1997年「国際協力の日」メッセージ

毎年、各国の教会は、それぞれの司教協議会で定めた日を「世界移住の日」と し、特に移住者と難民のために祈り、献金することにしています。日本の司教協 議会は、「世界移住の日」を「カトリック国際協力の日」とし、9月の第2日曜 日を当てています。「イエスが教会に託した神のことばをのべ伝える任務は、キ リスト者が他国へ移住していくという歴史のなかに、最初から組み込まれてきま した」。教皇ヨハネ・パウロ2世は1997年の「世界移住の日」のメッセージのな かでこのように語っています。

1997年「国際協力の日」メッセージ
「どうか移住者の窮状に心をくだいてください」

信仰は愛の行いを通して働く
愛する兄弟姉妹の皆さん

1.移住者たちの実情と難民たちの悲惨な境遇については、多くの場合、世 論によって十分に取り上げられていません。しかし、キリスト者にとってこの問 題は、深い共感を目覚めさせ、関心を向けないではいられない事柄です。わたし は、自分の祖国を離れている人々が多くの場合、過酷な状況にあることに常に関 心をもっていることを表明すると同時に、この国際協力の日のメッセージをもと に、司教、小教区をもつ司祭、誓願をたてている方々、小教区のグループ、教会 の諸団体、そしてボランティアグループの方々がこの事実についてますます意識 を深めてくださるよう、お願いしたいと思います。今回の国際協力の日は、移住 者と難民の状況について考察する機会を与えるものであり、また、彼らの第一の 必要事が何であるかを認識し、それにこたえていけるように働くための刺激とな るでしょう。これによって彼らの人格を尊重することと、彼らを迎え入れる役割 との間によりよい調和を保つことができるようにするためです。
 
今日、移住するという現象は多くの場合、貧しさと窮乏によって引き起こされ る「集団大移動」となって現れています。彼らは、武力闘争、不安定な経済状況 、政治・民族・社会的紛争、また自然災害によって、自分の国を追われたのです 。しかしまた、別の理由によって祖国を離れる人々も少なくありません。輸送手 段の発展、情報伝達の迅速化、社会関係の複雑化、ますます拡大化する物質的繁 栄、より多くの自由時間、そして文化的関心の増大によって、人々は、ほとんど 個人ではどうしようもない、社会全体にかかわるようなものを獲得しようとして 移住するのです。これによってほとんどすべての大都市に多くの異なる文化が持 ち込まれ、新たな社会・経済情勢がつくり出されているのです。
 
移住によって、さまざまな宗教をもつ人々が日常的に共生するという構造のな かで混在していくことは、社会の多様化の一つの要素となっています。もっとも この分野で実際に変動を経験した国々は、確かに西側の国が多く、そのほとんど がキリスト教国です。こうした国々のいくつかでは、宗教の多様化がただ広まる だけでなく、根をおろしているのです。というのも、移住者の流入が長期に及ん でいるからです。いくつかの政府はすでに比較的主要な宗教団体に対して、認可 を受けた宗教としての地位を保証し、文化的社会的なイニシアティブのための保 護、権限、行動の自由、経済的援助といった特典を与えています。
 
教会はすべての人に「礼拝の自由」を認め、このための法制化を支持してきま した。さらに教会は、尊敬と畏敬をもって他の宗教に属している人々と連帯しな がら、彼らとの実りある協力関係をはぐくみ、また、信頼と対話の雰囲気のなか で、現代社会の様々な緊急課題を解決するために協力することを望んでいます。

2.イエスが教会に託した神のことばをのべ伝える任務は、キリスト者が他 国へ移住していくという歴史のなかに、最初から組み込まれてきました。回勅『 救い主の使命』のなかで、わたしは次のことに言及しました。「キリスト教が初 期の時代に広まったのは、キリストがまだ告げ知らされていなかった地域に旅行 し、あるいは定住したキリスト者が、自分の信仰を勇敢にあかしし、そこに最初 の共同体を設立したからです」(82項)。

 このことは今日でも同様に実証されています。私は1989 年に次のように書 きました。「しばしば、キリスト者の共同体は、移住者たちの小さな入植地とし て始まり、花開いていくものです。そうした共同体は司祭の指導のもとに、粗末 な建物に集まり、みことばを聞き、厳しい生活の現状からくる試練と犠牲に立ち 向かう勇気を神に願ったのです」(『国際協力の日メッセージ』2項)。歴史を 振り返ると、多くの人々は、福音がすでにのべ伝えられていた土地からやってき た移住者たちを通じて、キリストを知るようになったのです。

