2002年「第39回 世界召命祈願の日」教皇メッセージ

聖性への召命

2002年「第39回 世界召命祈願の日」教皇メッセージ
聖性への召命

尊敬する司教さま
愛する兄弟・姉妹の皆さま
1. 「神に愛され、召されて聖なる者となった」皆さんに、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(ロマ1・7)。ローマのキリスト者に送られた使徒パウロのこのことばが、今回の世界召命祈願の日のテーマである「聖性への召命」へと私たちを導きます。聖性! 旧約の『レビ記』が想起するところによれば、聖性は恵みであり、信者一人ひとりの目標です。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19・2)。

 私は、使徒的書簡『新千年期の初めに』の中で、「聖性を目標として司牧計画を立てる」ように招きました。それは、「洗礼が人をキリストに一致させ、聖霊の住まいとさせることによって神の聖性に招き入れることである限り、その人が最低限の倫理観と底の浅い宗教観を表面的に生きる安易な生活で満足するのは矛盾である、という信念」を表明するためです。そしてまた、「普通のキリスト教的生活の『気高さ』を、信念をもって新たに提示する時です。教会共同体生活およびキリスト者家族の生活はすべて、これに方向付けられていなければなりません」(31)。

教会の第一の務めは、聖性の道で、キリスト者を助け導くことです。それというのも、信仰の知性によって照らされた信者たちが、キリストのみ顔を知ってこれを観想することを学び、また、キリストのうちに、自分の真のアイデンティティーと、主が一人ひとりに委ねられた使命を見いだすためです。そのようにして、彼らは、「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。」(エフェソ2・20-21)

 教会は、あらゆる召命を自分のうちに集めます。召命は、神がご自分の子らの間に起こされるものであり、教会自身、聖なる三位一体の神秘の光り輝く反映として召されています。教会は、「父と子と聖霊の一なる神によって一つに集められた民」です。教会は自らのうちに、み名を聖化し、み旨を完成するようにとすべての人を招く御父の神秘を宿しています。また、教会は、神の国を知らせるようにと御父から遣わされた御子の神秘、ご自分の弟子になるようにとすべての人を招く御子の神秘を保護しています。さらに、教会は、御父が御子イエス・キリストを通してお選びになった人びとを、使命のために聖別する聖霊の神秘のいわば宝庫なのです。

 教会共同体が、主から受けたあらゆる召命を表現する場であるということから、2002年4月21日、復活第4主日に行われる世界召命祈願の日にあたり、北米において、司祭・修道者のための第3回アメリカ大会が開催される予定です。新しい福音宣教の核をなす問題点の一つに取り組もうとする、アメリカの教会およびアメリカ大陸圏のこの大会主催者と参加者の方々に私の心からの喜びと祝賀の意を表し、本大会の成功を祈りたいと思います。この重要な大会が、「新世界」のキリスト者の間に、召命への新たな努力と寛大な熱意を燃え立たせることができるよう、皆さんもお祈りください。

2. 教会は「聖性の家」であり、その魂は聖霊によって吹き込まれたキリストの愛です。教会において、すべてのキリスト者は神のことばを聴き、祈り、熱心に秘跡に近づき、一人ひとりの兄弟のうちにつねにキリストのみ顔を尋ね求めながら、各自の召命を発見し実現するよう、互いに助け合います。このようにしておのおの、いただいた賜物に応じて信仰の道を進み、希望に燃え、愛に励みます(『教会憲章』41参照)。一方、教会は「イエス・キリストの神秘の無限の豊かさを明らかにし、また新たに体験させ」(『信徒の召命と使命』55)、神の聖性を、人間生活のあらゆる身分と状況の中に浸透させます。それは、すべてのキリスト者が、主のぶとう畑の労働者となり、キリストの体を建てあげるためです。

 しかし、教会におけるあらゆる召命が聖性への奉仕のためであるとしても、その中の幾つか、例えば叙階されて役務に携わる司祭職への召命や奉献生活への召命などは、まったく特殊な形をとっています。そこで今日は、これらの召命に特別に注目し、いっそう熱心に祈るよう皆さんを招きたいと思います。

 司祭職への召命は、「本質的に叙階の秘跡に由来する聖性への招きです。聖性とは神との親密さであり、貧しく、貞潔で、謙虚なキリストに倣うことです。それは無条件で魂を愛すること、魂の真の善のために自らをささげることです。さらにまた、それ自体聖であり同時にわたしたちが聖なる者であることを望む教会を愛することです。これはキリストが教会に託した使命です」(『現代の司祭養成』33)。イエスは、特別な親しさのうちに(ルカ8・1-2;22・28参照)「自分のそばに置くため」(マルコ3・14)に使徒たちをお招きになります。それは、彼らを単に天の国の神秘に参与させる(マタイ13・16-17参照)だけでなく、より高尚な忠誠を彼らから期待し、彼らを、招かれた使徒的役務にふさわしい者とするためです。イエスは、使徒たちからより厳しい貧しさ(マタイ19・22-23参照)と、すべての人の後ろに付くしもべのへりくだり(マタイ20・25-27参照)を要求なさいます。また、受けた権能への信仰を彼らに問いただし(マタイ17・19-21参照)、使徒職の効果的な手段としての祈りと断食(マルコ9・29参照)、および利己的でないことをお求めになります。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10・8)と。彼らから、単純さと率直さに裏打ちされた賢さ(マタイ10・26-28参照)と、摂理へゆだねること(ルカ9・1-3;19・22-23参照)を期待されます。また、師が制定された秘跡の執行者、および主のぶどう畑の労働者(ルカ12・43-48参照)として、身に引き受けた責任の自覚を欠くことはできません。

