1991年「世界平和の日」教皇メッセージ

1991年「世界平和の日」メッセージ
(1991年1月1日)
「もし平和を望むならば、各人の良心を尊重しなさい」

1991年「世界平和の日」メッセージ
(1991年1月1日)

「もし平和を望むならば、各人の良心を尊重しなさい」

今日多くの国民が一つの家族となろうとしているなかで、個人の自由にとって不可欠な良心の自由を実際の行使の面でも認め、法でそれを守ろうすることに次第に関心を寄せつつあります。わたしもこれまで2 回、世界平和の日メッセージで、世界平和の基盤となるこの自由について種々の側面から考察しました。 1988年には信教の自由について若干の考察を提案しました。人間がともに平和に生きる上で不可欠なのは、自らの宗教信条を、あらゆる市民生活の領域で公に表明する権利が保障されることです。そこで、「平和は…自由と、真理に向かう心の開放に根ざしています」(『1988年世界平和の日メッセージ』序)と指摘しました。次の年にも、社会的、宗教的マイノリティーの諸権利を尊重する必要性に関して幾つかの考えを呈示しました。そして、「現在起こっているもっともむずかしい問題の一つ…は、世界各国にとって、国内的にも国際的にも社会生活、市民生活が絡」んでいると述べました。今年は、個人の良心の自由が、世界平和に必要な基礎として尊重されることの重要性を特に考察したいと思います。

I 良心の自由と平和
昨年の出来事を思い返すと、良心の自由が、法的にも、ふつうの人間関係においても完全に尊重されることを目標に具体的前進をすることは、かつてない緊急課題です。あの急激な情勢変化は、一人の人間が、自己の意志によらず、まったく外からの力だけで支配される一種の物体として扱われてはならないことをひじょうに明白に示しています。ほんとうは、個人は、人間的な弱さにもかかわらず、善を求め、自由に知る能力、悪を認め、退ける能力、真理を選び、誤りに抗する能力を有しています。神は、人を造るに際して、だれでも見つけることのできる法をその心に書き込まれました(ローマ2,15参照)。良心は、人間の側から見れば、この法にしたがって判断し行動する能力なのです。「それに従うことが人間の尊厳」(『現代世界憲章』16番)なのです。 いかなる人間的権威も良心に干渉する権利がありません。良心は、人間の超越性の証しであり、大きく社会という観点から見ても、それ自体として見ても不可侵なものです。しかし、良心は、真理と誤謬に対しては絶対的上位を占めてはいません。むしろ、本性上、客観的真理への関係を包含しています。客観的真理とは、普遍的に真なるもの、万人が求め得、求めるべき、万人にとって同一なるものです。良心の自由が正当性を見いだすのはまさにこの客観的真理への関係においてです。つまり、良心は、人間に値する真理を求めるため、また、一度十分に認知されたら、その真理に従うため、必要条件となります。そこから次に必然的に要求されることは、だれでもが、個々人の良心を尊重するようにいうことです。人は、自分の「真理」を他人に押しつけようとしてはなりません。真理を述べる権利はつねに支持されるべきですが、異なる考えを持つ人をさげすむようなことがあってはいけません。真理は、真理そのものの力だけで迫るものなのです。個人の良心の完全な自由、とりわけ真理を探し求める自由を否定したり、あるいは真理を探すのに特別の道を強いようとすることは、個人の有するもっとも人格的人権を侵害することです。この侵害は、敵意や緊張を増幅し、社会において緊迫した敵対関係、場合によっては露な紛争にまで発展しやすいものです。さらに、堅固で恒久的な平和を確保するというむずかしい務めを果たそうとすると、決まって良心のレベルにまで入り込むことになります。  

