FABC第8回総会作業文書 「いのちの文化をめざすアジアの家庭」(抄訳)

序文 1 FABC第8回総会において「いのちの文化をめざすアジアの家庭」を考察できることは恵みである。FABCは1974年の発足以来、福音宣教において家庭が果たす中心的な役割をたんに前提しているだけであった。1986年に […]

序文



1 FABC第8回総会において「いのちの文化をめざすアジアの家庭」を考察できることは恵みである。FABCは1974年の発足以来、福音宣教において家庭が果たす中心的な役割をたんに前提しているだけであった。1986年に「信徒」をテーマとして開催された第4回総会では家庭についてもう少し踏み込んだ言及を行っている。すなわち、家庭が直面している困難な状況、福音宣教と、信徒と教会全体の養成にとって家庭が果たす中心的な役割である(『第4回アジア司教協議会連盟総会最終報告 アジアと世界における信徒の召命と使命』カトリック中央協議会1987年、23-27頁)。この20年間に世界で起こった急速な文化・科学・技術の発展は、人間社会に多大な影響を与えた。家庭は社会の中心的な構成要素であり、新しい文化の影響を受けると同時に、文化に影響を与える。社会・政治・経済のあるべき関係を考えるうえで、家庭が現在も基準であることに変わりはない。

2 世界の発展に対応して、普遍教会は家庭が重大な意味をもつことをつねにのべてきた。家庭は全歴史がそこを通過する道であり、「家庭教会」である(『教会憲章』11、『信徒使徒職に関する教令』11、教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告『家庭―愛といのちのきずな』21)。教皇ヨハネ・パウロ二世は4回の「家庭についての世界会議」を開催した(1994年ローマ、1997年リオデジャネイロ、2000年ローマ、2003年マニラ)。それは、信仰と福音に照らして人類の運命を決めるうえで、家庭がもっている不可欠の役割を強調するためであった。使徒言行録も、信仰が「方々の家でも」(使20・20)広がったと書いている。

3 こうした国際的な発展と、普遍教会の取り組みを背景にしながら、FABCは家庭を、世界全体と地域の両方を視野に入れながら考察する。グローバルな発展はアジアの最も辺鄙な農村にまで影響を与えている。まず最初に、アジアの家庭が直面している司牧的な問題を考察する。

第1部 アジアの家庭に関する司牧的状況


1.家族に関する伝統と価値

4 世界が大きく変化する中で、アジアの家族は一般的にいって緊密なつながりを失っていない。核家族においても、拡大家族(直系家族と複合家族の総称)においても、家族関係は緊密である。高齢者、両親、祖父母は今も家庭内で尊敬を受けている。子どもは神のたまものとして愛されている。両親は子どもの健康・教育・福祉のために犠牲を払っている。家族の価値はアジアの伝統の一部をなしている。

5 こうした家族の緊密なつながりは、マイナス面も伴っている。妻や娘は、伝統的に「家の内」に限定された役割を果たすものと考えられてきたので、家事労働の分業の理想に反して、彼女たちは家の中で高齢者や子どもの世話をするという重い負担を負わされている。アジアでは、家族重視が原因となった、汚職、腐敗、親族重用、政治的・経済的な身内びいきも見られる。

6 一方、現在、グローバル化がもたらした社会変動によって、アジアの家族は脆弱なものとなりつつある。すなわち、道徳・宗教意識、個人・家族観、婚姻・家族構造までもが変化しつつある。
 アジアの文化的状況には違いがあることを意識する必要があるが、アジアの家族の状況について、共通する主な特色として、以下の点を挙げることができよう。

2.さまざまな家族形態

7 アジアにおいて伝統的ないし理想的な家族とされていたものとまったく異なる家族の状況が、現在のアジアで共通して存在する。家族内での他宗教・他文化の共存。父子世帯/母子世帯、両親が別居している家族。別居には、両親がずっと別居している場合と、出稼ぎのための一時的な別居の場合がある。両親が離婚し、祖父母と暮らしている子どもも珍しくない。父親または母親しかいない家庭、両親が年に一度か二度しか帰ってこない家庭、(両親が再婚したために)別の父親ないし母親をもつ子どもが一緒に暮らしている家庭。両親が正式に結婚しておらず、子どもが安心して暮らすことができない家庭も多い。解放運動の広まりにつれて、世俗化したアジアの国々では別の家族形態も生まれつつある。たとえば、いわゆる「同姓結婚」。伝統的な「キリスト教的家庭」理解では、男性と女性の間で行われる秘跡としての結婚が規範であり、また家族はそこから生じるものと考えられてきたが、こうした新しい家族形態がそれを脅かしている。結婚する人々が、結婚を聖なる契約と考えているか、それともたんなる法的契約と考えているかという問題もある。婚姻届を出してから、教会で結婚式を挙げることも広く行われている。ある社会ではそれは「アダット」(インドネシアの慣習法)にもとづく。

8 こうしたさまざまな家族をめぐる状況を、信仰の光に照らしてどう考えたらよいか。神の国の建設に導くために、結婚した夫婦・家族をどのように手助けしたらよいか。家庭が積極的に活動することができるために、どのような支援をしたらよいか。要するにいかなる司牧的指導をしたらよいか。これがアジアのあらゆる小教区にとっての大きな課題である。

3.アジアの家庭の貧困と経済的グローバル化

9 アジアの家庭が直面する第一の大きな問題は、広範に存在する貧困である。アジアの大多数の家庭は、日々貧困と戦いながら、そこから逃れることができないでいるという、悲惨な現状がある。しかし現代のアジアの貧困には、新たな側面がある。すなわち、グローバル化である。グローバル化なしに経済発展はできない。毎年出される国連開発計画(UNDP)の『人間開発報告』によれば、経済的グローバル化は貧しい人々・貧しい国々、とりわけ貧しい国々における貧しい人々の状況を悪化させている。グローバル化が貧困問題に与える影響は少なくとも次の3つの場において認められる。

a)10 農村の家庭の貧困。経済的グローバル化が要求する、経済的自由化・規制緩和によって、輸入が自由化され、国内よりも安価な作物に対して、多くの国内農家の作物は売れなくなる。保護関税がなくなり、競争力を失った農村家庭は、自分たちではどうすることもできない貧困要因に直面している。また大多数のアジア農民は小規模農業を営むため、企業化された大規模農業・遺伝子組み換え作物の普及に太刀打ちできず、自分たちの理解と経済力をはるかに上回る企業と技術に依存せざるをえなくなる。大土地所有も、こうした新しい状況の中で、農村の生産性を阻んでいる。貧困の中で、農村家庭では、生きるために臓器売買をするところまで追い込まれる場合さえある。

b)11 都市家庭の貧困 ここ数十年間、農村から都市への人口流入はかつてない規模で起きている。グローバル化は、貧困国の農村の競争力を奪うだけでない。貧しい人々は、農村から都市へと脱出したところで、多くのアジアの国々の経済発展のレベルでは、都市でも仕事を見出すことができない。そこで都市におけるスラムが拡大する。都市の貧困は、居住環境において農村よりも過酷である。居住空間、プライバシー、飲料水、下水、衛生状態は劣悪である。それは犯罪、家庭内暴力、家庭崩壊の原因ともなる。

c)12 アジアにおける移民現象 アジア家庭の経済状況のために、文字通り数百万人のアジア人労働者が仕事を求めて国外に出るが、多くの場合、彼ら労働者の知識技能と労働内容とのあいだにギャップがある。外国人労働者が差別と搾取の対象となることも多い。外国で得られる賃金は国内賃金より多いとはいえ、それは家族の安定、子どもたちにふさわしい教育を与え、彼らがすこやかに成長することを犠牲にして得るものである。子どもたちは育ち盛りのいちばん多感な時期に、両親がおらず、彼らの愛と指導を受けることができないからである。

13 とりわけ、仕事のために移民する先住民が受ける、文化的打撃は大きい。彼らは生まれ育った共同体で大事にされてきた多くの価値を失ってしまう。元の共同体に戻ることもきわめてむずかしくなる。FABC第7回総会で取り上げられた2つの優先課題、すなわち移住労働者の問題と先住民の問題のあいだに密接な連関があることがわかる。

