1999年「世界平和の日」教皇メッセージ

1999年「世界平和の日」メッセージ
(1999年1月1日)
「人権の尊重こそ平和実現のかぎ」

1999年「世界平和の日」メッセージ
(1999年1月1日)

「人権の尊重こそ平和実現のかぎ」

1. 20年前、わたしは最初の回勅『人間のあがない主』をすべての善意の人々にあてて書いたとき、人権を尊重することの大切さを強調しました。人権尊重の実りは平和ですが、人権侵害の結末は戦争であり、戦争はさらに深刻な人権侵害を引き起こすからです 1)。

 大聖年の直前の年の初めに、わたしは世界中の皆さん、とくに各国の政治家や宗教界の指導者のかたがた、そして平和を愛し、世界平和の実現を願っているすべての人たちとともに、もう一度このきわめて重要なテーマに取り組みたいと思います。

 「世界平和の日」にあたって、わたしは自らの確信をまず明らかにします。人間の尊厳をいつも中心におき、共通善の探究を最優先にして物事を進めるとき、平和を築いていくための強固で永続的な基盤が据えられますが、人権を無視したり軽んじたりするとき、また共通善ではなく個人的利益の追及を第一にしてしまうとき、不安定、反乱、暴力の種が必ずまかれることになるのです。

人間の尊厳の尊重
2. 人間の尊厳には超越的な価値があります。このことは、誠実に真理を探究する人ならだれでも認めるところですが、実に、人間の歴史全体もこの確かなことに基づいて理解されるべきなのです。神の似姿として創造された(創世記1・26-28参照)人間一人ひとりは、根本的に創造主に向かう存在として、つねにこの同じ尊厳をもつ者どうしの関係の中に置かれています。こうして、個人の善を促進することは、個々の権利や義務が互いに矛盾することなく補い合う共通善に奉仕することになるのです。

 現代世界は、このような人間の真理をないがしろにしたために起きてしまった悲劇を見せる劇場のようです。マルクス主義、ナチズム、ファシズムといったイデオロギーや、人種的優越性、国家主義、民族的排外主義のような神話がもたらした結果がわたしたちの目の前にあります。必ずしも明確にはなっていませんが、物質偏重の消費主義も負けず劣らず有害です。そこでは、個人の楽しみや利己的な欲望を満足させることが人生の究極目標になっており、他者への悪影響など取るに足らないことなのです。しかし、人間の尊厳に対する侮辱は、その原因が何であっても、どのような形をしていようと、またどこで生じようとも、決して許すことはできません。

人権の普遍性と個別性
3. 世界人権宣言の採択から1998年で50年たちました。同じ理想を共有する国連憲章と深いつながりをもつこの人権宣言は、その根本的前提として、人類社会の全構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない諸権利とを認めることが、世界における自由、正義、平和の基礎であると断言しています2)。人権に関するその後の国際的な文書は必ずこの真理を宣言して、人権が人間固有の尊厳と価値に根ざしていることを再確認しています3)。

 世界人権宣言は文字通り人権を宣言したのであって、人権を人間に与えたわけではありません。人権は生まれながらにして人間の人格と尊厳に備わっているのです。その人権を奪うことは、人間固有の性質を踏みにじることになるので、相手がだれであっても決して許されません。すべての人間は一人の例外もなくその尊厳において平等であり、したがって人権は、人生のどの段階においても、また、政治、社会、経済、文化がいかなる状況にあっても、かけがえのないものです。人間の尊厳と人権の問題を別々にではなく切り離せない一つのものとして尊重していくとき、個人と社会双方の善は間違いなく促進されていくでしょう。

 人権は伝統的に市民的・政治的権利と経済的・社会的・文化的権利とに分けられます。そして程度の差こそあれ、どれも国際的な取り決めによって保障されています。それらの権利はまた互いに緊密に結ばれており、人格という一つの主体の種々の側面を表しています。したがって、それらの権利を統合的に促進していかなければ、一つひとつの権利も十分な保障を得られないのです。

