1998年「世界宣教の日」教皇メッセージ

1998年「世界宣教の日」教皇メッセージ
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1・8)

1998年「世界宣教の日」教皇メッセージ
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1・8)

1 . 1998年の「世界宣教の日」に際し、聖霊についてふれないわけにはいきません。今年が2000年の大聖年を迎える準備の二年目として聖霊にささげられているからです。確かに聖霊は、初代教会で顕著にみられたように、教会の諸国の民への宣教のすべての分野における主要な働き手なのです(『救い主の使命』21参照)。
統計的な資料をひもといても、人間知性が持つ他のいろいろな方法を使っても、教会や世界における聖霊の働きを理解することはできません。聖霊の働きは信仰の次元に属するものだからです。それは多くの場合、目に見えない神秘的な働きですが、つねに力を発揮しています。聖霊は初代教会のころの力を今も何ら失ってはいません。イエスや使徒たちの時代と同じように今日も働いています。使徒言行録に記されているような聖霊の驚くべきわざは今も起こり続けていますが、多くの現代人は、まるで神が存在しないかのように現実を説明しようとする世俗化された文化の中で暮らしているので、その働きをしばしば見過ごしてしまうのです。

「世界宣教の日」は、聖霊の驚くべきわざにわたしたちの目を向けさせるきっかけとなります。そしてわたしたちの信仰は強められ、教会には聖霊の力に助けられて熱心な宣教者が再び生まれてくるでしょう。大聖年の第一の目的は、キリスト者としての信仰とあかしを強めることにあるのです。

2. 聖霊は信じる者の心の中で、また歴史の出来事を通して働き続けているので、わたしたちは楽観的に希望をもって生きることができます。この機会にぜひ考えていただきたいことがあります。それは、逆説的に聞こえるかもしれませんが、現代世界にはびこっている危機的な状況が聖霊の働きの第一の重要なしるしでもあるということです。複雑な現象の、否定的としか思えない要素が、結果として生命の与え主である聖霊に対する心からの願いを呼び起こし、人間の心の中におられる救い主キリストの福音へのあこがれを明らかにしています。

この点については、第二バチカン公会議の『現代世界憲章』(4~10項)の的確な判断を再確認したいと思います。そこで述べられている新しい時代の危機は、この数十年間で深刻さを増してきました。理想や価値観の欠如はますます広がり、真理に対する感覚は失われ、道徳的な相対主義が増大し、確かな判断基準をもたない個人主義的・功利主義的な倫理観がはびこっています。現代人が神を拒絶するとき、人間らしさを失い、恐れと緊張に満ち、自己を閉ざし、不満を抱き、自己中心的に生きていく ということが、多くの面でありありとうかがえます。

結果ははっきりと表れています。至るところで批判されているとはいえ、消費至上主義の仕組みは今も世界を支配しています。物への関心はたとえ正当なものであっても、人間関係を冷たく難しいものにしてしまうほどに人間を夢中にさせる危険があります。人々は心のゆとりを失い、攻撃的になってしまったために、ほほえんだり、あいさつしたり、感謝したり、他の人が抱えている問題に心を開いたりすることが難しくなっています。高度に発達した社会では、問題が経済的・社会的・文化的に複雑に絡み合っているため、精神的な面でも人口統計の上でも「不毛」の状態に陥っているのです。

しかし、人々をしばしば絶望の淵に追い込むこのような状態こそ、「主であり、生命を与えるかた」に祈るよう強く駆り立てるものとなるのです。なぜなら、意味と希望を見いださずには、人は生きることができないからです。

3. 聖霊の現存を示す第二の重要なしるしは、人々の中に宗教的な感覚が再び目覚めてきていることです。この動きは、無神論的なイデオロギーや哲学、また人間の視界を地上の事物に限定する物質主義の仕組みが理論的にも実際的にも満足できないものであるということをはっきりと証明しています。人間は人間のみによっては満たされません。たとえ自然や宇宙を支配したとしても満たされません。もっとも進歩した科学や技術も人を満足させることはできません。それらは現実の持つ究極的な意味を明らかにできないからです。それらは道具にすぎず、人生や人類が歩む道の目的ではないのです。