4.小作農業と先住民からの土地収奪

14 アジアの貧困状況を悪化させている要因は、小作農業形態である。アジアの数百万の家族は自分の農地を所有していない。少数の地主による大土地所有は、アジアにおける資源配分の大きな格差を示している。それは社会的不正を表すものでもある。それによって、多くの貧しい人々がよりよい生活を得る機会を奪われているからである。多くのアジア諸国で土地改革があいかわらずなかなか実現できないでいる。富裕層が政治的実権を握り、平等な土地の配分を促す法の制定を妨げているからである。

15 とりわけ先住民にとって「土地はいのち」である。先住民ははるか昔から、土地・川・森を自分たちのものと考えてきたが、それを法的に証明するものをもってはいなかった。開拓者たちは先住民から先祖伝来の土地を取り上げ、彼らを辺境に追いやった。先住民は彼らの土地所有権とともに、彼らの経済的・文化的発展に対する権利を侵害された。先住民の土地での政府開発計画が、先住民の発展を妨げる場合もある。

5.文化的グローバル化

15 経済的グローバル化は、文化的グローバル化も伴う。20世紀半ばから西欧の世俗主義がアジア社会に大きな影響を与えるようになった。この世俗化が現代ほど進んでいる時代はない。自由に関する個人主義的な考え方が、1980~90年代を上回る勢いで、いまやアジアの家庭に関する価値観を急速に大きく変容させつつある。この変化をもたらしたのは、経済のグローバル化とともに、情報通信技術の飛躍的発展である。

16 IT技術の革新にはよい面もたくさんある。アジアでは西欧世界の特徴である、個人の尊厳、自律、人権に関する意識が深まった。世界が大きな悲惨を経験している時に、瞬時に世界中が連帯することが可能になった。知識の拡大と共有は、人類の生活を改善した。

17 しかし、信仰に照らしてみた場合、文化のグローバル化にはきわめて否定的な側面も認められる。技術文明は、都市において、家族から伝統的文化を奪い、匿名的社会を作り出した。技術文明の精神である、新自由主義、世俗主義、物質主義、快楽主義、消費主義は、アジアの宗教的文化と相容れないものである。これらの価値観は、アジアの家族に関する価値観と対立する。技術的思考は、夫婦・家族の愛のきずなを侵食する。

18 家族は文化をはぐくみ、伝えるものなので、アジアにおける家族に対して世俗的文化が影響を与えることは、ゆゆしき問題である。こうした影響がまず及んだのは、情報通信手段を利用できるエリート層であった。しかし、草の根レベルでも、テレビ、ラジオ、映画が西欧の番組を模倣している。こうして西欧の家族観・家族に関する価値観が視聴者に影響を及ぼすことになる。

19 グローバルな文化は年長者と若者のあいだの価値観の格差をつくり出している。両親の指導を受けることなく、若者たちは価値観の危機にさらされる(訳注:使徒的書簡『おとめマリアのロザリオ』42も参照)。若者たちは、伝統的な家庭の中で大事にされてきた価値観(それはかならずしもすべてよいものとはいえない)と、家の外の世俗的価値観(それはかならずしもすべて悪いものではない)のあいだで引き裂かれてしまう。情報通信手段の発達とマスメディアの影響によって、最新のポストモダンの文化が家庭という聖域の中に入り込んできていることは間違いない。

20 さらに文化的グローバル化は新たなかたちの貧困を生んでいる。貧しい人はIT技術を用いることができないため、物質的貧困に加えて、知識の貧困、知識を得る手だてがないという貧困が、貧しい家庭をさらに周縁に追いやる。教皇ヨハネ・パウロ二世も、このような「無所有による貧困」とは別の、新しいかたちの貧困を、「無知による貧困」と呼んでいる。先進国の富が資源よりも知識・技術にもとづいているとき(回勅『新しい課題』32)、発展途上国の貧困はこうした新しい富の欠如から生まれることになる。

21 グローバル化によって生み出される文化的変化・不安に対して、原理主義によって対応しようとする場合も見られる。彼らは、公正と愛、結婚、家族、諸宗教間の対話、政治とガバナンスといった複雑な問題に対して、単純明快な答えを出すことにこだわる。そうした態度は、極端な場合、不寛容とテロリズムとして現れ、アジア社会の緊張の増大を招いている。

6.アジアの家庭と社会における父権主義

22 アジアの家庭および社会全般における男女の役割分担に関しては、父権主義が依然として根強い。父権主義は、性差別と男性優位を決定的なものとしている。男性には権威と支配の特性が帰せられる一方で、女性には従順と素直さ、家庭の中で家族の一致と幸福の基となることが求められる。女性は従属的存在とみなされ、男性と女性、男子と女子の行動様式はそれぞれ別の基準で計られる。夫の不実や子どもへの無関心は、妻のそれよりも大目に見られる傾向がある。

23 父権主義にもとづいて男女の産み分けが行われる国もある。その場合、男子の出産が優先されるために人口に占める男女比に不均衡が生まれる。出生前性別診断にもとづいて何千という女子の胎児の堕胎が行われている。

7.成人女性と未成年女子

24 男女同権についての知識、教育における男女平等の進展にともなって、アジアの家庭において夫が伝統的に担ってきた役割も少しずつ変化しつつある。貧困地域における女性の教育水準の向上は、夫や息子によるだけでは生計が立てられないことから、女性が必要に迫られて家を出て仕事をするための場合もある。その場合、伝統的な家の仕事はより経済力のない家事手伝い・親類に押しつけられる。都市部では、家事や子育てがメイドや祖父母の仕事となり、定職についた女性は医師・看護師・技師・教師・弁護士・経営者として働く。

25 男女の役割分担が少しずつ平等になったからといって、妻への暴行、別な形での差別、家庭や職場での女性への抑圧がなくなったわけではない。アジアのある国の、特に農村では、伝統的に妻や娘に暴力をふるってもかまわないと考えられている。そうした国では、妻は持参金の負担に加えて、嫁ぎ先で自分が家族の一員としてふさわしい者であることを示さなければならないという負担を負わされている。

26 アジアでは女性解放運動の進展も見られる。その結果として、家庭内暴力、女児の堕胎、男女の役割分担の平等といった問題に社会が目を向けるようになった。アジアのすべての国々では、女性、特に母親が、社会的・政治的提唱活動(advocacy)、協同組合、グラミーン銀行(小額融資機関)、適正技術、識字運動、保健活動などを通じて、社会解放活動に従事している。

8.児童労働

27 アジアの家庭に見られるもう一つの問題は、児童労働が広く行われていることである。貧困と社会的不平等のために何百万人という子どもが道端や工場や商店で労働に従事している。両親は子どもを自分たち家族の生活のために道具として使ってよいと考えている。児童労働の当然の結果として、健全な成長の阻害、識字率の低下、栄養失調、ストリートチルドレン、少年犯罪が生じる。

9.環境保護

28 環境破壊もアジアの家庭に悪い影響を与えている。経済成長のために時間をかけて育まれる環境のバランスが犠牲にされ、森林や水資源が歯止めなく破壊される。その結果、旱魃と洪水が起こり、土地生産性が低下する。かくて農村の農業生産率が低くなる。拡大する都市では大気汚染と不法廃棄物が、病気(喘息)を引き起こし、貧困家庭の生活状態を悪化させている。

10.人口計画

29 政府の人口抑制政策が貧困家庭を対象に進められている。農業生産量の低下に合わせて人口の抑制・適正化が図られる。マルサスの人口理論は専門家によって間違いだと指摘されているにもかかわらず、政府はあいかわらずこの理論に従っている。発展途上国では、先進国の援助を受ける条件として、人口の抑制を行わなければならず、そのために人口妊娠中絶が促進される。また、よりよい生活を求めて行われる、アジア人の他国への移動は、経済や治安を悪化させると考えられている。アジアでは、貧困者を対象として政府が人口抑制をすれば、公正に資源を配分し、皆が平等に発展の恩恵に浴することができるようにするために社会・構造改革をするという、より困難な課題をうまく回避できると考えているのである。

