教皇ベネディクト十六世の2回目の一般謁見演説 詩編121

5月4日(水)10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の2回目の一般謁見が行われました。演説の中で、ベネディクト十六世は聖務日課(教会の祈り)の晩の祈りで唱えられる詩編121の考察を行いました。以下はその全文の翻訳です(原文はイタリア語)。


1 先週の水曜日にすでにお知らせしたように、わたしはこの教理講話の中で、わたしの前任者であるヨハネ・パウロ二世が準備していたテキストを用いて、晩の祈りで用いられる詩編と賛歌に関する注解を再開することにしました。
 今日、わたしたちが黙想する詩編121は、一連の「都に上る歌」の一つです。都に上るとは、シオンの神殿で主に出会うために行う巡礼のことです。この詩編は、信頼の詩編です。なぜなら、この詩編の中では、ヘブライ語の動詞「シャマール」(見守る、守る)が6回、繰り返して用いられているからです。詩編の中では何度も神の名が祈り求められます。神は、いつも目を覚まして、注意深く、気遣いながら「見守る方」、その民を見張り、あらゆる危険と災いから助けてくださる「見張り」の姿で現れます。
 詩編の始めに、祈る者は高み、すなわち「山々」に向かって目を上げます。「山々」とは、エルサレムがそびえ立つ丘を意味します。助けは高みから来ます。なぜなら、主は、高みにあるその聖なる神殿のうちに住まわれるからです(1-2節参照)。しかしながら、「山々」は、偶像のまつられた神殿のある場所も同時に意味することがあります。旧約聖書の中でたびたび非難される、いわゆる「高台」です(列王記上3・2、列王記下18・4参照)。この詩編の中では、次のような対比が行われています。巡礼者は、シオンに向かって歩むときに、異教の神殿に目を落とします。異教の神殿は巡礼者にとって大きな誘惑となるものです。しかし、彼の信仰はゆるがず、確固としています。「わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」(詩編121・2)。
 
2 詩編の中で、この信頼は、見守り、守ってくれる「見守る方、見張り」の姿ととともに描かれています。そこでは、人生の道のりの中でよろめくことのない足のことが述べられます(3節参照)。また、そこでは、足がよろめくことのない、牧者の歩みのこともおそらく述べられているのだと思われます。牧者は、夜、休んでいる間も、まどろむことも眠ることもなく、自分の群れを見守ります(4節参照)。牧者である神は、休むことなく自分の民を見守ってくださるのです。
 続いて、「陰」というもう一つのたとえが用いられます。「陰」は日中、旅路を再開することを意味しています。このことばは、かつてのシナイの荒れ野での行進を思い起こさせるものです。そのとき主はイスラエルに先立って進み、彼らを「昼は雲の柱をもって導き」ました(出エジプト13・21)。詩編はしばしば次のように祈っています。「わたしを・・・・あなたの翼の陰に隠してください」(詩編17・8。詩編91・1参照)。

3 「徹夜」と「陰」の後に、3つ目のたとえが用いられます。すなわち、主が自分に忠実な者の「右」にいるというたとえです(詩編121・5参照)。「右」は、戦争や試練のときに守る者がいる場所です。それは、試練や、悪が襲うとき、また、迫害のときに、見捨てられることがないという確信を表します。ここで詩編作者は、熱い日のもとで旅路を歩む姿をもう一度取り上げます。神はそのようなときに、燃える太陽からわたしたちを守ってくださるのです。
 しかし、昼の後には夜が来ます。古代には、月の光も、害をなすものと考えられました。それは熱病や盲目、さらには狂気の原因にまでなると考えられたのです。だから主は、夜の間もわたしたちを守ってくださいます(6節参照)。
 詩編は終わりに、短い信頼のことばを述べています。神は、すべての災いからわたしたちのいのちを守りながら、どんなときにもわたしたちを愛をもって見守ってくださいます(7節参照)。「出で立つ」と「帰る」という、2つの対極をなす動詞に集約された、わたしたちのすべての活動を、主はまどろむことなくつねに見守ります。それは、わたしたちのあらゆる行い、わたしたちのあらゆる時に及びます。「今も、そしてとこしえに」(8節)。

4 ここでわたしたちは、この最後の信頼についてのことばを、古代のキリスト教の伝統の霊的な証言によって注解したいと思います。実際、ガザのバルサヌフィオス(6世紀中頃没)――バルサヌフィオスは、非常に有名な隠遁者。識別の知恵に優れていたので、修道士や聖職者、信徒が教えを乞うために訪れました――の手紙の中では、この詩編の、「主がすべての災いを遠ざけて、あなたの魂を見守ってくださるように」ということばが何度も引用されます。このようにして、バルサヌフィオスは、自分たちの労苦や、生活の苦難、災い、不幸を打ち明ける人びとに慰めを与えようとしたのです。
 あるとき、一人の修道士が、自分と仲間のために祈ってくれるように、バルサヌフィオスに願いました。バルサヌフィオスは、自分の好意を込めながら、この詩編のことばを引用して、こう答えました。「わが愛する子らよ、わたしは主においてあなたがたに挨拶を送る。わたしは主に祈り求める。主があなたがたをすべての災いから守ってくださるように。主が、ヨブのような忍耐と、ヨセフのような恵みと、モーセのような優しさと、ヌンの子ヨシュアのような戦いにおける勇気と、士師たちのような優れた知識と、ダビデ王とソロモン王のような敵を屈服させる力と、イスラエルの民のような地に実りをもたらす力を、あなたがたに与えてくださるように。主が、手足の萎えた体をいやしてくださったように、あなたがたのすべての罪をゆるしてくださるように。主が、ペトロにしたようにあなたがたを荒波から助け、パウロや使徒たちにしたようにあなたがたを苦難から救い出してくださるように。主があなたがたを、主のまことの子として、すべての災いから守ってくださるように。そして、そのみ名によって、魂と体の益となるために、あなたがたが心から求めるものを与えてくださるように。アーメン」(ガザのバルサヌフィオスとヨアンネス『書簡集』194 [Collana di Testi Patristici, XCIII, Roma 1991, pp. 235-236])。

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