1998年「世界病者の日」教皇メッセージ

1998年「世界病者の日」教皇メッセージ
ロレート、それは「希望の家」
希望は苦しみに新しい意味を与え、苦しみを救いの手段に変える

1998年「世界病者の日」教皇メッセージ
ロレート、それは「希望の家」
希望は苦しみに新しい意味を与え、苦しみを救いの手段に変える

愛する兄弟姉妹の皆さん
1. 1998年2月11 日の「世界病者の日」は、ロレートの聖母聖堂(訳注1)で祝 われます。ロレートは、聖霊の働きにより、おとめマリアの胎内でみことばが受 肉した瞬間を思い起こさせ、受肉の秘義を見つめるよう促します。

この聖母聖堂は、「聖なるおとめにささげられた、世界的な広がりをもつ最初 の聖堂であり、キリスト者にとっては、何世紀にもわたって聖母マリア崇敬の真 の中心地となっている聖所です」(ロレートの聖母聖堂付教皇代理パスカーレ・ マッキ大司教への1993年8月15 日付書簡) 。わたしは、たびたびここに巡礼に 来ました。その度毎に、ここに信頼をこめてやって来る多くの病者に、いつも特 別な親しみを覚えてきました。「このロレートの家以上に、病者をやさしく迎え てくれる場所がほかにあり得るでしょうか。わたしたちは、聖母がこの家で、『 病む者にとっての健康』、『苦しむ者にとっての慰め手』として、わたしたちの 祈りを聞きとどけてくださるようにと、『聖母マリアへの連願』を唱えています 」(同書簡)。

ですから、ロレートを選んだことは、心身に苦しみをもつ人々に対する教会の 伝統的な愛の心遣いによく調和するものです。教会は、信者がマリアの取り次ぎ を求めて、病者のために主に祈るよう喜んで励まします。マリアとの出会いのこ の大事なときは、「聖なる家」、すなわち、みことばの受肉の秘義とその出来事 を示す「イコン」(訳注2)の前で、聖霊の照らしと力を受け入れようと心を静 めて立ち止まる機会を、教会共同体に与えてくれます。聖霊は、人間の心を、希 望が宿る住まいに変えてくださるのです。 

(訳注1)「ロレートの聖母聖堂」は、イタリア中部アドリア海に面する小都 市ロレートの中心にそびえる聖母ゆかりの聖堂です。さらにこの聖堂の中心には 、古い小さな家があります。これは、13世紀に聖地ナザレから運ばれてきた、あ る質素な家の壁を組み立てて再現されたものです。言い伝えによれば、その壁は 、おとめマリアが住んでおられた家の壁だとされています。
(訳注2)「イコン」は、ギリシア正教会で用いられる礼拝用の聖画像として 有名です。しかし、ここでは、「イメージ、似姿、象徴」といったギリシア語本 来の意味で用いられています。

2. 「ことばは肉となった」 (ヨハネ1・14)
 ほかのどこよりもロレートの聖母聖堂でこそ、福音記者ヨハネのこのことば の深い意味をよく悟ることができます。「聖なる家」の中で、「わたしたちとと もにおられる神」イエス・キリストは、特別の力をもって御父の愛について語り かけられます(ヨハネ3・16 参照)。御父の愛は、世を救う受肉のうちにもっ ともよく表されました。神は、人間を探し求めてみずから人間となり、絶対的な 神と限界のある人間との間の架け橋となられたのです。「キリストは、神の身分 でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分 を無にして、・・・死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」( フィリピ2・6-8)。キリストは、わたしたちの苦しみを取り除くためでなく 、分かち合うために来られました。人間の苦しみをみずからのものとすることに より、苦しみに救いの価値を与えられたのです。つまり、キリストは人間の条件 を身に帯びることを望み、限界と苦しみを共有し、それによって限界ある人間を 救われたのです。キリストが成し遂げられた救いは、病者のいやしのうちに前も って示されており、苦しい状況にある人々に「希望の地平」を開いています。

3. 聖霊の働きによって
受肉の秘義は霊の働きによるものです。霊は、三位一体の中で、「愛であるペ ルソナ、創造の秩序において神から発するあらゆる贈与の源泉である、造られた ものでないたまもの、直接の原理、そしてある意味で恵みの秩序において神がみ ずからを与えることの主体です」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『聖霊生命の与 え主』50項)。紀元2000年の大聖 年を迎える直前の準備のための第二年目、1998 年は、この聖霊にささげられています。

