2001年「世界平和の日」教皇メッセージ

2001年「世界平和の日」メッセージ
(2001年1月1日)
「文化間の対話 ―愛と平和の文明に向けて―」

2001年「世界平和の日」メッセージ
(2001年1月1日)

「文化間の対話 ―愛と平和の文明に向けて―」

1. 新たな千年期の幕明けにあたって、真に普遍的な兄弟愛という理想によって、人間関係がよりいっそう導かれていくことへの希望が高まっています。この理想を分かち合うことなしに、平和が安定したかたちで保障されることはあり得ません。この確信が人々の心のうちにより深く根づいていることを、多くのしるしが示しています。兄弟愛の重要性は、あのすぐれた「人権宣言」で明言されており、偉大な国際機関、そして特に国際連合によって具体的に形として示されています。さらにこのことは、いまだかつてなかったほどに、経済や文化、社会の統一を進めるまでに至っているグローバリゼーション(世界規模化)の過程によって、求められています。同様に、さまざまな宗教の信者たちも、すべての人の共通の父である唯一の神との関係が、より強い兄弟愛を感じさせ、共に友愛のうちに生きることへ向かわせるという事実を、いっそう自覚するようになってきました。キリストにおける神の啓示のうちに、この原則が根本的に現れています。「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(1ヨハネ4・8)。
2. しかし同時に、こういった輝かしい希望に影を落とす厚い雲があることも否定することはできません。人類は、いまだ開いた傷口を抱えながら、その歴史の新たな一ページを開こうとしています。そして世界の多くの地域で、激しく血なまぐさい紛争に苦しみ、同じ地域で共に暮らす文化や文明の違う人々の間で連帯を保つことの難しさが増していることを実感しています。わたしたちは皆、容易には解決できない古くからの憎しみや深刻な問題のため、怒りやいらだちが増幅されている場合に、当事者間の調停にあたることがいかに難しいかを知っています。しかし、多くの国々で、加速する移住や、違った文化や文明をもった人々が隣り合わせに暮らす、いまだかつてなかった状況をつくりだしている新たな社会構成によって起こっている問題に、賢明に対処できないでいることもまた、平和な未来にとって、危険性が少なくないと思われます。

3. ですから、わたしは、キリストを信じる者を、善意あるすべての人と共に、文化や伝統の間の対話というテーマについて考えるよう招くことが急務だと思います。この対話は、和解した世界、その未来を落ち着いて見据えることができるような世界を築くために、必要な道なのです。それは、平和を追い求めるためには非常に重要なテーマです。わたしは、国連機関が2001年を「国連文明間の対話年」と宣言し、この緊急な必要への関心を促していることをうれしく思っています。

 当然のことながら、わたしは、このような問題について、簡単な、またはすぐに講じられる解決策があり得るとは思っていません。状況は絶えず変動し、すべての前例をくつがえしてしまうのですから、分析を行うだけでも非常に難しいことです。さらには、理論的には折り合いをつけることはできるのですが、実質的にはいかなる安易な総合もゆるさない、異なった主義や価値観を束ねることにも困難が伴います。加えて、もっと根底的なレベルでは、どうしても利己心や人間としての限界を伴ってしまうすべての人に、倫理的な責任に気づいてもらう努力も必要なのです。

 しかし、まさにこのために、こういった問題についての考察を分かち合うことが有意義なのです。このような意図から、わたしはここで、いくつかの指針を提示することにとどめたいと思います。「神の霊が諸教会に、そしてその歴史の岐路に立つ人類全体に向かって告げていること」(黙示録2・7参照)に耳を傾けながら。

人類とその多様な文化
4. 人類の状況について考えるとき、いつも、その文化の複雑さと多様性に驚きます。その一つひとつが、特定の歴史の過程によって独自性を帯び、その結果として、唯一で独特、そして有機的な構造をもつ性格が形成されるのです。文化は、人類とその歴史上の出来事によって、各個人と社会的グループの双方のレベルで、性格づけられる自己表現の形態なのです。実際、人は絶えず、その知性と意志に駆られて、「自然の物と価値を耕作」(第2バチカン公会議『現代世界憲章』53)し、特に社会的、政治的生活や安全保障、経済発展などを含む人生のすべての局面についての基本的な知識を、これまで以上に高く、より系統的な総合に組み込もうと努めます。そして、それらの実存的な価値観や、特に宗教的な領域での、展望を育み、個人や共同体の生活が、真に人間的な方法によって発展していくように努めるのです(教皇ヨハネ・パウロ2世「国連総会における演説」〈1995年10月15日〉参照)。

