教皇ベネディクト十六世の5回目の一般謁見演説 詩編116

5月25日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の5回目の一般謁見が行われました。謁見には27,000人の信者が参加しました。この謁見の中で、教皇は教会の祈りの年間第3主日の前晩の祈りで唱 […]

5月25日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の5回目の一般謁見が行われました。謁見には27,000人の信者が参加しました。この謁見の中で、教皇は教会の祈りの年間第3主日の前晩の祈りで唱えられる詩編116(朗読個所は詩編116・10-13、18-19)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。なお、新共同訳のテキストの詩編116は、七十人訳ギリシア語聖書とヴルガタ訳ラテン語聖書では、詩編114・1-9、詩編115・1-10(ヴルガタ訳では10-19)に相当します。訳文では、原文の「詩編115」をすべて「詩編116」と訳しました。
5月25日は、アフリカ統一機構(OAU)が1963年5月25日に発足したことを記念する、「アフリカデー」です。教皇は演説の後、英語で行われた挨拶の中で、アフリカデーに言及して、こう述べました。「今日はアフリカデーです。わたしの思いと祈りは、愛するアフリカの人びととともにあります。わたしはカトリック機関が、アフリカの人びとが必要とすることに対して寛大な注意を払い続けるよう、励ましたいと思います。また、わたしは国際的な共同体が、アフリカ大陸の諸問題にいっそう関与することを希望し、祈りたいと思います」。ちなみに5月13日にサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂で行われた、ロ-マの聖職者との会見で、教皇はこう述べています。「アフリカ大陸には、大きな可能性と、大きな寛大さを持った民族が住んでいます。彼らは、感動的で生きた信仰を持っています。しかし、わたしたちは、ヨーロッパが、キリストへの信仰だけでなく、旧大陸のあらゆる悪徳をも輸出したことを認めなければなりません」。一般謁見の最後に教皇は、ブルキナファソのブレーズ・コンパオレ大統領、マリのアマドゥ・トゥマニ・トゥーレ大統領、スワジランド王国のアブサロム・セムバ・ドラミニ首相と謁見しました。
教皇はまた、26日(木)の夜7時(日本時間27日午前2時)から行われる、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂広場でのキリストの聖体の祝日のミサと、その後行われる、サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂への行列に、信者を招きました。


 
1 今わたしたちが唱えた、詩編116は、キリスト教の伝統の中でつねに用いられてきました。この詩編を用い始めたのは、聖パウロです。パウロは七十人訳ギリシア語聖書に従って、この詩編の冒頭(新共同訳では10節)を引用しながら、コリントのキリスト者にこう述べています。「『わたしは信じた。それで、わたしは語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じ、それだからこそ語ってもいます」(二コリント4・13)。
 使徒パウロは、詩編作者と霊的に同じ思いを抱いています。人間的な苦しみや弱さがあっても、徹底して信頼し、真摯にあかしを行うからです。ローマの信徒への手紙の中で、パウロはこの詩編の2節(新共同訳では11節)を取り上げて、神の忠実さと人間の不実とを際立たせて述べています。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」(ローマ3・4)。
 その後の伝統では、この詩編は殉教の賛美のために用いられます(オリゲネス『殉教の勧め』18: Testi di Spiritualità, Milano, 1985, pp. 127-129参照)。「聖徒の死は尊い」(詩編116・15参照)ことを確認するためです。また、この詩編は感謝の祭儀の典礼文で用いられるようになります。なぜなら、詩編作者は、「救いの杯」を上げて主の御名を呼ぶからです(13節参照)。キリスト教の伝統では、この杯は、「賛美の杯」(一コリント10・16参照)、「新しい契約の杯」(一コリント11・25、ルカ22・20参照)と、同じものだと考えられます。これらは、新約聖書の中で、聖体(エウカリスチア)を表す特別な表現です。