 今日、移住者の動きは逆方向になっているようです。ますます多くのキリス ト者ではない人々が、キリスト教の伝統をもった国々に、仕事とよりよい生活条 件を求めて移動しています。そして多くの場合、彼らは「不法移民、難民」とさ れているのです。こうした状況は簡単には解決できない、複雑な問題を生み出し ています。教会の本来の務めは、善いサマリア人がしたように、こうした不法移 民や難民にかかわっていくことにあります。彼らは、追いはぎに襲われ傷を負っ てエリコへ下る路に見捨てられている旅人の、現代における象徴なのです(ルカ10 :30参照)。教会は、彼らに歩み寄り、「傷口にいやしの油と希望のぶどう酒 を注ぎます」(「ローマミサ典礼書」序唱第7)。このとき教会は、自分自身が キリストの生きたしるしとなるように召されていると感じるのです。キリストは すべての者が豊かに命を受けるために来られたからです(ヨハネ10:10参照)。

このように教会は、キリストの霊のうちに行動し、彼の足跡に従い、ともに、 よい知らせをのべ伝え、周りの人々と連帯するように務めるのです。こうした基 本要素は、教会の活動のなかに緊密に結ばれているものです。

3.しかしながら、危機的状況にある移住者たちを、緊急に助けに行くこと がしばしば起こるからといって、キリスト者の希望の根拠である究極的な実在を のべ伝えることが妨げられるはずはありません。福音をのべ伝えるということは 、わたしたちが抱いている希望についていつでも説明できるということです(1 ペテロ3:15参照)。

現代社会は、しばしば不正義と利己主義によって脅かされているものの、他方 では、弱者や貧しい人々に驚くほど配慮しています。近年、キリスト者の間で連 帯を渇望する姿が見受けられ、こうして連帯を渇望している人々は、愛の福音を より効果的にあかしすることに駆り立てられているのです。しかし、貧しい人々 への愛と奉仕が、信仰の必要性を過小評価してしまうようになってはいけません 。というのも、神のおきては神と隣人とを同時に愛するようにわたしたちに呼び かけているにもかかわらず、人間がこの神のおきてを分離してしまうことになる からです。

移住者や難民たちのために教会が自ら責任を負うことを、単に彼らの受け入れ や連帯を目指した組織をつくることだと矮小化してとらえることはできません。 こうしたとらえ方は、教会の召命の豊かさを卑しめるものです。教会の召命は第 一に信仰を伝えることであり、その信仰とは「他者に伝えられるときに強められ 」るものなのです(『救い主の使命』2項)。生涯が終わるとき、わたしたちは 愛に基づいて、わたしたちの兄弟姉妹の「もっとも小さな者」のために果たした 愛の実践によって裁きを受けます(マタイ25 :31-45参照)。しかし、キリスト をあかししてきた勇気と忠誠心についても裁かれるのです。福音書のなかでイエ スは言われます。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言 い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」 (マタイ10:32-33)。

キリスト者にとって、あらゆる行動の始点も終点もキリストのうちにあるので す。つまり、洗礼を受けた人は、キリストへの愛に駆り立てられて行動し、自分 の行動がうまくいくかどうかということもそれがキリストにつながっているかど うかにかかっている、ということを知っています。「わたしを離れては、あなた がたは何もできない」(ヨハネ15:5)。使徒たちが、神の国の実現についての イエスの教えを、具体的なしるしによって広めていったように(使徒言行録1: 1、マルコ6:30)、キリスト者はイエスとその使徒たちの模範に倣い、言葉と 行いによって福音をのべ伝えるのです。言葉と行いはともにキリストへの信仰の 実りなのです。事実、行いは「活動的な信仰」であり、言葉は「雄弁な信仰」な のです。したがって、愛の実践をともなわない福音宣教がないように、福音から 受ける情熱をもたない真の愛もあり得ません。つまりこの両者は互いに緊密に結 びついているのです。

4.「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で 生きる」(マタイ4:4)。本物の司牧者は、たとえ膨大な量の現実的問題に取 り囲まれて疲れはてているときでさえ、移住者たちが神を必要とし、そのなかの 多くの人が誠実な心で神を求めているということを決して忘れません。にもかか わらず、エマオへ向かう弟子たちのように、彼らの目はしばしば遮られ、イエス を認めることができません(ルカ24:16参照)。だからこそ、彼らもまた現存す る主と出会う必要があったのです。現存する主は彼らを導き、その話に耳を傾け 、みことばを再び鳴り響かせ、彼らの心を希望で打ち震わせ、彼らが復活した方 と出会うよう導かれたのです。これは教会が歩む宣教の道筋でもあります。つま り、あらゆる民族、言語、国の人々と出会うために出かけていき、共感と愛のう ちに、福音宣教への情熱をもって、人々の境遇を自分のものとしながら、彼らの ために愛と真実のパンを割くのです。