5. 文化には、いつも安定し、持続する要素が伴いますが、同時に、流動性や一定の条件に依存する性質もあります。ある文化について考えるとき、最初は、わたしたち自身の文化との違いを際立たせる性質に、とりわけ驚かされるわけですが、こういった性質が各文化に、非常に特徴的な要素が融合した特有の顔をもたせているのです。ほとんどの場合、文化は、地理的、歴史的、そして民族的要素が独自で特有な方法により結合される特定の場所で発展します。各文化の「唯一性」は、多かれ少なかれ、その文化の担い手である個人にはっきりと表されます。そしてそれは、個人が自らの文化に影響を受け、さらに自分なりの能力や才能に従って、その文化に自分のもっているもので貢献するという、絶え間ないプロセスによるものなのです。いずれにせよ、人は必ず、ある特定の文化の中で生きるのです。すべての人は、その文化、すなわち、まさにその家庭や周囲の社会的グループを通して吸う空気や、教育を通し、そして最も多様と言える環境の影響を通して、自らが住む場所との関係そのものによって、特徴づけられるのです。こ こには決定論の入り込む余地はなく、むしろ、個人の調整力と自由の間の一貫した相克が起こっているのです。

人格の形成と文化の一員になること
6. 人格の構成要素として、特に人生の初めの段階で、自らの文化を受け入れる必要があることは、その重要性を過大評価できないほどに、普遍的な事実です。特定の「土壌」にしっかりと根差すことができない場合には、人は、いまだ無防備な年ごろに、対立をあおる過剰な刺激にさらされ、着実でバランスのとれた成長が妨げられてしまう危険さえあります。家庭や、また地域や社会、文化のレベルでの、自らの「起源」とのこの不可欠な関係を基礎として、人々は国家についての感覚をもつようになり、文化は、さまざまな場所で、多かれ少なかれ、「国家的な」形成に寄与することになります。神の子ご自身が、人となることにより、人間の家族と共に、祖国をもたれました。主は、永遠にナザレのイエスであり、ナザレ人であり続けます(マルコ10・47、ルカ18・37、ヨハネ1・45、19・19参照)。これは自然な流れであり、社会学的、心理学的な要素の相互作用を伴って、通常は好ましく、建設的な結果を生みだします。ですから、国に対する愛は、育まれるべき価値観ですが、狭量な心ではなく、全人類家族(『現代世界憲章』75) への愛を伴い、そして帰属意識が、自己賛美や多様性の拒絶、国家主義や民族主義、外国人嫌いなどに発展したときに起こる病的な示威行為を避ける努力を伴わなければなりません。

7. 従って、自らの文化の価値を評価できるようになることも確かに重要なことではありますが、すべての文化を認める必要もあるのです。それは、人間によって典型的に、そして歴史的に形成されてきた現実には、必ず限界があるからです。ある特定の文化への帰属意識から孤立に向かってしまわないためには、効果的な対策として、冷静に、偏見を取り除いて、他の文化を知ることが挙げられます。さらに、文化が注意深く、そして正確に研究される場合には、外見上の違いの下に重要な共通要素が頻繁に見いだされるものです。こういったことは、各文化や文明の歴史的変遷にも見られることです。人間を人間自身に示された(『現代世界憲章』22参照)キリストに目を向け、二千年の歴史に強められた教会は、「あらゆる変革のもとには変わることのないものがたくさんある」(『同』10)ことを確信しています。この連続性は、人類についての神のご計画にある不可欠で普遍的な性格に基づいているものです。

