2001年「第38回 世界召命祈願の日」教皇メッセージ

テーマ:召命としてのいのち

2001年「第38回 世界召命祈願の日」教皇メッセージ
テーマ:召命としてのいのち

全世界の司教さま
兄弟・姉妹の皆さま
1. 大聖年の閉幕から間もない今年の「世界召命の日」のテーマは、「召命としてのいのち」というものす。わたしはこのメッセージをもって、皆さまとごいっしょに、キリスト者の生活の中で疑う余地のない重要性をもつこのテーマについて考えてみたいと思います。
「召命」ということばは、神と、愛の自由のうちに生きるあらゆる人間との関係を、大変よく表しています。というのも、「あらゆるいのちは召命」(パウロ六世『ポプロールム・プログレシオ』15参照)だからです。神は、創造の終わりに人を見て「きわめてよい」(創1・31参照)とおおせになりました。つまり、神は人を「ご自分にかたどり、ご自分に似たもの」(創1・26参照)として創ろうとおおせになり、人の手に宇宙をお委ねになったのです。そして人を、ご自分との深い愛の関係にお招きになりました。
「召命」ということばは、神の啓示のいきいきとした働き(ダイナミズム)を把握させることばであり、人間存在の真理を明らかにすることばです。第二バチカン公会議の『現代世界憲章』は、次のように述べています。「人間の尊厳の最も崇高な面は、人間が神と交わるように召命を受けているということである。……事実、人間が存在するのは、愛によって神から創られ、愛によって神からつねに支えられているからであり、神の愛を自由に認め、造り主に身を託すのでなければ、人間は真理に基づき充実して生きていることにはならない」(19)。
人が生涯の完成に向かって歩みながら、自分の個性に従って成長していくことができるためには、その基礎を神との対話のうちに置かなければなりません。個人の能力や資質は恵みとして受けたものであり、また、その人の歴史や日常生活での人間関係に「意味づけをする」ことができるものです。

2. いのちを「召命」として考えることは、内的な自由を助けます。そのような考えは、受け身で煩わしく凡庸なあり方への思いをはね除けながら、その人のうちに将来への希望をふくらませます。このようにしていのちは、受けた賜物の価値を吸収していくのです。しかも、この賜物は「本性として、よいものになろうとする傾向をもつものです」(Doc.”Nuove Vocazioni per una nuova Europa”「新生ヨーロッパのための新しい召命」1998,16,b参照)。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しあいなさい」(ヨハネ15・12)という新しい掟に従うことを学ぶとき、人は霊のうちに新たに生きはじめます。ある意味で、愛は神の子の遺伝子だといえるでしょう。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、……ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです」(二テモテ1・9-10)。
各々の召命の原点には、わたしたちと共にある神・インマヌエルがおられます。神は、わたしたちがただ自分一人で生涯を築いていくのではないことを明かされます。というのも、神はいろいろな変化の中でわたしたちと共に歩み、また、わたしたちが望めば、神は一人ひとりの素晴らしい愛の歴史、唯一無二であると同時に全人類や全宇宙との調和のとれた愛の歴史をわたしたちと共に織りあげてくださるからです。自分史の中に神の現存を発見すること、孤独感を捨て、むしろ、自分の全てを委ねることのできる父がいるのを知ること。つまり、このようなことは、単なる人間的な未来の視野を変える大きな方向転換であり、また、『現代世界憲章』が認めているように、「自らを純粋に与えることによって初めて完全に自分自身を見いだす」(24)ことができるのだということを理解させます。第二バチカン公会議のこのことばの中には、キリスト者の存在の秘密、あらゆる人の真の自己実現の秘訣が込められています。

