1994年「世界平和の日」教皇メッセージ

1994年「世界平和の日」メッセージ
(1994年1月1日)
「家庭こそが人類家族の平和を創る」

1994年「世界平和の日」メッセージ
(1994年1月1日)

「家庭こそが人類家族の平和を創る」

1. 世界は平和を待ち望み、切望してやみません。それにもかかわらず、戦争、争乱、 増え続ける暴力と社会的不穏と疫病的貧困状況は、当事者でない多くの犠牲者の命を奪 い、個人の間に、民族の間に分裂をもたらしています。時として平和はどうしてもたど りつくことのできない目標のように見えます。無関心によって寒くなり、時には憎しみ によって毒されたこの季節にあって、どのようにしたら私たちは連帯感と愛だけがもた らすことのできる平和な時代の夜明けを望みうるのでしょうか。  勇気を失ってはなりません。すべての困難にもかかわらず、それがまさに神の本来の 計画の一部である平和が可能であることを、わたしたちは知っています。  神は人類が調和と平和の中に生きることを願い、その基礎を「その姿に」似せて創ら れた人の本性の中におかれました。神の似姿は個人の中だけでなく、「二人は一体とな る」(創世記2・24)ほど一つに結ばれる男と女によって形作られる人格特有の交わ りの中にも発達するのです。聖書にはこう書かれているではありませんか。「神は御自 分にかたどって人を創造された。男と女に創造された」(創世記1・27)。この人間 の特定の共同体は、主から家族を形成して命を与え、育てる使命を与えられています。 こうして被造物の管理の仕事に決定的な貢献をなし、人類の将来そのものに備えます。
 本来の調和は罪によって乱されましたが、神のもともとの計画は続いています。です から、家族は、「人権宣言」の言葉を借りると、その「自然のそして基本的な核」 (『人権宣言』16、3)をなしながら社会の真の基礎(『現代世界憲章』52参照) であり続けるのです。  平和を守り、促進するために家族ができる貢献は実に決定的なものであり、それゆえ にわたしは国際家族年の初めにあたり、この「世界平和の日」のメッセージを家族と平 和の間にある緊密な関係についての考察にささげたいと思います。真の平和の探究に貢 献することを願っているすべての人・・・教会、宗教的組織、団体、政府、国際機関・ ・・にとって、このメッセージが、平和の建設者としてかけがえのない役割を家族が果 たすことを助ける方法をともに研究するための有益な機会となるであろうと確信してお ります。  

家族・命と愛の共同体
2. 家族は、基本的で本質的な教育共同体として、自分の独自性を獲得する助けとなる 宗教的、文化的諸価値を伝えるための特別な手段です。愛に基づき、命の賜物を受け入 れる家庭自体の中に、社会の将来が含まれています。その最も特別な役割は、平和の将 来に効果的に貢献することです。

 まず第一に、本質的な意味の結婚によって、命の完全な交わりに召されている人々の 相互の愛によって、さらに、彼らがキリスト信者であるならば、結婚が秘跡に高められ たことによって、両親が、自分の子どもたちにすべての人への尊厳と平和の諸価値を尊 敬するよう教える教育者としての役目を正しく果たすという努力を通じて、家庭ではそ れを達成することができるのです。これらの諸価値は「教えられる」だけでなくその家 族の外にある人々の必要と要求を自分のものにし、自分たちの収入を彼らにも分かちな がら、彼らを受け入れることのできる自分を与える愛を生きる家庭環境の中であかしさ れなければなりません。人間の命と尊厳に対する深い尊敬に基づき、理解、忍耐、励ま し合いとゆるし合いのうちに実践される家庭的な諸々の徳は、家族共同体が第一の、そ して基本的な平和の体験を生きることを可能にします。愛情に満ちた人間関係と実り多 い相互の連帯がないところでは、「もしも愛が示さ黷ネいなら、……もし愛を体験しな いなら、もしそれを自分のものにしないなら、……人間は自分自身にとって不可解なも のであり、その生活は意味のないものです」(『人間の贖い主』10)。この愛は一時 の感情ではなく、自分を犠牲にしてでも他者の善を求める強く永続的な精神的な力なの です。さらに、真の愛は、常に、平和のためになくてはならない正義と切り離すことは できません。それは困難の中にある人、家族のない人、指導と愛情を欠く子どもたち、 さびしい人、見捨てられた人に手をさしのべます。