 ですから、文化の多様性は、全人類の一致という、より広い地平のうちに理解されるべきです。現実的には、この一致は、基本的な歴史的、存在論的所与であり、これによって、文化的多様性の深い意味を理解することが可能になります。実際、一致の要素と多様性の要素の双方についての総合的検討だけが、人類のすべての文化の完全な真理を理解し、解釈することを可能にするのです(教皇ヨハネ・パウロ2世「国連教育科学文化機関〈ユネスコ〉での演説」〈1980年6月2日〉)。

文化の違いと相互の尊重
8. 過去においては、文化の違いがしばしば、人々の間に誤解をもたらし、対立や戦争の原因となってきました。わたしたちは現在でもなお、悲しいことに、世界のさまざまな地域で、幾つかの文化が他の文化に対して攻撃的な主張を展開する様を、不安をつのらせながら目撃しています。結果として、こうした状況は悲惨な緊張や紛争につながることがあります。そして少なくとも、敵意を伴う民族主義的考えや行動に走りやすく、文化背景の違う多数派の社会に生活する民族的、文化的に少数派の人々の状況をより困難にする可能性があります。

 こうしたことから、善意の人々は、特定の共同体による文化的体験を性格づける基本的な倫理的方向性を検証する必要があります。文化は、実際にそれをつくりだす人々と同様に、人類の歴史上働いてきた「不法の秘密の力」(2テサロニケ2・7参照)の妨害を受けており、清めと救いを必要としているのです。それぞれの文化の確かさやその底流を流れる気風の健全性、そしてそれに伴う倫理的方向性の正当さは、人間に対するあり方やすべてのレベルや環境下での人間の尊厳の擁護に対する度量から、ある程度測ることができます。

9. 文化のアイデンティティーが急進化し、外部からのいかなる良い影響にも抵抗を示してしまうことは非常に憂慮すべきことではありますが、文化または少なくともその重要な様相が、西側世界から派生した文化モデルに隷属的に同化してしまうよりは危険ではないと言えます。キリスト教的起源から離れてしまったこれらの文化モデルは、しばしば、世俗主義や実質的無神論、そして急進的な個人主義の形態に見られるいのちへのアプローチに影響を受けています。こうした現象は、大規模に起こっており、メディアによる強力なキャンペーンに支えられ、生活様式や社会、経済的プログラム、そして結局のところ、他の尊重すべき文化や文明を内面から侵食してしまう包括的な世界観を広めることを意図しているものです。西洋的な文化モデルは、その科学的、技術的に際立った特徴から、魅力があり、気をひくものではありますが、残念ながら、人間的、そして霊的、倫理的な貧しさを深めてしまうことが明らかになっています。このようなモデルを生み出す文化は、至上の善である神を無視して、人間の利益を追求しようとする致命 的な試みに特徴づけられています。しかし、第2バチカン公会議は、「創造主なくしては被造物は消えうせる」(『現代世界憲章』36)と警告しています。もはや神を顧みることのない文化は、その魂と道を失い、死の文化になってしまいます。このことは、20世紀の悲惨な出来事があかししており、西側世界のかなりの分野で見られる虚無主義に、今やはっきりと表れているのです。

文化間の対話
10. 個人は、他の人を受け入れるおおらかさによって、そして寛容に自らを差し出すことを通して、成熟するものです。それは文化も同じことで、人々によってつくられ、人々のためにあるものですが、人類家族の根源的、そして基本的な一致に基づいた対話と交わりによって完全なものとされなければならないものです。人類は、「一人の人からすべての民族を造り出した」(使徒言行録17・26)神の手からきたからです。

 こうした背景から、ことしのこの「世界平和の日」メッセージのテーマになっている、文化間の対話は、人類そのもの、そしてその文化の本質的な要求となってきています。対話は、人類家族の一致のさまざまな歴史的、いい意味での表現としての文化の独自性や相互理解、交わりを守る役割をもっています。キリスト教の啓示に起源をもつ交わりの概念は、その至高なる原型を三位一体の神(ヨハネ17・11、21参照)とするもので、単なる均一性または強制的な均質化もしくは同化を意味するものでは決してありません。むしろ、それは変化に富む多様性の集合を表すもので、だからこそ、豊かさのしるしと発展への約束を示してくれるのです。