30 政府人口抑制政策を通じて、国際機関・NGO・行政法人と連係する圧力団体が政府・世論に影響を与え、人間の生命・家庭・子ども・結婚について世俗的・開放的に考えるよう誘導している。こうして人間のいのちの始まる受精の瞬間、人間のいのちの終わり、男女のあいだで行われる結婚の本性、女性の健康の意味、人体に対する人権・選択権の概念-こうしたものすべての定義が変更される。西欧の解放思想にもとづく新しい考え方が、マスメディアや法律によってアジアに導入される。しかしそれは場合によって教会の基本的な教義に反する。

11.紛争の中で生きる家族

31 アジアの多くの地域では何千という家族が軍事紛争に巻き込まれている。何千の家族が一時的・長期的軍事衝突のためにたえず移転を余儀なくされている。親は家族の安全と将来のことを考えて、恐怖・緊張・不安・不安定にさらされる。子どもの教育も中断されざるをえない。難民キャンプでは悲惨な生活の中で病気にも苦しむ。より根本的な問題として、移住家族は政治・経済・イデオロギー・民族・宗教の対立のはざまでさまざまな偏見・意見の相違の中で暮らさなければならない。戦争の中で育った子どもたちは、成長して将来の戦争の担い手となる可能性が高い。その中で希望となるのは、こうした困難の状況の中でいちばん弱い立場にある母親たちが、平和のための提唱活動を組織していることである。

12.家庭と教会基礎共同体/人間基礎共同体(BEC/BHC)

32 アジアにおいては、教会の新しいあり方をめざす教会基礎共同体・人間基礎共同体を建設するうえで、家庭がもっている役割が、ますます意識されつつある。家庭そのものが社会の基本的細胞であり、教会共同体の基本的な単位である。それゆえ今日のアジアでますます感じられていることは、家庭が福音宣教の主たる対象となり、教会基礎共同体・人間基礎共同体の建設のための基本要素となり、さらに地域教会全体の基本要素ともならなければならない、ということである。いいかえれば、教会は小教区からではなく、家庭から始まる。こうした見通しのもとに司牧計画の見直しを行う必要がある。すでに、小教区を構成する小共同体を作るうえで、家庭・家庭群が注目されている。たとえば、家庭を中心にすえた司牧計画である。

13.まとめ

33 アジアの家庭をめぐる司牧的状況全般について、以下の点を挙げた。

(a)文化・社会構造にねざしたアジアの家庭に関する伝統的価値観が変わりつつある。伝統的価値観・社会構造のなかにもよくないものがある。たとえば父権主義、カースト主義、成人女性・未成年女子の差別、女性の役割を家の中に限定することである。
(b)それ以外の家庭に関する価値の中には、よいものも多いが、失われる危険にさらされている。核家族・拡大家族の緊密な結びつき、高齢者や子どもを大事にすることなどである。他方、家族中心主義が不正な社会構造を強化し、汚職や腐敗の温床になる側面もある。
(c)アジアにはさまざまな家族形態が存在する。この多様性は、多元的な文化・宗教に由来することもあるが、家族の崩壊・結婚の失敗によるものも多い。最近の家族形態は結婚・キリスト教的家庭についての教会の教えに反するものもある。これらがアジアにおける家庭への奉仕職の課題となっている。
(d)よい意味でも悪い意味でも、アジアの家庭に影響を及ぼしているものは以下のものである。習慣と伝統、社会構造、父権主義とジェンダーの差別、貧困、経済的・文化的グローバル化、世俗化、移民、児童労働、土地問題、環境保護、社会的紛争。

34 20年前、アジアの司教たちは次のようにのべている。「おそらくアジアの教会にとって最大の問題は家庭が提起するものでしょう。アジアでは、家庭は、貧困、弾圧、搾取、堕落、分裂、対立などアジア中のあらゆる問題のるつぼです。家庭は、宗教、政治、経済、社会、文化の諸問題から、女性、健康、仕事、企業、教育などに関する問題に至るまで直接影響を受けます」(第4回アジア司教協議会連盟総会最終報告『アジアと世界における信徒の召命と使命』FABC東京総会実行委員会訳、カトリック中央協議会、23頁)。
 アジアの教会はこのような司牧的問題に適切な応答を行うことができるだろうか。教会はアジアの家庭に対してしかるべき司牧計画を通して影響を及ぼすことができるだろうか。

第2部 神学的・司牧的考察


A.健全ないのちの文化

35 上述のように、司牧的状況の中には多くの影響が働いていることがわかった。あるものは文化を発展させるうえでよい働きをする。しかし、グローバル化がもたらす影響は、多くのアジアの家庭の生活の質だけでなく、生存そのものを脅かしている。後者の影響はアジアの家庭を伝統的に特徴づけてきた積極的な価値の崩壊を招く。この積極的な価値には、拡大家族の緊密なつながり、子どもを大事にすること、高齢者へのいたわり、調和、道徳感覚、いのちの尊重、母胎のなかのいのちの保護、聖なるものへの畏敬などがある。いのちの起源と本性や、家庭と結婚の本性と構造に関するわれわれの理解までもが脅かされている。そうした影響は、受胎から死まで一貫して人間のいのちを守る責務、男性と女性のあいだの結婚の秘跡性と、神が結婚に与えた目的に反する。一方で、アジアの社会と家族には、父権主義、カースト主義、女性の尊厳の否定といった、アジアの文化が神のみ心に適うものとなるために、根本的な改革を要する問題も存在する。

36 新しい文化は現代世界によい影響を与える場合もある。しかし、そうした文化を福音化し、それを健全な人間のいのちと対立しないものとし、いのちの文化へと変容させることが、アジアの家庭にとっての課題である。いのちの文化と、いのちの文化が脅威にさらされることの重大性を理解するうえで、アジアの古来の宗教的・哲学的伝統が役に立つかもしれない。共通理解も存在する。しかしわれわれの司牧的・神学的考察は、キリスト教信仰にもとづくものでなければならない。その際、われわれは人間のいのちを十全な意味でとらえなければならない。すなわち、いのちそのもの、いのちに備わる尊厳、神からの賜物としてのいのち(創2・7、使17・25)、神のいのちにあずかるいのち(ロマ6・23、ヨハ4・10、14、黙21・6)、永遠のいのちをめざすいのち(ロマ6・22)、きたるべき神の国におけるいのちの豊かさ(ヨハ10・10)である。普遍教会におけるこのようないのちの見方から、われわれは人間のいのちを非人間化し、搾取し、抑圧するあらゆるものを非難するのである。いかなる状況であれ、関係であれ、構造であれ、行動であれ、行為であれ、いのちを脅かし、いのちをないがしろにするものは死をもたらし(『現代世界憲章』27参照)、死の文化の一部をなしている。他方、いのちの文化は、人間のいのちの全体を尊重し、高め、促進し、これに奉仕する。それは生殖行為の目的である受胎の瞬間から、地上における十全ないのちを求める努力を経て、ついには死と世の終わりにおいて神のもとに戻り、審判を受ける時まで続くものである(2テモ1・10、4・1、ヘブ9・27-28)。

1.契約によって示された愛といのち、交わりと連帯

37 聖書によれば、いのちの文化の基盤は、創造者にして、あらゆるいのち、特に人間のいのちの与え主である神の愛である(創1・26-28、2・7、知15・11参照)。創世記の中では三位一体の交わりが人間に分け与えられたことが示唆される。「われわれにかたどり、われわれに似せて、人を造ろう。神は神にかたどって人を創造された。男と女に創造された」(創1・26-27)。したがって人間のいのちの始まりは、神の愛のみにもとづいている。いのちは神にかたどって造られたので、それは神のたまものである。それゆえすべての人のいのちは、どんなに貧しい人のいのちであっても、価値があり、聖なるものである。聖書の創造物語の中で、人間の創造はその頂点に置かれている。同時に神の造られた全宇宙は相互に連関し合っているので、人間は、神がいつくしみ深いはからいをもって行う支配に倣って、それを管理する神聖な使命と栄誉を与えられていることをわきまえなければならない。全被造物の頂点と核心はキリストである。「御子は見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロ1・15-16)。神は「御子の十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を」またあらゆる壊れた関係を「ただ御子によって和解させられました」(コロ1・20)。

