1985年「世界広報の日」教皇メッセージ

1985年「世界広報の日」教皇メッセージ 「マスコミと青年 キリスト教的な成長」 キリストにおいて兄弟姉妹であるみなさん、心に人間の尊厳を抱く男女、また、とく に西暦2000年に当たって歴史の新しいページを書かねばならな […]

1985年「世界広報の日」教皇メッセージ
「マスコミと青年 キリスト教的な成長」

キリストにおいて兄弟姉妹であるみなさん、心に人間の尊厳を抱く男女、また、とく に西暦2000年に当たって歴史の新しいページを書かねばならない若い人々に、私は 訴えます。

1.教会は、今年も世界広報の日を迎えようとしています。それは、教会に属する者 すべてがマルコ福音書の「全世界に行き、すべての者に福音を宣べ伝えなさい」(16・15)を念頭に置いて、祈りと反省をする日であり、マスメディアがあらゆる善意の人 から協力を得てほんとうに正義、平和、自由、人類の進歩を助けるよう、全員がそれぞ れの責任を考えるべき日であります。

 今年の広報の日の標語・・マスコミと青年 キリスト教的な成長・・は、1985年 を国際青年の年とした国連の動きとも照合しています。今日、マスメディアの手段は極 度に発達し、世界のすみずみまで神の言葉を告げ知らせることができるようになりまし た。それは、若者たちに、自由で責任ある選択により、人間として、またキリスト教徒 として、自己の精神生活を改めて考えさせ、彼らをあすの世界の建設者、指導者に育て ることができるのです。

2.教会は、広報に関する会議や教令により、人間の発展のためにはマスメディアが 非常に大きい役割を果たすことを、はっきりと認めています。それは単なる情報の伝達 のみでなく、教育や訓練のための、文化的成熟のための、あるいは娯楽のための、大き い役割です。しかし、教会は一方では、マスメディアは人類や共通の善のために奉仕す べきもの、つまり手段であって目的ではないことも指摘しています。

 今日、マスメディアの方法は目まぐるしく発展し、テクノロジーとエレクトロニクス の交錯による「テクノトロニック時代」の到来とまで話題になるほどで、発展はどこま で行くのか見極めもつかないほどです。高度化するにつれて問題も多くなってきていま す。情報とメディアの新しい世界体制は、通信衛星や宇宙利用と絡み合いながら、ます ます問題を増やしていっているようでさえあります。

 こういう情報革命は、伝達のシステムやテクニックを変えるだけでなく、人間の文化 的、社会的、霊的存在を根底から揺るがしかねないものです。従って、人間の内的規範 だけによって律することはもはやできず、神に似せて作られた人間の、またその人間に ついての真理を、基本的な規範にしなければなりません。

 すべての人間は知る権利を持っているのですから、メディアが伝える情報は、内容に おいて常に真理を映していなければならず、正義と慈悲の心への敬意から申しても完全 なものであることが要求されます。マスメディアが人生の出発点に立つ青年に向けられ る場合は、とくにこのことが大切になってきます。

 青年に向けられる情報は、たとえば受胎の瞬間からの生命の尊厳、人間生活の倫理的、霊的な面、平和や正義など、人間存在の根底にかかわる問題については、中立的な態度 に満足していてはなりません。国家または国際的なレベルで社会のつながりを損なうよ うな問題・戦争や人権侵害や貧困、暴力、麻薬などについても、情報は中立であっては ならないのです。

3.古来、人間は神の与え給うた自由を行使し、善と悪、光と闇から自己の道を選択 することにより、わが運命を決定してきました。だが今日では、ますます多くの人が、 自由な選択のチャンスを与えられないという不幸な傾向が生まれています。独裁や特定 のイデオロギーの押し付け,全体主義下の科学や技術による操作、非人間化を進める社 会のメカニズムなどが、その自由を圧殺しているのです。

 全体主義体制によって監視され、強力な文化的、経済的、政治的圧力に人間が押しま くられる今日の状況下では、人々にせめてもの自主性を確保させるため、マスメディア は全力を挙げて自由に挑戦しなければなりません。

 調和と進歩のための道具であるマスメディアは、こうした政治やイデオロギー上の障 害に打ち勝ち、人類と手を携えて平和へと前進し、東と西、北と南の両極に分かれる人 々を一致と友情ある連帯のうちに結びつける使命を担っています。教育や文化の機能を 持つマスメディアは、社会の改良を促すとともに、来るべき第三・千年紀の戸口に立っ て歴史的使命を果たそうとする若者の人間的、倫理的成長を助けねばなりません。その 使命を常に忘れず、若者に新しい地平線をひらかせ、義務と誠実と同胞への敬意を教え、正義と友情と勤勉と努力にめざめさせる任務が、マスメディアには要求されるのです。

