1989年「世界広報の日」教皇メッセージ

1989年「世界広報の日」教皇メッセージ 兄弟、姉妹、そして私の親愛なる友である広報に携わる皆様へ 1. 今年の世界広報の日のテーマ『メディアの中の宗教』は教会の存在と公共の対話において教会がになう役割に特別な重要性を置 […]

1989年「世界広報の日」教皇メッセージ

兄弟、姉妹、そして私の親愛なる友である広報に携わる皆様へ

1. 今年の世界広報の日のテーマ『メディアの中の宗教』は教会の存在と公共の対話において教会がになう役割に特別な重要性を置いています。実際、今日の現代社会において、宗教メッセージは文化メッセージと同様に広報メディアの仲介から増大する影響を得ています。この機会に、私があなたたちと共有したい考えは、私とそして私の司教を通じて絶え間なく続いている関係に示されています。宗教が社会生活の中に持つべき役割はなにか。そして、メディアの中に宗教が持つべき役割はなにか

2. 教会は司牧活動の中で、当然「宗教」に対するメディアの関係は何かという問いかけをしています。異常な発達を遂げた工業社会は、現代の人々の間で宗教の意味の消失が明らかに進んでいることをそれ自身示しています。コミュニケーションの媒介や手段が、そのような発達を今まさに享受する時であることは事実です。

3. 一方、宗教情報がメディアのなかでより注目される傾向にあるのは明らかにわかっています。というのは、個人や社会にかかわらず、現在、一般的に要求されている人間の現実における宗教的なものの範囲に対する関心が増大しているからです。この現象を分析するためには、新聞の読者そしてテレビやラジオの視聴者に問いかけるべきです。なぜなら、メディアがその問いに応じない人々に宗教を課すという問題ではなしに、むしろ、宗教的な事柄に関しての情報や論評にもっとスペースをさいたものを継続して享受していきたいという明らかな要求にマスコミが単純に応えていくべき責任性の問題です。全世界で、人生の意味をつかむために宗教に帰依する多くの人々がいます。創造主である父なる神と親密な関係となった多くの人々は人間存在の最も幸福な現実です。報道を専門とする機関はこの事をよく承知して、それによって、活動する。そしてこの報道機関と人々の間の相互作用が、たとえ不完全さや不均衡によってなされても、そこには次の肯定的事実があります。宗教は今日溢れるメディア情報の主流の中にあります。

4. 今年の世界広報の日は様々な状況の幸運な混合によって、今後は「教皇庁評議会」とよばれるべき教皇庁広報委員会の設立25周年にあたります。広報委員会がこの25年間に、コミュニケーションの使徒職において何を達成してきたか。確かに、教会自身は「時代の動向」をより明確に認識してきています。そしてコミュニケーションの現象は教会にとって最重視するもののひとつです。私の前任者であったピオ十二世は、すでに、メディアを脅威としてではなく「贈りもの」とみなすよう勧めてきました(回勅 Miranda Prorsus『ラジオ・T.V.・映画について』1957年 参照)。第二バチカン公会議はその変革の中で、厳粛にこの肯定的態度を確認しました(回勅 Inter Mirifica『広報機関に関する教令』1963年 参照)。以前に教皇庁委員会としてうまれた今日の教皇庁評議会は、教会の参加の姿勢、そして教会のこの分野における更に新しい生活様式と人間愛の共有の振興に全力を尽くしてきました。

5. 今日、教会が直面している問題は、もはや、街角の人が宗教メッセージを理解できるかどうかという事ではなくキリストの福音の豊かな衝撃を持たせるためにいかにコミュニケーション・メディアを使うかにあります。
 主は直接私たちを励まし、そして簡潔に、私たちの証しと対話により広い視野を与えてくださいます。「恐れることはありません。耳もとでささやかれたことを、屋根の上から宣べ伝えなさい」(マタイ10章26~27)。主は何を問いかけているのか。福音史家はそれを明らかにしています。「キリストは私たちに私の仲間であると人々の前で宣言するように望んでいます」(マタイ10章32)。そこで、まさにここに、公共メディアの論争の最中にあって、同時に勇敢であり、謙遜であり、穏やかなキリストの存在が示唆されています。聖パウロが私たちに次のように宣べています。「私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないからです」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章16)。聖書の至るところで同じ真実が語られています。「大いなる集会で正しい良い知らせを伝え、決して唇を閉じません」(詩編40/39:10)。また、「すべての人々は神のみ業を語る」(詩編64/63:9)。
 伝達者そして公共メディア、あなたたちはこの「純粋で汚れのない宗教」に対する絶えず変化する要求について、この双方に問いかけねばなりません。このことは私たちに「世の汚れに染まらないように自分を守りなさい」(ヤコブの手紙 1章27)と勧められています。まさに、この一つひとつの聖書のみ言葉があなたに次のことを速やかに理解させます。宗教的証しの大いなる挑戦は、大衆論争の中にある人々に対してメッセージと信頼できる変革を保ち、そして、様々な番組や制作における高い質の基準を維持します。

