教皇ベネディクト十六世の4回目の一般謁見演説 詩編113

5月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の4回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は教会の祈りの年間第3主日の前晩の祈りで唱えられる詩編113(朗読個所は詩編113・1 […]

5月18日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の4回目の一般謁見が行われました。この謁見の中で、教皇は教会の祈りの年間第3主日の前晩の祈りで唱えられる詩編113(朗読個所は詩編113・1-4、7-9)の解説を行いました。以下はその全訳です。原文はイタリア語ですが、用意されたテキストに当日、教皇が付け加えた部分も補って訳しています。
なお、5月18日は教皇ヨハネ・パウロ二世の誕生日でした。ベネディクト十六世は、演説の初めにそのことを思い起こしました。また、演説の後行われた、各国語による祝福の最後に、ベネディクト十六世はイタリア語で、アブルッツォ地方にあるグラン・サッソ山の山頂にヨハネ・パウロ二世の名前がつけられたことを発表しました。
一般謁見には、小雨の中、25,000人の信者が参加しました。その中には、教皇ヨハネ・パウロ二世の逝去後、初めてバチカンを訪れた200名あまりのロシアからの巡礼団も含まれ、教皇からロシア語による祝福が送られました。ロシアからの巡礼団は、この日、ヨハネ・パウロ二世に長く仕えたスタニスラフ・ジーヴィッシュ大司教によってヨハネ・パウロ二世の墓前でささげられたミサにも参加しました。
さらに、この日の一般謁見には、アメリカから、ボブ・シンドラーとメアリ・シンドラーの夫妻も参加しました。シンドラー夫妻は、去る3月31日に41歳で死去した、カトリック信者のテリー・シャイボ夫人の両親です。テリー・シャイボ夫人は、1990年に事故で負った脳の損傷により栄養補給管で生命を維持していましたが、栄養・水分補給管の除去を求める夫と、これに反対する両親とが長く裁判で争った後、最終的に州裁判所の決定で3月18日に栄養・水分補給管が抜かれ、14日後に死去しました。シャイボ夫人の死に際して、教皇庁は3月31日、ナバロ報道官と、レナート・マルティーノ正義と平和協議会議長が非難声明を発表しています。シンドラー夫妻は、一般謁見の前日の17日午前にマルティーノ議長と会見して、教皇庁の支援に対して謝意を表しました。この会見の後、午後に発表した声明の中で、マルティーノ議長は、教皇ベネディクト十六世が5月7日にサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂で行った説教の一節を引用して、いのちの保護に対する教会の姿勢をあらためて強調しました。説教は「殺すための自由は真の自由ではない。かえってそれは、人間存在を奴隷へと貶める専制にほかならない」と述べています。18日の一般謁見の終わりに、シンドラー夫妻は、教皇にシャイボ夫人の写真を渡し、教皇は二人と短くことばを交わされました。


 
親愛なる兄弟姉妹の皆様

 今朗読された詩編の短い注解を始める前に、今日は敬愛すべきヨハネ・パウロ二世の誕生日であることを思い出していただきたいと思います。この日、ヨハネ・パウロ二世は85歳を迎えられるはずでした。わたしたちはヨハネ・パウロ二世が天からわたしたちをご覧になり、また、わたしたちとともにいてくださることを確信しています。この機会にわたしたちは、この教皇を与えてくださったことを主に深く感謝したいと思います。そして、教皇ご自身に、そのすべてのわざと労苦について感謝したいと思います。
 
1 詩編113は、単純で美しい響きを持った詩編です。この詩編は、詩編113から118まで続く、伝統的に「エジプトのハレル」と呼ばれる、詩編の小さなひとまとまりの導入をなしています。ハレル詩編は、「ハレルヤ」すなわち賛美の歌です。それは、ファラオによる奴隷状態からの解放と、解放されて約束の地で主に仕える、イスラエルの喜びをたたえるのです(詩編114参照)。
 ユダヤ教の伝統が、この一連の詩編を過越の典礼と結びつけたのは、偶然ではありません。過越祭は、その社会的・歴史的な意味と、また霊的な意味に従えば、多くの形で現れる悪からの解放のしるしと考えられたからです。
 詩編113は、ヘブライ語の原文では60語あまりから成る、短い詩編です。そのことばはすべて、信頼と賛美と喜びに満ちています。