 完全にではないとしてもこの愛を生き、自分たち以外の社会に寛大に自らを開く家族 は平和な将来の第一推進者です。平和の文明は愛がなければ決して実現しません。

家庭・平和不在の犠牲者
3. 平和への本来の召命とは対照的に、家族は悲しいことに、しかもしばしば、緊張と 抑圧、または今日の社会を特徴づける種々の暴力の無防備の犠牲者であるように見えま す。緊張は時には家族内で見られます。これは、しばしば仕事によってが配偶者たち が互いに引き離されたとき、または仕事がないとか、それが不安定であることが生存自 体について心を悩ませ、かつ将来の不確かさによって心配させられるときに起きる家庭 生活を調和させる努力の難しさによるものであります。また家族の構成員がそろって幸 せな実り多い生活を求めるよりも、自分だけの満足を追求させる快楽主義と消費主義を 求めることによって生じる行動様式からくる種々の緊張もあります。頻繁な両親間の口 論、子どもを産むことの拒否、未成年者の遺棄と虐待は、家庭の平和が既にかなりの危 険にさらされていることの悲しいさまざまな徴候なのです。もちろん、これは配偶者の 別居とか、ましてや現代社会の真の「疫病」にほかならない離婚 (『現代世界憲章』 47参照)に訴えるという悲しい解決によって回復できるものではありません。

 同様に世界の各所で、国全体が血みどろの争乱の渦に巻き込まれており、家庭がしば しばその第一の犠牲者であります。彼らは唯一のではないとしても、主な稼ぎ手を奪わ れてしまうか、家、土地、財産を放棄して未知の土地に逃れざるをえないのです。どち らに転んでも、彼らはすべての安全を脅かす苦しい不運のもとにあります。このことに 関して、いまだにボスニア-ヘルツェゴヴィナで進行中の民族間の血なまぐさい戦乱に 目をつぶることができましょうか。そしてこれは、世界中の非常に数多い戦争状態の中 のたったの一例にしか過ぎないのです。

 これほどの困難な情勢に際して、社会はしばしば効果的な助力をする能力がないかの ように、もしくはそれについては責任を免れ得ないほど無関心でさえあるように見えま す。武器が使用された争乱のいろいろな結果を体験している人たちの霊的、心理的必要 は、彼らの食料や住居に対する必要と同様に、緊迫かつ重大なものです。まったく予期 していなかった破滅的な不運に見舞われた家族を、彼らがそれらの不運にもめげずにあ きらめと復讐の誘惑に負けることなく、ゆるしと和解の精神の中に立ちあがるよう、積 極的に支える特別の機構を設立することが必要とされています。不幸なことに、しばし ば、そのきざしは見られないのです。

4. また、戦争と暴力は家庭の組織を弱め、破壊し、対立する力をもたらすだけでなく、それらは平和の正反対である行動様式を提示、いや実際には強制して、人々の心に有害 な影響を及ぼしているのです。この点に関して、とても悲しい事実を残念に思わなけれ ばなりません。それは、不幸なことに、ますます多くの少年少女ばかりか小さな子ども たちまでもが武力による争乱に直接参加しているという事実です。彼らは武装軍団に加 わることを強要され、常に必ずしも理解できない信条のために戦わなければならないの です。これ以外の場合でも、彼らは、その中で、命はほとんど無価値であり殺人が悪だ と思えない現実の暴力文化に巻きこまれています。これらの若い人々が暴力を放棄し、 平和の小道を歩き始められるようにすることが全社会の利益にもなることですが、これ は心から平和を信じる人々による忍耐強い教育を前提としています。

 ここでわたしは、私たちの社会における平和の発展へのもう一つの重大な障碍に触れ ないわけにはいきません。それは、あまりにも多くの子どもたちが家庭の温かさを知ら ないということです。時には家庭が不在で、実に、両親は他の事柄にかまけて、子ども たちを放置したままです。また、他の場合、家庭が単に存在しないこともあります。数 多くの子どもたちは、こうして、さまよい歩く通りはあっても家がなく、自分自身にし か頼ることができないのです。これらのストリート・チルドレンのある者は、悲劇的な 死を迎えているのです。他の子どもたちは麻薬の使用と販売、売春に走り、また、それ ほどしばしばではないにしても、犯罪組織に加わってしまいます。これほどの恥ずべき 広範に広がった状況を見過ごすことはできません。社会の将来自体が岐路に立たされて いるのです。子どもたちを拒否したり、邪魔者扱いしたり、または絶望的状況におとし める共同体は決して平和を知ることができません。

 平和な将来を望むるのなら、どの子どもも裏切りとか搾取でなく、保護される暖かみ と絶え間ない愛情を体験しなければなりません。国家は支援の手段と機構を提供するこ とによって多くを成し遂げることができますが、安全と信頼の雰囲気を確保するにあた って家庭の貢献にとって代わることはできません。幼い子どもたちに静かな心で将来に 目を向けさせ、彼らが大人になったとき真に進歩した社会を建設するにあたって、責任 ある役目を果たせるよう準備することはいかに大事なことでしょうか。子どもたちは、 私たちの中にすでに存在する将来なのです。彼らは自分たちが平和の未来を創造するこ とができるように、平和が何であるか体験する必要があります。

家庭・平和の仲介者
5. 永続する平和な秩序は、平和の諸価値を表現し強固にする制度を必要としています。人間の本性に最も直接的に応ずる制度が家族です。それだけが、社会の継続性と将来を 保証します。ですから家庭は、それが表現し、その中で伝えてゆく諸価値を通じて、ま た社会生活へのその構成員の一人ひとりによる参加を通じて、平和の活動的な仲介者と なる使命があるのです。