 対話は、多様性を認めることにつながり、人類家族の一致への基本的な召命によって求められる相互の受容と本当の協力へと心を開くものです。このように、対話は、わたしの尊敬する前任者教皇パウロ6世が、現代の文化や社会、政治、経済生活を導く理想として示した、愛と平和の文明を築き上げるための卓越した手段なのです。第三千年期の始めにあたって、非常な対立や暴力に悩まされ、時に気力を失い、希望と平和へのしるしを見いだせなくなっている世界に、もう一度、対話への道を提案することが急務です。

世界的コミュニケーションの可能性と危険性
11. 特に今日、文化間の対話が必要とされています。それは、新しいコミュニケーション技術が、個人や人々の生活に及ぼす影響のためです。わたしたちは、世界的コミュニケーションの時代に暮らし、多かれ少なかれ、過去のモデルとなじまない、一連の新たな文化モデルによって社会が形作られようとしています。少なくとも基本的には、正確で最新の情報が、世界のいたるところでだれにでも提供されることになっています。

 この世界的規模での画像や言葉の自由な流通は、人々の間の政治的、経済的関係だけでなく、わたしたちの世界に対する理解さえも変えてしまいます。それは、今まで考えられなかった可能性を開きはしますが、同時に好ましくない、危険な様相も相当にもっています。一握りの国々が、こうした文化的「産業」を独占し、地球上の隅々で増え続ける大衆相手に商品を売りさばくことは、文化の独自性をむしばむ強力な要素となり得るのです。こうした商品は、ある価値観を暗に含んだり、伝えたりするので、受け取る側の人々の文化的アイデンティティーを奪ったり、失わせたりするようなことを招きかねないものです。

移住の課題
12. 対話の様式や文化は、わたしたちの時代の重要な社会現象である移住の複雑な問題に関しては、特に大切になります。多数の人々が、地球のある部分から他の場所へ移動することは、しばしば、その本人たちにとって過酷な旅となることがあります。そして、それに伴ってもたらされる伝統や習慣の混合が、移住者たちの出身国と定住先の国々に、相当な反響を巻き起こすことになります。移住者たちが受け入れ国によってどのように迎え入れられ、新しい環境にどのように溶け込むことができるかは、違った文化の間の対話がそこで、どれほど効果的に行われているかを示す指標ともなります。

 文化の融合に関する問題が、最近よく議論されています。そして、受け入れる側と受け入れられる側の権利と義務を、バランスよく平等に保障する方法を、詳細に特定することは簡単ではありません。歴史的に見て、移住は、あらゆる方法で起こっており、どれも非常に違った結果が出ています。多くの文明の場合、移住が新たな成長や豊かさを招いています。その一方で、先に住んでいた人々と移住者は、文化的に離れたままでも、互いに尊重し合い、習慣の違いを受け入れるか容認することで共に生きられることを示してきました。残念なことに、違った文化の出合いに伴う困難が解決をみないという状況がいまだに存在しており、その結果としての緊張が断続的な紛争の原因となっています。

13. このような複雑な問題に、「魔法の」解決法はありませんが、それでもわたしたちは、よりどころとなる基本的な倫理的原則を決めておかねばなりません。何よりもまず、移住者がいつも、すべての人の尊厳に対する当然の配慮をもって待遇を受けなければならないという原則を思い出すことが重要です。移住者の流入についての調整では、共通善に当然向けられるべき考慮の際に、この原則が無視されることがあってはなりません。その課題は、すべての人、特に貧しい人たちを迎え入れることと、元から住んでいる人と後から加わった人が共に尊厳ある平和な生活を送るために必要なことの評価を結びつけることにあります。移住者たちが持ち込む文化的慣習などは、自然法に由来する普遍的倫理観に反するか、基本的人権を侵さない限りにおいて、尊重され、容認されなければなりません。

文化の尊重と地域の「文化的特徴」
14. さらに難しいこととして、大多数の市民の習慣と簡単には相いれないような特定の文化習慣について、法的な認知を受ける権利を移住者たちに、どこまで認めるかという問題があります。この問題を解決するためには、実質的に開かれた環境のもとで、歴史のある一定の時期や場所そして社会的状況での共通善を、現実的に評価することが求められます。このことは、受け入れる側の人々が、さまざまな価値観への無関心に傾くことなしに、アイデンティティーについての利害関係と対話への意欲を結びつけられるような開放的な精神をもつことができるかどうかにかかっています。