II 神にのみある絶対の真理
客観的真理が存在する保証は、絶対の真理である神のうちにのみ見いだされます。客観的にいえば、真理を探すことと神を探すこととは同じです。これは、良心の自由と信教の自由との密接な関係を示せば足りることです。それはまた、なぜ神を体系的に否定し、その構造自体にこの否定を体現している体制が、その対極として良心の自由にも信教の自由にも反対するかを表しています。しかし、究極的真理と神ご自身との関係を認める人たちは、非信仰者が、神の神秘を発見し、それを謙虚に受け入れる道となり得る真理を探す権利と義務をも認めるでしょう。

III 良心を育む
各人は、自らの良心を育む重大な義務を負っています。だれでもが知り得て、だれでもが知ることを妨げられない、その客観的真理に照らして良心を育むする義務です。良心に従って行動する権利は主張するが、同時に、良心を、真理と、神ご自身がわたしたちの心に書き込まれた法に合致させるべきとは認めないのは、最終的に、限られた個人の意見を上におく以上の何ものでもありません。これでは世界平和のもととしては何の役にも立ちません。そうではなくて、人は、真理を熱心に、能力の最善を尽くして追及し、それに生きなければなりません。このように誠実に真理を探し求めれば、他の人たちば探し求めることを尊重するだけでなく、ともに真理を求めたいというようになるでしょう。 家庭は、良心を育てる重大な務めのなかで主要な役割を演じます。両親は、子どもたちが小さなときから真理を求め、真理にしたがって生き、善を求め、育むように助ける大きな義務を有しています。 学校も良心を育てるのに基本的なものです。子どもたちや若者は、学校で、家庭よりも大きく、環境も異なる世界と接触します。教育は、たとえ倫理的、宗教的な価値に関して中立的立場を主張するときでも、道徳的中立ではあり得ません。子どもや若者が育ち、教育された方法が必然的にかれらの価値観に反映するでしょうし、その価値観は、かれらが他者や社会を全体としてどう理解するかに影響していくのです。したがって、人間の本性と尊厳とにふさわしく、神の法に合致する方法で若者たちを助け、かれらが、学生時代に、真理を求め、識別し、その要請にこたえ、本当の自由の限界を受け入れ、同様の権利を他人にも認め尊重するようにすべきです。 良心の育成は、行き届いた宗教教育が欠如すれば妥協的になってしまいます。もし人間の尊厳の源、創造主である神への言及がなければ、若者はどのようにしてこの尊厳を完全に理解できるでしょうか。家庭、教会、種々の宗教施設は、その意味で本質的な役割を担っています。国家は、国際的な取り決めや宣言などにしたがい、この領域でのかれらの権利を保障し、かれらがこの権利を行使できるようにしなければなりません。この権利についてもっとも新しい認識を示しているのは、1981年に採択された国連の『宗教または信条に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の撤廃に関する宣言』です。一方、家庭、教会などの側は、人間や人間の客観的価値を本当に理解し、ますますそれへの取り組みを深めるべきです。 良心育成に特別の役割を担う他の多くの諸分野の中で、マス・メディアの役割にも触れておかねばなりません。即応態勢が進んだ今日の世界で、マス・メディアは、真理の探求を深めるのに極めて重要、不可欠な役割を演じることができます。しかし、そのためには、ある限られた個人、グループあるいは思想の利益だけを代表するようなことは避けねばなりません。というのは、マス・メディアは、ますます多くの人びとにとって唯一の情報源となっているからです。そう考えると、メディアの、真理に奉仕する責任はなんと重いことでしょうか。

