偽および憎悪を捨てること、・・・意図、感情お よび行動全体によって・・・友情厚い人物になること、他の人の尊厳と必要とを認め また平和な世界を創造するための他の男性もしくは女性と共働するよう努める人物と なること、である。

4.政治指導者と世論形成者への呼びかけ
 新しい心を身につけ、平和についての新しい考え方を促進するのが必要であるから 、すべての人は、その社会的な地位がどうあれ、本物の平和を樹立するに際して責任 の分担を引き受けることが実際にできるし、また引き受けねばならない。そしてこの 引き受けは、生活環境で、家庭内で、学校で、職場で、町中で行われねばならない。 すべての人は、その配慮、会話および行動によって、すべての兄弟姉妹への配慮を心 に抱かねばならない。これらの兄弟姉妹は、たとえ地球の反対側に住んでいるとして も同一の人間家族の一員なのである。  しかし、明らかなことだが、責任には種々な度合いがある。“国の首長や政治指導 者”の責任は、第一に、国の様々な部分の間や国民の間に平和的な関係を打ち立て、 かつ発展させることである。これら指導者は、他の誰にも勝って、戦争は本来理性に そむくものであること、また紛争を平和的に解決する倫理原則が人間にふさわしい唯 一の道であることを確信しなければならない。もちろん、人類の歴史には暴力がいや という程見られることを考慮に入れる必要がある。正義への根本的関心に役立つ現実 感覚がいやおうなしにこの歴史の中で正当防衛の原則を維持させる。がしかし、大量 破壊をもたらす武器の恐ろしい危険を見れば、当然、協力と軍縮との手順を達成しよ うと努めるはずである。そうすれば戦争は、事実上とてもありそうもないものとなろ う。平和は、努力して獲得しなければならない。それだからこそ一層、政治指導者ら は、その良心に迫られて、情欲が正義を踏みにじる場となるような危険な冒険に夢中 になることが決してあってはならない。これら指導者は、自分の仲間である市民らの 生命をこのような冒険で無益に犠牲にしてはならない。あるいは、他国民の間に争い を扇動したり、もしくは自分の権力を新しい領域に押し拡げるために一地域における 平和が危険にさらされているという口実を設けてはならない。これら指導者は、右に 述べたすべてのことを頭と良心で熟考し、政治的日和見主義を排除しなければならな い。彼らは、この点に関して国民と神に対して申し開きをしなければならないのであ る。  しかし、繰り返して言うが、平和は、すべての人だれもの義務である。“国際的組 織”も、党派的な視点を超越して普遍的解決策を優先させるために果すべき大きな役 割を帯びている。さらに私の呼びかけは、特に、メディアを通じて“世論”に影響力 を行使しているすべての人々、青年と成人の“教育にたずさわる”すべての人々に宛 てられている。まさにこれらの人々にこそ平和精神の育成の任務が委ねられている。 社会の中で、“青年”を特に当てにすることはできないであろうか。予見される険悪 な未来に直面して、確かに青年たちは、他の人々よりも平和を渇望し、また多くの青 年は、自分の惜しみない心と勢力を平和のために献げる心構えができている。青年を して明白な見透しを放棄することなく、平和への奉仕に創意を発揮せしめよう。また そうすることによって、青年をして長期の解決策にまつわるあらゆる側面をじっくり 考量する勇気のあることを示させよう。要するに、すべての男性と女性は誰でも、自 分の特有の感受性を出し合い、特有の役割を果しながら、平和に寄与しなければなら ない。こうして、生命の神秘に親密にかかわっている“女性”は、生命の保存を確実 にするためのその配慮を通して、また真の愛は、世界を万人にとって住むにふさわし い場たらしめることのできる唯一の力である、とのその確信によって、平和の精神を 前進させるのに多大の貢献をすることができるのである。