38 旧約において神と選ばれた民の間に契約が結ばれたことは、いのちの文化にとっての決定的な瞬間である。契約の関係がしばしば親密な家族関係として、ときには夫婦の関係としてのべられることは、きわめて重要である。神が選ばれた民をはからい、彼らに示した、優しくたとえようもない愛は次のようなものであった。「エフライムの腕を支えたのはわたしだ。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、身をかがめて食べさせた」(ホセ11・3-4)。「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める」(イザ66・13)。花婿と花嫁の交わりということばさえ用いられる(ホセ2・16、21-22参照)。神の民への愛のことばの例-「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する」(イザ43・1、4)。神が契約によって結んだ、選ばれた民との家族のきずなの特徴は、限界のない忍耐、慈愛、刷新への呼びかけ、いつくしみとゆるしである。

39 選ばれた民は、神の摂理によって守られているがゆえに、すべての人、特に困っている人、孤児、寡婦、寄留者と積極的に連帯することを求められる(出22・22-23、申24・17-22、イザ1・17、エレ22・3、ゼカ7・10)。最後に、頑迷な不忠実によって契約の関係が根本的に破られた場合も、神は「新しい心」を与えて、民が新たに作り変えられるようにしてくださる(エゼ11・19、36・26参照)。

40 旧約において人間の健全ないのちといのちの文化は4つの特徴を帯びている。(1)神の愛のたまものとしてのいのち、(2)神との連帯と交わり、また他者、特に貧しい人、困っている人との連帯と交わり、(3)契約が求めるおきて、(4)神が十全ないのちを与えるという約束。

2.いのちであるイエス-イエスが分かち与えて下さる愛、交わり、連帯

41 イエスの神秘から、いのちは神のいのちそのものにあずかるものであるという、いのちの完全な意味が明らかにされる。神の比類のない愛は、そのひとり子を遣わし、罪を除いて子がすべての人間性をとるようにされたことにおいて示された。それは、われわれが永遠のいのちを得るためであった(ヨハ3・16参照)。キリストはいのちのことばである(1ヨハ1・1)。イエスはいのちを支配することができるかたなので、他者のためにいのちを捨て、またそれを「再び受ける」ことができる(ヨハ10・17-18。ヨハ5・26参照)。イエスはご自分を完全に現して、次のように言われた。「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハ14・6)。続いてイエスは、信じ、イエスのことばを守る人は親密な愛の交わりに入ることについて語る。「わたしを愛する人は、わたしのことばを守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハ14・23)。いのちそのものであるかたは、ご自分の地上での使命は、いのちを与え、人々の救いのために人々と連帯することであるとのべる。「わたしが来たのは、羊がいのちを受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハ10・10)。

42 洗礼によってこの新しいいのちが与えられる。洗礼によって、信じる者は、罪による死から、キリストにおけるいのちへと過ぎ越す(ロマ6・4、コロ2・12)。キリストは「いのちの水」を与える。その水は「泉となり、永遠のいのちに至る水がわき出る」(ヨハ4・14)。さらにキリストは「いのちのパン」(ヨハ6・34、48)である。それは「天から降って来て、世にいのちを与えるものである」(ヨハ6・33)。イエスがのべているのは、イエスのからだと血である、聖体の秘跡の拝領である。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(ヨハ6・54)。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハ6・56)。それゆえパウロはいう。「わたしにとって、生きるとはキリストです」(フィリ1・21)。ヨハネはこういっている。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」(ヨハ1・16)。

B.契約によって示された、聖霊における愛-神の家族としての教会

43 イエスがいのちを与えることによって示した愛は、信じる者とイエスのあいだの個人的な関係に尽きるものではない。イエスの血によって刻印されて、愛といのちの契約があらためて結ばれた。それは神と新しい信じる民のあいだの新しい契約である。信じる民は新しいおきてを与えられる。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハ13・35)。イエス自身のからだと血、すなわちイエスのいのちのすべてが信じる者に分かち与えられること、これ以上に深い愛といのちの交わりはない。イエスが自らをいけにえとしてささげた愛によって、新しい交わりが生まれた。それは聖霊によって生まれた、信仰による家族である。イエスが神にご自分の霊を渡されたとき、イエスはその同じ行為によって教会にご自分の聖霊を手渡されたのである(ヨハ19・30参照)。それゆえ教会は新しく創造されたものであり(2コリ5・17)、イエスの霊である聖霊によって生まれた、神の「家」、神の家族である(エフェ2・19、1テモ3・15)。

44 したがって、キリストにおけるいのちは、霊におけるいのちでもある(ロマ8・1、9-10参照)。そのようないのちは、信仰によらなければ知ることができない。しかし霊によるいのちはあるしるし、すなわち「霊の結ぶ実」によって示される。「霊の結ぶ実は、愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラ5・22)。霊によるいのちの反対は、「肉の業」によって示される、肉による生活である。「それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラ5・19-21)。新しい契約が根本的に求めるのは、「肉の業」を避けることである。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(ガラ5・13-14)。

45 霊において生きるとは、すべての人とともに、またすべての人のために交わりと連帯の生活を送ることである。パウロがのべているように、キリストのからだとしての教会においては、どの成員も重要であり、互いに補い合う。からだの部分は違っても、からだは一つである。からだにおいては、違いを含みながら一致があり、違いを互いに補い合い、互いに責任を担い合いながら全体が築き上げられる(ロマ12・4-5、1コリ12・4-7、エフェ4・16)。

46 旧約と同じように新約においても、神がいのちをたまものとして与えること、十全ないのちを約束すること、愛、交わり、連帯が特徴である。これらはいのちの文化の根本的な構成要素である。神はいのちであり、神は愛である。神が愛だから、われわれは生きる。われわれが生きるならば、われわれは愛さなければならない。われわれは愛するならば、交わりと連帯に向けて行動しなければならない。以上の考察から、イエスの福音が「いのちの福音」と呼ばれ、イエスが告げ知らせ、もたらそうとする神の国が、満ち満ちたいのちの国である理由が理解できる。

1.家庭―愛といのちの聖域、契約と交わり

47 教会とは、地上において神の家族として生きることである。それは将来与えられる十全ないのちの始まりをわれわれにもたらす神の恵みであると同時に、十全ないのちをめざす旅路においてわれわれが果たすべき課題でもある。このように恵みと課題が結びついている点において、「家庭教会」が重要な意味をもつ。「いわゆる死の文化に対して、家庭はいのちの文化の中心です」(『新しい課題』39)。もし教会が、いのちの神が住まわれる特別な場所であるならば、家庭教会、すなわち家庭も、同じようにいのちの神の聖域であり、いのちの全体を迎え入れる場である。教会と同様、家庭でも、互いに責任を担い合うこと、互いに補い合うこと、互いに配慮し合うこと、二人の人間が人間としての尊厳において対等な関係を結ぶことが求められる。「家の教会」としての家庭は、信じ、祈り、分かち合う共同体である(使2・42-47)。

48 「キリスト教的家庭は、キリストと教会の間の愛の契約の像であり、それへの参加であるところの婚姻から生じたものであるから、夫婦の愛と豊かな実りと一致と忠実をもって、また家族全員の愛の協力をもって、世における救い主の生きた現存と教会の真正の本質をすべての人に示すであろう」(『現代世界憲章』48)。家庭の始まりは、男と女の間に結ばれた聖なる契約である。この契約は神と民の間の契約を反映している。家庭は夫と妻の間の愛といのちの契約であり、夫婦は「互いに自己を与えそして受ける」(同。創2・24参照)。二人は愛において互いに結ばれ、互いに自己を与え合いながら、死に至るまで忠実を守る(マタ19・6)。

49 結婚の交わりの模範は、「キリストと教会の一致」(『現代世界憲章』48)である。夫の妻への愛は、花嫁である教会に対するキリストの愛のように、忠実で、自己犠牲を伴うものでなければならない。妻の夫への愛も同様である。夫婦は互いに対してキリストの愛の秘跡であると同時に、教会の愛の秘跡でもある。すなわち、結婚した者同士の愛は、キリストと教会の愛における一致を表す。キリストの愛は、夫婦の愛、関係、家庭生活において内的に現存すると同時に、夫婦を霊的に支え、成長させる源泉ともなる。「この神秘は偉大です」(エフェ5・21-33)。パウロは「あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」(エフェ5・33)という。「敬う」(フォベオマイ)は相手にとって真に善になることを「深く見つめる」ことを意味する。