 人権の普遍性と個別性を擁護することなしに、平和な社会の建設も国民一人ひとりと国家の全体的な発展もありません。人権の普遍性と個別性を認めることは、個人の人権の実現にあたって、世界人権宣言が人類全体のために規定している基準を尊重して個々の事例に対処している限り、正当な文化的、政治的違いを排除することにはならないのです。
 これらの基本的な前提をはっきりと念頭に置いた上で、とくに今日、危険にさらされている人権が何であるかを明らかにしたいと思います。

いのちの権利
4. まず第一にあげなければならないのは、いのちの基本的な権利です。人間のいのちは、受胎から寿命をまっとうするまで、聖なるものであり、侵してはなりません。「汝、殺すなかれ」は、絶対に越えてはならない限界について述べた神の戒めです。「人からいのちを奪い取るために慎重に下される決断は、つねに道徳的に悪です」4)。

 いのちの権利は侵すことができません。それは、いのちを選びとるという積極的な選択を含んでいます。このようないのちの文化の発展は、いのちのあらゆる状況において人間の尊厳を確実に促進します。まことのいのちの文化は、胎児がこの世に生まれてくる権利を保障するとともに、新生児、とりわけ女児を幼児殺しの犯罪から守ります。いのちの文化はまた、障害のある人が能力を十二分に発達させることができるよう保障し、病人と高齢者への適切な看護を確実にします。

 遺伝子工学の分野における最近の進歩は、非常に気がかりな問題を提示しています。この分野の科学的研究が人間に奉仕するようになるためには、人間のいのちの保全を保護する適切な法的規範がもたらされるように、すべての段階で注意深く倫理的な考察を加えるべきです。いのちを物質のレベルにまでおとしめることは絶対にできないのです。

 いのちを選びとるということは、これほどまでに大勢の人間を苦しめている貧困と飢えという暴力、武力紛争という暴力、麻薬と武器の密輸という暴力、自然環境の無分別な破壊という暴力など、あらゆる形態の暴力を否定することです5)。いのちの権利と個々の人間の尊厳に対する侵害はきわめて重大ですから、どのような状況においても、いのちの権利を促進し、適切な法的、政治的保障によって保護しなければなりません。

宗教の自由は人権の核心
5. 宗教は、人間の最も奥深くにある希望を表現し、人々の世界像を形づくり、人間どうしの関係に影響を及ぼします。宗教は元来、個人的にも社会的にも人生の真の意味について答えるものです。したがって、宗教の自由は、人間の諸権利のまさに核心をなしています。個人の良心が命じるなら、改宗する権利さえあることを認めなければならないほど、一人ひとりの人間にとってそれは侵すことのできないものです。人々はあらゆる状況において良心に従わなければならず、自分の良心に反して行動するよう強制されてはなりません6)。まさしくこの理由のため、どのような状況や動機であっても、特定の宗教を強制することはだれにもできないのです。

 世界人権宣言は、宗教の自由の権利が、私的であれ公的であれ、個別的であれ他の人と一緒であれ、個人の信仰を表明する権利を含むことを認めています7)。それにもかかわらず、今日、礼拝のために集まる自由が特定の宗教にしか認められていない所が依然として存在します。この基本的人権に対する重大な侵害は、他の宗教の信徒たちに多大な苦しみをもたらしています。国家がある宗教に特別な地位を与えるとき、他の宗教が犠牲になるようなことがあってはなりません。しかし、宗教的信念のために個人や家族、また種々のグループ全体が差別され、疎外されている国々が今も確かにあるのです。

 宗教の自由に関係のあるもう一つの問題を見過ごすことができません。共同体の間、あるいは異なる宗教的確信や文化をもっている人々の間の緊張が高まるとき、熱情が爆発して暴力的な紛争に発展することがあります。宗教的信念という名目で暴力を行使することは、主要な諸宗教のいずれにとっても、教えの悪用にほかなりません。ここでわたしは、多くの宗教家が繰り返し述べてきたことを再確認します。暴力の行使は、宗教的に正当化することができませんし、真の宗教的感覚を成長させることもないのです。