このような宗教性の目覚めに合わせて、「イエスがご自分の生活において受肉させた福音の諸価値(平和、正義、兄弟愛、差し迫った生活に困っている人への配慮)が人々に受け入れられたこと」(『救い主の使命』3)を心に留めることが大切です。過去二百年の歴史を振り返ってみると、人々が一人ひとりの人間の価値や男女の権利にどれほど注意を向けるようになってきたかがわかります。全世界が平和を望み、未開の地や人種的な差別がなくなるように願っています。民族と民族、文化と文化の間の出会い、互いの違いの受容、連帯や奉仕活動への参加、独裁政治の拒否、民主主義の強化、経済的分野におけるよりバランスの取れた国際的な公正さへの願いが高まっ ています。

これらすべてのことの中に神の摂理が働いています。すべての人がよりよく生きることができるように人類と歴史を導いているのです。ですから悲観することはありません。逆に、神への信仰はわたしたちを福音のメッセージからあふれ出てくる楽観主義へと駆り立てます。「今日の世界を眺めると、悲観主義に導くような多くの否定的要素にぶつかります。しかし、その感情は正しくありません。わたしたちは神を信じています。……神はキリスト教のためにすばらしい春を準備しておられます。そしてその最初のしるしはすでに見えています」(『救い主の使命』86)。

4. 聖霊は教会の中に現存し、諸国の民への宣教に向けて教会を導いています。宣教の主要な働き手はわたしたちではなく聖霊ご自身です。そのことはわたしたちを慰め、平和、喜び、希望、勇気で満たします。宣教者にとって結果は重要ではありません。それは神にゆだねるべきものです。宣教者は力の限り働かなければなりませんが、深みにおいては神の働きにまかせなければなりません。そのうえ聖霊は、教会の宣教の今後の可能性を世界の果てにまで広げているのです。わたしたちは毎年迎える「世界宣教の日」にこのことを思い起こします。この日は、福音宣教の範囲を限定することではなく、それが人類全体に向けられていなければならないことを訴えているのです。

キリストの十字架から生まれた教会において今日もなお迫害や殉教があるということは、宣教への希望の力強いしるしとなっています。イエスの名のために命をささげる宣教者や信徒が連綿として続いています。迫害が新しいキリスト者を誕生させ、キリストとその福音に向けられる苦しみが神の国を広めるために欠かすことができないということも、近年の歴史から明らかです。目立たない日常の奉仕のうちに、宣教の ため、また一人ひとりの宣教者のために祈りと苦しみをささげる数多くの人々への感 謝も忘れることはできません。

5.  さらに、若い諸教会の中には「力強さ」という聖霊の現存のもう一つのしるしが表れています。これらの若いキリスト教共同体は熱心な信仰を持ち、特に若い世代が確信をもって信仰を広めています。わたしたちの目の前に繰り広げられているこのような光景に慰めを感じます。新しい改宗者たち、そして求道者たちさえも聖霊の息吹から力を受け、熱心な信仰をもち、自分たちが置かれた状況の中で宣教者となっています。

彼らの司牧的な活動も広がりを見せています。たとえばラテンアメリカでは、「諸国の民への宣教」という原理と実践が、プエブラ(1979年)とサントドミンゴ(1992年)で近年開かれたラテンアメリカ司教会議(CELAM)の後に全面的に適用されてきています。ラテンアメリカ宣教会議も5回開かれ、司教たちは、依然として使徒的な人材が不足しているにもかかわらず、とくにアフリカで宣教活動に従事する数千人の司祭、修道女、信徒のボランティアを確信をもって送り出しているのです。

