教皇ベネディクト十六世の3回目の一般謁見演説 黙示録15

5月11日(水)午前10時30分から、教皇ベネディクト十六世の3回目の一般謁見演説が行われました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。この一般謁見演説では、教会の祈りの晩課で新約の歌として用いられる「ヨハネの黙示録」15・3-4が注解されました。


親愛なる兄弟姉妹の皆様

1 今日わたしたちが取り上げる新約の歌は、全体として、簡潔にして荘厳、鋭利にして勇壮なものです。この歌は、「全能者である神、主」に対して賛美の歌をささげます。この歌は、審判、救い、そして何よりも希望の書である黙示録に収められた、祈りのテキストの一つです。
 歴史は、闇の力や、偶然、あるいは人間の選択の手にのみ委ねられたものではありません。わがもの顔に振舞う悪の力や、サタンの激しい攻撃、そして多くの災いと悪の現れの上に、歴史の出来事の最高の審判者である、主が立ち上がります。主は、新しい天と新しい地の始まりへと、知恵をもって歴史を導きます。この新しい天と新しい地は、黙示録の最後の部分で、新しいエルサレムという姿で描かれます(黙示録21-22参照)。
 わたしたちがこれから黙想しようとする歌を歌うのは、歴史の中の正しい人びとです。彼らは、サタンの獣に打ち勝った者であり、明らかに殉教によって敗れたかのように見えて、実際には、その殉教を通して、最高の建築家である神とともに、新しい世を建設する人びとです。

2 この人びとは、主の「偉大で、驚くべき」業と、その「正しく、また、真実な」道をたたえ始めます(黙示録15・3参照)。これは、エジプトでの奴隷の状態から、イスラエルが解放されたことを表すのに用いられる、特徴的なことばです。紅海を渡った後に歌われる、モーセの最初の歌は、「ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行うかた」(出エジプト15・11)である主をたたえます。申命記の中で、偉大な律法の授与者であるモーセの生涯の最後に示される、モーセの第二の歌は、はっきりとこう述べます。「その御業は完全で、その道はことごとく正しい」(申命記32・4)。
 それゆえ、あらためてこういわなければなりません。神は、人間に起こる出来事に無関心なかたではありません。神は、これらの出来事を通して、その「道」を実現します。この「道」とは、神の計画であり、また、かならず実現されるその「業」のことです。

3 わたしたちが今、読んでいる歌によると、このような神の介入は、きわめて特別な目的をもっています。すなわち、それは、地上のすべての人びとを回心へと招くしるしとなるためのものなのです。諸国の民は、歴史の中に、神の語られることを「読み取る」ことを学ばなければなりません。人類の歴史は、混乱したものでも、無意味なものでもありません。またそれは、何の抗議もできずに、尊大で邪悪な者が悪事をなすがままに委ねられているのでもありません。
 わたしたちは、歴史の中に隠れた神の業を認めることができます。第2バチカン公会議も、『現代世界憲章』の中で、歴史の中に神の業の現れを認めるために、福音の光のもとで時のしるしを見分けるよう、信者を招いています(『現代世界憲章』4、11参照)。このような信仰に基づく態度によって、人は、歴史の中に働く神の力を認めるように導かれます。そこから、人は、主の名を畏れるために開かれた者とされます。実際、聖書のことばの意味では、この「畏れ」は恐怖と同じではありません。この「畏れ」は、すべてを超えた神の神秘を認めることなのです。だから、畏れは信仰の基であり、愛と結びついています。「あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕えることではないか」(申命記10・12参照)。4世紀の司教、聖ヒラリウスもこういっています。「わたしたちが畏れるとは、すべて、愛することである」。
同じように、わたしたちが読んでいるこの黙示録の歌の中でも、畏れと神をたたえることが、結びつけられています。「主よ、だれがあなたの名を畏れず、たたえずにおられましょうか」(黙示録15・4)。主への畏れのおかげで、わたしたちは、歴史の中で猛威を振るう悪を恐れることなく、人生の旅路を歩む力を取り戻します。預言者イザヤがこういっているとおりです。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人びとにいえ。『雄々しくあれ、恐れるな』」(イザヤ35・3-4)。

4 黙示録の歌は、終わりに、すべての民が行列を行うことへの期待を述べます。彼らは、歴史の主の前に現れ、主の「正しい裁き」(黙示録15・4参照)を明らかにした人びとです。彼らは、主をたたえるためにひれ伏します。すると、救い主である唯一の主は、地上での最後の晩に語ったことばを、もう一度彼らにいうと思われます。「勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16・33)。
黙示録において、正しい人が歌う「勝利の小羊」(黙示録15・3参照)の歌についてのわたしたちの考察を、古代の日暮れの歌、すなわち晩の祈りをもって終えたいと思います。これは、カイサレイアの聖バシレイオスがすでに知っていたものです。「日が暮れ、夜の光を見たわたしたちは、父と子と、神なる聖霊に賛美の歌を歌おう。いのちの与え主である神の子よ。あなたはいつの世にも、聖なる歌声をもって賛美をささげられるにふさわしいかた。あなたがいのちを与えてくださったがゆえに、世はあなたをたたえます」(S. Pricoco―M.Simonetti, La preghiera dei cristiani, Milano 2000, p. 97)。

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