50 こうして結婚の聖なる契約による夫婦の愛は、神とイスラエルの民の間の契約に示された愛、イエスと教会の間の契約に示された愛に擬せられる。この愛は家族のすべての成員に及び、忍耐、親切、尊敬、信頼、ゆるし、あわれみによって特徴づけられる。互いに愛し合い、敬い合いながら家庭生活を送ることによって、夫婦は人間として、キリスト者として成熟していく。このように神的な豊かさを帯びたものであるがゆえに、家庭の神秘そのものが、福音なのである。

2.契約によって示された、結婚における愛-両親と子ども

51 神は「婚姻の創設者」(『現代世界憲章』48)として、始めから、結婚を解消してはならないと命じた(マタ19・5-6)。また、神は結婚を、いのちを生み出すことに向けられた神のたまものとして定めた。「婚姻制度そのものと夫婦愛とは、その本来の性質から、子どもの出産と教育に向けて定められているものであって、これらはその栄冠のようなものである」(『現代世界憲章』48。50参照)。夫婦が「一体となる」(創2・24、マタ19・3-9)ために神から与えられたたまものによって、夫婦の愛と生活の一致は切り離すことができないものである。この一体性は、夫婦の共同生活についてだけでなく、生まれる子どもについてもいえる。夫婦はどんな子どもが生まれることも、根本的に受け入れなければならない。神の愛は、男子であれ女子であれ、障害児であれ健常児であれ、富裕者であれ貧困者であれ、いかなる者も差別したり排除したりしないからである。すべての生まれてくる子どもは神からのたまものである。だからといって、不妊の夫婦を貶めるわけではない。子どもをもつことができなくても、神が与えるいかなるいのちも受け容れようとする、根本的に開かれた道徳的態度も、神からの祝福・恵みだからである。

52 夫婦は力を合わせて、神への道を歩むよう、子どもを育てなければならない。夫婦は子どもたちにとって最初の要理教育者である。そのため、夫婦は教会が提供するさまざまな機会を通じて自らの信仰を養う必要がある。キリスト者が少数者で、学校における宗教教育が行われないアジアの多元主義的社会では、夫婦が行う子どもたちへの信仰教育は必要不可欠なものである。

53 神は家庭の本性のうちに、子どもたちを通じて未来の種を蒔くと同時に、高齢者に対して感謝とともに過去の思い出を振り返ることができる恵みを与えた。夫婦が神の創造のわざにあずかる、神が与えたこの結婚のたまものに対して、老人も若者も感謝、希望、畏敬の念をもつ。

C.召命と宣教―「家庭よ、本来の姿になりなさい」

54 家庭の本性そのもののうちに神の召命と宣教が組み込まれている。神は男と女を神の召命として家庭を営むよう召し出し、同時にある人々を独身のままで生きるよう召し出す。結婚した者は、なによりもまず神の国を求めるよう招かれている。神の無限の愛によってともに引き寄せられた者は、同じ神の愛によって宣教に向かうよう命じられている。家庭において、夫婦の宣教は互いに仕え合うことによってなされる。日常生活の中で互いに福音化される過程を通じて、夫婦は互いにいのちと愛の福音を告げ知らせる。この福音は、洗礼と結婚の秘跡を通じて、信者の心に根を下ろす。しかし福音は互いに告げ知らせるだけでなく、他の人にも告げなければならない。家庭は、真のあかしを通じて愛といのちの福音を告げる。だから普遍教会は教皇ヨハネ・パウロ二世を通じて家庭教会にこう命じる。「家庭よ、本来の姿になりなさい」(『家庭―愛といのちのきずな』17)。

55 まず家庭の「内への」宣教が求められる。互いの福音化は、夫婦が互いに愛し合い、配慮し合い、仕え合うこと、子どもを愛しながら世話すること、また子どもも愛と忠実をもって両親に仕えることを通じて行われる。家庭は家族が自分らしくなり、健全に成長する場である。信仰の観点から見ると、家庭生活は、キリストの死と復活、救いの福音をたえずあかしする過程と考えることができる。それは真の意味でいのちの要理教育である。

56 夫婦の共同体は、独自の仕方で教会のあり方を示すよう招かれている。結婚は教会のあり方・教会となる道の一つである。人間同士の親しみを深め、他者の人格的幸福を目指している夫婦は、教会の中で、ことばと行いをもって、愛といのちをもたらす関係を実現し、またその意味を訴えることができる。神がご自身を与える愛であるというキリスト者の信仰を、夫婦は身をもって示す。

57 また家庭の本性そのものから、「外への」宣教、福音化の使命が由来する。神が造られたものを見て「良しとされた」というのは、それらが物理的に美しかったことだけでなく、道徳的・霊的な意味での「良さ」も意味している。こうした道徳的・霊的次元は、とりわけ最初の夫婦であるアダムとエバについて神がのべたことばにあてはまる。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創1・28)。これは物理的な意味でいわれているだけではなく、善・美・正義・神の愛で地を満たせという命令でもある。人祖は罪と人間の限界を知ることを通じて、人間が成長するために必要な苦しみを理解した。人間の限界と失敗は、家庭の召命と宣教を実現するための障害ではない。神はとこしえに忠実であることを約束されたからである(イザ38・19、エレ31・3)。こうして試練のただなかで、人間が始めから与えられた道徳的・霊的輝きが地に広まり、限りあるかたちであれ、ふさわしいしかたで神を映し出すのである。

58 家庭が「家の教会」であるなら、なによりもまず人々が取り組まなければならない問題は、家庭である。結婚の破綻や、家族の崩壊が起こっている中で、これはきわめて重要である。経済的・心理的・社会的思惑から、人々は知らず知らずのうちに家族のきずなを弱めたり死滅させたりしている。この現象が社会全体に影響を及ぼしている。教会の指導者は、家庭のあり方と関係を強化するために-つまり、「家の教会」を築くために何ができるだろうか。これが今問われている問題である。

1.宣教と経済的グローバル化

59 神の善・正義・愛を反映するという、すべての家庭の課題がなによりも緊急性を帯びているのは、いのちに関する社会的領域である。したがって、家庭の宣教使命に関する司牧的考察では、グローバル化とそれがもたらす諸問題が対象となる。20年前、グローバル化ということばは、人類が一つに結ばれ、富が公平に分配される、夢の未来として語られていた。

60 グローバル化によってアジアのほとんどの国で現実に起こったのは、不正、貧困、搾取、抑圧、環境破壊の悪化である。競争原理は何億人のアジアの民衆を、弱肉強食が支配するグローバル化した経済と、文化的ダーウィニズムから取り残した。信仰の観点から現在の状況を考察するなら、グローバル化のたどっている道は、人々の家庭にとって完全に間違ったものであり、別な道を模索することが必要だということがわかる。

61 教皇ヨハネ・パウロ二世は、適切にも、グローバル化が世界の社会正義の実現に向かうものとなるために、「連帯のグローバル化、周縁化をもたらすことのないグローバル化」(『1998年世界平和の日メッセージ』3)とならなければならないと指摘した。そのためには、現在は富裕層・世界の経済的強者の支配化に置かれている、自由市場の力の公正な制御が必要である。グローバル化は、資源の利用と開発、開発がもたらす富の分配を管理する、国際的な法的規範および普遍的倫理原則によって制御されなければならない。教会の社会教説にもとづくなら、そのための原則は以下の通りである。環境の保護、資源の普遍的分配、調和のとれた人間開発、開発がもたらす富の均等な分配、貧しい人々の優先的選択、貧しい人々の開発への参加。アジアの教会は、特にFABC、とりわけその社会活動司教研修会(BISA)や社会活動における信仰対話研修会(FEISA)を通じて、こうした諸原則を教えてきた。

2.家庭と文化的グローバル化

62 現代は個人の自律と個人の人権が擁護される。基本的人権は共通善のために不可欠である。父権主義が強い文化の中で、アジアの女性の人権を向上させることが必要である。他方で家族の「愛といのちの共同体」としての側面が軽視され、共同性を犠牲にして個人の人権が強調されすぎたり、家族・共同体の善よりも配偶者・子どもの個人的権利が強調される場合もある。