わたしたちの心に注がれた聖霊は、ことばでは言い表せない方法で、キリスト によって啓示された「近くにおられる神」を悟らせてくれます。「あなたがたが 子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に 送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4・6)。霊は、すべての人 、とくに「霊の初穂をいただいている人」や、「体のあがないを待ち望んでいる 人」(ローマ8・23参照) の「希望の守護者」です。聖霊は、聖霊降臨の祭日の 典礼にある「聖霊の続唱」で歌われるように、人の心の中で、貧しい人の父、恵 みの与え主、心の光となられるのです。また、やさしい心の友、疲れたときの憩 い、一日の暑さを和らげるかた、あらゆる時代の悩みや争いや危険のただ中で慰 めをもたらすかたとなられます。困難な状況に立ち向かい、それを乗り越える力 を人の心に与えてくださるのはこの霊です。

4. おとめマリアの胎内で 
 この「聖なる家」の壁を黙想するとき、主イエスの母マリアが神の救いのご 計画に同意し、協力するためにこたえられた「はい」や「この身になりますよう に」ということばが、今も響いてくるのが聞こえるような気がします。マリアの 「はい」は寛大な自己放棄を、「この身になりますように」は信頼しきった従順 を意味します。「純粋な神の器」となられたマリアは、御子イエスの救いのわざ に、生涯をかけて絶え間なく協力されました。

大聖年準備の二年目の間、マリアを、「とくに、聖霊の声に従った女性、寡黙 で思いやりのある女性、アブラハムのように神の意志を『希望するすべもなかっ たときに、なおも望みを抱いた』(ローマ4・18)希望の女性として」(教皇ヨ ハネ・パウロ二世使徒的書簡『紀元2000年の到来』48項)観想し、模範と仰ぎま しょう。自分を「主のはしため」と宣言されたマリアは、人々への愛の奉仕にも 献身されました。マリアは、神の支配を無条件に受け入れることが、人を開かれ たものとすることを、模範をもって理解させてくださいます。こうしておとめマ リアは、苦しむ人に心を配り、苦しむ人とともに苦しむ者の象徴となられました 。マリアが、天使のことばを寛大に受け入れた後、急いでエリザベトへの奉仕に 出かけたことは意義深いことです。その後、ガリラヤのカナで花嫁や花婿が窮地 に陥っているとき、彼らを助けるようにとの呼びかけにこたえ、神の愛を雄弁に 示されました。また、十字架のもとで御子の苦しみと死に参与することは、おと めマリアの「仕える心」の最高の表現でした。そのとき、マリアは教会の母とし ての使命を受けられたのです。

 何世紀もの間、多くのキリスト者は、「病む者にとっての健康」と呼ばれる マリアを観想しながら、病者に寄り添うやさしさを学んできました。

5. ロレートの家で思い起こされる受肉の秘義を観想することは、神の救いのわざ に対する信仰を新たに燃え立たせます。神は、キリストにおいて人を罪と死から 解放し、新しい天と新しい地を待ち望むようにと(2ペトロ3・13参照)、人の 心をお開きになりました。苦しみや矛盾、利己主義、暴力などにさいなまれたこ の世界で、信仰者は、「被造物がすベて今日まで、ともにうめき、ともに産みの 苦しみを味わっている」(ローマ8・22)ことを意識して生きており、ことばと 生活をもって、復活されたキリストのあかし人となる責任を引き受けています。

 こういうわけで、わたしは使徒的書簡『紀元2000年の到来』の中で、「しば しばわたしたちの目から隠されてはいるものの、今世紀の終わりに現れている希 望のしるし」(46項)を評価するように、そして、「人間生活にとって有益な科 学的、技術的、医学的な進歩」(同項)に、特別の注意を払うようにと信仰者を 招いています。しかしながら、病気を克服し苦痛の緩和に成功してきているとい っても、人間が中心であることや人間の尊厳が無視され、踏みにじられるような 多くの状況を忘れることはできません。医療が連帯性に基づく奉仕ではなく営利 を目的とされたり、健康上の問題を抱えた家族が放り出されたり、社会の中でも っとも弱い人々が無関心と差別の結果に甘んじなければならなかったりしていま す。