IV 平和への深刻な脅威となる不寛容
不寛容とは、他者の良心の自由を否定することにあるのですが、これが平和に対する一連の脅威となっています。不寛容から発した行き過ぎは、もっとも痛ましい歴史の教訓の一つです。 不寛容は、社会生活のあらゆる面に忍び込んでいます。それが表面化するのは、個人あるいはマイノリティー・グループが、自らの良心に従って、独自の生き方を正当に表現すしたいと思っても、押さえつけられたり、社会の周辺に追いやられたりしてしまうときです。不寛容には、政治や社会に関する、公の場での意見の多様性の余地がありませんので、市民生活や文化の展望は統制を強いられます。 宗教的不寛容については、信仰を強いられてならないというのがカトリック教会のしっかりした教えなのですが(たとえば、第2バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』12番参照)、数世紀にわたって、キリスト教と他の宗教との間にかなりの誤解があり、紛争すらあったことを否定できません(たとえば、第2バチカン公会議『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』3 番参照)。この事実は、第2バチカン公会議が公式に認めています。「移り変わる人間の歴史を通って旅を続ける神の民の生活の中には、ときとして、福音の精神にあまりそぐわないものだけでなく、ときには、それに反するものさえあった」(『信教の自由に関する宣言』12番)。 宗教的不寛容を克服するためには今日でもなお多くのなすべきことが残されています。 宗教的不寛容は、世界の各所で、マイノリティーの抑圧と密接にからんでいます。宗教的な強要には直接的なものと間接的なものとがあります。直接的な強要とは、まさに強制的な手段による改宗であり、間接的強要とは、なんらかの公民権や参政権を否定することによってなされるものです。不幸なことですが、直接、間接の違いはあっても特別の宗教思想を他者に押しつけようとする動きをいまだ目の当たりにします。宗教と政治社会それぞれ独自の領域があるのですが、その間の区別をきちんと配慮しないで、ある特定の宗教規律を国法にしたり、しようとしたりすると、きわめて微妙な状況が生じます。実際、宗教上の法を民事法と同一視すると、宗教的な自由を窒息させる可能性があり、他の譲るべからざる人権を制限あるいは否定してしまうところにまでいきかねません。これについては、1988年の平和の日メッセージを繰り返したいと思います。「国家がある特定の宗教に対して特別な法を設ける場合、国家はすべての自国民についてまた仕事などの理由で一時的にせよ居住する外国人についても、すべての人の良心に対する権利が合法的に認められ、効果的に尊敬されるようにする必要があります」(同メッセージ、1 番)。これは、マイノリティーの公民権および参政権についても言えます。また、良心の尊重という名のもとに、宗教と政治を極端に厳しく分離することで、信仰者が信仰を公に表明する権利を行使することを妨げるような状況についてもあてはまります。 不寛容は、教条主義への回帰の誘惑からも起こり得ます。教条主義は、どんな相違でもそれを公に表明することを根底から押さえ込むというような深刻な悪弊に陥りやすく、また、表現の自由の公然たる否定にまでも行きがちです。さらに教条主義は、他者を市民社会から排除しがちです。宗教に関して言えば、「改宗」を強いがちだということです。いかなる個人もグループも、どれほど自らの宗教真理に確信を持っていても、他の宗教上の確信を有する人たちの良心の自由を抑圧しようとしたり、ある社会的特権とか権利とかを付与あるいは否定することで、これらの人々が良心の勧めを裏切るようにしむけたりする権利はありません。たとえかれらが宗教を変えるようなことがあっても同様です。ある人たちが、現在属する宗教とは異なる宗教を選ぶ自由を妨げられる場合もあります。厳しい罰が課せられることさえあります。以上のような不寛容の示威が、世界平和の推進に役立たないことは明白です。 不寛容のもたらす弊害を除去するためには、宗教的あるいは種族的マイノリティーが「保護」されだけでは十分とは言えません。そうすることで、法的弱者あるいは国が後見すべき者という範疇にいれらてしまうからです。これは差別の一形態となりかねず、調和のとれた平和な社会の発展を遅らせ、あるいは妨げさえします。むしろ、良心に従い、個人的にも社会の中でも自らの信仰を表明し実践する、他に譲りえない権利が--公的秩序の要請が犯されないような配慮が必要ですが--認められ、保障されるべきです。 矛盾しているようですが、さまざまなかたちで不寛容の犠牲になると、今度はかれらが新しい不寛容状況を作り出す危険がなくはありません。世界のある所では、長年の抑圧が終わりました。それは、個人の良心が尊重されず、人間にとって最も貴重なものすべてが圧殺された日々でした。しかし、たとえ前の抑圧者との和解が困難であろうとも、新しいかたちでの不寛容の機会にしてはいけません。 良心の自由を正しく理解すれば、それは本来的にいつも真理に向かう秩序をもつものです。その結果、不寛容にではなく、寛容と和解に至るものです。この寛容は、受け身の徳ではなく、積極的な愛に根差し、すべての人のために自由と平和を確保しようと積極的に取り組むよう自分を変えることを意味しています。