2 ヘブライ語の原文では、詩編116(10-19節)は、その前の詩編116(1-9節)と一つながりの構成となっています。この2つの詩編は一体となって、死の恐怖から解放してくださった主に対して、感謝をささげます。
 ここで扱う詩編116(10-19節)では、過去の苦しみが思い起こされます。詩編作者は、激しい絶望と不幸を口にするときも、信仰の炎を絶やさずに守ります(詩編116・10参照)。実際、詩編作者は、憎しみと欺きによる冷ややかな壁に取り囲まれています。なぜなら、彼の友人は偽りで、不実であることがわかったからです(11節参照)。しかしながら、いまや祈りは感謝へと変わります。なぜなら、主は自分に忠実な者を、偽りの渦から引き上げてくださったからです(12節参照)。
 それゆえ、詩編作者は感謝のいけにえをささげる準備をします。祭儀の中では、聖なる酒を飲むための、いけにえの杯が用いられます。この杯は、自分を解放してもらったことへの感謝を表すしるしです(13節参照)。だから、祭儀は、救い主である神に感謝の賛美をささげる特別な場となるのです。

3 実際、いけにえの典礼に加えて、「主の民すべて」の集会が行われることがはっきりと述べられます。これらの民の前で、詩編作者は誓いを立て、信仰をあかしします(14節参照)。詩編作者による感謝の表明も、この人びとの前で行われます。彼は、死が間近に迫るときも、主がその愛を自分に注いでくださることを知っています。神は自分が造った者の苦しみに無関心でいられず、その縄目を解いてくださるからです(16節参照)。
 死から救われた詩編作者は、自分が主の「しもべ」、主に「仕える者の子」(同参照)だと考えます。「仕える者の子」は、中近東で、主人の家に生まれた者を表す、美しいことばです。詩編作者は、自分が神の家に属する者であることを、謙遜に、感謝をこめて告白します。彼は、愛と忠実のうちに神と結ばれた、被造物の家族に属しているからです。

4 詩編は終わりに、いつも、一つの祈りのことばによって、もういちど感謝の典礼をささげようとします。この典礼は、神殿の中でささげられます(17-19節参照)。こうして詩編作者は、彼を取り巻く共同体の中で祈りをささげます。自分の話を語ることによって、詩編作者は、すべての人が主を信じ、愛するように促すことができるのです。それゆえ、わたしたちは、詩編作者の回りで、すべての神の民が、いのちの主を感謝するさまを思い浮かべることができます。主は正しい人を、苦しみと死の闇の支配するところに捨てておかれず、彼を希望といのちへと導いてくださるのです。

5 この考察の終わりに、聖大バジリオ(バシレイオス)のことばに耳を傾けたいと思います。バジリオは、詩編116についての説教の中で、この詩編で行われる問いかけと答えについて、次のように注解しています。「主がわたしに与えてくださったすべての豊かな恵みに、わたしはどのように答えようか。わたしは救いの杯を上げる。詩編作者は、神から多くのたまものが与えられたことを理解しています。彼は無だったのに、存在を与えられました。彼は土から造られて、理性を与えられました。・・・・それから、詩編作者は、人類のための救いの計画を知りました。主が、わたしたちすべての代わりに、あがないとしてご自身をささげられたことを知ったからです。けれども、自分が持っているものを調べても、主にふさわしいささげものを見いだせないのではないかと彼は考えます。それでは、わたしは主に何をもって答えればよいだろうか。わたしがささげることができるもの、それは、いけにえでも、焼き尽くすささげものでもありません。・・・・わたしの生涯全体です。だから詩編作者はこういいます。『わたしは救いの杯を上げる』。この杯とは、霊的な戦いの中で味わう苦しみであり、死に至るまで、罪に抵抗することです。さらに、それは、わたしたちの主が福音の中で教えておられる杯です。『父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください』。主はまた、弟子たちにこういわれました。『あなたがたは、このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか』。この杯は、明らかに、主が世の救いのために受けた死を表しています」(PG XXX, 109)。

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