 また他方では、既に指摘したように、誕生以来その文化に属している人々の、特に人生の初めの繊細な時期でのバランスのとれた成長に欠かせないある地方の特徴的文化の重要性を過小評価することはできません。こうした観点から、納得のいく前進を続ける方法は、各地域の発展に大きく寄与した文化に配慮しつつ、一定の「文化的均衡」を確保することと言えるでしょう。この均衡は、たとえ少数派を受け入れ、その基本的権利を尊重しながらでも、特定の「文化的特徴」の存続と発展をゆるすものです。そしてこの特徴は、民族の歴史やアイデンティティーと切り離すことのできない言語や伝統、価値観の基本的な継承によって表れるのです。

15. しかし明らかに、ある地域の文化的特徴に均衡をもたらす必要を、立法措置だけでは満たすことはできません。こうした措置は、住民の気風に基づいていなければ効力を発揮し得ないからです。文化が人々や地域に対する影響力を失ってしまい、ただ博物館または芸術的、文学的記念碑に残される遺産以上のものでなくなってしまった場合には、当然法律も変えられる運命に向かうことは避けられません。

 実際、文化が本当に生きている限りは、抑圧される恐れを抱く必要はありません。そして、どんな法律も、既に文化が人々の心のうちに生きていなければ、文化を生かし続けることはできないのです。文化間の対話においては、人々の自由と良心を尊重する方法で行われる限りにおいては、両者とも、自らが信じる価値観を相手に提示することを妨げられるべきではありません。「真理がやさしく、そして強く心にしみ込む真理そのものの力によらなければ義務を負わせない」(第二バチカン公会議『信教の自由に関する宣言』1)。

共通する価値観の認識
16. 愛の文明を築くための特別な手段である文化間の対話は、人間の本質に根差すものであるが故に、すべての文化に共通する価値観が存在するという認識に基づくものです。こうした価値観は、人類の最も真実で、際立った特徴を表すものです。イデオロギー的偏見や利己心を捨て、実りある、建設的な対話に寄与する普遍的な性格の文化的「土壌」を育て上げるために、このような共通の価値観を人々の意識のうちに育むことが必要です。さまざまな宗教も、こうした方法に決定的な貢献をすることができ、またしなければならないのです。1986年のアシジ、1999年のサンピエトロ広場での集いが、特に印象に残っていますが、わたし自身、他宗教の代表者の方々との多くの出会いを経験し、さまざまな宗教を信じる人々が互いに心を開くことで、平和と人類家族の共通善のために大きな貢献をすることができるという自信を、よりいっそう深めることができたのでした。

連帯の価値
17. 世界に存在する不平等の高まりに対して、今まで以上に広く浸透させなければならない根本的な価値は、疑いなく連帯です。社会は、家庭から他の中間的社会グループへ、市民社会全体から国家共同体へと広がっていく周囲の環境の中で、人々が他の人と築き上げる基本的な関係に依存するものです。そして国家は、何の選択の余地もなく、他の国との関係に入らなければなりません。現在の地球的規模での相互依存のおかげで、全人類家族の共通の目的を意識しやすくなり、すべての思慮深い人々が連帯の価値を重んじるようになっています。

 同時に、このように高まっている相互依存の関係によって明らかにされてきたこととして、富める国と貧しい国の格差のような多くの不平等や、どの国にもある、裕福な人と日々の必要にさえ事欠いてその尊厳を傷つけられている人の間の社会的不均衡、そして天然資源の無責任な乱用によって起こり、加速している周囲と人間生活の環境の悪化を指摘しておかなければなりません。こうした社会的不平等や不均衡は、ある地域では悪くなるばかりで、いくつかの最貧国は、取り返しがつかないほどに衰退してしまっています。