 社会の基礎的な核として、家庭はその独自の使命を十分に果たすために、国家の十全 の支援を受ける権利をもっています。ですから、国家の法律は、家庭がその義務を果た すことを助けつつ、その安寧を増進することを目的としなければなりません。その性質 自体から、また永続性の意識的欠如からして、決して家庭の意味を示すことなく、また、その善を保証することのできない結合の種々な形を結婚と法的に同等に扱う圧力が、現 今ますます高まっていますが、家庭の本来の構造とその生来の不可分的な諸権利を尊敬 しつつ(注・・この点に関しては「今日の世界において家庭の使命に興味をもつすべて の人、団体、当局に教会から提供された家庭の諸権利憲章」1983年10月22日参 照)、その真正の制度を助成し、保護するのは国家の義務であります。なかでも、基本 的なのは、自由に責任をもって彼らの道徳的、宗教的確信と正しく形勢された良心に基 づいて、いつ子どもをもうけ、そしてその子どもを同じ確信にのっとって教育するかを 決めるのは両親の権利です。 国家はまた人間の尊厳にふさわしい彼らの基礎的必要を 確保することができるような条件を備える重要な役割をもっています。貧困、実に極貧 ・・・社会の安定と人々の発展への恒常的な脅威・・・が私たちの時代にはあまりノも 多くの家庭を脅かしています。時として、収入が不十分なために、若い夫婦が子どもを もうけるのを延ばしたり、またあきらめたりすることもあり、また一方では、貧しい家 庭が社会生活に十分に参加することもできず、まったくの歪曲化を強制されてしまいま す。

 しかし、国家の義務は市民である個人の義務を取り去ってしまうものではありません。どの社会においても最も重大な質問への本当の答えは、実に、各人の調和ある連帯によ って確保されるのです。基本的には、家庭と個人を苦しめる貧困の問題への適当な解決 が見いだされるまでは、だれ一人として心を安んじることはできないのです。貧困は常 に社会の安定、経済的発展、そしてそれゆえに究極的には平和への脅威です。平和は常 に、個人と家庭がその生存のために戦うことを強制されている限り、危険にさらされた ままでしょう。

平和に仕える家庭
6.今わたしは家庭、特にキリスト信者の家庭に語りかけたいと思います。  わたしは回勅『家庭-愛といのちのきずな』に、「家庭よ、本来の姿にかえりなさい」(同回勅17)と書きました。愛を与え、命を伝えるように召されている「結婚生活と 愛の親密な分かち合い」(『現代世界憲章』48)となりなさい。  家庭よ、あなたには、人間の命の尊敬とその発展のために欠かすことのできない平和 の建設に貢献する、最も重要な使命があるのです(「カトリック教会のカテキズム」 2304参照)。平和が決して最終的に確保されるものでないと知っていても(『現代 世界憲章』78参照)、決してあなた方はそれを求めることをあきらめてしまってはな りません。イエスは十字架上でのその死を通じて、ご自分の絶え間ない臨在を保証しな がら、人類にその平和を残してくださっています(ヨハネ14・27、20・19-2 1、マタイ28・20参照)。その平和を願い、その平和のために祈り、その平和のた めに働きなさい。

 両親である皆さん。あなたたちにはその子どもたちを平和の人々であるよう育て、教 育する責任があるのです。この目的のためにはあなたたちがまず平和のために働くもの でなければなりません。

 希望と夢に満ちて若い熱情で将来に向かっている子どもたちの皆さん。家庭の賜物の 価値を大事にしなさい。そのうちに神があなたたちにお示しになるあなた方独自の召し 出しに応じて、家庭を建設する、もしくはその守護者となる責任に備えなさい。善に対 する渇望、平和の思いを育てなさい。

 家族の他の構成員とともに、各世代間にあるの独自で貴重な結びつきのある祖父母の 皆さん、平和な現在にあって過去と未来を結ぶために、あなた方の経験と証しの寛大な 貢献をなさってください。

 家庭よ。あなた方の使命を調和のうちに生き尽くしなさい。

 最後に、種々の理由のために自分には家庭がないと感じている人々のことを忘れるこ とができましょうか。彼らにもちゃんと家庭があると言いたいのです。教会こそすべて の人々にとって家であり家庭ではありませんか(『家庭・愛といのちのきずな』85参 照)。教会はその戸を広く開け放ち、独りぼっちの人たち、見捨てられた人たちを歓迎 します。教会は彼らの中に、彼らの年齢を問わず、彼らの願望、困難、希望が何である かを問わず、特に愛されている神の子たちの姿を見るのです。

 家庭から全人類家族に平和が広がってゆくよう、家庭にそのような生き方ができます ように。  これが、国際家族年の初めにあたって、キリストと教会の母であるマリア様の取り次 ぎによって、その方から「天と地にあるすべての家族がその名を与えられ」(エフェソ 3・15)ている方にわたしがささげる祈りです。

1993年12月8日
  バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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