4.こう考えてくると、自由を押し進める道具としてのマスメディアには偉大な可能 性のあることが、ますますはっきりします。しかし一方では、マスメディアが社会に投 げかける大きな脅威も、無視することはできません。メディアが権力や私欲に向かった り、真実を歪め、真理や人間の尊厳や自由を抑圧したり、とくに弱者をいじめる方向に 進むとき、それは強力な悪の可能性をも秘めているのです。

 新聞、本、テープ、フィルム、ラジオ、とくにテレビ、さらに複雑なコンピューター ……そうしたマスメディアは、すでに若者と彼らが日常的に接触する外的世界との重要 な接点になっています。しかも、昔より余暇が増えたうえ、めまぐるしい現代の生活が 余暇への逃避を刺激するため、若者はますますマスメディアに依存し始めているようで す。同時に、父親のみか母親まで家を出て働くようになったため、これまで子がどんな メディアと接すべきかを決めていた親の権威は、徐々に力を失いつつあります。

 こうした状況下で、若者はマスメディアにとって最大、直接の受け手として、メディ アが家庭に持ち込む怒濤のような情報や映像の前にさらされるようになりました。若者 が最も聴いたり見たりしている時間でさえ、メディアが時にはソフトな衣にくるみ、時 には露骨なCMや番組により、人間の生活を動かすのはセックスと暴力だけだという印 象を与えている事実は、もはやその危険を座視できないところまで来ています。

 マスメディアが、その強力な機能と暗示力により若者のあいだに絶大な影響力を行使 していることから、最近では「テレビがかり」(ビデオディペンデンス)という言葉さ え使われるようになりました。まだ十分な判断力のない受け手の側のこうした現象、メ ディアの影響の行きつく果てを、われわれは十分に考えてみる必要があるでしょう。若 者の余暇をもっと知的で建設的な行動に向けさせる努力だけでは、おそらく十分ではな い。メディアが若者の心理、文化、行動の上に及ぼす影響力を、もっと真剣に考えなけ ればならないのです。

 かつての教育、とくに親による教育は、人対人の双方向の対話を前提に成立したが、 いまではそれが片方向になりました。ちゃんとした価値観を持つ枠組み、情報の質の認 識に基づく文化に代って、人間の努力を否定する刹那的な文化、非常に強力なため人間 的な選択を不可能にするような文化が、登場したのです。

 これでは個として、あるいは集団としての責任感を養うことが、教育の大きい目的で した。ところが、それに代って、流行の一方的受容、つまり消費は促すが良心は干上が らせる物質主義の命令どおりに受動的に受けるという態度が生まれました。青年期のみ ずみずしい想像力こそ人生の宝物なのに、若者の創造性や高貴な意志の表現は、努力せ ずとも入ってくる映像の奔流により押し流され、怠惰が正当な刺激や欲望を窒息させ、 新しい任務や計画に挑戦する意欲を殺してしまうのです。

5.こういう状況がこのさきも拡大するかどうかは何とも言えませんが、マスメディ アに携わる人々はよく反省し、考えてほしいと思います。彼らの職業は社会を高めるも のではあるが、それは同時に、非常にきびしいものです。そのような人々がマスメディ アの機能をどう使うかによって、明日の人間社会を向上させ、人間的、霊的価値観が無 視され自壊に瀕している社会を立て直す若者の育ち方が大きく左右されるのですから。

 親や教師の任務は、もっときびしいと申せるでしょう。文化的にも、倫理的に言行一 致の行動によって親が手本を示すことができれば、それは若者にとって最も信頼できる 指針です。メディアからマイナスの影響ばかり受けかねない若者に、正しいバランスを 教え、もっと責任ある対応をさせるには、対話と批判精神と絶えざる警戒が不可欠にな ってきます。

 国際青年の年の呼びかけも、おとなの世界の協力を求めています。若者が責任ある市 民、自己の尊厳を自覚したバランスある人間として社会に入るのを助けること、それは おとな全員の責任にほかなりません。

6.第19回世界広報の日が意図するのも、まさに以上のような点です。それは教会 の使命とも密接に結びついています。教会は、福音を「屋根の上から宣べ伝える」(マ タイ 10・27、ルカ 12・3)ことにより、全人類に救いをもたらさなければな らないからです。