 ですから、正義の推進こそが、真の連帯の文化の中心にあるのです。それは、困窮している人に有り余っているものを分け与えるというような問題ではなく、「排除され疎外されているすべての人が、経済的、人間的発展の圏内に入ることができるよう助けることです。このことが実現されるためには、現在、わたしたちの世界が豊富に生産している余剰物を振り分けるだけでは不十分です。何よりもまず、生活様式や生産と消費のモデル、そして今の社会を支配している既成の権力構造の変革が必要です」(教皇ヨハネ・パウロ2世回勅『新しい課題』58)。

平和の価値
18. 連帯の文化は、どの社会、国家や国際共同体でも第一の目的である平和の価値と密接に関係するものです。しかしながら、人々の間のよりよい理解への道には、世界が直面しなければならない多くの課題が残っています。こうした課題は、すべての人に、先送りできない選択を突きつけているのです。憂慮すべき武器の増加は、核不拡散への努力も頓挫している中で、競争と対立の文化、国家だけでなく、準軍隊的組織やテロ組織のような制度化されていない団体も巻き込んだ文化をあおり、広げてしまう危険があります。

 今日でもなお、世界は、過去と現在の戦争がもたらした結果や対人地雷による悲惨な犠牲、そして恐ろしい化学、生物兵器の使用などに直面しています。国家間の紛争や幾つかの国々での内戦、そして広がるばかりの暴力といった、その前には国際組織も各国政府もほとんど無力に見えてしまう常態的な危険について、わたしたちはいったい、何と言えばよいのでしょうか? このような脅威に直面するとき、すべての人が、具体的で時宜にかなった手を打ち、平和と人々の間の理解を推進する道義的責任を感じなければなりません。

いのちの価値
19. 文化間の真の対話は、相互に尊敬し合う感情に加えて、いのちそのものの価値についての生きた感覚を育てずにはいないものです。人間のいのちは、わたしたちの好きなようにしてよい対象物としてではなく、地上で最も神聖で、侵しがたい実在と見なされるべきです。この最も基本的な善が守られないなら、平和などあり得ません。いのちを軽んじながら平和を希求することなどできるはずがないのです。わたしたちの時代は、いのちへの奉仕についての寛容さと献身の輝かしい模範を目の当たりにしてきましたが、それと同時に、冷酷さや無関心のためにつらく、厳しい運命にさらされる数億人もの人々の悲しい姿をも見てきました。それは、殺人や自殺、人工妊娠中絶、安楽死などの悲惨な死の悪循環、また身体切断などの行為、肉体的、精神的拷問、不正な強制行為の形態、専断的な投獄、不必要な死刑の適用、追放、奴隷状態、売春、女性や子どもの人身売買などのことです。さらに列挙する必要があるのは、クローニングや研究を目的とした人間の胎芽の使用などの無責任な遺伝子工学的操作です。こうしたことは、自由や文 化の発展、人類の進歩などを一方的に訴えることで正当化されようとしています。社会の最も弱く、無防備な一員が、このような非道な行為にさらされるとき、人間の価値や信頼、尊敬と助け合いといった価値観の上に築かれている人類家族という考え方自体が、ひどく損なわれてしまうことになります。愛と平和に基づいた文明が、人間にはふさわしくないこのような試みに対抗していかねばなりません。

教育の価値
20. 愛の文明を築き上げるためには、文化間の対話が、すべての民族主義的利己心を克服し、自らのアイデンティティーへの気づきと他者への理解、多様性の尊重を結びつける働きをしなければなりません。このためには、教育への責任が基本的なこととなります。教育はそれを受ける生徒たちに、自らのルーツを意識させ、世界における自分たちの位置を定義づけできるような基準となる考え方を提供しなければなりません。そして同時に教育は、他の文化を尊重することを教えなければなりません。人は身近な個人的体験にとらわれず、他の人々の歴史や価値観のうちに見いだされる豊かさに気づいて、違いを受け入れる必要があります。

 適切な批判感覚によって、しっかりした倫理的枠組みの中で得られる他の文化についての知識は、自らの文化にある価値と限界により深く気づかせてくれるもので、それと同時に、人類全体に共通な財産が存在することも示してくれます。教育は、こうした地平の広がりのおかげで、より一致した平和な世界を築くために、特別な役割を担っています。教育は、いのちの倫理的、宗教的側面に開かれ、他の文化とその中にある精神的価値を理解し、尊重することの大切さを正しく認識する人間主義の確立に寄与することができるのです。

