教皇ベネディクト十六世の6回目の一般謁見演説 フィリピ2

6月1日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の6回目の一般謁見が行われました。謁見には23,000人の信者が参加しました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3主日の前晩の祈りで新約の歌として用いられる、フィリピの信徒への手紙2・6-11の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。


1 毎日曜日、前晩の祈りの際に、わたしたちは典礼で、フィリピの信徒への手紙(2・6-11参照)からとられた、簡潔ではありますが、深い内容をもったキリスト賛歌を唱えます。わたしたちは、たった今聞いたこの賛歌の最初の部分(6-8節参照)を考えてみたいと思います。この部分は、神のことばが自分を「無にした」逆説を述べています。みことばはその栄光を捨てて、人間の身分をとったからです。
 この賛歌は、受肉して、十字架につけられるという、最も恥ずべきかたちで死んだキリストを、キリスト信者の生きた模範として示します。前の節でいわれているように、キリスト信者は、「このことを心がけ」なければなりません。「それはキリスト・イエスにもみられるもの」(5節)だからです。すなわち、キリスト信者は、へりくだって、人のことを考え、自分を捨てて、寛大な心をもたなければなりません。
 
2 キリストが神的な本性と、神としてのあらゆる特権を持っていたことは、間違いありません。しかし、キリストは、このすべてを超えた存在のしかたを、権力や威光や支配を表すものとして考えたり、用いたりはしませんでした。キリストは、その神と等しい身分や、栄光ある御稜威(みいつ)や力を、勝利を得るための道具、自分がすべてのものから隔絶していることを示すしるし、敵を圧倒できる権能の表現として用いはしなかったのです。反対に、キリストは「自分を無にして」、徹底したしかたで、みじめで弱い人間と同じものになりました。キリストにおいて、神の姿(モルフェー)は人間の姿(モルフェー)のもとに隠れています。人間の姿とは、苦しみと、貧しさと、限界と死によって示される、わたしたちの現実にほかなりません(7節参照)。
 それゆえ、キリストが行ったのは、ギリシア・ローマ文化の神々が行うと信じられていたような、簡素な服装をまとうとか、姿を変えるということではありません。キリストは、ほんとうの意味での人間的な経験のうちに、神として存在したのです。神はただ人間の姿で現れただけでなく、人間となり、ほんとうにわたしたちの一人となりました。神は、ほんとうの意味で「わたしたちとともにおられる神」となられたのです。神は栄光の玉座からわたしたちをいつくしみ深いまなざしで見ておられるだけで満足できず、自ら人類の歴史の中に入ってこられました。そのために神は「肉」となりました。すなわち、時間と空間によって条件づけられた、こわれやすい存在となったのです(ヨハネ1・14参照)。

3 イエスは罪を除いて、徹底的に、人間と同じ境遇に身を置きました(ヘブライ4・15参照)。そこから彼は、わたしたちの有限性と弱さを表す前線の地、すなわち死へと導かれました。しかしながら、死は、不可解な過程の結果でもなければ、目に見えない運命の結果でもありません。死は、イエスが御父の救いの計画に忠実であることを選んだことから、もたらされたのです(フィリピ2・8参照)。
 使徒パウロはさらに、イエスが味わった死は、十字架上の死であったと述べています。すなわちそれは、最も卑しめられたかたちでの死でした。このような死を味わうことをとおして、イエスは、無残で屈辱的な最期を遂げなければならなかった人を含む、すべての人にとっての、真の意味での兄弟となろうと望んだのです。
 しかし、まさにその受難と死によって、キリストは、御父のみ旨への自由で自覚的な従順をあかししました。ヘブライ人への手紙にこういわれているとおりです。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5・8)。
 ここでわたしたちは、受肉とあがないのための受難を中心とした、このキリスト賛歌の最初の部分に関する考察を、区切りたいと思います。これに続く部分、すなわち、十字架から栄光へと至る過越については、後の機会にもっと深く考察することになるでしょう。この賛歌の最初の部分の根本的な要素は、イエスの思いを深く理解するようにという招きであるように、わたしは思います。
 イエスの思いを深く理解するとは、権力や富や名声を人生の最高の価値と考えることではありません。そうしたものは、わたしたちの心の底からの渇きに最終的に応えるものではないからです。イエスの思いを深く理解するとは、他者のために人生の重荷を担い、従順と信頼の心をもって天の父へと心を開くことです。それは、御父に従うなら、自由になることを、わたしたちが知っているからにほかなりません。イエスの思いを深く理解すること、それは、わたしたちがキリスト信者としての生活の中で、日々、行わなければならないことです。

4 この考察を、東方教会の伝統の偉大な証人である、テオドレトスのことばをもって締めくくりたいと思います。テオドレトスは、5世紀の、シリアのキュロスの司教でした。「わたしたちの救い主の受肉は、人類への神のはからいの最高の実現を表しています。実際、天も地も、海も空も、太陽も月も星も、すべての目に見えるものも、目に見えないものも、これらすべての、ただみことばによって造られたもの、それどころか、神のみ旨に従ってみことばによって照らされたものは、神のはかり知れないいつくしみを示すことはありません。それができるのは、神のひとり子、神と同じ本性のうちに存在するかた(フィリピ2・6参照)、神の栄光の反映、神の本質の現れであるかたです(ヘブライ1・3参照)。このかたは、初めに神とともにあり、神であったかた、このかたによって万物が造られたかたです(ヨハネ1・1-3参照)。しもべのかたちをとり、人間の姿で現れた彼は、その人間の姿によって人間とみなされ、地上で生き、人と関わり、わたしたちの弱さを担い、わたしたちの病をその身に負われました(『神のはからいについての講話』10:Collana di Testi Patristici, LXXV, Roma 1988, pp. 250-251)。
 キュロスのテオドレトスは、続く考察において、フィリピの信徒への手紙の賛歌で強調された、イエスの受肉と人間のあがないの間の密接な関係に光を当てます。「造り主は、知恵と正義をもって、わたしたちのために救いのわざを行われました。神は、ただその力だけを用いて、わたしたちにたまものとして自由を、惜しみなく与えようとは望まれませんでした。また神は、不公平に憐れみを与えたといわれないように、人類に属する者に、ただ憐れみだけを与えることも望まれませんでした。そのため神は、人間に対する愛に満ちていながら、同時に正義にかなった方法を考え出されました。実際、神は自ら人間の弱い本性と一つになることによって、この本性を戦いへと導き、敗北を取り返すように促します。それは、よこしまなしかたで勝利を得た敵を打ち負かし、人を容赦なく奴隷としていた圧政から人を解放し、人間に本来の自由を回復するためでした」(ibid., pp. 251-252)。

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