1995「世界病者の日」教皇メッセージ

1995「世界病者の日」教皇メッセージ
病者の勇気あるあかしは世界平和のための最高の貢献である

教皇ヨハネ・パウロ2世は、1995年2月11日第3回世界病者の日の記念式典を、コートジボワールの首都ヤムスクロにある「平和の女王マリア巡礼聖堂」で行う予定です。教皇は、心身に苦しみをもつすべての人々に向かって、イタリア語で書かれた次のようなメッセ ージを発表されました。


1995「世界病者の日」教皇メッセージ
病者の勇気あるあかしは世界平和のための最高の貢献である

1. 「悪のとりこになっていたすべての人」に対して行われたイエスの救いのわざは、絶えず病者に心を配る教会のなかで大切に受け継がれてきています。教会は、苦しんでいる方々へのこの心づかいをいろいろな仕方で示していますが、なかでも「世界病者の日」の制定は今日の状況において非常に重要性をもっているものです。この企画は、キリスト者の共同体の愛に満ちた司牧活動が、社会のなかでもっと明確で効果的なものとなるように新しい刺激を吹き込むことを目的としており、それは、苦しんでいる方々の現状を心にかけている人々から広く受け入れられてきました。
 世界病者の日の必要性は、すべての人々が残酷な戦争のためにはかり知れない苦難を被っている現代、特に強く感じられます。その人々のなかで最も高い代価を支払っているのは、ほとんどの場合弱者なのです。現代の文明が「あらゆる角度から見て、人間の内に深刻なゆがみを生じさせている病んだ文明であると言わざるを得ない」(『家庭への手紙』20)ということを認めないでいられるでしょうか。
この文明は病んでいます。それは、極端な利己主義、生き方の一つのモデルとしてしばしば紹介される個人的功利主義、人間の超越的な目的に関してたびたび表明される拒絶か無関心、人類を深刻な不安に陥れている精神的、倫理的価値の危機という症状をもっているのです。精神の「病状」は身体の「病状」よりはるかに危険で、この二つは互いに影響しあっています。

2. わたしは、昨年2月の世界病者の日のメッセージで、人間の苦しみのキリスト教的な意味を書いた教皇書簡『サルヴィフィチ・ドローリス-苦しみのキリスト教的意味-』の出版十周年について言及しました。今回わたしは、特に病者の司牧にとって意義のあるも
う一つの十周年を迎えることがらについて皆さんの注意を促したいと思います。わたしは、1985年2月11日に自発教令「ドレンティウム・ホミヌム」を発表し、のちに教皇庁医療使徒職評議会となった委員会を設立しました。この委員会は、多岐にわたる企画で「病気の人や苦しむ人の世話にあたる人々の愛の使徒職が、新しい要求につねにより良くこたえられるようにと助け続けることを通して、病者のために配慮する教会の姿を表すものとなっています」(使徒憲章「パストール・ボヌス」152)。
 1995年2月11日に記念される世界病者の日の最も重要な催しは、アフリカの地、コートジボワールのヤムスクロにある「平和の女王マリア巡礼聖堂」で行われます。これはアフリカのための特別世界代表司教会議に精神的に連帯した教会的な集会となるでしょう。同時に、最初の宣教者たちの到来百周年を記念するコートジボワールの教会の喜びに参加する好機でもあります。
アフリカ大陸で、特にヤムスクロの巡礼聖堂で行われるこのような感激に満ちた記念祭に集まることは、苦痛と平和との関係について深く考えてみることを促します。苦痛と平和には非常に深い関係があります。平和がないとき、人々の間には苦しみがはびこり、死がその支配を広げます。家族共同体と同じように社会的共同体においても、平和的な相互理解の減少は生命に対する攻撃の増加につながることだと言えるのです。自らの犠牲を払ってでも生命に奉仕し、保護し、助長することが個人的、社会的な平和を真に建設するための不可欠な前提となっているからです。