この「世界病者の日」にあたり、わたしは、すべての信仰者と善意の人々とが 協力して、人間社会を「希望の家」に変える努力を新たにするよう教会共同体を 激励します。

6. このような努力をするためには、「教会共同体」が深い交わりを生きていなけ ればなりません。つまり、男も女もすべての人が、みことばに耳を傾けること、 祈ること、秘跡にあずかることを通して「ただ一つの心、ただ一つの魂」となり 、兄弟愛によって連帯し、持ち物をより多く分かち合うときはじめて、「一つの 部分が苦しめばすべての部分がともに苦しむ」(1コリント12・26)という聖パ ウロのコリントの信徒へのことばを実現するのです。

紀元2000年の大聖年を準備するにあたり、教会は、使徒パウロが勧める「交わ り」を具体的に実現するため、いっそう努力するよう招かれています。教区と小 教区、そして教会関係のあらゆる共同体は、次のことに努めてください。
 -福音の光に照らされて、健康と病気の問題に取り組むように。
 -受胎から自然死までのいのちと、人間の尊厳を保護・促進することを奨励 するように。
 -貧しい人や疎外された人たちへの優先課題を具体化し、目に見えるものと するように。
 -とくに新しい社会的疾病の犠牲者や障害を担っている人、慢性疾患に悩ま されている人、死の床にある人、また、政治・社会の乱れにより自分の土地から 追われて不安な状況、あるいは、非人間的な条件の中で生活せざるを得ない人々 を注意深く保護するように。

福音的な「奉仕」を本当によく生きることのできる共同体は、貧しい人や病気 の人のうちに「自分たちの主であり師であるかた」を見ることによって、勇敢に 復活を告げ知らせています。また、「神の国の最終的な到来」に対する新たな希 望を、実際に人々に抱かせるのです。

7. 愛する病者の皆さん。皆さんは、教会共同体の中で特別な場を占めておら れます。皆さんは、今体験しておられる苦しみや、健康を取り戻したいという願 望により、希望の価値に対して特別に敏感でおられます。心も体も健康でありた いという皆さんの熱い望みを、マリアの取り次ぎにゆだねます。その望みを、キ リストのたまものである「希望」という対神徳をもって照らし、高めるようお勧 めします。

 この希望は、苦しみを救いの道、福音宣教の機会、あがないの機会に変える ものであり、苦しみに新しい意味を見いだすために役立つでしょう。事実、「苦 しみが人間と社会そのものにとって、一つの積極的な意味を持ち得るということ です。それはすべての人間が、救いをもたらすキリストの苦しみとその復活の喜 びにあずかるように、また教会を聖化し築く力となるように招かれているからで す」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『信徒の召命と使命』54項。教皇書簡 『サルヴィフィチ・ドローリス苦しみのキリスト教的意 味』23項参照)。皆さ んの苦しみの体験は、キリストの苦しみに結ばれており、聖霊が その中におら れます。この体験こそが、復活の勝利の力を宣言するでしょう。

8. 「聖なる家」について観想するとき、わたしたちは自然とナザレの聖家族 の上に思いを留めます。聖家族は、試練に事欠くことがありませんでした。聖家 族の祝日の賛歌の中で「多くの苦しみを耐え忍んだ家族」と言われているほどで す。とはいえ、この「聖なる家」は、一点の曇りもない最高の喜びで満たされて いました。

 そこでわたしは、この「聖なる家」から、苦しみに傷ついた人々の各家庭へ 、平和と信頼のたまものが届くように願っています。多くの家庭が、病人を抱え ることによって重い負担を担っています。このような家庭が背負っている重荷を 、教会共同体をはじめ、あらゆる共同体がともに担うよう招きます。それと同時 に、苦しんでいる人々を見舞うようにとの主の命令が、だれよりもまずその親族 に向けられていることを思い起こしてください。愛をこめて自分を与える精神、 および信仰と祈りと秘跡に支えられた家族の介護は、病者にとってはかけがえの ないいやしの手立てとなり、またすべての人にとって人間としての貴重な価値、 霊的価値を発見する機会となるでしょう。