63 結婚における自由のありかたそのものが危うくされている。ポストモダン的な意味で自由が理解され、人々は「自由を、結婚と家庭に対する神の計画の真理を実現していくための力としてではなく、利己的な幸せのために、しばしば他の人々を否定するような自己主張の力として考えています」(『家庭―愛といのちのきずな』6)。このような自由観は、伝統的な信仰に真っ向から反する新たな行動・価値観を合法化しようとするさまざまな試みに現れている。すなわち、離婚、同性結合を結婚とみなすこと、堕胎、また国連の会議で使われる「リプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)」(訳注)というあいまいなことばが含む多くの思想である。現今の文化が広く認知に向けて努める新しい「権利」に関して慎重な吟味が必要である。

(訳注)「リプロダクティブ・ヘルス(性と生殖に関する健康)」:1994年にカイロで国連が開催した国際人口・開発会議(ICPD)で提唱されたことば。ライフサイクルを通し、性と生殖の健康を権利としてとらえようとする概念で、「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関する健康/権利)」として用いられる。妊娠・出産の調節、不妊、性感染症、HIV/エイズ、性暴力、売買春、女性特有の病気などが含まれる。

 なお第156回国会(常会)-平成15年1月20日~7月28日―提出の内閣府男女共同参画局「平成15年度において講じようとする男女共同参画社会の形成の促進に関する施策」(男女共同参画白書平成15年版)第9章第1節にも「リプロダクティブ・ヘルス/ライツに関する意識の浸透」として、「リプロダクティブ・ヘルス/ライツについて男女が高い関心を持ち、正しい知識・情報を深めるための施策を推進する」と謳われている:
  http://www.gender.go.jp/whitepaper/h15/danjyo/html/sisaku/index.html)

64 グローバル化によって、新しい世界の文化状況はアジアの教会に対して福音化のための新たな課題を与えている。文化の福音化はさまざまな次元を含む。われわれは自分たちの文化を福音化し、この文化の中にある、キリスト教信仰から逸脱した伝統・信念・しきたり・慣習を清める必要がある。一方でわれわれは聖霊によって他宗教の中に蒔かれたみことばの種に照らして、われわれの信仰を理解し直す必要もある。こうした聖霊のたまものと共生することにより、アジアの文化の言語とエートスによってキリスト教信仰を表現し、理解し、祝うことができるようになる。最後に、グローバル化が与える文化的脅威、すなわち物質主義的・相対主義的倫理規範の押し付けに立ち向かわなければならない。

65 われわれは神が絶対的な真理であり、あらゆる真理は神からくると考える。いのち、愛、結婚、家庭などに関してわれわれの救いのために必要なことがらについて、神が聖書に啓示したこと、教会が霊感を通じて解釈したことは、普遍的な真理である。さらに神が人間本性にはっきりと刻み込んだことは真理であり、理性によって知られる。それゆえ教会は、たとえそれが限界のある言語と文化によって表現されているとしても、普遍的な真理が存在すると、とこしえに主張する。ところが教義的・道徳的相対主義は、そうした真理を否定し、真理は時代によって変化すると説く。そこから、結婚を秘跡とし、同性結合、離婚、避妊、堕胎を拒絶する教会の教えは「時代遅れ」だと、批判者たちは嘲笑う。彼らは皮肉にも教義的確信をもって、教会が時代遅れにならないでいるためには、教会の教えは時代とともに変わらなければならないと宣言する。われわれが家庭の福音化において立ち向かわなければならないのは、現今の文化におけるこうした教義的・道徳的相対主義である。もちろん、われわれは離婚、結婚の破綻、堕胎によって失われたいのちによって苦しむ人々と苦しみを分かち合わなければならない。だから、真理を教える際には、謙虚さ、あわれみ、そして愛をもってすることが求められる(エフェ4・15)。夫婦とその家族にかかわり、教育を行う真の司牧的奉仕職ではこうした態度が必要である。

3.家庭と社会変革

66 社会の基礎細胞として、家庭は本来社会的役割をもっている。しかしこのことはキリスト教的家庭について特にいえることである。結婚の秘跡は、「キリスト者の夫婦や親が信徒としての召命を生き、『世俗的な事柄に従事し、それらを神の計画に従って秩序づけていくことによって神の国を求める』(『教会憲章』31)ための献身と力」を与える(『家庭―愛といのちのきずな』47)。それゆえ、「世俗的な事柄を神の計画に従って秩序づけていく」活動、いいかえれば社会変革への参加は、家庭の奉仕職・使命の一部をなすものである。

67 アジアでは少なくとも次の3つの重要な分野で社会変革が必要である。(1)社会正義と平和の実現、(3)公共事業の公正性の実現、(3)環境保護。それぞれが構造的な側面をもっている。

68 社会変革は家庭から始めなければならない。それは両親の態度の変革、子どもの教育、両親が身をもって正義・平和・公正・環境保護の価値を伝えることによってなされる。互いに助け合うことにより、家庭は社会の中で「家族政策」(『家庭―愛といのちのきずな』44参照)の主唱者となり、公職における公正化の推進、対立・抗争する人々の和解に寄与できる。

69 家族政策は、家庭の権利(『家庭―愛といのちのきずな』46参照)の擁護においても実行されるべきである。家庭の権利が国家によって蹂躙される場合もある。そのためアジアの家庭は「家庭の権利に関する憲章」(1983年に聖座が公布。『家庭―愛といのちのきずな』付録)をよく知り、主張・擁護・推進していかなければならない。家庭の権利はカトリック信仰だけにあてはまるものではない。それは結婚と家庭の本性にもとづいており、すぐに諸宗教間の協力の目的としうるものである。

4.家庭と宗教間対話

70 アジアは世界宗教の生まれた地であり、違う宗教を信じる人々との出会いが日常的に行われる。キリスト者の福音宣教の使命において、福音の価値観をあかしすることが何より重要なのは、この日常的な出会いにおいてである。福音宣教の使命をまっとうするために、キリスト者の家庭は、キリスト者とはいかなる者であるかをはっきりと自覚し、キリスト者のおきてを忠実に守り、キリスト教的価値観にもとづいて生きる必要がある。キリスト者であることへの忠実さと責任があってこそ、キリスト者の家庭と他宗教の人々との対話ははじめて可能となり、また実りあるものとなる。

71 教皇ヨハネ・パウロ二世がのべているように、「つねに同じ程度や同じ方法によるわけではありませんが、信者一人ひとりとすべてのキリスト者の共同体は、対話を実践するように招かれています」(『救い主の使命』57)。家庭のレベルで行われる諸宗教間対話には多くの方法がある。(1)まず、日常生活の中で行われる福音の価値観のあかしである。福音の価値観には、以下のものがある。a.受胎から自然死に至るまでのいのちの不可侵性、b.人間の人格の尊厳、c.男性と女性の間でなされる結婚の不可侵性、d.結婚と家庭は神が定めたものであること、e.子どもへの理解と愛、f.各人の召命に応じた貞潔、g.貧しい人、病人、助けを求める人との連帯(『現代世界憲章』51、『いのちの福音』58-67参照)。共通の価値観を互いに尊重し合うことから、そうした価値観の保護・推進のために協力できるようになる。特に貧しい人との連帯は、そこから出発して、キリスト者の家庭が他宗教の家庭と協力し、社会正義の推進・平和の実現・環境保護に取り組むことのできる社会的価値である。(2)キリスト者の家庭が、改宗を目的とするのでなく、ただ私心のない友情と一致のうちに自分たちを伝えようとして、自分の神体験・信仰体験を分かち合うことも考えられる(『対話と宣言』57参照)。(3)最後に、すすんで聞き、受け入れる人がいれば、救いの福音を伝えることを拒んではならない(ロマ10・14-15参照)。キリスト者の家庭は、少なくとも家族の成員の要理教育を通じて、こうした信仰の宣言を行う必要がある。