 マスメディアの中に、教会は、神がお始めになり人が引き継がねばならない創造と贖 いのしるしを認めるわけですから、そこに秘められた可能性は実に大きいと言わねばな りません。マスメディアは、こうして、教会の伝導に先立って福音を宣べ伝え、信仰を 深め、若者をより人間的、キリスト教的にする強力な武器になり得るのです。

 そのためには、以下のようなことが必要でしょう。

・ 若者が見たり聴いたり読んだりすることを、信仰に基づいて正しく批判できるよう、  彼らにマスコミの正しい節度ある使い方を教えるため、家庭や学校、教区などで公   教要理を通じて教育すること。

・ マスメディアの手段を正しく理解し、慈悲の対話を進め、一致を強めるための、神   学校、信者使徒職団体、新しい教会運動、またとくに若者の運動などでの十分な理   論的、実際的研究。

・ 自己の文化的、職業的技術を役立て、同時に信仰の証となるよう、マスメディアの   あらゆる部門における信者の行動的で一貫した活躍。

・ 若者に倫理の否定を勧めるような番組を糾弾し、教会についての正しい情報が伝え   られるよう求め、もっと人間生命の尊厳を重視する報道をさせるよう、折りにふれ   て発言する信者活動。

・ 福音の正しい伝達。福音を歪めず、俗化せず、単なる社会・政治的な立場からだけ   の解釈に満足しない態度。「完全な伝達者」であったキリストを手本に、福音を受   け手、とくに若者にわかりやすく、若者の話し方や彼らの心理に合うよう伝える努   力。

7.メッセージの最後に当って、私は若者に呼びかけたいと思います。すでにしてキ リストに出会い、聖週間のはじめにローマに来て世界の若者との精神的連帯を誓い、教 皇とともに「キリストこそわが平和」と宣言した若者ばかりでなく、混乱と不安と危惧 と過ちの中にあってもなお「キリスト(救い主)と呼ばれるイエズス」(マタイ 1・ 16)と会いたいと望み、人生の意味と目的をつかもうと努力しているすべての若者に 語りかけたいのです。

 愛する若者のみなさん! 私は、これまで主におとなに向かって呼びかけてきました。だが、実はこのメッセージをほんとうに届けたかった相手は、みなさんなのです。

 マスメディアの究極的な意義と価値は、自由な人間がそれをどう利用するかにかかっ ています。だから、そのようなメディアが、あなたの人間として、またキリスト者とし ての人格形成に正しく奉仕するか、それとも逆にあなたに刃向かい、あなたの自由を圧 殺し、あなたの真理追求を妨げるかは、あなたがメディアをいかに使い、その使い方を いかに批判的に把握するか・・つまり、あなた自身にかかっているのです。  あすの社会は、情報の流れとその伝達手段の向上によって人と人の結びつきを深め、 科学技術の進歩により人と人、国と国を隔ててきた扉を取り除くべき社会ですが、それ を建設するのは、ほかでもないあなたなのです。新しい社会が、一つの大きい人間家族 としてまとまり、人々が一致協力していけるようになるかどうか、逆に今日の世界を痛 めつけている抗争と分裂がますますひどくなるかどうか、すべてはあなたの努力しだい です。

 使徒ペトロの言葉を、私は世界の青年男女に宛てた書簡の中で引用しましたが、それ をここでも繰り返したいと思います。それは「あなたがたが抱いている希望について問 いただす人には、いつでも、答えられるように用意していなさい」(1ペトロ3・15)という言葉です。

 そうです。あなたがたには将来がかかっています。いまや終りに近づいた第二・千年 紀の遺産を使い、まもなく始まろうという新しい千年紀の希望を決定するのは、あなた です。だから、決して立ち止まらないで下さい。世界において、あなたの前に広がるあ らゆる分野で、責任を進んで引き受けて下さい。

 愛する若者たちよ! 責任を引き受けよ、前進せよという私の呼びかけは、なにより もまず「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にするであろう」(ヨハネ 8・32)というイエズスの言葉に従って、真理であるキリストを発見してほしいとい う願いなのです。だから、それはキリストをあなたの生活の中心に据え、あなたの人生 という書物の中で、あなたの人生の決断の中で、人類を正しく平和と正義の方向に進ま せるよう、キリストという真理の証人になってほしいという願いにほかなりません。

 そういう願いをこめつつ、私は使徒を継承する者の祝福をみなさんに与え、あなたに 天からの光が降り注ぐよう祈ります。

1985年4月15日
   バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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