V 平和のための力である宗教的な自由
宗教的な自由の重大さについて、もう一度わたしがここで強調したいと思うのは、宗教的自由の権利が単なる多くの諸権利の一つの人権ではないということです。「むしろ宗教的自由の権利は、もっとも基本的な権利です。すべての人の尊厳の最初の根源は、創造主であり父なる神と不可欠な関係にあります。人間は、知恵と自由を与えられて、その神のかたどりと似姿に造られました」(1984年3 月10日、第5 回国際法学研究懇談会参加者への談話、5 番)。「信教の自由は人間としての尊厳が要求する押え難いものであり、全ての人権を打ち立てる角の親石です」(『1988年世界平和の日メッセージ』序)。このように、宗教的な自由は、良心の自由の最も深遠な表現なのです。 宗教的自由が、人間とは何かの意味と関係するものであることは否定できません。現代世界の最も際立った特徴の一つは、宗教が人々の覚醒と自由の探求に果たしてきた役割です。多くの場合、諸国民全体の同一性が保持され、また強められさえしたのは宗教信仰によってでした。宗教が邪魔者、過去の遺物として扱われ、迫害された国々で、宗教が解放への強大な力であることがふたたび実証されたところです。 多くの場合、宗教信仰は、それを守るためならどんな犠牲を払ってもよいというほどに、個人にとっても国民にとっても重大なものです。さらに、人が手に握っているものを禁止したり、壊したりしようとすることは、どんなことであっても、公然、潜在は別にして反乱をあおる大きな危険をおかすことです。

VI 正しい法秩序の要請
国レベル、国際レベルの諸宣言が、良心の自由の権利、信教の自由の権利を主張しているにもかかわらず、いまだに宗教弾圧が多すぎます。これら諸宣言はすべて、それに呼応する法的保障を適切なかたちで明確化しないと、ほとんど死文化の運命をたどってしまいます。宗教的自由の強化を目的として、新たに実効ある諸協定を行い、現行の法的秩序を確認する新たな努力こそ貴重です(現行の法的秩序に関しては、諸文書の中でも、『世界人権宣言』第18条、『ヘルシンキ宣言』1,a)、『子どもの人権規約』第14条を参照)。この種の充全な法的保護は、平和への重大な障害となる、あらゆる宗教的強制の行使を排除するものでなければなりません。なぜならば、「このような自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他全ての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の良心に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独に、あるいは団体の一員として、正しい範囲内で、自分の良心にしたがって行動するのを妨げられることのないところにある」からです(第2バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』2 番)。 まさにいま差し迫って必要なのは、政治や社会生活の領域における良心の自由を増進できる法的手段を強化することです。国際的に承認された法的秩序が徐々に、しかし確実に発展していき、それが平和と人類家族の秩序ある進歩の確実な基盤の一つとなっていけばよいと思います。と同時に不可欠なのは、国や地方のレベルでも同等の努力がなされ、すべての人が国際的に承認された法的規範による保護の享受を確保されることです。 国家は、良心の自由の基本的なところを認めるだけでは足りません。自然道徳法の観点からも、公益の要件としても、すべての人の尊厳を尊ぶ意味でも、絶えず良心の自由を促進しなければなりません。はっきりさせておかねばならないのは、良心の自由は、無差別に良心的拒否を要求する権利と同列ではないことです。ある自由が主張され、それが認められ、他者の権利を制限する根拠となった場合、国家は、このような乱用に対して、同じように法的手段をとり、他に譲り得ない国民の諸権利を守らなければなりません。 ここで政府首脳、立法府議員、行政官ほか公的責任を担うすべての方々に特に切実に訴えたいのは、かれらの権限内で生きるすべての人々の正統な良心の自由を、それに必要なあらゆる手段で確保すること、特にマイノリティーの諸権利に特別の注意を払うことです。これは正義の問題であるということ以外に、平和な、調和のとれた社会の発展を促進するのに役立ちます。最後に、言うまでもないことですが、国家には、自ら署名した国際規約を順守する厳しい法的、道徳的義務が課せられています。

