2000年「世界広報の日」教皇メッセージ

「広報の日」は日本では5月28日に行われますが世界では6月4日に行われます

2000年「世界広報の日」教皇メッセージ
「メディアをとおしてキリストを2000」

愛する兄弟姉妹の皆さん、

 第34回「世界広報の日」のテーマ「メディアをとおしてキリストを 2000」は、わたしたちが直面する課題に立ち向かい、またキリスト教そのものの始まりを振り返り、必要な光と勇気を求めるよう招いています。わたしたちが宣べ伝えるメッセージの本質は、いつもキリストご自身なのです。「人間の記録のすべてがイエスの前で繰り広げられていきます。その存在は世界の現在と同様、未来をも明らかにしています」(大勅書『受肉の秘義』1)。

 使徒言行録の初めの数章に、最初の弟子たちがキリストを宣べ伝えた感動的な物語がつづられています。それは、自発的で、信仰にあふれ、説得力があり、そして聖霊の力によって成し遂げられたことでした。

 まず最も大切なことは、弟子たちが、キリストがお与えになった命令にこたえて、キリストを宣べ伝えたことです。キリストは天に昇られる前に、弟子たちに「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1・8)と仰せになりました。そして弟子たちが「無学な普通の人」(使徒言行録4・13)だったにもかかわらず、人々はすぐに、そして寛大に反応したのです。

 マリアや他の主の弟子たちと祈りの時を過ごした後、聖霊の促しによって行動していた使徒たちは、聖霊降臨から宣教を開始しました(使徒言行録2章参照)。わたしたちは、この不思議な出来事について読むにつれて、意思疎通の歴史が、ある種の旅であり、おごりに駆られたバベルの計画が、その混乱と互いの無理解に向かって崩壊してから、聖霊降臨と言葉の恵みによる、イエスを中心とした意思疎通の回復が、聖霊の働きを通してもたらされるまでの旅であることを思い起こすのです。ですから、キリストを宣べ伝えることは、信仰と愛のうちに、その人間性の最も深いレベルでの人々の出会いにつながっていきます。復活された主ご自身が、霊のうちに、その兄弟姉妹たちの意思疎通の媒介となってくださるのです。

 聖霊降臨は、始まりに過ぎませんでした。たとえ報復の脅威にさらされても、使徒たちは、主を宣べ伝えることをやめませんでした。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と、ペトロとヨハネは議員たちに答えました(使徒言行録4・20)。実際、試練そのものさえも、宣教の助けとなったのです。ステファノの殉教に続いて暴力的な迫害が起こり、キリストの弟子たちが逃亡を余儀なくされた時にも、「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(使徒言行録8・4)のです。

 使徒たちが告げ知らせたメッセージの生き生きとした核心は、イエスの十字架上の死と復活、罪と死に対するいのちの勝利でした。ペトロは、百人隊長のコルネリウスとその家にいた人たちに、「人々はイエスを木にかけて殺してしまいましたが、神はこのイエスを三日目に復活させ、人々の前に現してくださいました。そしてイエスは、御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。また預言者も皆、イエスについて、この方を信じる者はだれでもその名によって罪の赦しが受けられる、と証ししています」(使徒言行録10・39~43)と告げました。

 言うまでもなく、この二千年の間に状況は大きく変わってしまいました。それでも、キリストを宣べ伝える同じ必要性が、依然として存在しています。イエスの死と復活、そしてわたしたちの人生における救いの存在としてのイエスを証しする義務は、初めの弟子たちの義務と同じように、本当に差し迫ったものなのです。わたしたちは、それを聴きたがっているすべての人に、福音を告げ知らせなければなりません。

 ある人が、復活された主への信仰を他の人と分かち合うような、直接的で個人的な宣教が必要です。そしてもちろん、神のみことばを告げ知らせてきた伝統的な方法も欠かすことはできません。しかし、それだけでなく、今日の宣教は、メディアのうちに、そしてメディアを通して行わなければならないのです。「こうした有力な手段を教会が使わなければ、主のみ前に申し訳なく感じざるを得ないでしょう」(パウロ6世使徒的勧告『福音宣教』45)。