5.キリスト者への呼びかけ
 現代の緊張状態に巻き込まれた、イエズスの弟子であるキリスト者として、我々は 、「平和ならしめる者」(マタイ5・9参照)以外にはしあわせのないことを思い起 さねばならない。  カトリック教会は、今、救いの聖年を挙行している。すなわち、全教会は、救い主 から占有されるがままに身を委ねるよう求められている。そして、この救い主こそ、 愛の極致に達せられたとき、まわりの人々に、「私の平和をあなた方に与える」(ヨ ハネ14・27参照)と言われたお方である。この教会においては、全員が、その兄弟姉 妹と共に救いの宣言と希望の活力とを分かち合わねばならない。  和解とつぐないに関する世界司教会議は、最近、「くい改めよ、そして福音を信ぜ よ」(マルコ1・15)というキリストの最初の言葉を想起した。会議の教父方の教え は、本物の平和ならしめる者となるにはどの道を進まねばならないかを示している。 すなわち、「御言葉は、我々にくい改めを求めている。〔“あなたの心を変えよ”、 赦しを求めよ、そして御父と和睦せよ〕。我々の社会についての御父の計画は、我々 が一つの家族として正義と真実と自由とそして愛のうちに生きることである」。この ような家族は、我々が御父への回帰の呼び声に耳を傾け、神ご自身と和解せよとの招 きを聴き容れるとき、はじめて深い平和のうちに団結するのである。  この呼びかけに応え、神の計画に協力するということは、御主が我々を回心せしめ られえるがままに身を委ねることである。我々の力だけを当てにしないように、また 非常にしばしば失敗する我々の意志のみに頼らないようにしよう。我々の生命が変容 されるがままに身を委ねよう。なぜなら、「これらのことはすべて、神から出ている 。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに 与えてくださった」(・コリント5・18)からである。  “祈り”の力を再発見しよう。すなわち、祈るとは、その名を唱えるお方と和解す ること、我々が出会うお方、我々を生かして下さるお方と和解することである。祈り を体験するとは、我々を変革する恩寵を受け容れることである。我々の霊と一つにな った聖霊は、我々を拘束して、生活を神の御言葉に合致させる。祈るとは、歴史に及 ぶ神の活動に参加することである。すなわち、歴史の最高の行為者であるお方が、人 間をご自分の共働者とすることを欲したのである。  パウロは、キリストについて述べている。「キリストこそ私たちの平和であり、わ れわれ2人を1つにし、敵意という隔ての壁を打ちこわした方である」(エフェソ2 ・14)。和解の秘跡に際して、どれほど大きな慈愛の力が我々を変容させるものかを 我々はよく知っている。この賜物は、我々にあふれるばかりに注がれる。この場合、 全く誠実に、我々は、たとえ同一の信仰を分かち合っている際にも互いに我々を敵対 させるところの分裂や対立にあきらめて溺れ切っていることは許されない。単一の身 体となるよう招かれている人類の一致を破ろうとしている闘争がダラダラと長引いて いるという事実を、反発もしないで受け容れることは、我々にはできない。ゆるしを 実行しながら、際限もなく互いに戦い合うことができるだろうか。生きておられる同 一の神の名を呼びながら、我々は互いに敵同士でいられるだろうか。キリストの愛の 法が我々の法であるなら、傷ついた世界が、平和を建設しつつある人々の第一線に参 加するよう我々に期待して待っているのをみて、我々は、声も上げず無気力なままに 留まっていられるであろうか。  卑しく、また弱さに気づいている我々だから、進んで、“感謝の祭儀の食卓”に近 づこう。そこでは、ご自分の無数の兄弟のために生命を与えられるお方が、我々に新 しい心を授けられる。そこでは、このお方が新しい霊を我々に注がれるのである(エ ゼキエル36・26参照)。貧しさと混乱の深淵にあって、このお方を通して感謝の心を 表わそう。なぜなら、このお方こそご自分の現存とご自分自身という賜物とによって 我々を一つにされるからであり、「来られて、遠くにいたあなたがたに平和を告げ、 近くにいた人たちにも平和を告げられた」(エフェソ2・17)方だからである。そし て、この方を受け容れる力が我々に授けられているなら、平和を目指すあらゆる創造 の場における我々の友愛に満ちた活動を通してこの方の証し人となるのは我々に委ね られた任務となる。

むすび
 平和には、種々様々な形態がある。諸国民間の平和、社会の中の平和、市民間の平 和、宗教団体間の平和、企業内部、近隣、村落内の平和、そして特に家庭内部の平和 がある。カトリック信者に宛てて、そしてまた他のキリスト者の兄弟や善意の男女に も呼びかけながら、私は、平和への障害のいくつかを嘆き悲しんできた。これらの障 害は、重大であり、由々しい脅威である。しかし、それらは、精神や意志や人間の「 心」に依存しているものであるから、神の援けによって人々はこれら障害を乗り越え ることができる。人々は、宿命観や落胆に屈伏してしまうことを拒絶しなければなら ない。前向きのしるしは、すでに暗黒を貫いて進んでいる。人類は、雇用、地球と宇 宙の資源利用、恵まれることの少ない諸国の発展、そして安全保障などの大問題の大 多数を解決するためには、人々と諸国家とを結合する連帯が不可欠である、という事 実にますます気づきつつある。統制のとれた、そして世界的規模での軍備縮小は、多 くの人々から、生死にかかわる必要事と見なされている。人間の世界から戦争を追放 するためあらゆる手段を行使せよ、との呼びかけはおびただしい。対話、協力および 和解を求める新しい呼びかけも多く、また数多くの斬新な自発的行為もみられる。私 は、教皇としてこれらを激励することを切望するものである。  「幸いなるかな平和ならしめる者」。明敏な見通しをいつも惜しみなき心に結び付 けるようにしよう。平和がもっと真正なものとなり、人の心の中に根づくよう努力し よう。平和を待ち望んで苦悩している人々の哀願が聞きとどけられるようにしよう。 あらゆる人がみな、刷新された、友愛にあふれる心の中にある全精力を全世Eにわた る平和の建設のために傾注するよう求めたい。

1983年12月8日
  バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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