VII 多様な社会と世界
国際的に承認された諸規範があるからと言って、それが、ある社会状況、文化状況に見合う政治体制あるいは制度の存在を不可能にするものではありません。しかし、居住のいかんを問わず全住民の完全な良心の自由を保障し、その体制を世界的に承認された諸権利を否定あるいは制限する言い訳としては絶対にいけません。 今日の世界の現状を見ると、特にこれがほんとうなのです。今の世界で、一国の国民すべてが同じ宗教信条を持ったり、同じ種族あるいは文化に属することなどまれです。集団移住や人口移動の結果、世界各地で多文化社会、多宗教社会が成長しました。これを背景に、法制や行政の担当者をはじめ、社会のあらゆる部門や機構にとって、すべての人の良心の尊重が新たな緊急課題となっています。 どのようにすれば、一つの国が、異なった伝統、習慣、生活様式、宗教上の務めに対する尊重を示し、なおかつ国自体の文化を無傷に維持できるのでしょうか。どのようにすれば、その社会で優勢な文化が、自らの同一性を失わず、衝突を起こさず、新しい要素を受け入れ、それと融合できるのでしょうか。これらの難問に対する答えは、他者の良心に対して払うべき尊敬を観点に入れた完全教育のうちに見いだすことができでしょう。たとえば、他の文化や宗教の知識を深めることを通じて、また、これらの違いを既存のものとして平衡的に理解することを通じてです。平和を皆の共通の課題として取り組み、各人の良心を啓発、尊重する自由を共通に認めること以上に、多様性における一致を築くよい手段があるでしょうか。秩序ある社会のためには、そこに既存の種々の文化が相互に尊重し合い、相互に豊かさを体験し合うことも望まれます。文化の本当の福音化もまた諸宗教間の理解を増すのに役立ちます。 近年は宗教間相互理解の分野に大きな進歩がありました。大規模な宗教が有している多くの価値を基礎に、人類を相手に共通で取り組む積極的な協力を推進しようというものです。わたしは、これら代表的な宗教団体代表の間で進行中の公式対話と同時に、このような協力ができる限り諸所ほうぼうで行われるよう励ましたいと思います。この観点から、教皇庁に、他の宗教との対話と協力を促進する特別の目的で、諸宗教評議会という事務機関をおいています。一方でカトリックとしての独自性に厳密な忠誠を維持し、同時に他の宗教の独自性を完全に尊重していこうというものです。 諸宗教間の協力と対話は、尊敬と率直さをもって信頼のうちに行うならば、まさに平和への貢献となります。「必要なのは、精神と意識の改革です。残念ながら今日これが往々にして人々の生活に欠けてしまっています。今の世界が体験している価値観の欠如と全般的な自己喪失の危機は、現在の状況にこだわらず、大切な問題を問い、理解を模索する新たな努力を要請しています。そうするならば、うちなる光がわたしたちの意識に差し込み、進展を有意義に理解できるようになるでしょう。そして、神のご計画にしたがって各人と全人類の善益になるよう進展するでしょう」(1985年8 月19日、カサブランカでのイスラム青年への談話:AAS 78[1986]101-102)。良心の法と各自の宗教の教えに照らされて、現代社会の不正と戦争の根源を問いつつ、このような共通の取り組みがなされるならば、それは、必要な解決に向けての協力に堅固な基盤となるでしょう。 カトリック教会は、平和の推進のためのあらゆる真面目な協力を励まそうとしてきました。これからも、真理の探求に欠かせない寛容の精神、連帯の精神をもって、信者たちが、他者に開かれ、他者を尊重する者となるよう、その良心を育みながら、この協力に向けて独自の貢献を続けます。