72 とりわけ混宗・異宗婚の場合、諸宗教対話はことばのうえでの対話だけでなく、愛と生活における対話となる(1コリ7・12-16参照)。宗教間の対立があるところで、このような家庭内の対話と和解の実践はきわめて重要なものである。

5.家庭と教会基礎共同体

73 「家庭教会」はもっとも基本的な教会共同体の形式であり、教会のあり方として重視すべきである。家庭教会は地方教会の一部をなすべきものである。教皇ヨハネ・パウロ二世は、アジアの司教が教会基礎共同体(BEC)を司牧的に重視することを承認して次のようにのべた。「教会の基礎共同体は、小教区と教区における交わりと参加を促す効果的な手段であり、福音化のための本物の力です。・・・したがって、教会基礎共同体は、愛の文明の現れである新しい社会を建設する確かな出発点なのです」(『アジアにおける教会』25)。アジアの教会基礎共同体の建設を推進するうえで、家庭が特別な役割を担うことは間違いない。とりわけ多宗教社会で、混宗・異宗婚が行われるアジアにおいて、同じことが人間基礎共同体(BHC)についてもいえる。家庭はBECにとってもBHCにとっても、もっとも基本的な共同体の単位をなすからである。多くの場合、BECは近隣の家族から構成される。そこでは祈り、みことばの読書と考察、日常生活への適用が行われる。BHCでも、さまざまな宗教の祈り、考察、隣人の益となる協力と共同の行動が行われる。

74 BECにおける家庭を、小教区の司牧計画を適用すべき、福音宣教の焦点とすべきだといってもかまわないのではなかろうか。そうすれば、BECは家庭の共同体となり、小教区は真の意味で共同体の中の共同体となる(使4・32参照)。BECやBHCにおいて人間生活のあらゆる面で家庭が連帯することは、些細な規模ではあれ、経済的・文化的グローバル化現象に対する抵抗となる。家庭レベルのこうした共同体において、教皇ヨハネ・パウロ二世の提唱する「愛と連帯のグローバル化」が始まる。そのために、小教区の構造の刷新とともに、信徒・司祭の奉仕職における刷新、ないし、少なくとも優先課題の見直しも必要となろう。家庭における信仰教育を通じて、家庭の機能を強化し、いのちの文化をめざすBEC・BHCの使命に貢献できるようにすることが、もっとも重要な司牧的優先課題となる。

D.家庭の霊性― いのちの文化をめざす交わり、キリストの弟子として生きること

(参照:『第4回アジア司教協議会連盟総会最終報告 アジアと世界における信徒の召命と使命』カトリック中央協議会、55-62頁[3.8.1-11信徒の霊性]、『紀元2000年に向かうアジアの教会 アジア司教協議会連盟第5回・第6回総会最終声明』カトリック中央協議会、「アジア司教協議会連盟第5回総会最終声明」、47-50頁[D.1-7 わたしたちの時代の霊性])

75 家庭の中心にあるのは神の愛である。神の愛は夫婦を結婚における愛の一致へと、また子どもたちのいのちを根本的に受け入れる愛へと導く。それゆえ家庭の中心にあるのは交わりである。それは神との交わりであり、配偶者との交わり、親子の交わり、祖父母や拡大家族同士の交わりでもある。こうした交わりの関係は、たんに一つ屋根の下に住んでいるとか、血のつながりがあるということだけに尽きるものではない。それは心と思いを一つにすることであり(ヨハ17・21、使4・32、フィリ2・2、1ペト3・8)、父と子と聖霊の三位一体の交わりを人間的なしかたで映し出すものである。家庭はこの三位の神から生まれる。そもそも、いのちの文化の究極的な根拠は、三位の神の愛といのちのうちにある。したがって、交わりの霊性は、家庭がいのちの文化の担い手となるよう導くのである。

76 しかし、交わりはより広い共同体にまで及び、そこから家庭は人々に奉仕するよう派遣される(ヨハ17・14、18、20)。この、外に向かう動きによって、家庭は三位一体の交わりにあずかる。交わりの霊性は、家庭とそこにおける関係を活性化し、家庭の輪を隣人から共同体全体へと広げていく。この霊性なしに、家庭は自らの使命を果たすことができない。

1.キリストの弟子として生きることと日常性

77 交わりの霊性は、キリストの弟子として生きる霊性、キリストにつながり、キリストに従う霊性である。結婚した夫婦・家庭がキリストの弟子として生きることは、まずキリストの声を聞くこと、聖書の中で、また教会の中で、そして日常の出来事の中で語られたキリストのことばを心にとめることから始まる。カナの婚礼で、マリアが花嫁と花婿の結婚生活の初めに召し使いに言ったのと同じことばが、家庭に向けても言われる。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(ヨハ2・5)。大事なのは、家族のかかわりや、仕事、また日常生活の中でイエスのことばを聞き、家庭生活にかかわるイエスのみ旨を識別することである。愛をもって忠実にキリストの弟子として生きるなら、日常生活こそ、家庭がいのちの文化をめざす道である。

78 選ぶべき価値観・行動を識別するには、夫婦・家庭は、生活の中で神がいつもともにいてくださるよう祈り求めなければならない。聖霊は生活に向けて、生活を通して語りかけるからである。教会全体は、夫婦・家族の持っている「信者の感覚」を、教会が行う識別にとって重大な要素として尊重する必要がある。

2.良心の形成と結婚の恵み

79 家庭の霊性にとって、良心の役割は不可欠である。夫婦は、流行の思想や、自分たちの望み・欲求に従うだけではいけない。夫婦の生活と行動は、「神のおきてを正しく解釈する」(『現代世界憲章』50)教会の教導職に照らされつつ、自分たちの良心を通じて語りかける神に従うものでなければならない。良心は、真の意味で人間であるために男と女に与えられた神のたまものである。良心は人々の投票で決められるようなものではない。良心は「神のおきてに従順でなければならない。神のおきては夫婦愛の十全な意味を示し、この愛を守り、それを真に人間的な完成へ導く」(『現代世界憲章』50)。教会が解釈した神のおきてに聞き従う、正しい良心を養うことは、夫婦・家庭の霊性になくてはならない要素である。そこから、両親はかならずや、子どもを育てる際に、子どもたちのうちに正しい良心を形成するようになるであろう。

80 結婚生活の中で万事において神が現存することが、聖性に向けて歩むうえでの力となる。「キリスト者たる夫婦は、その身分上の義務と尊厳のため、特別な秘跡によって強められ、いわば聖別されるのである。キリスト者たる夫婦はこの秘跡の力によって夫婦と家庭の務めを果たし、彼らの全生活を信仰と希望と愛をもって包むキリストの精神に満たされて、ますます自己完成と互いの聖化に進み、あい携えて神に栄光を帰するのである」(『現代世界憲章』48)。祈りや仕事において結婚のこの特別な恵みを意識すれば、きっと家庭に霊的・世俗的な多くの実りがもたらされ、また家族は三位の神の生き生きとした現存をつねに感じるであろう。

3.祈り、過越の神秘、聖体

81 祈り、すなわち「家庭による祈り、家庭のための祈り、家庭とともにする祈り」(教皇ヨハネ・パウロ二世『家庭への手紙』4)こそ、家庭の霊性の中心とならなければならない。家族の祈りは、奨励することも必要であると同時に、それを陶冶することもまた必要である。創造的なしかたで日常生活を福音の価値と結びつけることにより、家庭における新しい祈りかたを作り出すこと、習慣化した典礼や信心を刷新することが可能になる。イエスが信仰の家族に教えてくださった祈りは、教会が神の家族であること、家族が家庭教会であることを思い出させてくれる。「主の祈り」は、神を父として持つ家族にとって、もっとも重要な祈りである。

82 祈りに支えられた家族は、聖霊とともに歩み、聖霊のうちに生き、聖霊のうちにとどまり、忠実な弟子としてキリストに従うことができる。家族は結婚における忠実、結婚の力、配偶者と子どもが困難な日常生活に適切に対処する力を聖霊の恵みとして祈り求める。もちろんこうした恵みは基本的に結婚の秘跡から与えられるものである。「このようなキリスト教的召命の義務を絶えず実行するためには、すぐれた徳を必要とする。したがって夫婦は、恩恵によって聖なる生活を送るための力づけを与えられたのであるから、強い愛と寛大な心と犠牲の精神を熱心に養い、また祈り求めるべきである」(『現代世界憲章』49)。