3. 第三の千年期が始まろうとしているのに、残念ながら平和はまだ遠く、そのうえさらに後退する兆しも決して少なくありません。原因の確認と解決のための調査は、しばしば困難に遭遇しています。キリスト者の間でも、ときおり兄弟殺しの血なまぐさい戦いが起こることがあります。しかし寛大な心で福音に耳を傾けている人々は、自分自身にも他人に対しても、ゆるしと和解が必要なことを思い起こすのに疲れを覚えるようなことはあり得ません。キリストが人類をあがない救うために受け入れられた苦しみを、彼らもまた、世界中のあらゆる場所の病者とともに、ささげものとして日々祭壇の上に差し出し、熱心に祈るようにと招かれているのです。
 平和の源はキリストの十字架です。わたしたちは皆キリストの十字架において救われています。キリストと一致し(コロサイ1・24参照) 、キリストと同じように苦しむように招かれている(ルカ9・23、21・12-19、ヨハネ15・18-21参照) キリスト者は、苦しみを受け入れささげることによって、十字架の積極的な強さを告げるのです。実際、戦争と
分裂が暴力と罪の結果であるならば、平和は正義と愛の実りなのです。正義と愛の頂点は、
自らの苦しみを寛大なささげものとすることです。もし必要ならば、キリストと一体になって自らの生命をも与えるほどに駆りたてるものなのです。「人が罪によって脅かされれば脅かされるほど、また、今日の世界の罪の構造が深くなればなるほど、人間の苦しみは大きくなります。それゆえ教会は、世の救いのために、人間の苦しみの価値にますますたよらざるをえなくなっています」(教皇書簡『サルヴィフィチ・ドローリス-苦しみのキリスト教的意味-』27) 。

4. 苦しみを有効に役立てることおよび世界の救いのために苦しみをささげることは、それ自体平和の行動であり平和の宣教なのです。弱者、病者、苦しむ者の勇気あるあかしが、平和のための最高の貢献となり得るからです。苦しみは実際に、一方では生活のよりよい質の回復を促しつつ、他方では人々の間の平和のための確信あるかかわりを推進しつつ、非常に深い霊的交わりを迫ってくるものです。
 信者は、キリストの苦しみにあずかることで平和の確実な働き手となることを知っています。これは計り知れない神秘ですが、その実りは教会の歴史のなかに、とりわけ聖人たちの生涯に非常にはっきりと現れています。死をもたらす苦しみというものがあるとすれば、神の計画によって、人の心を変え、悔い改めをもたらす苦しみもあるのです(二コリント7・10参照) 。キリストの苦しみの「欠けたところ」(コロサイ1・24) を身をもって満たす苦しみは、生命と平和を生み出すのですから、喜びの理由となり源ともなるのです。

5. 心身に苦しみをもつ兄弟姉妹の皆さん、わたしはあなた方が、自分の苦痛をささげることによって平和の働き手となるようにとの神の呼びかけを理解し、受け入れることができるように祈っています。このような難しい呼びかけにこたえることは決して容易ではありません。あなた方を苦しめている試練を恵みに変える強さを願いつつ、常に信頼をもって「苦しむしもべ」であるイエスを見つめてください。あなた方一人ひとりに向かって繰り返されるイエスの声に信仰をもって耳を傾けてください。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28) 。
 おとめマリア、悲しみの聖母、平和の女王、どうか信じるすべての者に揺るぎない信仰の恵みをとりなしてください。これこそ世界が最も必要としているものです。あなたの助力により、悪、憎しみ、不和の力は、救い主キリストの過越しの神秘に結ばれた弱者や病者の犠牲によって消滅することでしょう。

6. ここでわたしは、病者の介護をしているボランティアグループや協会のメンバー、看護人、医師の皆さんにお願いします。もしあなた方が、かかわりをもつ人々に対して本当の愛を提供する準備を整え、信者として、彼らのなかにおられるキリストご自身を敬うことができるようになれば、あなた方の働きは本物のあかし、平和の具体的行為となるでしょう。この招きは、とりわけ各自の修道会のカリスマによって、あるいは使徒職のそれぞれのあり方によって、医療司牧に直接献身している司祭、修道者、修道女に向けられています。
 あなた方が自己犠牲と寛大さのうちに献身しておられることに対して、わたしの心からの感謝を表明すると同時に、わたしは医療職と準医療職に従事しておられる方々が熱意と労力を惜しむことなく職務を果たされることを切望します。そして、福音を告げそのあかしとなるこのように重要な「健康」という幅広い分野で働くために、多くの、そして聖なる働き手を送ってくださるように刈り入れの主に祈ります。
 苦しむ者の母マリア、どうか試練のなかにいる人々のそばにいてください。そして病者の介護に自らをささげている人々の努力を支えてください。
 病者の皆さんの上に、またどのような形でであろうと物質的精神的なさまざまな必要のためにあなたがたのそばにいるすべての人々に、わたしはこれらの思いを込めて、心からの特別な使徒的祝福を送ります。

教皇在位17年、1994年11月21日
バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ2世

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