参加する権利
6. 人はだれでも、属している社会の活動に参加する権利があります。このことは今日広く認められていますが、ときどき、この権利の意味がまったくなくなってしまうほど、腐敗やえこひいきのために民主主義的なやり方が崩壊してしまっていることがあります。正当な権利行使のための参加が妨げられるだけでなく、当然の権利である社会の資産やサービスの恩恵を受けることさえできないのです。選挙でさえ、特定の政党や個人の勝利を確保するため、巧妙に操作されることがあります。市民には参加する権利ばかりでなく参加する責任もありますから、これは民主主義への公然とした侮辱です。市民がこの責任の行使を阻まれるとき、有効な役割を果たす希望を失って消極的になり、無関心へと陥っていくのです。健全な民主主義体制の発展はこうして事実上不可能になります。

 近年、全体主義的な政体から民主主義的な政体に移行するために戦っている国々の選挙では、公正な選挙を確保するためにさまざまな措置が講じられました。しかし、これらの措置がどれほど有効かつ有益であっても、それはあくまでも非常事態のためのものです。市民レベルで確信の根拠を共有できるようになるための努力を続けていかなければなりません。その努力が実ったときには、民主主義的なプロセスを巧妙に操作するようなことはきっぱりと拒否されるはずです。

 国際社会の中で、それぞれの国家と国民は、自分たちの生活の仕方を大きく変えてしまう可能性のあるような決定に加わる権利があります。経済問題はときどき専門的になりすぎて、限られた輪の中でだけ議論が行われる傾向があります。その結果、政治や経済の実権が、いくつかの国の政府と特定の利益集団に集中する危険が生じています。国家の共通善と国際的な共通善の追及は、人々に影響を及ぼす決定にはすべての人が参与するという権利の実現を、経済の分野においても要求するのです。

極めて深刻な差別の形態
7. もっとも悲劇的な差別の形態の一つは、民族、特に少数民族の存在すること自体の基本的権利を否定することです。弾圧や残酷な強制移住、また、はっきり見分けがつかなくなるまで民族としての独自性を弱めてしまうような試みが行われています。人間性に対するこの重大な犯罪を黙認してはなりません。人間の尊厳を踏みにじるこのような虐待を終わらせるためには、どんな努力も惜しんではならないのです。

 このような犯罪の犠牲者を保護する責任を認め、その阻止に全力を尽くそうとする国々の意欲が高まってきています。その一つのしるしとして、最近行われた国連外交会議が見せた積極的な動きをあげることができるでしょう。この会議はとくに国際刑事裁判所の規程を承認しました。この裁判所は、人間性に対する犯罪、民族抹殺、戦争、侵略といった犯罪について有罪かどうかを審理し、責任者を処罰する役割を負うことになります。この新しい組織は、しっかりとした法的基盤を得れば、人権保護の世界的基準の確立に向けて徐々に貢献していくことができるかもしれません。

自己実現の権利
8. すべての人は、発揮することのできる能力を生まれながらにもっています。ところが一方では、自分自身を十分に発揮することや、属している社会の環境に適応していくことが難しくなっています。こうしたことを乗り越えていくためには、何よりもまず若い時に十分な教育を受ける必要があります。若者の将来は教育にかかっているのです。

 この視点に立つとき、世界のもっとも貧しい地域で、教育の機会がとくに初等教育の領域で減少しつつあるという事実を憂慮せずにはいられません。経済事情が悪いために十分な給料を教師に支払うことができない国がある一方で、名門校や中等教育のためのお金はあっても初等教育のための予算はないという国があります。教育の機会、とくに若い女性の教育の機会が限られるとき、社会全体の発展を妨げる差別的な構造が確実に生じます。新しい基準で世界を二つに分けることができるかもしれません。一方に先端技術を有する国々と人々が存在し、他方に非常に限られた知識や能力しかもたない国々と人々が存在しているのです。結果は目に見えています。国と国との間はいうまでもなく、一つの国の中に存在している重大な経済格差もさらに広がるのです。発展途上国では、経済的により恵まれた都市や農村の改革計画のときと同じように、教育と職業訓練が第一の関心事であるべきでしょう。