 現代世界におけるメディアの影響力は、いくら大きいと言っても過言ではないでしょう。情報化社会の到来は、真の文化的革命であり、メディアが「現代の最初のアレオパゴス」(回勅『救い主の使命』37)とされ、そこでは、事実や考え方、価値観などが不断にやりとりされています。メディアを通して、人々は他の人々や出来事に触れ、彼らが住んでいる世界についての意見を形成していくのです。そして、これは実に、人生の意味についての理解の形成にほかならないのです。多くの人にとって、生きていく上での経験は、かなり大きな程度まで、メディアの経験になるのです(教皇庁広報評議会『新たな時代』2参照)。キリストを宣べ伝えることが、この経験の一部にならなければなりません。

 当然のことながら、教会は、主を宣べ伝える上で、書籍や新聞、定期刊行物、ラジオ、テレビ、その他の方法による、自らの広報手段を、精力的かつ巧みに活用しなければなりません。そしてカトリックの広報従事者は、新たなメディアや宣教の方法を開発する上で、大胆に、そして独創的にならなければならないのです。しかし、教会は同時に、世俗のメディアに見出される機会も、できるだけ有効に活用しなければなりません。

 すでにメディアは、多くの方法で、精神的な豊かさをもたらすことに貢献してきました。これには、たとえば大聖年の期間中に、衛星テレビ放送を通して世界中の視聴者に届けられる多数の特別番組を挙げることができます。しかしその一方で、メディアは、世俗文化の一定の分野に見られるキリストとそのメッセージに対する無関心、そして敵意さえ誇示することもあります。メディアの側に、ある種の「良心の検証」が必要です。そして、人々の宗教上、倫理上の確信に対する偏見もしくは尊重の欠如へのより批判的な認識がもたらされなければなりません。

 人間の真の苦しみ、特に弱い人や困窮している人、疎外を受けている人などの苦境に注意を向けさせるようなメディア制作の番組などは、内在的に主を宣べ伝えることができます。しかし、このような暗示的な宣教以外に、キリスト者の広報従事者は、十字架につけれられ復活されたイエスと、罪と死に対する勝利をはっきりと示す方法も、活用するメディアと対象になる視聴者や読者の理解力に合わせつつ、見つけ出すべきでしょう。

 こういったことをうまくやり遂げるには、専門的な養成と技能が要求されます。しかしまた、それだけではなく、さらに何かが求められています。キリストを証しするには、キリストご自身と出会い、祈りや聖体祭儀、ゆるしの秘跡を通して、神のことばを読み黙想すること、キリスト教の教義を研究すること、そして他の人への奉仕を通して、キリストと個人的な関係をはぐくむことが必要です。そしていつも、それがすべて本物なら、わたしたち自身よりも、よりいっそう強く聖霊が働いていることを示すのです。

 キリストを宣べ伝えることは、義務であるだけでなく、特権でもあります。「信じる人たちの第三の千年期を目指す歩みには、二千年の歴史のあとですから、見えてもいいあの疲労のあとがまったく感じられません。キリスト者たちは、まことの光、主キリストを世にもたらすことを自覚して、むしろ力がよみがえるのを感じています。教会は、まことの神であり、完全な人間であるナザレのイエスを告げ知らせ、だれもが、自分が『神とされ』さらに人間らしくなる視野を開きます」(『受肉の秘義』2)。

 イエスがベツレヘムでお生まれになって二千年を記念する大聖年は、主の弟子たちにとって、メディアのうちに、そしてメディアを通して、わたしたちの救いのすばらしい慰めの福音を証しする機会であり、挑戦の時とならなければなりません。この「恵みの年」にあたって、メディアが、明快にそして喜びにあふれ、信仰と希望と愛のうちに、イエスご自身の声を告げ知らせることができますように。新たな千年期の幕開けにメディアのうちにイエスを宣べ伝えることは、教会の福音宣教の使命の必要な一部分であるだけでなく、メディアのメッセージに、生き生きとして、示唆に満ち、希望にあふれた豊かさを与えるものでもあります。御子、わたしたちの主イエス・キリストをあがめ、広報メディアの広い世界で宣べ伝えるすべての人々を、神が豊かに祝福してくださいますように。

2000年1月24日
バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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