 この大陸では、他の国へ宣教者を派遣することは宣教の実践の特徴的な形であり、それは教会間の助け合いを促進し、さらには外国宣教への可能性を育てています。 今年の春ローマで開かれたアジア特別シノドスでは、教区司祭によるさまざまな宣教会を創設したアジアの諸教会の宣教精神が特に注目されました。それは、インド、フィリピン、韓国、タイ、ベトナム、日本などの国々です。アジア出身の司祭や修道女が、アフリカ、オセアニア、中東諸国、そしてラテンアメリカで働いています。

6. 世界の至るところに見られる使徒としての意識の盛り上がりは、カリスマの多様性における聖霊の自己表現にほかなりません。カリスマは普遍教会を豊かにし、育てています。使徒パウロは、コリントの信徒への第一の手紙の中で、教会の広がりを助けるために分配されたカリスマ(霊的な賜物)について詳しく述べています(12~14章)。わたしたちは「聖霊の時」を生きており、いろいろな表現や、方法や形の多様性をもっと認めていかなくてはなりません。それらは教会の豊かさと活力を表すものです。したがって、若い教会共同体では宣教が重要です。そこでは聖霊の働きに応じて生活を有益な形で刷新することがすでに静かに進められてきています。第三の千年期は、世界宣教のための新たな呼びかけの時であり、同時にそれぞれの地方教会における福音のインカルチュレーションの時であることは疑いありません。

7. わたしは回勅『救い主の使命』で次のように述べました。「教会の歴史において、宣教にかかわる大きな動きがいつも活力のしるしであったように、宣教活動の減少は信仰の危機のしるしです。……宣教活動は教会を刷新し、キリスト者の信仰と自覚とを活性化し、新鮮な意気込みと新しい刺激を与えます」(2項)。

そのため、わたしは、あらゆる悲観的な考えに対して、聖霊の働きを信じるようにと、もう一度宣言します。聖霊は信じる者を聖性へと招き、宣教に献身するよう呼びかけています。わたしたちは、現在列聖調査中の若い女性信徒ポーリン・ジャリコが1822年にリヨンで始めた信仰弘布会の創立 175周年を祝ったところです。優れた直観によって始められたこの活動は、教会のいくつかの基本的な価値を著しく発展させ、今では教皇庁宣教援助事業となって広められています。そのような宣教の価値は、信仰の活力を教会の中で回復させることができるもので、それを他の人々に伝えるとき深まっていきます。信仰は他の人に伝えられるとき強められるのです(『救い主の使命』2参照)。宣教への献身が普遍的に広がることに価値があります。人は皆例外なく教会の宣教活動に惜しみなく協力するよう呼びかけられているからです。祈ることや苦しみをささげること、そしてもっとも根本的要素である生活によるあかしは、神の子どもであればだれにでもできることです。

最後に、生涯をささげる宣教者の召命の価値について考えたいと思います。教会がその本性から宣教するものであるとすれば、宣教に生涯たずさわる男女はその典型だといえます。そのため、教会で働くすべての人、とくに若い人々に、この機会を利用して今一度わたしの考えを述べようと思います。わたしは『救い主の使命』の中で、「使命はまだ始まったばかりである」(1項)と強調しました。ですからわたしたちは、今日も呼びかけておられるキリストの声に耳を傾けなければなりません。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4・19参照)。恐れることはありません。あなたの心の扉を開き、キリストに向かって生きてください。神の国を告げ知らせる使命にあなた自身をゆだねてください。主ご自身が「遣わされた」かたで(ルカ4・43参照)、主は同じ使命をあらゆる時代の弟子たちに与えたからです。この上なく寛大なかたである神は、百倍の報いを与え、永遠の命を受け継がせてくださるでしょう(マタイ19・29参照)。

「諸国の民」のために働く人、またどのような職業についても自分の置かれた場において福音を告げ知らせることに協力するすべての人を、宣教精神の模範、宣教にたずさわる教会の母マリアにゆだねながら、使徒としての祝福を心をこめて送ります。

1998年5月31日
 聖霊降臨の祭日
 バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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