 人並みの生活水準を獲得できるかどうかを左右するもう一つの基本的権利は、労働の権利です。働かないで、人々はどのようにして食糧、衣服、住居、健康管理、その他の生活に必要な多くのものを手に入れることができるでしょうか。しかしながら、仕事の不足は今日の深刻な問題です。世界の多くの地域では、数えきれないほどの人々が失業という厳しい現実に直面しています。この困難な状況を打開するためには、すべての人、とりわけ政治的、経済的な力を掌握している人々が、今すぐできるかぎりのことを実践に移さなければなりません。失業、病気、その他不可抗力による生活不能の場合には8)、必要に応じて緊急に介入するだけではなく、貧しい人々の自立を促進し、悪質な援助組織と手を切ることができるように助けていかなければならないのです。

世界的な連帯の進歩
9. 経済・金融システムが急速に国際化していく中で、世界規模の共通善や経済的、社会的権利の実現に関する責任の所在を早急に確立する必要性が浮き彫りになってきました。自由市場それ自体が責任を担うことは不可能です。市場は、人間にとって必要な多くのことを扱う場をもっていないからです。「財の公正な交換の論理と、それにふさわしい種々の正義とに先立つものとして、人間の崇高な尊厳に由来する、人間であるがゆえに義務づけられる何かが存在します」9)。

 昨今の経済・金融危機のため、数えきれないほどの人々が深刻な影響を受け、極度の貧困に突き落とされました。彼らの多くは、ようやく将来を楽観的に見ることができるような境遇に到達したばかりでした。自分自身の失敗でもないのに、彼らの希望は無残に打ち砕かれ、彼ら自身とその子供たちは悲劇的な状況に陥ってしまったのです。また、わたしたちは金融市場の変動の影響も無視することができません。すべての人が潜在能力を発揮することができ、社会全体が持続的に成長していくことも含まれる、世界的な連帯の進歩の新しいビジョンが今すぐぜひとも必要なのです。

 こうした状況の中で、世界的規模の金融に関して責任を負う皆さんに強く訴えたいと思います。もっとも貧しい国々の対外債務という恐るべき問題の解決を見いだすために力のかぎりの努力をしてください。国際金融機関は、この点で賞賛に値する具体的な措置を講じ始めました。わたしはこの問題にかかわるすべての人、とくに豊かな国々の皆さんに対して、この動きが成功するために必要な助けを惜しまないよう呼びかけます。2000年を前にして、可能な限り多くの国々をこの耐え難い状況から救出するために、今すぐ精いっぱいの努力を始めましょう。関係する諸機関の間の対話が、何とかして合意に達したいという真摯な望みによって促進されるなら、決定的な解決を得ることが可能であるとわたしは確信しています。こうして、重大な困難に直面している国々にとって永続的な発展の可能性がもたらされ、わたしたちの目前にある次の千年期は、これらの国々にとっても希望を新たにする時となるはずです。

環境に対する責任
10. 人間の尊厳の促進は、健康的な環境に対する権利と結びついています。この権利は、個人と社会との間にある緊張関係を際立たせます。環境に関する世界的、広域的、国内的諸基準が徐々に法律的な形を整えつつあります。しかし、法律的な措置だけでは十分ではありません。大地と海、気候、動植物に深刻な損害を与える危険がある、現代文明の典型的な消費者の生活様式を、とくに豊かな国々において根本的に変えることが求められているのです。また、これほど強烈なものでないにせよ、もう一つの危険を軽く見てはなりません。貧しい農村地帯で暮らす人々は、自由にできるわずかな土地を限界以上に利用する必要に迫られることがあります。彼らに対しては、土地の耕作と環境の尊重とをどのように調和させるかという、特別な訓練を奨励する必要があります。