 奉献生活は、聖性へのキリスト教的あらゆる召命の内的な本性と、「ただ一人の花婿」キリストに向かう花嫁である教会のはりつめた緊張を表します。「福音的勧告に従うことの表明がキリストの秘義と密接に結ばれているという事実と、イエス自身が、決定的な終末的価値として選んで示した生き方を、何らかの形で実現する義務」(『奉献生活』29)をもっておられたからです。このような生活への召し出しは貴重な恵みであり、必要な恵みです。この召命は、今日なお、貞潔で貧しく従順なキリストの弟子として神の絶対的な優位性をあかしし、また、救い主の生き方のうちに霊的生活の完成に向かう特別に恵まれた道があることを人びとに示すという奉仕なのです。

 今日、ある状況の中で見られる司祭職や奉献生活への志願者の不足は、神のみことばや、キリストによって制定された秘跡の聖性を、自分の聖なる生活をもって立証するようにと招かれるであろう人びとの選別と養成に、いっそう慎重な注意を払うよう刺激するはずです。これは、たいして要求もせず、平々凡々な養成と霊性で事足れりとする指導からはほど遠いことです。

3. 教会は、司祭職への召命と修道生活への召命が、つねに霊性の中心、司牧活動の中心、信者の祈りの中心であるように対策を講じなければなりません。実にこれらの召命は、神の民の生活と聖性にとって必要不可欠な召命なのです。

 まず、司教たちや司祭たちは、賜物として受けた役務の聖性の証人であってください。自分たちの生活と教えをもって、よい牧者であるイエスに従う喜びと、救いの過ぎ越しの神秘を新たに生きる力を示してください。特に若い世代の人たちに、聖師イエスのあとに従って神に完全に属することを選び、すべての人が豊かないのちを得るようにと自己をささげる者(ヨハネ10・10参照)に取っておきのわくわくするような冒険を、自らの模範をもって目に見えるものにしてください。

 「教会の使命の決定的な要素として教会のまさに中心に」(『奉献生活』3)いる男女の奉献生活者は、自分たちの存在がキリストに堅く根ざしていること、修道生活が「交わりの家、交わりの学校」(『新千年期の初めに』43)であること、教会の中で聖霊がつねにいきいきと保ち続けている「愛の夢」(同50)が鼓動していることを、他者への謙虚で忠実な奉仕をとおして示してください。観想への愛、兄弟たちに奉仕する喜び、天の国のために生きる貞潔、自己の役務への寛大な献身のうちに、一つひとつの召命への招きの力が宿っていることを忘れないでください。

 家庭は、教会における召命の未来に決定的な役割を果たすよう招かれています。夫婦愛の聖性、家庭生活の調和、生活の日常的問題に立ち向かう信仰の精神、他者に中でもより貧しい人びとに開かれていること、キリスト者共同体の生活への参加などは、神の招きに耳を傾け、子どもたちの側からの寛大なこたえを待つのにふさわしい環境を作ります。

4. 「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(マタイ9・38;ルカ10・2)。キリストのこの命令に従い、あらゆる世界召命祈願の日は、濃密な祈りの時としての特徴を帯びるものです。召命のため神に向かって絶え間なくささげられる熱い祈りに、キリスト者共同体全体を巻き込まなければなりません。キリスト者共同体が、信者たちを神との対話へと教育し、彼らを「独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)御父の愛につねにいっそう開かれるように養成する、真の祈りの学びの場になる(『新千年期の初めに』33参照)のは、何と重要なことでしょう! 培われ、生きられた祈りは、愛のうちに教会の建設に協力するため、キリストの霊の導きに身を委ねるのを助けるでしょう。
このような状況の中で、キリストの弟子は、すべての人がキリストに出会い、神の子の自由に到達するようにとの熱い望みのうちに成長するのです。この熱い望みは、信者を、マリアの模範に倣って余すところなく寛大に、主に向かって素直に「はい」と答えることができるよう導くでしょう。主は彼を、みことばや秘跡や愛の役務者となるように、あるいは、現代の人びとの間でキリストの清く貧しく従順な生活の生きたしるしとなるように招いておられます。

 刈り入れの主は、聖なる司祭召命や修道召命が教会に不足するようなことはなさいません。祈りましょう。

 聖なる父よ、私たち人類をごらんください。
 人類はいま、第3千年期の一歩を踏み出しました。
 人類の生活には、いまだに、憎しみ、暴力、抑圧のしるしが深く刻み込まれています。
 しかしまた、多くの人びとの心には、正義、真理、恵みに対する渇きがいっぱいです。
 彼らは、あなたの御子イエスにおいて成就した救いをもたらす人を待ち望んでいます。
 いま人類は、勇敢な福音の伝達者、苦しむ人びとへの寛大な奉仕者が必要なのです。
 
 私たちは声をあげてあなたに祈ります。
 恵みによって、あなたの民を聖化する聖なる司祭を、あなたの教会に送ってください。
 男・女の奉献生活者を、数多く送ってください。
 彼らが、世のただ中で、あなたの聖性を表しますように。
 あなたのぶどう畑に、聖なる働き手を送ってください。
 彼らが、情熱的な愛をもって働きますように。
 彼らが、聖霊に突き動かされて、御子キリストの救いを
 地の果てに至るまでもたらしますように。 アーメン。

2001年9月8日
カステルガンドルフォにて
教皇ヨハネ・パウロ二世

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