初代教会の宣教経験のなかで顕著なことは、使徒たちの宣教のやり方です。こ れはフィリポがエチオピアの女王カンダケの高官のためにした説教(使徒言行録 8:27-4 0参照)や使徒パウロが見た幻の話(同18:9-11)のなかにみられます 。パウロは、住民の多くが港で働く移住者によって構成されていたコリントの町 で活動していました。ここで彼は主から、恐れることはないと励まされ、「語り 続け、黙ることなく」、主の十字架の知恵がもつあがないの力に信頼をおいたの です(1コリント1:26-2 7)。

使徒言行録が語る、使徒パウロに関する出来事の数々は、彼が、キリストにお いてのみ救いがあるという確固とした信念に導かれ、あらゆる機会を利用して救 い主をのべ伝えることにすべてを捧げていたことをあかしするものです。彼はこ の献身を自分の本分として生きたのです。「もっとも、わたしが福音を告げ知ら せても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだか らです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(1コリント9:16 )。実に彼は、救いの知らせを受け取る人々がもつ権利を意識していたわけです 。この点について、わたしの尊敬する前任者、神のしもべであるパウロ6世は、 その使徒的勧告『福音宣教』で次のように語っています。「複雑な問題があるか らといって、イエス・キリストの福音の宣教をキリスト者でない人々に対して差 し控えなければならないとは思えません。反対に、このキリスト教以外の諸宗教 の多くの人々にも、キリストの神秘の宝を知る権利があることを強く主張するの が教会の立場です。すべての人類が手さぐりで神について、人とその運命につい て、生と死、真理について、探し求めていることのすべてが、そのキリストの神 秘のうちに、くみ尽くせないほどあふれるように見いだされるのです。」(53番 )。

5.ヨハネ福音書は、キリストが「散らされている神の子たちを一つに集める ため」(ヨハネ11:52)、死に定められていたことを強調しています。同じ福音 は、過越祭の間、幾人かのギリシア人がフィリポに近づき、イエスに会うことが できるかどうかを尋ねたことを詳しく述べています(ヨハネ12:21参照)。フィ リポはアンデレと相談し、主に伝えると、イエスは次のように言われました。「 人の子が栄光を受ける時が来た。・・・一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、 一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、そ れを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わた しに仕えようとする者は、わたしに従え・・・」(ヨハネ12:23-26)。

彼らはギリシア人、つまり異邦人でした。彼らは救い主に会いに来たのですが 、イエスの答えは彼らがはじめに期待していたこととは何の関係もないような印 象を与えます。しかし、ゴルゴタでの出来事を通してみると、十字架に上げられ ることは、まさにキリストが御父と人類の間にあって栄光を受けるための条件で あり、また、この過越の神秘のダイナミズムにおいてのみ、人はイエスに出会い たい、心を通わせたいという望みが完全にかなえられるということを理解するの です。教会は人類と真剣な対話を築いていくように呼ばれています。それは単に 教会が人類に真の価値観を伝えるためだけではなく、何よりも、キリストの神秘 を啓示していくためなのです。というのも、キリストにおいてのみ、人は最高の 真理の次元に到達することができるからなのです。「わたしが地上から上げられ るとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)。こうして 「引き寄せ」られることによって、わたしたちは愛の交わりのなかに統合されて いき、互いにゆるし、愛し合うことができるようになり、真の意味での人類の成 長へとつながっていくのです。

 教会は、人々がそこで「イエスに出会い」、彼の愛を経験することのできる 場になるということを十分に自覚しています。だからこそ教会は、十字架の論理 においてその使命を果たすために、懸命に努力を続け、あがない主の無償で無条 件の愛を、常に説得力のある方法であかししようとしているのです。「ついには 、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟 した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」( エフェソ4:13)。

1997年は紀元2000年の大聖年に向かう3年間の準備の最初の年となります。こ の一年、キリスト者は、特にキリストの姿を見つめるように呼びかけられていま す。わたしは、皆さん一人一人がイエスとの交わりをより緊密なものにされるよ う、もう一度お願いします。そして、愛の実践によってイエスへの信仰を積極的 なものとし(ガラテア5:6参照)、困難にあって助けを必要としている人に特 に心を開いてくださるように呼びかけます。このように、福音をのべ伝えること は、より説得力のあるものとなり、それぞれの時代の人々にとって、いつも希望 と愛の生きたメッセージとなるのです。

以上のような願いを胸に抱きつつ、移住者と難民のみなさん、そして、困難な 状況下にある彼らの重荷を、愛をもって引き受けてくださっているすべての人々 に、わたしは心から、特別な使徒としての祝福を送ります。

【聖書の引用は、日本聖書協会『聖書 新共同訳』(1991年版)を使用し ました。
また、教皇パウロ6世使徒的勧告『福音宣教』の引用箇所は宣教研究所で新た に訳しました。】

 1996年8月21日  カステルガンドルフォにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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