1999年「世界広報の日」教皇メッセージ

1999年「世界広報の日」教皇メッセージ 「御父を示す身近な友・マスメディア 」 愛する兄弟姉妹の皆さん 1. 肉となられた神のことば、イエス・キリストの降誕から二千年にあたり、キリスト教にとっての第三千年期への扉が開か […]

1999年「世界広報の日」教皇メッセージ
「御父を示す身近な友・マスメディア 」

愛する兄弟姉妹の皆さん
99sc
1. 肉となられた神のことば、イエス・キリストの降誕から二千年にあたり、キリスト教にとっての第三千年期への扉が開かれる大聖年が近づいています。その最後の準備の年である今年、教会は父である神に向かい、その無限のいつくしみの秘義を黙想します。神であるこの方からすべてのいのちが生まれ、この方に帰っていきます。この方こそが、わたしたちの誕生から死までの旅路に、友として、そして仲間として、付き添ってくださる方なのです。

 わたしは、ことしの世界広報の日のテーマとして、「御父を示す身近な友・マスメディア」を選びました。このテーマは、二つの問いを投げかけます。メディアは、どのようにして神に逆らうことなく、神とともに働くことができるでしょうか?そしてメディアは、どのようにして、人生の中で愛のうちにともにいてくださる神を探し求める人の親しい友となれるのでしょうか?またこのテーマは、メディアが時に、神を探し求める人が、理性の領域にある自然に関する書物と信仰の領域にある啓示の書、聖書に、新たな読み方で触れることを可能にしてくれることを事実として認め、感謝していることも示しています。そして最後に、このテーマは、世界で広報に携わる人たちを、まさに人生の本質と言えるその意味の探求を妨げるのではなく、助けることに、いつもいっそう深くかかわるよう招き、それを希望していることも意味しているのです。

2. 人間として生きることは探求に身を投じることを意味します。そして、わたしが最近の回勅『信仰と理性』(Fides et Ratio)で強調したように、人間によるすべての探求の営みは、結局のところ、神を探し求めることなのです。「信仰と理性は人間の霊が、真理の黙想に向かって上っていくときの二つの翼のようなものです。そして神は人間の心のうちに真理を知る望みを与えてくださいました。それは人が、神を知り、愛することで自らについての真理を知り、神によって自らを知るためなのです」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『信仰と理性』1)。大聖年は、すべての人の探求の目標である神を祝い、すべての人が望む限りないいつくしみを祝う時となります。しかし、人々はたびたび、聖アウグスチヌスの言葉を借りれば、誤った場所で正しいものを探そうとする(『告白』10,38 参照)罪に道を阻まれてしまうことがあります。わたしたちは、見いだせないところで神を探そうとするとき罪を犯してしまいます。

 ですから、「神を探し求める人」のことについて語ることで、ことしの世界広報の日のテーマは、すべての人について語っているのです。すべての人が探し求めていますが、すべての人が正しいところで探しているわけではありません。このテーマは、現代文化に対するメディアの非常な影響力を認め、だからこそ、人生の真理について、人間の尊厳について、わたしたちの自由と相互依存の真の意味について、あかしするメディアの特別な責任をも認めているのです。

3. 教会は人間の探求の旅路にあって、メディアとの友好な関係を望んでおり、どんな形の協力も、すべての人の幸福のためになることを知っています。協力はまた、わたしたちが、互いをよく知り合うようになることも意味しています。時に、教会とメディアの関係は、互いの誤解により恐れや不信感を生み出してしまうほどに傷つけられてしまうことがあります。教会の文化とメディアの文化に違いがあることは確かで、事実、全く対立する場合もあります。しかし、違いが友情や対話を不可能にする理由などはありません。多くの深い友好関係で、まさに違いこそが、創造性や橋渡しを可能にしているのです。

 教会の記憶の文化は、メディアの移ろいやすい「ニュース」の文化が、希望をむしばんでしまう忘却に陥ってしまうことから救うことができます。そしてメディアの助けによって、教会は、人々の日々の生活の現実に則して、いつも新しい方法で福音を宣べ伝えることができるのです。教会の知恵の文化は、メディアの情報文化が、意味のない事実の累積になってしまうことを防ぎ、メディアは、教会の知恵が、いままさに現れている一連の新しい知識に、気づいていられるよう助けてくれるのです。教会の喜びの文化は、メディアの娯楽文化が、魂のこもらない、真理と責任からの逃避に走ってしまうことから救うことができ、メディアは教会に、人々に訴え、喜ばせることさえできるように広報する方法をよりよく理解させてくれます。以上のことは、友情の精神と深いレベルでの密接な協力によって、教会とメディアの双方が、人生の意味とその実現を探求する現代の人々に仕える上で、いかに助け合えるかを示すいくつかの例です。

4. 最近の情報技術の爆発的な進歩によって、世界中で、個人とグループ間の意志疎通の可能性がかつてないほどに広がりました。しかし、逆に言えば、このよりよい意志疎通の手段が、自己中心主義と孤立を助長してしまうこともあるのです。ですから、わたしたちは、脅威と望みの時代に生きていると言えます。善意の人であれば、脅威がはびこり、人間の悲しみをさらに増してしまうようなことは望まないでしょうし、とりわけ、抱えきれないほどの悲しみに見舞われたこの世紀、そして千年期の終わりにはなおのことでしょう。

 かえってわたしたちは、新しい千年期に大きな希望を抱こうではありませんか。教会とメディアの双方に、脅威に望みが打ち勝ち、孤立に意志疎通が勝るよう協力する心構えがある人たちがいてくれることを信じながら。このことによって、メディアの世界は、よりいっそう、すべての人の親密な友となり、記憶と結ばれた「ニュース」や知識と結び付いた情報、喜びを伴った娯楽を提供することができるようになるでしょう。

 そしてさらに、教会とメディアが人類の幸福のために、ともに働ける世界が実現することでしょう。以上のようなことが、メディアの力が、破壊する力となってしまわずに、「すべてのものの父であり、…すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのもののうちにおられる」(エフェソ4・6)神の愛を示す愛、創造する愛となるために要求されていることなのです。

 広報の世界で働くすべての人が、神からくる友情の喜びを知り、神による友情を知ることによって、御父の家に向かって旅するすべての人の友となることができますように。そして御父に、誉れと栄光、賛美と感謝が、御子と聖霊とともに、世々限りなくありますように。

1999年1月24日
聖フランシスコ・サレジオ司教教会博士の祝日に
   バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

PAGE TOP