3. しかし、「存在」に関するキリスト教的読みは、今日、特に日常生活から神を遠ざけている西欧文化のいくつかの問題点を念頭に置かなければなりません。ここに「いのちの再福音化」のために、全キリスト者共同体がこぞって共に努力する必要性があるのです。この司牧上の努力のためには、「存在」の豊かさ、すなわち、神のうちに存在の源があり、霊の働きへの温順さのうちに力があり、キリストと教会との交わりのうちに日々の労苦の真の意味の保証がある、ということを表明する人びとのあかしが必要です。各人は、キリスト者共同体において自分固有の召命を見いだし、これに寛大にこたえる必要があります。あらゆるいのちは召命であり、あらゆる信仰者は教会の建設に共に働くよう招かれています。
とはいえ「召命祈願日」にあたり、わたしたちの関心は、特別に、叙階された役務者つまり司祭、および、福音的勧告に従うことを誓約する奉献生活の道で、いつでもどこでもキリストに従おうとする人たちの必要性と緊急性に集中します。
「違った時と場で、救い主であるキリストの秘跡的現存をいつまでも保証」(『信徒の召命と使命』55)し、みことばを説き、聖体や他の秘跡の祭儀をおこなうことによって、キリスト者共同体を永遠のいのちの道に導く叙階された役務者たちが必要です。また、自らのあかしをもって、神の民に次のような貢献をする人びとも必要です。つまり、「洗礼を受けた人びとに福音の根本的な価値を思い起こさせ、……聖霊によって心に注がれた神の愛に、生活の聖性をもってこたえなければならないという自覚を神の民の中にたえずはぐくむために、……聖霊、堅信、あるいは叙階において、神の力によって成し遂げられる秘跡的な奉献を、各自の生活に映し出す」(『奉献生活』33)人びとが必要です。
聖霊が、奉献生活への召命を豊かに起こしてくださいますように。こうして彼らによって、キリストの民のうちに、福音へのいっそう寛大な信頼が養われ、また、神の美しさと清さ(聖性)が透けて見えるような存在意義を、全ての人が容易に理解できるようになりますように。

4. いま、わたしの思いは、真の価値に渇いている若い人びとや、往々にして歩む道を探しきれない多くの若者の上にあります。そうです。キリストだけが「道」であり、「真理」であり、「いのち」です。ですから、若い人びとが主に出会うように、主と深いきずなを結ぶように援助する必要があります。イエスは、若い人びとが神の愛の跡に従うにつれ、ますます深く主を知るようになるために、彼らの世界に入り込み、彼らの歴史を吸い上げ、彼らの心を開きたいのです。
これについて、神の民の牧者の重要な役割に関する第二バチカン公会議のことばを思い起こします。「司祭は、まず、ことばの役務と自分の生活-奉仕の精神と復活の真の喜びを明らかに表す生活-のあかしをもって、祭司職の重要性と必要性を、信者に理解させるように心がけなければならない。……このためには注意深く賢明な霊的指導が有益である。……招かれる主の声が、ある特別な方法で未来の司祭の耳に聞こえるべきであるかのように期待してはならない。むしろ、主の声は、慎重なキリスト信者に日々示される主の意志の種々のしるしから理解され、判断されるべきであり、司祭はこれらのしるしを注意深く考慮すべきである」(『司祭の役務と生活に関する教令』11参照)。
さらにわたしの思いは、キリストのうちに唯一の希望があることをあかしするよう招かれた男・女の奉献生活者の上にあります。選んだ道を生きるための力を得ることができるのは、ただキリストからだけです。人類の救いに関する深い要求にこたえることができるのも、ただキリストと共に歩むときだけです。奉献した人びとの存在と奉仕が、若い人びとの心と知性を、神のことで溢れる希望の地平に向かって開くことができますように。そして、彼らを謙遜な人、無償の愛と奉仕の人に育てることができますように。奉献生活の教会的・文化的な意義が、主の呼びかけに耳を傾け、これに寛大にこたえるための心の自由へと若い人びとを教育・養成するにあたっての司牧計画に、つねによく活かされますように。