VIII キリスト者と良心
イエス・キリストの弟子たる者は、真理を探求するために良心に従えという教えを守る際に、個人の道徳的判断能力だけに信をおいてはいけないと知っています。かれらの良心は、啓示の光に照らされて、神の人類への大きな贈物であるこの自由を知ることができるのです(シラ17,6)。「良心は人間の最奥であり聖所であって、そこでは人間はただひとり神とともにあり」(第2バチカン公会議『現代世界憲章』16番)とあるように、神は各人の心に自然法を刻み込まれました。しかし、それだけでなく、聖書の中でもご自分の法を明かしておられます。神を愛し、その法を守れという招き、というよりむしろ命令はこの聖書の中に見いだされます。 神は、わたしたちがご自分の意志を知ることができるようにしてくださっています。命令とともに、「命と幸い、死と災い」をわたしたちに示されます。そして、「あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従い、…命を選ぶ」ように招かれます。「それがまさしくあなたの命であり、あなたは長く生き」るというのです(申30,15-20参照)。神は、人間の自由な選択、すなわち人間が最高の価値として選ぶものを尊重されます。こうして、神は、良心の自由という大切な贈物に対して完璧な尊重を示されるのです。神の法、掟はこれを証明しています。掟は、自由を使う上で助けとはなりますが、自由の行使を妨げません。神の掟は、神のご意志の表明であり、道徳的悪に対する絶対反対の意の表明で、神は、それによってわたしたちが最終目的を探すように導きたいとされたのです。 神は、世界と人間を造り、その偉大な愛を示されただけで十分とはされませんでした。 「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。…真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハネ3,16と21)とある通りです。 そのおん子は、自らが真理であることを主張してためらわず(同14,6参照)、この真理がわたしたちを開放するだろうと約束されました(同8,22参照)。 キリスト者こそ、他のだれにもまして真理と良心の合致を義務と考えるべきです。キリストのうちに示された神の自由な贈物の輝きを前にして、どれほど謙虚に注意深く良心の声に聴きいらねばならないことでしょう。自らの洞察力の限界という点でいかにつつましくあるべきでしょう。どれほど、学ぶに素早く、裁くに遅くなければならないでしょう。キリスト者にとって、いつの時代でも、絶えざる誘惑の一つは、自らを真理の基準とすることです。この誘惑は、よこしまな個人主義の時代には、さまざまなかたちをとります。しかし、謙虚に愛する能力こそ、「真理のうちに」ある者の特徴です。真理は愛のうちに示されるという神のことば(エフェソ4,15参照)がわたしたちに教えるのは、まさにこれです。 わたしたちが主張する真理そのものが分裂よりも一致、憎しみや不寛容よりも和解の促進にわたしたちを招いています。自由な贈物によってわたしたちは真理を知るようになりました。そのことがわたしたちに負わせる重大な責任は、ただ、万人の自由と平和となる真理だけを宣布することです。この唯一の真理こそ、イエス・キリストにおいて人となりました。 このメッセージを終わるにあたり、すべての皆さんに勧めます。それぞれの状況に応じて、各自固有の責任に照らして、良心を尊重する必要性についてよく考えていただきたいと思います。真理に秩序づけられた良心の自由は、社会、文化、政治など各分野に多くの重要かつ即応的な適用ができます。他者の良心を尊重しながら、ともに真理を求めるとき、神とご意志にかなう平和へと導く自由の道を前進することができるでしょう。

1990年12月8日
  バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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