1994「世界病者の日」教皇メッセージ

1994「世界病者の日」教皇メッセージ
キリストは、ご自身で苦難を担われた

1994「世界病者の日」教皇メッセージ
キリストは、ご自身で苦難を担われた

1. 心身に人類の苦しみのしるしを担っておられる兄弟、姉妹の皆さん。わたしは、この世界病者の日の意義深い記念日にあたり、わたしの皆さんへの思いを、愛情こめてお伝えいたします。
 おとめマリアの胎内で人となられた生ける神の子、キリストを信じる恵みをもっておられる病者の皆さんに、とくに挨拶を送ります。あなた方は、すべての苦しむ人と連帯し、人類を救うために十字架にかけられ復活されたキリストにおいて、あなた方の苦しみを
「救いをもたらす痛み」として耐える力を見いだしておられます。
 わたしは、あなた方一人ひとりが地球上のどこにおられるにしても、病者を「助け、いやされた」(使徒10・38) イエス・キリストのみ名によって祝福するために、皆さんと出会うことを願っています。わたしは、あなた方の苦しみを和らげるためにあなた方のそばに立ち、あなた方の勇気を支え、希望をはぐくみたいと願っています。皆さんお一人お一人が、教会と世界の善のために、自分自身をキリストの愛の贈り物となさることができますように。
 十字架のかたわらに立つマリアのように(ヨハネ19・25) 、この瞬間も、兄弟殺しの戦争によって引き裂かれ、病院で苦しい生活を送り、また暴力の犠牲者となった愛する人々のために喪に服している実に多くの兄弟姉妹がいるカルワリオの丘に、わたしはとどまることを望んでいます。今年の世界病者の日は、特に、祝福に満ちた聖母のとりなしによって平和の恵みを懇願するために、チェストコワの聖母巡礼地で荘厳に祝われます。それはまた同時に、沈黙のうちに自分の犠牲を平和の元后に捧げている病者や、苦しんでいる人々を勇気づけるためのものでもあります。

キリストにおいてのみ、人は真実の光を見いだす
2. 世界病者の日にあたって、「救いをもたらす苦痛」のテーマに対して、わたしは、病者、医療関係者、キリスト者、そして善意あるすべての人々の注意を促したいと願っています。この「救いをもたらす苦痛」というテーマについては、わたしが10年前の2月11日に発行した教皇書簡『サルヴィフィチ・ドローリス苦しみのキリスト教的意味』の中で詳しく触れています。
 救いをもたらす苦痛についてどのように語ればよいのでしょうか。苦しみは幸せを妨げ、
神から引き離す原因なのでしょうか。たしかに人間的な見方からすればまったく意味がないかのような苦しみが存在します。
 実際、受肉したみことばである主イエスが「悲しむ人々は、幸いである」(マタイ5・4)と宣言されたのは、すべての人を生命に招き、苦しみと死を通して、ご自分の愛と平和の国に招いておられる神のより高い視点があるからです。
 苦しみと弱さを余儀なくされた生活の貧困の中で、神の光を輝かすことのできる人は、幸いです。

3. 苦痛からこの光を導き出すために、まず何よりもわたしたちは、「苦しみについての優れた本」(『サルヴィフィチ・ドローリス』6)とも呼ばれる聖書を通して神のことばに耳を傾けなければなりません。実際にわたしたちは、聖書の中に「人間のさまざまな苦しみの状況の広大なリスト」(同7)を見いだすばかりではなく、必然的に「なぜ」という問いを起こさせる多様な悪の経験をも見いだします(同9)。
 ヨブ記の中に、この問いは最も劇的に表現され、同時に最初の不公平な答えが与えられています。潔白であるにもかかわらずあらゆる試みを受けたあの正しい人の物語は、「す
べての苦しみが罪の結果であり罰の性格をもっているというのは真実ではない」(同11) 、
ということを示しています。
 ヨブに対する完全で決定的な答えはキリストです。「人間の秘義は肉となられたみこと
ばの秘義においてでなければほんとうに明らかにはなりません」(『現代世界憲章』22) 。
キリストにおいては、苦痛さえ無限の愛の秘義の中に取り込まれ、救いをもたらす苦痛となるのです。苦痛は、三位の神から光を受けて、愛の表現、救いの道具となるのです。
 罪によって一切の可能性を失った人間との関係を修復するため、完全な贈り物として御子を選ばれたのは御父なのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16) 。
 「ご受難の苦しみの救いの力を知って、おん父に服従しつつ」ご受難へと向かって行かれたのは、御子です。「本来、キリストは世界を愛され、世界中の人間を愛されたその愛の中で、おん父と一致しておられます」(『サルヴィフィチ・ドローリス』16)。
 預言者によって語られたことですが、人類のために、また人類に代わってメシアが自発的に受け入れる苦しみを告げたのは聖霊です。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった、わたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」(イザヤ53・4-6)。

4. 兄弟姉妹の皆さん、神の英知による愛の計画を賛美しましょう。キリストは「ご自分の上に苦しみを負いながら、人間の苦しみの世界に特に近づかれました」(『サルヴィフィチ・ドローリス』16)。キリストは罪を除いて、あらゆる点においてわたしたちと同じようになられました(ヘブライ4・15、1ペトロ2・22参照) 。キリストは、死をも含んだ人間の限界とともに、人間と同じ者になられました(フィリピ2・7-8)。キリストはわたしたちのために命を捧げ(ヨハネ10・7、1ヨハネ3・16参照) 、そのおかげでわたしたちは、聖霊のうちにある新しい命を生きることができるのです(ロマ6・4、8・9-11) 。
 あまりに激しく耐えられないような痛みの重圧の下で、神は不公平だと非難することがあり得ます。しかし「自由なご意思」で「罪もないのに」苦しまれ、十字架に架けられたお方を観想する人は誰でも、嘆きの言葉を出さなくなります(『サルヴィフィチ・ドローリス』18)。ご自身が人類の苦しみと一つになっておられる神を非難することなど、わたしたちにはできません。