ゆるしと和解
21. イエスの誕生から二千年を経たこの大聖年の間、教会は、困難な和解への招きを強く感じてきました。この招きはまた、文化間の対話の複雑な問題において特別な重要性をもっています。実際に対話は、人々の記憶のうちに生き続ける戦争や対立、暴力、憎悪の悲惨な継承に重くのしかかられ、しばしば難しいものとなります。交渉断絶の状態によってできた障壁を乗り越えるために、選ばれるべき道は、ゆるしと和解への道です。多くの人は、幻滅からくる現実主義の名において、こうした道は空想的で愚直なものだと考えています。しかし、キリスト教的見地からは、これだけが、平和という目標に到達する唯一の道なのです。

 信じる者の目は、十字架につけられた方の姿に向けられています。イエスは、息を引き取られる少し前に、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23・34)と言われました。その右側で十字架につけられていた犯罪人は、死に向かわれる救い主の最期のことばを聞いて、回心の恵みへと心を開き、ゆるしの福音を受け入れ、そして永遠の幸福の約束を受けたのです。このキリストの模範が、人々の間の意思の疎通や対話を妨げてしまう多くの障壁を、本当に打ち破ることができるということを確信させてくれます。十字架につけられた方を仰ぎ見て、わたしたちは、ゆるしと和解が、日々の生活やすべての文化で普通に実践され、そしてそれが、人類の平和と未来を築き上げる真の機会となることを信じる気持ちで満たされます。

 記憶を清めるという聖年の大切な体験を心に刻みつつ、わたしは特に、キリスト者の方々に訴えたいと思います。ゆるしと和解をあかしし、それを伝える者となってください。そして、平和の神に熱心に祈ることで、地上のすべての人について当てはめることができるイザヤの偉大なる預言の成就を早めてください。「その日には、エジプトからアッシリアまで道が敷かれる。アッシリア人はエジプトに行き、エジプト人はアッシリアに行き、エジプト人とアッシリア人は共に礼拝する。その日には、イスラエルは、エジプトとアッシリアと共に、世界を祝福する第三のものとなるであろう。万軍の主は彼らを祝福して言われる。『祝福されよわが民エジプト、わが手の業なるアッシリア、わが嗣業なるイスラエル』」(イザヤ19・23-25)。

青年のみなさんへ
22. わたしはこの平和のメッセージを、特にあなたがた、全世界の青年のみなさんに向けて訴えることで結びたいと思います。あなたがたは、人類の未来であり、愛の文明を築くうえでの生きた礎なのです。わたしは心のうちに、この間のローマでのワールド・ユース・デー(世界青年の日)であなたがたと共にした感動と希望に満ちた集いの思い出を大切にしまっています。あなたがたが参加してくださったことで、喜びと確信、そして将来への期待がふくらみました。あなたがたの元気さと生命力、そしてキリストへの愛のうちに、わたしは、世界のより穏やかで人間的な未来を見ることができました。

 あなたがたと心が一つになっていることを感じながら、わたしは主に向かって、深い感謝の念を抱きました。あなたがたのさまざまな言語や文化、習慣、そして考え方などを通して、教会の国際性と普遍性、そして一致の奇跡を思う恵みをお与えくださったのですから。あなたがたを通して、わたしは、同じ信仰、同じ希望、同じ愛が多様性のうちに目に見える一致を示していることを感じました。これは、世界の救いと全人類一致のしるしであり道具である(第2バチカン公会議『教会憲章』1参照)教会のすばらしい実在を雄弁に表すものでした。福音は、父と子と聖霊の神を源とする人類家族の最初の一致をもう一度築き上げるよう、あなたがたを招いています。

   すべての言語と文化の親愛なる青年のみなさん、崇高ですばらしい役割があなたがたを待っています。それは、すべての人を尊重しながら、連帯と平和、いのちへの愛をあかしできる人となることです。どうか、兄弟姉妹、同じ家族のすべてのメンバーが、遂に平和のうちに生きられるような新たな人類社会をつくりだしてください。

2000年12月8日
  バチカンにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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