教皇ベネディクト十六世の8回目の一般謁見演説 詩編123

6月15日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の8回目の一般謁見が行われました。謁見には32,000人の信者が参加しました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3月曜日の晩の祈りで用い […]

6月15日(水)午前10時30分から、サンピエトロ広場で、教皇ベネディクト十六世の8回目の一般謁見が行われました。謁見には32,000人の信者が参加しました。この謁見の中で、教皇は、教会の祈りの第3月曜日の晩の祈りで用いられる、詩編123(朗読個所は詩編123・1-4)の解説を行いました。以下はその全訳です(原文はイタリア語)。
当日は、はじめ雨でしたが、一般謁見の終わりには雨が上がり、明るい陽がさしました。また謁見の最後に、教皇は一人の車椅子の男性の求めに応じて、携帯電話を使って、末期患者の修道女に励ましのことばを述べました。


 
親愛なる兄弟姉妹の皆様

 あいにくの雨ですが、天気がよくなることを希望したいと思います。

1 イエスは福音の中で、とても鋭い口調で、目は心の奥底を示すしるしであり、魂を映す鏡だと述べています(マタイ6・22-23参照)。さて、今唱えられた、詩編123では、まなざしをかわし合うことが述べられています。信じる者は目を上げて主を仰ぎ、神の答えを待ち望みます。それは、愛のわざ、いつくしみのまなざしを注いでいただくためです。
 詩編は、たびたび、いと高きかたのまなざしについて語ります。「主は天から人の子を見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と」(詩編14・2)。今聞いた箇所で、詩編作者は、解放をもたらす決断を求めて、主人に目を注ぐ、しもべとはしためというたとえを用いています。
 ここで示される情景は、古代世界とその社会構造と結びついたものですが、いわれていることは明快で重要です。古代中近東世界に由来するこのたとえは、貧しい者の信頼、抑圧された者の希望、正しい人が示す、仕える態度をたたえているのです。
 
2 詩編作者は、神がその手をのべ、正義に従って裁きを行い、悪を滅ぼしてくださることを待ち望んでいます。そのため、しばしば、詩編の中で、祈る人は、希望に満ちた目を上げて主を仰いでいます。「わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださるかたに」(詩編25・15)。一方で、こういわれています。「わたしの神を待ち望むあまり、目は衰えてしまいました」(詩編69・4)。
 詩編123は、信じる者が全共同体と声を一つにしてささげる、嘆願の祈りです。実際、この詩編は、一人称単数の動詞――「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます」――で始まりますが、ついで一人称複数の動詞が用いられます――「わたしたちは・・・・目を注ぎ」「わたしたちを憐れんでください」(1-3節参照)。詩編は、主のみ手が、正義と自由のたまものを注ぎ与えてくださるようにという希望を表します。正しい人は、神が慈愛といつくしみに満ちたそのまなざしを示してくださることを待ち望みます。民数記が、古代の祭司の祝福のことばとして、こう述べているとおりです。「主がみ顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主がみ顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」(民数記6・25-26)。

3 神が愛のまなざしを示してくださることの重要性は、この詩編の後半で示されています。詩編は、次の呼びかけのことばで、そのことを述べます。「わたしたちを憐れんでください。主よ、わたしたちを憐れんでください」(詩編123・3)。このことばは、前半の最後のことばとつながっています。そこでは確信をこめた期待が述べられます。「わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ、憐れみを待ちます」(2節)。
 信じる者は、神が手をのべてくださることを必要としています。なぜなら、彼らは、傲慢な者たちの侮りと嘲笑によって苦しめられているからです。ここで詩編作者は、飽きるほど与えられているというたとえを用います。「わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。平然と生きる者らの嘲笑に、傲然と生きる者らの侮りにわたしたちの魂はあまりにも飽かされています」(3-4節)。
 聖書の伝統の中で、食物と長寿に飽かされることは、神の祝福のしるしと考えられています。これに対して、ここでは、ひどい屈辱が飽きるほど与えられて、耐えることができないことが述べられています。わたしたちは、今日、多くの民族、多くの個人が、実際に多くの嘲笑を浴びせられていることを知っています。彼らは、平然と生きる者たちの嘲笑に、傲然と生きる者たちの侮りに飽かされています。こうした人々のために祈り、また、これらの卑しめられた兄弟を助けようではありませんか。
 だから、正しい者は、主に自分たちの問題を委ねます。主は、自分にまなざしを向けて願い求める者に心をとめてくださいます。主は、彼らの、またわたしたちの祈りをないがしろにされることも、彼らの希望を失望に終わらせることもありません。

4 終わりに、ミラノの偉大な大司教、聖アンブロジオのことばに耳を傾けたいと思います。アンブロジオは、詩編作者と心を合わせながら、救い主イエスによって成し遂げられた神のわざを、美しい詩のかたちでこう語っています。「キリストはわたしたちにとってすべてです。あなたが傷を癒したいなら、キリストが癒してくださいます。あなたが熱に苦しんでいるなら、キリストが泉を与えてくださいます。あなたが悪に苦しめられているなら、キリストが裁いてくださいます。あなたが助けを必要としているなら、キリストが力になってくださいます。あなたが死を恐れているなら、キリストがいのちを与えてくださいます。あなたが天に上りたいなら、キリストが道となってくださいます。あなたが闇から逃れたいなら、キリストが光となってくださいます。あなたが食物を求めているなら、キリストが糧を与えてくださいます」(『処女性について』99:Sancti Ambrosii episcopi Mediolanensis opera, XIV/2, Milano-Roma, 1989, p. 81)。

PAGE TOP