 世界の現在と未来は、被造物を大切にするかどうかにかかっています。人間と環境との間には限りない相互依存関係があるのです。環境に対する関心の中心に人間の幸福を置くことが、実際には、被造物を大切にしていくもっとも確実な道となります。天然資源とその有効利用についての一人ひとりの責任が自覚されていくからです。

平和への権利
11. 平和への権利を促進することは、共通善を目的として、力の構造を協力の構造に変えていく社会の建設を奨励することなので、ある意味で、他の諸権利が尊重されることを約束するものです。近年の歴史は、政治や社会の問題を解決する手段として暴力を頼みとしてはならないことをはっきりと示しています。戦争は破壊するものであって、築き上げるものではありません。戦争は社会の道徳的基盤を弱め、さらなる分裂と絶えざる緊張を生み出します。しかし今もなお、戦争や武力紛争、そして数限りない犠牲者についてのニュースが途絶えることはありません。わたしの先任者たちもわたし自身も、どれほど頻繁にこうした惨事を終わりにするよう訴えてきたことでしょう。わたしは、戦争があらゆる真のヒューマニズムの欠如であることを理解してもらえるまで訴え続けます10)。

 平和の確立に向けて着々と体制づくりが進んでいる地域があります。不可能としか思えないような状況の中で決してあきらめずに交渉を続けている、勇気あるすばらしい政治指導者もいます。しかし、住民全体を住み慣れた土地から追い出したり、家や作物を根こそぎ破壊したり、さらには皆殺し事件まで他の地域で起きていることを断じて認めるわけにはいきません。おびただしい犠牲者を心に留めながら、わたしは諸国の指導者とすべての善意の人々に対して、とくにアフリカの、時として外国の経済的権益のためにいっそう激化しているこうした残酷な抗争の犠牲者に援助の手を差し伸べ、これらの抗争を終わらせるために支援するよう要請します。この点をめぐる具体的な一つの措置は、交戦中の国々に武器を売りつけることをやめ、対話の道を探っている民衆の指導者を支持することです。これこそ人間のとるべきふさわしい道であり、まさに平和への道です。

 実に悲しいことですが、戦争の続くなか、闘争と暴力に明け暮れて成長していく人々がいます。死なないですんだとしても、その悲惨な経験の傷は一生いやされることがないでしょう。そしてさらに、戦うことを強制されている子供たちがいます。人生が始まったばかりだというのに、このままでは破滅への道を突き進んでしまいます。人を殺す訓練を受け、しばしばそうすることを強制されているこの子供たちが将来市民社会の一員となるときには、困難な問題が必ず生じることでしょう。彼らの教育は中断され、就職の機会からも締め出されています。この子供たちはひどい重荷を背負わされて、未来に立ち向かっていくしかありません。子供たちには平和が必要であり、また、その権利もあるのです。

 地雷などの犠牲になった子供たちのことについても触れないわけにはいきません。地雷を除去するために多大な努力が払われているにもかかわらず、その一方で、信じられないような非人間的なことが起こっています。このような油断のならない兵器の廃絶をはっきりと表明している国々や人々の意思を無視して、地雷がいったん除去された場所にまで再び仕掛けられているのです。

 小型兵器や軽便な武器が規制なしに大量に拡散することによって、戦争の種がまかれています。これらの武器は紛争の起こる地域から地域へと次々に巡って、暴力の原因となっているのです。各国政府はこうした「死の道具」の製造、販売、輸出入を規制する適切な措置を講じるべきです。そうしないかぎり、大規模な武器密輸という問題の解決の糸口をつかむことはできないでしょう。

人権の文化はすべての人の責任
12. この問題をここで詳細に論じることはできませんが、自分たち自身が全力を傾けないかぎり、いかなる人権も決して守ることができないということだけは強調しておきたいと思います。何らかの基本的人権が侵害されたとき、何の対応もせずに受け流すなら、他のすべての人権が危機に陥ります。ですから、人権問題については世界的な取り組みを行い、人権擁護のために真剣に責任をもってかかわらなくてはなりません。そして、異なる伝統を尊重する人権の文化が人類の道徳的財産の絶対不可欠な要素になるときにこそ、わたしたちは落ち着いた確信を抱いて将来に目を向けることができるようになるでしょう。

