1984年「世界広報の日」教皇メッセージ

1984年「世界広報の日」教皇メッセージ 「マスコミは信仰と文化の架け橋」  マスコミは軽薄だから、文化やキリスト教のような深いものを伝えるのには向かない、と考えている人が多いようです。  カトリック教会は、そう考えませ […]

1984年「世界広報の日」教皇メッセージ
「マスコミは信仰と文化の架け橋」

 マスコミは軽薄だから、文化やキリスト教のような深いものを伝えるのには向かない、と考えている人が多いようです。
 カトリック教会は、そう考えません。高度技術の時代に、マスコミは大いに役立つものだと考えるのです。「メディアは現代の文化を深め、豊かにする。マスコミに関係する者は、万人がその豊かな成果を手にする権利があるのを認めるべきだ」と、すでに宣言しています。
 ラジオ、テレビ、あるいは映画や本などのメディアを利用すれば、何百万という人に語りかけることができます。真の意味で価値ある情報を広く伝えることができれば、文化の正しい純化が、国際的な規模でも可能になってくるのです。
 言うまでもありませんが、マスコミは文化を豊かにする一方で、低俗にする危険もあります。現に、その2つの相反する流れは、われわれの身近でも起っています。下品な情報の提供によって教養のレベルが引き下げられたり、自己の利益のために文化を乗っ取ろうと企んだりする人が、あとを絶ちません。こうした問題は、ユネスコのような国際機関が、早くから警告しているところです。
 さまざまな立場から検討してみると、信仰に関してマスコミは、つぎのような任務が果たせると思います。

・真実を知るという全世界の権利に応える。
・マスコミに携わる人は、その有利な立場を利用して、物事の真実を明らかにし、とくに福音をはるかに遠いところにいる人々に向かって述べ伝える義務がある。
・マスコミを利用し、教会の使徒的活動の内的生活に表現のチャンスを与える。
・神を信じるすべての人と手を取り合って、現代社会との対話を始めようと訴えることができる。

 マスコミが、現代という舞台の真ん中に立つ主役であることは、だれも否定できないでしょう。だが、その舞台中央とは、とりもなおさず文化と福音の分裂が繰り返されてきた危険な場所でもあるのです。教会に属するすべての人、とくに一般信者は、それぞれの分に応じて、分裂を癒すべき使命がある―実は、これこそ、今年の世界広報の曰が掲げるテーマの本質なのです。
 信仰と文化の分裂は、なぜ起るのか。活字ジャーナリズムと電波ジャーナリズムのいがみ合いが原因か?それとも情報とその伝達法がしっくりいかないからか? 一般マスコミが文化や宗教との接触を避けたがるのは、そのような対立に巻き込まれたくないからなのか? われわれは、よく考えてみなければなりません。
 これまで、マスコミも文化も信仰も、みすみす絶好のチャンスを見送ってきました。信仰はごく一部の人にしか伝えられず、文化はその内面の深さを失い、マスコミは自ら進んで、純粋に営利的な目的や政治的利権だけに注目してきたのです。
 こうして、マスコミが信仰と文化のかけ橋になる可能性は、人類社会の進歩とともに失われていきました。文化を特定の宗教の方向に向けてはならないという、いわゆる「宗教のタブー」を避けようとするあまり、マスコミは人間の尊厳と自由を傷つけるという別のタブーを犯してきたのです。しかし、宗教的偏見がないとか営利上プラスだという口実に隠れて、信仰と一体の文化という人類のはるかに大切なものを見失ってきた事実は、ようやくマスコミ関係者にも認識され始め、善意の人々と協力して正しい道に戻そうという動きが起っています。
 マスコミ使徒職の基本的な目標が宣教であるなら、それは文化の外においては達成されないものであり、第二バチカン公会議もそのことをはっきり宣言しています。信仰の力を無視したセンセーショナルな事件ばかりを狙うような態度では、宗教は伝達されません。信仰を伝えようと思えば、われわれの宗教的伝統を貫いて流れる文化の深いところに目を向け、芸術や文学のルーツ、人類が残した宗教的作品や福音の神秘を示すキリスト教の力強い影響などを、述べ知らせなければならないのです。
 現代の若者は、彼らが引き継いだ文化的伝統のルーツに対して、強い関心を抱いています。強大な力を持ったマスコミは、いつでもその要求に応じることができるのです。人間の心の歴史を現代社会の体験に結びつけて説明すれば、若者は過去と現在を理解し、自信と謙遜をもって未来に立ち向かうことが可能になります。いたずらな反逆も、おのずと影をひそめることでしょう。
 以上のことを成しとげるためには、宗・俗双方のマスコミに携わる記者、編集者、プロデューサー、映画関係者などを一つに組織することが、何よりも先決です。彼らの任務は、それぞれの職に応じ、立場を利用して、信仰と文化の間にかけ橋を築くことです。現在の新聞やニュース・ショーがやるようなセンセーショナルな技巧によらず、信仰の豊かさを存分に伝えることにより、神の子らはマスコミの恩恵を真に享受することができます。豊かな文化に支えられて信仰の中に生き、主 の唯一なる教会の交わりの中に生きるものすべての、受け手となり伝え手となることができるのです。
 以上のような新生をなしとげるには、高度技術や新しい通信手段がもたらす人類経験の新次元に適合するため、教会自身が脱皮のための真剣な努力をしなければなりません。信仰と文化の「出会い」が起るかどうか、それがわれわれをより高いものへ導くかどうかは、一つになって教会に集う入念の努力が、そのカギになっているのです。

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