83 キリスト教的家庭に託されている聖化する役割は、洗礼と堅信に基づいているが、それは「聖体に最高の表現を持っている」(『家庭―愛といのちのきずな』57)。聖体はキリストの受難と死と復活という、われわれの救いの源である過越の神秘の記念だからである。キリストがその苦しみと死から復活したように、聖体のうちに秘跡として表された過越の神秘を通じて、家庭はその困難な日常、失意、希望のない状況―家庭生活にまつわるさまざまな「死」から立ち直る力を与えられる。家庭は喜び、希望、ゆるし、和解、力を聖体から受け取る。

84 聖体はキリストと教会のあいだに結ばれた愛の契約を表している。それゆえ夫婦は聖体のいけにえのうちに、自分たちの契約の愛の源を見いだす。したがって、夫婦にとってミサはたんなる義務ではなく、祝いである。ミサは夫婦の交わりの秘跡的な源泉であり、また夫婦の契約の愛を子どもとともに祝うことだからである。「聖体は交わりを造り出し、交わりをはぐくみます」(『教会にいのちを与える聖体』40)。聖体において、家族はキリストのからだにおける家族の一致を、また家族同士での家族の一致を感謝する。「もしもあなたがたがキリストのからだであり、その部分であるなら、あなたがたは、主の食卓の上にあなたがた自身の神秘が置かれているのがわかるでしょう。そうです、あなたがたはあなたがた自身の神秘を受けるのです」(アウグスティヌス。『教会にいのちを与える聖体』40)。したがって、家庭に求められる交わりとキリストの弟子として生きる霊性は、同時に聖体に生かされた霊性でもある。この霊性のなかには、キリストの聖体において示されたすべての行為が含まれる。すなわち、完全な自己放棄と、自分を犠牲としてささげる愛である。ミサは、子どもも幼児も含めた、家族全員があずかる、本当の意味での「家庭行事」でなければならない。

第3部 家庭への奉仕職のための司牧的提言


1.アジアにおける家庭への奉仕職の展望

85 アジアの家庭に関する状況と、神学的・司牧的考察を踏まえて、家庭への奉仕職のための以下の方針が求められる。

・家庭への奉仕職は、深さの点でも広さの点でも、包括的なものでなければならない。すなわち、上述のように、いのちの文化全体を包括する理解を考慮したものであるべきである。
・したがって、家庭への奉仕職は、これまでかかわってきた問題―避妊、堕胎、安楽死、自然家族計画、結婚前・結婚後の要理教育、家庭向上セミナー-を超えた広がりを持つ必要がある。
・家庭に関する世俗的価値観の増大に対して、家庭への奉仕職では、結婚が男性と女性の間に神が定めた秘跡であるという理解をあらためて回復する必要がある。
・家庭への奉仕職は、また、夫婦・家庭が多宗教の中での生活、貧困、移民、ジェンダー、若者、環境、政治、経済的・文化的グローバル化などの問題に取り組む訓練を行う必要がある。
・特別に助けを求める家庭へのケアも必要である。
・深い次元では、家庭への奉仕職は、家庭がいのちの文化をめざして歩む際に必要な、信仰を培う内的諸手段(秘跡、典礼、祈り、日常生活の中での霊性)を作り出さなければならない。

86 アジアの司教協議会における家庭への奉仕職では、結婚前の要理教育と家庭向上のための活動はすでに十分行われている。ビリングスメソッドを用いた自然家族計画の教育も十分なされている。家庭への奉仕職のための予算、家庭への奉仕職のための信徒の養成は不足している。特に小教区レベルでそれがいえる。
 すでに行われている計画とは別に、上記のアジアの司牧状況全体から求められる方針に基づく、以下の計画を提案する。

2.家庭への奉仕職―教育および、地位と能力の向上

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(a)福音宣教の焦点としての家庭
・家庭は福音宣教の焦点であるから、それを最優先課題とし、あらゆる司牧計画はこれを支持し、それに連動するものとする。
・すべての司牧計画の方針を再検討し、家庭の強化に役立つものとする。

(b)家庭における信仰教育
・家庭を交わりと宣教の霊性へと導くような健全な信仰教育の推進
・信仰教育による両親の強化。子どもの最初の教育者・要理教育者としての両親の召命の実現をめざす
・結婚に関するカトリック的価値観の強化。ただしその際、他宗教の信仰・価値を尊重しつつ対話を行う
・いのちの文化をめざす、夫婦・両親・子どもの生涯教育
・家庭への奉仕職の基本となる、「家庭の権利に関する憲章」の普及

(c)家庭内の夫と妻の役割分担
・家庭内のさまざまな役割分担における夫と妻の平等、協力関係、相互責任の回復
・父権主義の撲滅と、女性の権利を認めない抑圧的・伝統的価値観・構造からの女性解放
・人間関係・家族関係における男女のセクシュアリティに関する適切な教育
・教区・小教区の奉仕職において、女性の地位と能力の向上を基本とすること

(d)家庭への奉仕職のための予算と人員
・教区・小教区の家庭への奉仕職のための専従スタッフを設けるために必要な予算・人員の提供。信徒の登用を優先させること
・家庭への奉仕職に従事するスタッフの徹底的かつ適切な教育。女性のカウンセラーと「夫婦カウンセラー」の採用と教育が特に緊急に必要。
・教区・小教区の家庭への奉仕職のために、家庭福祉に関する専門家の協力を得ること

(e)家庭への奉仕職と召命
・家庭への奉仕職に召命促進の性格も含める。

(f)家庭への奉仕職のための方法、支援組織、計画
・小教区内に宣教を助ける支援グループを組織する
・夫婦の教育には夫婦を、家族の教育には家族をあたらせる
・学校用、またBEC・BHC用の、性教育、夫婦関係に関する倫理問題、キリスト教的子育て、家庭における要理教育のテキストの作成
・神学校・養成機関のカリキュラムに、家庭への奉仕職も教科内容として組み込む

3.家庭への奉仕職―ケアと奉仕

88 家庭への奉仕職のための特別計画:
・単親家庭、文化の異なる夫婦、混宗・異宗婚夫婦の全面的なケア
・離婚家庭、再婚家庭のケア
・海外移民労働者のいる家庭、海外移民労働者の出国前・帰国後の支援
・家庭内暴力・虐待、未成年者の結婚、親の取り決めによる結婚、薬物中毒、HIV関連問題の支援
・家族カウンセリング(若者のための職業カウンセリングを含む)
・子どもの支援
・宗教の異なる家族同士が互いに理解を深める機会をつくる

4.家庭への奉仕職―社会改革

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・家庭に関して、国家と教会が補完的役割を果たすことの推進
・BEC・BHCを通じた、家庭のための健全な人間開発計画の推進:社会的・政治的提唱活動・行動を可能にする社会的意識化から始める
・教皇ヨハネ・パウロ二世が勧める「新しいフェミニズム」に沿ったかたちで、社会変革にジェンダーの視点を組み入れること
・社会正義・平和のための取り組みへの女性参加の推進
・社会的・政治的提唱活動をめざした、BEC・BHCにおける、宗教の異なる家族の間での職業訓練、ネットワークづくり。広報手段・インターネットの監視を含む
・カトリック学校での、宗教の異なる家族への奉仕職
・メディア・法律の脅威から福音の価値観を守る社会的・政治的提唱活動を行うための、学際的信徒・夫婦グループの形成
・児童・未成年者兵士の禁止
・児童・女性売買の禁止(特に売買春ツアーのための)

90 アジアにおける家庭のための奉仕職の基本的方向性は、実際的かつ積極的な、家庭における交わりと宣教の霊性をめざすものでなければならない。この霊性は、教会的・秘跡的・キリスト中心的なものである。アジアの家庭の多文化的・多宗教的状況を踏まえて、この霊性は特に「神の国の霊性」に重点を置くべきである。「神の国の霊性」は、アジアの家庭がアジアにおける真のいのちの文化をつくる助けとなることをめざす、宣教使命の公分母となるものである。

(カトリック中央協議会 司教協議会秘書室研究企画 訳)

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