5. 次にご両親に申しあげます。どうかお子さんたちの近くにいてください。多くの選択に迫られる思春期、あるいは青年期にあるお子さんを、放っておくことのないようにしてください。彼らが、悩ましい幸福の追求に圧倒されないように、むしろ真の喜び、霊の喜びへと彼らを導いてください。将来の不安に捕らわれがちな彼らの心に、信仰による自由な喜びを響かせてください。わたしの尊敬する前任者パウロ六世教皇が勧めておられるように、彼らを養育してください。教皇は次のようにいっておられます。「創造主がわたしたちの日常生活に与えてくださるたくさんの人間的喜びを、単純な方法で味わうことを、忍耐強く人びとに教えることが必要です。存在と生命の喜び、清らかな愛の喜び、自然と沈黙の平和な喜び、よくできた仕事の喜び、義務を果たした喜びと満足、犠牲の喜び」(『ガウデーテ・イン・ドミノ』〈「主において喜びなさい」〉1)。
カテキスタや教師は自分たちの働きで、家庭での子どもたちの教育を支えてください。皆さんは、若い人びとのうちに召命のセンスを養うという使命に招かれています。皆さんの課題は、若い人びとの上に描かれている神のご計画を発見するようにと新しい世代を導くことです。このために、神が呼ばれたならば、自分のいのちを使命のための捧げものとして差し出す応需性を、彼らのうちに培ってください。これは、段階的な選択を通して実現するでしょう。そのような選択は、徐々に自分の存在を福音への奉仕に賭けていくことによって、全面的な「はい」(決定的な選択)を準備します。カテキスタ、および教師の皆さん、この成果を得るために、皆さんに委ねられた若い人びとが高いところを見つめ、絶え間ない優柔不断の誘惑から解放されるように、彼らを援助してください。父である神、そして、地の面を新たにするという偉大な使命に奉仕するようにと、一人ひとりの役割を各々に委ねながら愛の深みを現される神に信頼するよう、彼らを教育してください。

6. 『使徒言行録』の中に、初期のキリスト者は「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(2・42)とあります。神のことばとの出会いは全て、召命の呼びかけを受けるにふさわしい瞬間です。聖書をひんぱんに読むことは、神の選び、招き、教育、愛の方法と仕ぐさを理解するのを助けます。
聖体祭儀と祈りは、イエスの、「収穫は多いが働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ9・37-38、ルカ10・2参照)とのことばを、よりよく理解させてくれます。召命のために祈るとき、世界の必要、人のいのちと救いの必要を、福音的な知恵によって見つめることを学びます。さらに、愛に生き、人類に対するイエスの哀れみを共に生きるのです。そして、おとめマリアの模範にならい、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」(ルカ1・38)といえるほどの恵みをいただきます。

収穫のための働き手がなくならないため、わたしといっしょに主に祈ってくださるよう、皆さんをお招きしたいと思います。

聖なる父よ、いのち(存在)と愛の尽きない泉よ、
あなたは、生きている人のうちに、あなたの栄光の輝きを現し、
その心に、あなたの招きの種をまかれます。
どうか、わたしたちの怠慢によって、だれひとり、
この賜物に無知であったり、失ったりすることがないようにしてください。
むしろ、全ての人が溢れるほどの寛大さをもって、
あなたの愛の実現に向かって歩むことができますように。

主イエスよ、あなたは、パレスチナの道を巡るあいだに使徒たちを選び、招き、
彼らに、福音を説き、信者の世話をし、神聖な祭儀を司る役務をお委ねになりました。
どうか、きょうもあなたの教会に、聖なる司祭が不足しませんように。
彼らが、主の死と復活の実を、すべての人に届けることができますように。

聖霊よ、あなたは、絶えまなく賜物を注いで教会を清めてくださいます。
どうか、奉献生活に招かれた人びとの心に、
み国に対するあつい情熱をかき立ててください。
彼らが、寛大で無条件の従順をもって、自らの存在を福音への奉仕に捧げますように。

きよいおとめ、
あなたは、救いのご計画実現のため、
ためらうことなく全能の神にご自分をお捧げになりました。
どうか、若い人びとの心に信頼の恵みを注いでください。
キリストの民をいのちの道に導く熱心な牧者が、つねにいますように。
貞潔、清貧、従順のうちに、復活したあなたのみ子の現存をあかしする
聖別奉献された人びとが、つねにいますように。
アーメン。

2000年9月14日
バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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