2 最初の一連(1-3節参照)は、「主の御名」をたたえます。ご存知の通り、「主の御名」は、神ご自身の存在、すなわち、人類の歴史において、神が生き、活動しながら現存することを示す、聖書の用語です。
 「主の御名」ということばは、3回、情熱的に力強く用いられて、賛美の祈りの中心をなしています。詩編作者はいいます。「日の昇るところから日の沈むところまで」(3節)、すべての存在、すべての時間は、感謝という唯一の行為において一致します。あたかも、地上から天に向けて、絶えることのない声が、宇宙の造り主であり、歴史の王である主をたたえるために立ち上るかのようです。

3 まさにこの天へと向かう動きによって、詩編はわたしたちを神の神秘へと導きます。実際、第2連(4-6節参照)は、主がすべてのものを超えていることを祝します。この主の超越は、たんなる人間的な視野を越えた、垂直的なイメージで描かれています。詩編はいいます。「主はすべての国を超えて高くいまし」、「御座を高く置」く。誰も主に並びうるものはいません。主は低く下って天を「ご覧になる」。なぜなら、「主の栄光は天を超えて輝く」(4節)からです。
 神は、地上のものも、天上のものも、すべての存在をご覧になります。けれども、この神のまなざしは、冷酷な皇帝のまなざしのような、尊大で超然としたものではありません。詩編作者はいいます。主は「低く下って」(6節)ご覧になると。

4 こうしてわたしたちは、この詩編の最後の連(7-9節参照)に至ります。ここでわたしたちの関心は、天の高みから地上の地平へと移されます。主は、わたしたちのうちの小さな者、貧しい者を気遣って、自ら身を低くされます。それゆえわたしたちは恐れから遠ざかるように促されます。主は、世のもっとも小さくみじめな者に対して、愛のまなざしを向け、力あるわざを行います。「主は・・・・弱い者を塵の中から起こし、乏しい者を芥の中から高く上げてくださる」(7節)。
 このようにして、神は、困っている人、苦しむ人に身をかがめて、彼らを慰めます。そしてこのことばは、神が受肉され、わたしたちと同じような者、世の貧しい者となるまで、身を低くされたときに、その究極の意味を見いだし、偉大な現実となったのです。神は貧しい者に大きなほまれを与えます。主はこの人々を「自由な人々の列に」、そうです、「民の自由な人々の列に返してくださる」(8節)のです。孤独な不妊の女性は、古代の社会では乾いた無用の枝であるかのように、辱められていました。このような女性に、神は、何人もの子を持つほまれと、大きな喜びを与えます(9節参照)。それゆえ、詩編作者は神を賛美します。神は、その偉大さにおいてわたしたちと異なりながら、同時に、苦しむ被造物にとても近いかただからです。
 詩編113の最後の数節の中に、「マリアの賛歌」(マグニフィカト)のマリアのことばが先取られているのを容易に見ることができます。「マリアの賛歌」は、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」、神に選ばれた者の歌です。この詩編よりもさらに徹底したかたちで、マリアは神をたたえます。神は「権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げます」(ルカ1・48、52、詩編113・6-8参照)。

5 『使徒憲章』(7・48)に収められた古代の「晩の祈り」は、この詩編の喜ばしい冒頭部分を取り上げて、さらに展開しています。この考察の終わりに、この祈りを思い起こしたいと思います。それは、初期の教会がこの詩編に対して行った、キリスト教的な再解釈に光を当てるためです。
「子らよ、主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ。
その大いなる栄光のゆえに、
わたしたちはあなたを賛美し、あなたに賛美の歌を歌い、あなたを祝します。
王である主。世の罪を除く、傷のない小羊であるキリストの父よ。
あなたに賛美と賛歌と栄光がささげられますように。
聖霊のうちに、御子を通して、父である神に、今もとこしえに。アーメン」
(S. Pricoco-M. Simonetti, La preghiera dei cristiani, Milano, 2000, p. 97)。

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