 すべての人権が十分に尊重されていれば、戦争は起きるはずがありません。人権を完全に守ることこそ、国家間の信頼に満ちた関係を築くもっとも確実な道です。人権の侵害は必ず戦いの火種となります。わたしの敬愛する先任者、神のしもべ教皇ピオ十二世は、第二次世界大戦が終わったすぐあと、次のように問いかけました。「一つの民族が圧殺されるようなことが起きているとき、いったいだれが世界の平和を約束することができるでしょうか」11)。

 良心にかかわる人権の文化を促進するためには、社会全体の協力が必要です。とくにマスメディアの役割について言及しておきます。マスメディアは、世論が形成される際に重要な役割を果たし、またその結果、人々の行動にも大きな影響を与えるからです。暴力礼賛的な報道が引き起こす人権侵害に関しては、マスメディアの責任を問わなければなりませんが、相互理解と平和の促進に熱心なマスメディアのおかげで高まっている対話と連帯の気運については、マスメディアを賞賛すべきです。

決断のとき、希望のとき
13. 新しい千年期が近づいており、多くの人々の心はその到来を機に、より公正で、友愛に満ちた世界への希望を抱いています。これは現実となりえる、そして実際、現実となるべき熱い希望です。

 こうした背景の中で、わたしは、世界のあらゆる地域で福音を自らの生活の規範としている、キリストにおける親愛なる兄弟姉妹の皆さんに呼びかけたいと思います。人間の尊厳の先がけとなってください。信仰はわたしたちに、すべての人が神の似姿として創造されたことを教えています。たとえ人間がそれを否定しても、天の父の愛は確固として変わることがありません。天の父の愛には限りがないのです。御父はすべての人のあがないのために御子イエスを遣わされ、すべての人の尊厳を完全に回復してくださいました12)。このことを胸に刻むとき、どうしてわたしたちの心からだれかを締め出すことができるでしょうか。むしろ、わたしたちはもっとも貧しい人々、もっとも疎外された人々の中におられるキリストを見分けなければなりません。わたしたちのために渡されたキリストのからだにおける交わりである聖体は、わたしたちに貧しい人に仕えるよう求めています13)。名前の分からない金持ちとラザロという名をもつ貧しい人のたとえ話は、「鈍感な金持ちと何も持たない貧しい人との明確な対照の中で、神は後者の側を選ば れた」14)ことをはっきりと示しています。わたしたちもまた同じ側に立たなければなりません。

 3年にわたる大聖年準備期間の最後の年は、御父の家への霊的巡礼の年です。すべての人は、悪を退け、積極的に善を選びとる回心の道を歩むよう招かれています。2000年の始まりにあたって、貧しい人々、疎外された人々の尊厳を保護する誓いを更新し、権利なき人々の権利を具体的な方法で認めることはわたしたちの義務です。キリストが弟子たちに託された使命を精いっぱい生き、彼らのために声を上げようではありませんか。これこそ今や目前に迫っている大聖年の精神です15)。

 イエスはわたしたちに神を「お父さん(アッバ)」と呼ぶように教え、御父とわたしたちの関係の深さを明らかにしてくださいました。わたしたち一人ひとりと全人類に対する御父の愛は無限であり永遠です。このことについてイザヤの預言は神のことばを生き生きと伝えています。

   「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
   母親が自分の産んだ子をあわれまないであろうか。
   たとえ、女たちが忘れようとも
   わたしがあなたを忘れることは決してない。
   見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ49・15-16)。

 この愛を分かち合いなさいという招きにこたえましょう。その招きのうちにこそ、すべての人の権利を尊重していくかぎがあります。こうして、新しい千年期の夜明けには、わたしたちがともに平和の建設にあたる準備がいっそう整えられることになるのです。

 1998年12月8日 バチカンにて
 教皇ヨハネ・パウロ二世

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