人生の苦難は将来の栄光のしるしとなる
5. 苦痛が救いをもたらす価値をもっていることを完全に啓示するのは、主の受難です。「キリストの十字架のできごとの中では、苦しみを通して贖いが達成されただけでなく、人間の苦しみそのものが、贖われたのです」(同19) 。キリストは「ご受難への参加を人間に開」いてくださいました。それで、人はキリストのうちに、苦しみの「新しい内容と新しい意味を豊かに」(同20)発見するのです。
 信仰に照らされるとき、理性は、苦痛と悪との間にある区別を理解し、すべての苦しみが、恵みによって、贖いの秘義の一部分となりうるということを把握します。その贖いの秘義は、キリストによって、「人間の苦しみの中に表現されるすべての愛に、いつも開かれ続けている」(同24)のです。
 すべての人生の苦難は将来の栄光のしるし、土台となります。ペトロの第一の手紙は次のように勧告しています。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(一ペトロ4・13) 。
6. 病の床にある皆さん、あなた方のような立場では、言葉よりも模範が必要なことを体験からよくご存知でしょう。そのとおりです。わたしたちは皆、苦しみを聖化する道を歩くように励ましてくれる手本を必要としています。
 ルルドの聖母を記念するにあたって、苦しみの福音の生きたイコン(かたどり)としてマリアを見つめましょう。
 マリアの生涯における出来事を思い起こしましょう。そうすれば、ナザレの家の貧しさの中に、ベツレヘムの馬小屋の屈辱の中に、エジプトへの逃亡生活における窮乏の中に、イエスとヨセフの祝福されてはいてもみすぼらしい働きの労苦の中に、マリアを見いだすことでしょう。
 とりわけ、御子の苦しみにあなた自身もあずかるだろう(ルカ2・34参照)というシメオンの予言の後、マリアは深い次元で、苦痛の神秘的な予見を体験しました。息子ととも
にマリアも十字架に向かって歩き始めたのです。「マリアの苦しみは、カルワリオの丘で、イエスの苦しみとともに、人間的な見かたでは想像できないくらいの激しさになりました。
その激しさのきわみで、世の救いのために、神秘的で超自然的な実りを得たのです」(
『サルヴィフィチ・ドローリス』25)。
 イエスの母は罪から守られていましたが、苦しみからは守られてはいませんでした。ですからキリスト者は、自分の苦しみとマリアの苦しみとの違いを認めつつ、悲しみの聖母の姿に自分を重ねます。マリアを観想することによって、信仰者の一人ひとりはさらに深くキリストとキリストの救いをもたらす苦痛の秘義の中に導かれるのです。
 世の救いのための御子の苦痛を、かけがえがなく比類のない方法で反映させる汚れなきみ心の聖母との交わりに加わるように努めましょう。死の間際のキリストからご自分の弟子の霊的な母として示されたマリアを受け取り、洗礼から栄光への旅路において神に忠実であるために、わたしたち自身をマリアに委ねましょう。

落胆したり悲観主義に陥らないで
7. わたしはここで、医療従事者、医者、看護婦、看護士、チャプレン、修道女、技術職員、管理職員、ソシアルワーカー、そしてボランティアの皆さんに呼びかけます。
 善きサマリア人のように、皆さんは病者や苦しんでいる人に近づき、仕えておられますが、何よりもまず、そして常に、人間として彼らの尊厳を尊敬し、信仰の目をもって、彼らの中で苦しむイエスの存在を認めておられます。習慣によって起こりうる無関心に用心してください。差別することなく、すべての人に対して兄弟姉妹としての献身を日々新たにしてください。組織の機能性と直接に結ばれている皆さんの職業のかけがえのない貢献に、「心」を加えてください。心だけがそれらの貢献に人間性を与えることができるのです(『サルヴィフィチ・ドローリス』29参照)。

8. 最後に、わたしは諸国の指導者に懇願します。皆さんは世界的な次元で優先課題となっている保健について考慮することができるからです。
 世界病者の日の目的の一つは、保健政策や健康に関する深刻で避けて通れない諸問題についての認識を呼び起こすため、幅広い取り組みを実施することです。およそ人類の3分の2がいまだに基本的な医療を受けることができないでいます。と同時に、この分野において使われる財源はあまりにもしばしば不十分です。幻想のように思われるかも知れませんが、「二千年までにすべての人に健康を」という世界保健機関WHOの計画が、効果的な連帯によって、建設的な競争を促しますように。科学と技術の異例の進歩とマスメディアの発達は、今まで以上にしっかりとした希望を構築するのに貢献しています。

9. 親愛なる病者の皆さん。落胆したり悲観主義に陥ることなく、信仰に支えられて、あらゆる形で悪に立ち向かってください。キリストによって切り開かれたあなたの現状を、あわれみと愛の表現に変えるチャンスとして生かしてください。そうすればあなたの苦痛も、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを満たすことに貢献でき、救いをもたらすものとなるでしょう(コロサイ1・24参照) 。
 病者の皆さん、医療に従事している方々、そして苦しむ人に奉仕しているすべての人に、
恵みと平和、救いと健康、活力に満ちたいのち、倦むことのない献身、そして絶えることのない希望を祈ります。 Salus infirmorum (病者のいやし)と呼ばれる聖母の取り次ぎ
によって、わたしの心からの祝福が常に皆さんとともにあり、皆さんを慰めますように。

1993年12月8日
バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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