9. 以上述べてきたことを踏まえて、専門家であれボランティアであれ、絶え ず病者のそばで彼らの必要にこたえる医療関係者と司牧者に、特別の思いを寄せ たいと思います。決して困難や無理解にひるむことなく、ゆだねられた任務の崇 高な意義を忘れないでください。医療の世界にかかわるということは、単に病気 と闘うだけでなく、何よりも人間の生活の質を向上させるということです。さら に、「神の栄光は生きている人間である」ということを自覚しているキリスト者 は、人間の体を通しても神をたたえます。活力や生命力や美しさといった好まし い面において神をたたえ、また、もろさや衰えといった面においても神をたたえ ます。このようなキリスト者は、自然を超える人間の価値を絶えず告げ知らせて います。このように人間の尊厳は、苦しみや病気や老化があるとしても、何ら損 なわれるものではありません。死に打ち勝たれたキリストへの信仰のおかげで、 主が「万物を支配下におくことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を 、キリストの栄光ある体と同じ形に変えてくださる」(フィリピ3・21参照)と きを、信頼して待っています。

希望をもたない人々と違って(1テサロニケ4・13参照)、信仰者は、苦しみ のときが、新しいいのちのための好機と恵みのとき、復活のときであることを知 っています。信仰者は治療のために貢献すること、病者を受け入れて同伴するこ と、さらに、祈りと秘跡においてキリストのいのちにあずかることによって、こ の確信を表します。病気の人や臨終の人を看護することは、衰えていく「外なる 人」を助けることであり、それによって、「内なる人」が日々新しくなるのです (2コリント4・16参照)。このことは、「復活への歩み」に協力することでは ないでしょうか。主が過越しの秘義を通して人間の歴史に導入してくださった復 活への歩みは、終末のときに、みごとに完成されるでしょう。このことは、わた したちに与えられた希望について説明しているのではないでしょうか(1ペトロ 3・15参照)。ぬぐわれた涙の一つ一つに、すでに終わりのときが告げられてお り、最後の完成した姿をあらかじめ見ることができるのです(黙示録21・4、イ ザヤ25・8参照)。

 これらのことを自覚しているキリスト者の共同体は、すべての善意の人々と ともに働くとき、病者の介護と生活の質の向上に努めており、人間に奉仕すると いう困難な使命を果たしています。そのためには、異なる倫理観をもつさまざま な勢力を尊重しつつも、彼らとしっかりした議論を重ねなければなりません。そ れと同時に、環境に関する法律、健康のために供する資源が公平に分配されるた めの法律、富める民族と貧しい民族の間により大きな連帯を促進するための法律 を定めるよう積極的に貢献しなければなりません(『紀元2000年の到来』46項参 照)。

10. 悲しむ者の慰め手であるマリア、わたしは、医療に携わる人々や病者の看 護に寛大に献身する人々と一緒に、身体的あるいは精神的に苦しんでいる人々を あなたにゆだねます。

 ロレートのおとめであるマリア、わたしたちはあなたに信頼のまなざしを注 ぎます。

 御子イエスの誕生を待っておられたとき、あなたの心をふるわせていたあの 感動的な思いを、わたしたちも自分のうちに抱いて、第三の千年期の夜明けを待 ち望む恵みを、「わたしたちのいのち、慰め、希望」であるあなたに願い求めま す。

 現代の闇のただ中で生きるわたしたちに、主がともにいてくださるという明 るい光を垣間見せてください。わたしたちが悲観的な考え方に陥ることのないよ うに、あなたのご保護を願います。 母であるあなたのやさしさに、病者の涙、 ため息、希望をゆだねます。その傷口に、慰めと希望の香油を注いでください。 イエスの御苦しみに結ばれた彼らの苦しみが、あがないの道具となりますように 。

 あなたの模範によって、わたしたちの存在が神の愛の絶え間ない賛美となる よう導いてください。わたしたちを、他者の必要に開かれた者、苦しむ人の助け に駆け寄る者、孤独な人に同伴する者、人生の多難な営みを終えようとする人に 希望を与える者としてください。

 わたしたちの歩みのあらゆるとき、喜びのときや悲しみのときに、母の愛を もって「あなたの子イエスを示してください。慈しみ、恵みあふれる、喜びのお とめマリア」。アーメン。

1997年6月29日
聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日に
  バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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