6. 全世界の教会のみ名によって、私はメディアの中で宗教に奉仕する立場にあるコミュニケーションの世界に感謝したいと思います。この感謝を表明するにあたり、私は良き意志を持ったすべての人々の感情を正確に代弁していると確信しています。それは大衆論争においてキリストの存在が認められる可能性の進歩の余地があると、たびたび私たちに感じられるからです。宗教に関する情報や文書や対話やデーターの収集に対して与えられたメディアの卓越性に共に感謝を表すことを私は嬉しく思います。
 また、私は広報に携わる人々が高水準の職業倫理と実践に対する慎重な忠実さによって、希望のメッセージとメディアのすべての方法と訓練における神との和解を表すように与えられた機会を価値あるものとして示すよう希望します。「神からの贈りもの」(回勅 Miranda Prorsus前掲)それは、言語によるコミュニケーションの技術的可能性と神のすばらしいメッセージと証しとの神秘的遭遇をはたして私たちは今ここに持っているでしょうか。大衆論争の中でわれわれの教会の存在の質が働くのはまさにこのレベルにおいてです。ますます、使徒の神聖が人間の独創性の総和における「神性化(聖職者の表現としての)」を思い起こさせます。マスメディアを通じて今日の世界に対し、信仰の神秘の典礼をこの広大な存在の中にとり残すことができないのはこの理由からでもあります。

7.これらすべてのことを考慮して、私は単純さと確信をもって最も大事に思っている事に関してひとつの望みがあります。それはパウロがフィレモンに語った友愛の感情と同じものからでています。「あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いてます。私が言う以上のことさえもしてくれるでしょう」(フィレモンヘの手紙21節)。私の望みはマスコミの中の可能な限り全ての場に宗教を与えることです。「城門を開け、神に従い、信仰を守る民が入れるように。堅固な思いを、あなたは平和に守られる」(イザヤ書26章2a 3a)。宗教のために私が望んでいるのはまさにこのことです。親愛なる友よ、あなたたちは専門家自身が自分の魂の中に自身を深く確信することによって最適に示される評価の中に霊感を与える力がこの宗教のテーマにあることを見極めることができます。広報に携わる人が宗教メッセージに扉を開いて以来、広報自体のメッセージが特色と利益を得ています。教会のメディアで働く人々に私は再び申しあげます。あなたたちの場合に等しく「あなたがたは神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマの信徒への手紙8章15)。宗教メッセージと宗教のイニシアチブはすべてのタイプのメディアの中に示されうるでしょう。出版物・書き記された情報・視聴覚番組・映画・データバンク・通信・演劇・芝居・高度の知的公演・公開討論・ニュース解説・世論形勢の部門・グループメディアの制作・アニメーション・4コマ漫画・様々な形態をとった文学作品・音楽や映像の記録そしてラジオから流れる音楽を聞きながらリラックスするひとときの中に。カトリック並びにキリストを信じる人々のネットワークとあらゆる種類の文化的コミュニケーションの協働を実現することが私の熱烈な願いです。そのためには宗教メッセージは本来、根本的な善を持っているという観点から、競争を伴った先入観から打ち勝つことです。教会自身は、この世界広報の日という機会に、メディアにおいてエキュメニカルなそして宗教を越えた協力が要求されていることを、すべての関係する人々に真剣に考えるよう招いています。

8. 私は、このメッセージを終えるにあたり、一人ひとりの人々が福音宣教の偉大な仕事を受け持とうとする際に、熱心さと力そしてすべての人を尊重する義務をもって専心するコミュニケーションの使徒職を心から荷なうすべての人々を励ますことを忘れてはならないと思います「あなたは行って神の国を言い広めなさい」(ルカによる福音書9章60)。また、これに加えねばならないことがあります。私たち自身がはかり知れない神の恩寵の深みをつかもうとするのは宣言することそしてこの世界を生きることにあるのです。
 神の意志を喜び迎え、そして確信をもって私はメディアで働く人々並びにあなたたちにすべてに表明します。「屋根の上から」宣べ伝えようとする「純粋で汚れのない宗教」を見いだし深めるために、公の反響の中の大きな隔たりを通して、あなたたちが今日ともに手をつなぎあうのを見つけ出すのが私の喜びです。そしてあなたたちすべての上にキリストの祝福がありますように祈ります。

1989年1月24日 バチカンにて
ヨハネ・パウロ二世

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